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P&O - Wikipedia

P&O

イギリスの船舶せんぱく会社かいしゃ

P&Oピーアンドオー、Peninsular and Oriental Steam Navigation Company、ペニンシュラ アンド オリエンタル スチーム ナビゲーション カンパニー)は、19 世紀せいき初頭しょとう設立せつりつされたイギリス海運かいうん会社かいしゃ

P&O
もと種類しゅるい
公開こうかい会社かいしゃ
業種ぎょうしゅ 運輸うんゆ
その DPワールドにより買収ばいしゅう
設立せつりつ 1837ねん8がつ22にち (187ねんまえ) (1837-08-22)
創業そうぎょうしゃ Arthur Anderson ウィキデータを編集
解散かいさん 2006ねん3がつ7にち (2006-3-7)
本社ほんしゃ 英国えいこくロンドン
主要しゅよう人物じんぶつ
Sir John Parker (Chairman)
製品せいひん フェリー、湾口わんこうサービス、物流ぶつりゅう不動産ふどうさん
売上うりあげだか 増加 £2.40 billion (2004)
従業じゅうぎょう員数いんずう
22,038 (2004)
親会社おやがいしゃ dPワールド ウィキデータを編集
ウェブサイト www.poferries.com ウィキデータを編集

2006ねんDPワールドにより買収ばいしゅうされ消滅しょうめつした。クルーズせん部門ぶもんは2000ねん売却ばいきゃくされ、現在げんざいカーニバル・コーポレーション傘下さんかP&Oクルーズとなっている。

沿革えんかく

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設立せつりつ

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P&Oのフェリーのファンネル

1822ねんロンドン船舶せんぱく仲立なかだちじんブロディー・マッギー・ウィルコックス(Brodie McGhie Willcox)とシェトランド諸島しょとう出身しゅっしん船員せんいんアーサー・アンダーソン(Arthur Anderson)が、イギリスとイベリア半島はんとうあいだ路線ろせん運航うんこうするためにパートナーシップをむすんだ。1835ねんにはこれにダブリン船主せんしゅ リチャード・バーン(Captain Richard Bourne)がくわわりイギリスとスペインポルトガルあいだ定期ていき蒸気じょうきせん航路こうろ開設かいせつしている。これがP&Oの前身ぜんしんであるペニンシュラ・スチーム・ナビゲーション・カンパニー(Peninsular Steam Navigation Company)であり、今日きょうのP&Oのはたも、ポルトガルの国旗こっき当時とうじ)のしろあおに、スペインの国旗こっきあか黄色おうしょくわせたものである。

1837ねん英国えいこく政府せいふポルトガルスペインへの郵便ゆうびん運送うんそう業務ぎょうむ契約けいやく獲得かくとくし、1840ねんにはエジプトアレクサンドリアへの郵便ゆうびん運送うんそう獲得かくとくした。現在げんざいのP&Oは1837ねん英国えいこく王室おうしつ勅許ちょっきょ(Royal Charter)をけて設立せつりつされた勅許ちょっきょ会社かいしゃで、それゆえ社名しゃめいには"Plc"(Public limited company、公開こうかい有限ゆうげん責任せきにん会社かいしゃ)や"Limited"(有限ゆうげん責任せきにん会社かいしゃ)などといった語句ごくいていない。

拡大かくだい

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その1842ねんにはイギリスの最大さいだい植民しょくみんであるイギリスりょうインドへの旅客りょかくサービスを、1845ねんにはおなじく植民しょくみんであるシンガポール香港ほんこんへの旅客りょかくサービスも開始かいし。その日本にっぽん中華民国ちゅうかみんこくなど世界中せかいじゅうにその航路こうろひろげた。ヨーロッパ-日本にっぽんあいだ就航しゅうこうは1860ねん[1]だい世界せかい大戦たいせんまではP&Oの利益りえき源泉げんせん政府せいふとの郵便ゆうびん契約けいやくであったが、商用しょうようせん旅客船りょかくせんへも業容ぎょうよう拡大かくだいした。

1914ねんには当時とうじイギリス最大さいだい海運かいうん会社かいしゃであったブリティッシュ・インディア・スチーム・ナビゲーション・カンパニー(British India Steam Navigation Company)を買収ばいしゅうし、1918ねんにはイギリス・オーストラリアあいだ郵便ゆうびん運送うんそうぎょうのパートナーであったオリエント・ライン(Orient Line)の経営けいえい掌握しょうあくした。1920年代ねんだいなかばには相次あいつ海運かいうん会社かいしゃ買収ばいしゅう船舶せんぱくすうは500せきとピークにたっしている。1920ねんには独自どくじ銀行ぎんこう(P&O銀行ぎんこう)も設立せつりつしたが1927ねんには売却ばいきゃくしている。一方いっぽう戦争せんそうによる被害ひがいおおきく、だいいち世界せかい大戦たいせんでは85せきを、だい世界せかい大戦たいせんでは179せき喪失そうしつした。

上述じょうじゅつのようにP&Oはおもにアジア・オセアニア方面ほうめんへのひがしまわ航路こうろ中心ちゅうしんとしており、新大陸しんたいりくけの西にしまわ航路こうろ中心ちゅうしんキュナードしゃとともにイギリスのフラッグ・キャリアの1つとされた。

だい世界せかい大戦たいせん

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1945ねん以後いご、イギリスはインドやマレまれ半島はんとうなどの植民しょくみん次々つぎつぎうしない、それにともないこれらのきゅう植民しょくみんへの需要じゅよう衰退すいたいしたが、オーストラリア路線ろせんはイギリスほかヨーロッパからの白人はくじん移民いみん(Ten Pound Poms)が多数たすうのぼったため、P&OはSSオリアナなどこの路線ろせんけの大型おおがた客船きゃくせん建造けんぞうした。15せき客船きゃくせんのうち、さいだいかつ最後さいご客船きゃくせんであるSSキャンベラ1961ねん就航しゅうこうした。

オーストラリアへは100まんにん以上いじょうのヨーロッパじん移民いみんわたり、そのおおくはP&Oがはこんだが、1968ねんにオーストラリア政府せいふはこの移民いみん計画けいかく終了しゅうりょうさせている。P&Oは以後いご客船きゃくせんおおくを売却ばいきゃく解体かいたいし、貨物かもつ輸送ゆそうへと集中しゅうちゅうした一方いっぽう保養ほようきゃくけのクルーズ市場いちばにも進出しんしゅつした。1959ねんにはタンカー市場いちばに、1960年代ねんだいなかばにはROROせん市場いちばに、1969ねんにはコンテナせん市場いちば参入さんにゅうしている。

コンテナせん

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海上かいじょうコンテナ

1969ねん、ブリティッシュ・アンド・コモンウェルス・シッピング(British and Commonwealth Shipping)、ファーネス・ホイッティー(Furness, Withy & Co Ltd)、オーシャン・スチームシップ・カンパニー(The Ocean Steamship Company)、そしてP&Oといったイギリスの大手おおてせん会社かいしゃが、物流ぶつりゅうコンテナ対応たいおうするためにコンテナせん会社かいしゃオーバーシーズ・コンテナーズ・リミテッド(Overseas Containers Limited, OCL)を設立せつりつした。

1970年代ねんだい初頭しょとうにはP&Oはイギリスのふね会社かいしゃストリック・ライン(Strick Line)とハイン=ノース(Hain-Nourse)を買収ばいしゅうしている。1980年代ねんだい初頭しょとうまでにP&Oのドライカーゴの定期ていきせん路線ろせんはすべてコンテナせんきかえられ、1986ねんにはP&OがOCLに出資しゅっししている他社たしゃ持分もちぶん買収ばいしゅうし、OCLをP&Oコンテナ(P&O Containers Limited, P&OCL)へと改名かいめいした。

P&OCLは1996ねんオランダのコンテナせん会社かいしゃネドロイド(Nedlloyd)と合併がっぺいしてP&Oネドロイド(P&O Nedlloyd)となった。しかし2005ねんにP&Oネドロイドはデンマーク海運かいうん会社かいしゃA.P. モラー・マースク買収ばいしゅうされた。

フェリー、ROROせん

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P&Oフェリーの運航うんこうする大型おおがたフェリー、「プライド・オブ・ロッテルダム

1975ねんにはアイリッシュうみROROせん路線ろせん運営うんえいするための子会社こがいしゃパンドロ(Pandoro, P and O Roro の略称りゃくしょう)を設立せつりつした。1987ねんにはタウンセンド・トールセン(Townsend Thoresen)のドーヴァー海峡かいきょうあいだフェリー運航うんこうしていたヨーロピアン・フェリー(European Ferries Group)を買収ばいしゅうし、これをP&Oヨーロピアン・フェリー(P&O European Ferries)に改名かいめいした。

1998ねんにはパンドロとP&Oヨーロピアン・フェリクストウ・リミテッド(P&O European (Felixstowe) Ltd.)を合併がっぺいさせ、アイリッシュ海路かいろせん運営うんえいするP&Oヨーロピアン・フェリー・アイリッシュ・シー・リミテッド(P&O European Ferries (Irish Sea) Ltd、通称つうしょうP&Oアイリッシュシー P&O Irish Sea)を発足ほっそくさせている。

分割ぶんかつ

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競争きょうそう委員いいんかい(Competition Commission)による指導しどうもあり、1998ねんにP&Oヨーロピアン・フェリーが解体かいたいしたのち、ファストクラフト(Fastcraft)のでサービスがおこなわれた。事業じぎょうポーツマスからフランス・スペインなどへの路線ろせん運航うんこうするP&Oポーツマス(P&O Portsmouth)、キングストン・アポン・ハルからオランダ・ベルギー方面ほうめんへの路線ろせん運航うんこうするP&Oノースシー(P&O North Sea)、およびステナラインとの合弁ごうべんによるドーヴァー海峡かいきょう路線ろせんであるP&Oステナライン(P&O Stena Line)にかれたが、のちに2002ねんにP&Oがステナラインの持分もちぶん買収ばいしゅうし、P&OステナラインはP&Oフェリー(P&O Ferries)へと改名かいめいし、さらにP&OポーツマスとP&Oノースシーを統合とうごうしている。

2005ねんには格安かくやす航空こうくう会社かいしゃ進出しんしゅつなどによる赤字あかじ理由りゆうに、ポーツマスからシェルブールルアーブルへの路線ろせん廃止はいしビルバオきのみがのこった。

多角たかく事業じぎょう集中しゅうちゅう

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1970年代ねんだい以降いこう、P&Oは企業きぎょう買収ばいしゅう事業じぎょう多角たかくさせた。コンストラクション・マネジメント(construction management)や住宅じゅうたく販売はんばいおこなうボヴィス・グループ(Bovis)を1974ねん買収ばいしゅうから1999ねん売却ばいきゃくまで保有ほゆうしたほか、不動産ふどうさん開発かいはつ投資とうしぎょう展示てんじじょう国際こくさい会議かいぎじょう運営うんえいなど様々さまざまなサービスぎょう進出しんしゅつした。

しかし1999ねん3がつにP&Oは海運かいうん輸送ゆそうぎょう資源しげん集中しゅうちゅうする決定けっていおこない、これ以後いごおおくの事業じぎょう売却ばいきゃく廃止はいしされた。オーストラリアでのP&Oの活動かつどうからまれたみなとうんぎょうP&Oポーツ(P&O Ports)と冷蔵れいぞう倉庫そうこ運送うんそうぎょうP&Oコールド・ロジスティクス(P&O Cold Logistics)は、現地げんちでは市場いちば主導しゅどうする地位ちいている。

1999ねん以後いご、グループの様々さまざま部門ぶもん売却ばいきゃく相次あいついだ。2002ねん10月23にち客船きゃくせんクルーズ部門ぶもんである「P&Oプリンセス・クルーズ」(P&O Princess Cruises plc.)は分社ぶんしゃされ、2003ねん4がつカーニバル・コーポレーション(Carnival Corporation)に売却ばいきゃくされ「Carnival Corporation & plc」となった。2004ねん6がつ、P&Oは「P&O Nedlloyd」しゃ株式かぶしきの25%を売却ばいきゃくし、さらに2005ねん6がつにはP&O Nedlloydはデンマーク海運かいうん会社かいしゃA.P. モラー・マースク売上うりあげだかでは世界一せかいいち)に買収ばいしゅうされている。

DPWによる買収ばいしゅう

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2005ねん10がつ30にちには、ドバイ本拠ほんきょ世界せかい有数ゆうすう港湾こうわん管理かんり会社かいしゃであるドバイ・ポーツ・ワールド(DPW)がP&Oを買収ばいしゅうすることがほうじられた。当時とうじ世界せかいだい4港湾こうわん管理かんり会社かいしゃであったP&Oは米国べいこくしゅ要港ようこうでもコンテナターミナル管理かんり業務ぎょうむおこなっていたが、これらの部門ぶもんもアラブけい会社かいしゃ買収ばいしゅうされることは2006ねん2がつから3がつにかけて米国べいこくない深刻しんこく治安ちあんじょう論争ろんそうこした。同年どうねん、DPWはP&Oの米国べいこくにおける港湾こうわん業務ぎょうむ米国べいこく資本しほん会社かいしゃ売却ばいきゃくしている。

DPWは、子会社こがいしゃしたP&Oの本社ほんしゃをイギリス国内こくないにとどめている。

フェリー転覆てんぷく事件じけん

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事故じここしたヘラルド・オブ・フリー・エンタープライズごう

1987ねん3月6にち乗員じょういん80めい乗客じょうきゃく459めいせてベルギーゼーブルッヘからイギリスドーバーかっていたROROせん形式けいしきの貨客フェリー「ヘラルド・オブ・フリー・エンタープライズ」(MS Herald of Free Enterprise)が自動車じどうしゃ搬入はんにゅうようのカーゴドアをわすれたことにより海水かいすい流入りゅうにゅうしゼーブルグ沖合おきあい転覆てんぷく、193めい死亡しぼうするというイギリス海運かいうん史上しじょうでも戦後せんご最悪さいあく事故じここした。同船どうせん運航うんこうしていたタウンセンド・トールセンは1986ねんにP&Oに買収ばいしゅうされたところだった。裁判さいばん過程かていで、船長せんちょう船員せんいんのミスもわれたが、会社かいしゃ組織そしきじょう経営けいえいじょう問題もんだいまでが指摘してきされている。

クルーズせん炎上えんじょう事件じけん

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2002ねん、P&Oが三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう発注はっちゅうした世界せかい最大さいだいきゅうクルーズ客船きゃくせんダイヤモンド・プリンセス」が建造けんぞうちゅう長崎造船所なかざきぞうせんじょにて火災かさいこした。ふねは19あいだつづそう面積めんせきの4わり焼失しょうしつした。だが機関きかん無事ぶじであったためこのふね破棄はきせず改修かいしゅうしてわたされることとなった。

P&Oと三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう世界せかい最大さいだいきゅう豪華ごうか客船きゃくせんを2せきわた契約けいやくをしており、「ダイヤモンド・プリンセス」を最初さいしょに、「サファイア・プリンセス」を2番目ばんめわたすこととなっていた。そのため当時とうじ建造けんぞうちゅうであった「サファイア・プリンセス」を「ダイヤモンド・プリンセス」へと名前なまええて2004ねん2がつわたされ、火災かさいにあったふねは「サファイア・プリンセス」として同年どうねん5がつにP&Oへとわたされた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 『キプリングの日本にっぽん発見はっけんラドヤード・キプリングしる,ヒュー・コータッツィ,ジョージ,・ウェッブへん,加納かのう孝代たかよやく,中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ, 2002, p102

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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