(Translated by https://www.hiragana.jp/)
エルネスト・マンデル - Wikipedia

エルネスト・マンデル(Ernest Ezra Mandel、1923ねん4がつ5にち - 1995ねん7がつ20日はつか)は、だいよんインターナショナル統一とういつ書記しょききょく)の指導しどうしゃ一人ひとり

討論とうろんかいのぞむマンデル(1982ねん

来歴らいれき

編集へんしゅう

ドイツフランクフルト・アム・マインまれ、のちベルギーアントウェルペン移住いじゅうする。ポーランドけいユダヤじん移民いみん父親ちちおやは、ローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒトらが指導しどうしたスパルタクスだんのメンバーで、ロシア・ソビエト政権せいけん発足ほっそくしたときにはベルリン宣伝せんでん活動かつどうたっていたこともあったが、だいいち世界せかい大戦たいせんのちには社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうからはなれていた。そのため、いえにはカール・マルクスウラジーミル・レーニンレフ・トロツキー著書ちょしょや、コミンテルン機関きかん『インプレコール』のバックナンバー本棚ほんだなならんでいたとう(『こうずな若者わかもの幸運こううん』 「トロツキー研究所けんきゅうじょ」(外部がいぶリンク参照さんしょう収録しゅうろく)。

だい世界せかい大戦たいせんなかに、15さいトロツキストけいはんナチレジスタンス組織そしき参加さんからえられ、強制きょうせい収容しゅうようしょから脱走だっそうするが、終戦しゅうせんドイツドーラ強制きょうせい収容しゅうようしょむかえることになる。戦争せんそうのち、マンデルはベルギーのトロツキストおよびだいよんインターナショナルの国際こくさい書記しょききょくもっとわかいメンバーの両方りょうほうのリーダーとなった。かれ明瞭めいりょう活発かっぱつなスタイルをった、正統せいとうマルクス主義まるくすしゅぎ理論りろん、および才能さいのうのある討論とうろんしゃそして多作たさくジャーナリストとして尊敬そんけい獲得かくとくした。だいよんインターナショナルでの組織そしきめいはErnest Germain (ジェルマン)であった。

だいよんインターナショナルの1946ねん世界せかい会議かいぎのち、マンデルはだいよんインターナショナルの国際こくさい書記しょききょく指導しどうえらばれた。マンデル自身じしんだいよんインターナショナルの方針ほうしんである「加入かにゅう戦術せんじゅつ」にしたがって、ベルギーの社会党しゃかいとうくわわる。ベルギーのサンディカリスト労働ろうどう組合くみあい主義しゅぎしゃ)であるアンドレ・ルナールらと協力きょうりょく関係かんけいつが、マンデルと仲間なかまたちは、キリスト教きりすときょう社会しゃかい主義しゅぎものとの連合れんごう反対はんたいし、はんストライキ立法りっぽう反対はんたいするゼネラル・ストライキからしばらくして社会党しゃかいとうから追放ついほうされた。

マンデルは、「だいよんインターナショナル国際こくさい書記しょききょく」と社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう (アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく)1963ねんさい統一とういつおも提唱ていしょうしゃ一人ひとりだった。さい編成へんせいは「だいよんインターナショナル統一とういつ書記しょききょく(USFIあるいはUSec)を形成けいせいした。1995ねんのそのまで、マンデルは、統一とういつ書記しょききょくおよびそのベルギーの支部しぶである社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとう (SOP) のもっと著名ちょめいなリーダーおよび理論りろんだった。

1962ねんフランス語ふらんすごマルクス主義まるくすしゅぎしゃ経済けいざい理論りろん出版しゅっぱんまで、マンデルのマルクス主義まるくすしゅぎしゃとしての記事きじ様々さまざまなペンネームでかれた。また、経済けいざいがくものとしてのかれ活動かつどう左翼さよく運動うんどう外部がいぶでほとんどられていなかった。かれ1967ねん大学だいがく研究けんきゅう再開さいかいし、1968ねんには社会しゃかい主義しゅぎ帝国ていこく主義しゅぎおよび革命かくめいかんする討論とうろんかいをヨーロッパとアメリカの学生がくせいキャンパスで開催かいさいし、マルクス主義まるくすしゅぎ政治せいじとして有名ゆうめいになっていく。1968ねん4がつかれ労働ろうどうしゃ階級かいきゅうわって学生がくせい前衛ぜんえいてき役割やくわりをはたすことを期待きたいした講演こうえんをおこなった。1968ねんのパリ五月ごがつ革命かくめいさいして、群集ぐんしゅうみずからのくるまやされてしまったマンデルが「これが革命かくめいだ!」とさけんだ、というエピソードがのこされている。

西にしドイツ(またアメリカフランススイスおよびオーストラリアふくむいくつかの国々くにぐに)から公式こうしき入国にゅうこく禁止きんしされたが、マンデルは著作ちょさく後期こうき資本しほん主義しゅぎ』によって、1972ねんベルリン自由じゆう大学だいがくからの博士はかせごう獲得かくとくした。また、かれは、つづいてブリュッセル自由じゆう大学だいがく講師こうしとなる。1978ねんには『資本しほん主義しゅぎ発展はってん長期ちょうき波動はどう』のトピックで、 ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく講義こうぎおこなった。

マンデルは、政治せいじてき抑制よくせいける多数たすうはん体制たいせい左翼さよく知識ちしきじん代表だいひょうしてキャンペーンをおこなった。だいさん世界せかい諸国しょこく債務さいむ帳消ちょうけ運動うんどう擁護ようごし、ミハイル・ゴルバチョフ時代じだい1936ねんから38ねんまでの「モスクワ裁判さいばん」での被告ひこくとされた人々ひとびと名誉めいよ回復かいふくのための請願せいがん先頭せんとうった。70だいはいっても、「社会しゃかい主義しゅぎてき自由じゆう民主みんしゅ主義しゅぎ」のビジョンを擁護ようごするために、ロシアおとずれた。

マンデルは、その生涯しょうがい合計ごうけいしておよそ2,000の記事きじおよびやく30さつほん公表こうひょうし、おおくの言語げんご翻訳ほんやくされた。マンデルは、「古典こてんてきマルクス主義まるくすしゅぎ」をスターリン主義しゅぎ経験けいけんおよび冷戦れいせんによる歪曲わいきょくから防衛ぼうえいし、次世代じせだい継承けいしょうすることを使命しめいかんがえていた。そして、マンデルは、重要じゅうようマルクス主義まるくすしゅぎしゃ概念がいねんについて学者がくしゃおよび活動かつどう多大ただい影響えいきょうおよぼした。

マンデルにたいして「スターリン主義しゅぎ寛大かんだいすぎる」あるいは、「経済けいざいてき見通みとおしから理論りろんてる革命かくめいてき楽観らっかん主義しゅぎ」、また、「トロツキズム右翼うよくてき修正しゅうせいした人物じんぶつ」などとして、ミシェル・パブロべて批判ひはんするトロツキスト潮流ちょうりゅうもある。

日本語にほんごやく著書ちょしょ

編集へんしゅう

たんちょ

編集へんしゅう
  • 『カール・マルクス――<けいあきら草稿そうこう>から<資本しほんろん>へ』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ, 1971ねん
  • 現代げんだい資本しほん主義しゅぎこうそう』(東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ, 1972ねん
  • 現代げんだいマルクス経済けいざいがく(1-4)』(東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ, 1972ねん-1974ねん
  • 『ドルの没落ぼつらく』(柘植つげ書房しょぼう, 1973ねん
  • 官僚かんりょうろん疎外そがいろん』(柘植つげ書房しょぼう, 1978ねん
  • 現代げんだいマルクス主義まるくすしゅぎ入門にゅうもん――社会しゃかいてき不平等ふびょうどうから階級かいきゅうなき社会しゃかいへ』(柘植つげ書房しょぼう, 1978ねんISBN 4-8068-0156-9
  • 『プロレタリア組織そしきろん――《とう-前衛ぜんえい-大衆たいしゅう》の弁証法べんしょうほう』(柘植つげ書房しょぼう, 1978ねん
  • 『ユーロコミュニズム批判ひはん』(柘植つげ書房しょぼう, 1978ねん
  • 現代げんだい世界せかい恐慌きょうこう――国際こくさい資本しほん主義しゅぎ動態どうたい分析ぶんせき』(柘植つげ書房しょぼう, 1980ねん
  • 後期こうき資本しほん主義しゅぎ(1-3)』(柘植つげ書房しょぼう, 1980ねんISBN 4-8068-0286-7
  • マルクス主義まるくすしゅぎ現代げんだい革命かくめい』(柘植つげ書房しょぼう, 1980ねん
  • 『トロツキーの思想しそう』(柘植つげ書房しょぼう, 1981ねん
  • 『スターリンとたたかった人々ひとびと――オールド・ボリシェヴィキの回想かいそうろく』(柘植つげ書房しょぼう, 1987ねん
  • 資本しほん主義しゅぎ発展はってん長期ちょうき波動はどう――ケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく特別とくべつ講義こうぎろく』(柘植つげ書房しょぼう, 1990ねん
  • 『1917ねん10がつ――クーデターか社会しゃかい革命かくめいか』(つげ書房しょぼうしんしゃ, 2000ねんISBN 4-8068-0435-5

編著へんちょ

編集へんしゅう
  • 労働ろうどうしゃ管理かんり評議ひょうぎかい自主じしゅ管理かんりうえした)』(柘植つげ書房しょぼう, 1973ねん

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう