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チャルーア族 - Wikipedia

チャルーアぞく (Charrúa,チャルーア)とは現在げんざいアルゼンチン北東ほくとうリトラル地方ちほうブラジル南部なんぶ、そしてとりわけウルグアイんでいたインディオ部族ぶぞくである。当初とうしょ狩猟しゅりょうみんであり、漁労ぎょろう採集さいしゅうにより生計せいけいてていた。おおきな建築けんちくぶつてることはなく、最後さいごまでテントでらしていた。

ウルグアイの先住民せんじゅうみん 描 Hendrick Ottsen journal, 1603ねん.
チャルーアの戦士せんし
最後さいごのチャルーアぞく(1833ねん

社会しゃかい 編集へんしゅう

移動いどうする狩猟しゅりょう採集さいしゅうみんで、スペインひとともうまがもたらされると乗馬じょうばおぼえ、以前いぜんにもして強力きょうりょくになった。

文化ぶんか 編集へんしゅう

しょくじん文化ぶんかがあったとわれている。

歴史れきし 編集へんしゅう

スペインじんによる征服せいふく直前ちょくぜんにおいてげんウルグアイの地域ちいきには5,000にんほど先住民せんじゅうみんしかいなかったが、チャルーアぞくグアラニーぞくならんでそのなか主要しゅよう民族みんぞくだったようである。

ラ・プラタがわにやってきた最初さいしょのスペインじん航海こうかいしゃフアン・ディアス・デ・ソリス当初とうしょチャルーアに友好ゆうこうてきむかえられたが、ソリスはこれを無視むししてチャルーアぞくしたがうよう強制きょうせいした。よんねんふたたびこのおもむいたソリスはチャルーアぞく殺害さつがいされた。 ヨーロッパじん信用しんようするにたらないとみなしたチャルーアぞくは1536ねん建造けんぞうされたブエン・アイレ(ブエノスアイレス)はげしく攻撃こうげきし、このまちは1541ねんには放棄ほうきされた。こうしてチャルーアぞくはラ・プラタ地域ちいきでヨーロッパじん最大さいだいてきとなった。

ソリスとの接触せっしょくからヨーロッパじんとのちょうきにわたたたかいがはじまった。チャルーアぞくアメリカ大陸あめりかたいりく先住民せんじゅうみんなかでもまれるほどの闘争とうそうしんって徹底的てっていてきたたかい、しばしばんできたスペインじん征服せいふくしゃ撃破げきはしたが、次第しだい勢力せいりょくおとろえて1800ねんごろまでにはいまのウルグアイ北部ほくぶにまでめられていった。

1800年代ねんだい初頭しょとうバンダ・オリエンタルでも南米なんべい解放かいほう戦争せんそうはじまると、チャルーアぞく解放かいほうしゃホセ・アルティーガス英語えいごばんのトゥパマロスぐんくわわり、スペインぐんやブエノスアイレスからの独立どくりつ戦争せんそうくわわるが、ブラジルから侵攻しんこうしてきたポルトガルぐん侵略しんりゃくによりアルティーガスが失脚しっきゃくし、そのだいウルグアイ独立どくりつ戦争せんそうわってウルグアイが独立どくりつすると、ウルグアイの初代しょだい大統領だいとうりょうとなっていたフルクトゥオソ・リベラ英語えいごばんはチャルーアぞく脅威きょういとみなし、1831ねん、リベラのおいのベルナルベ・リベラにだましちにあってサルシプエデスがわたたかいでやぶれ、1000にんほどにっていたチャルーアぞく民族みんぞく集団しゅうだんとしてはここでほろびる。ここでわずかにのこったチャルーアよんにんフランスばされ、見世物みせものにされた。かれらをしのんだ「最後さいごのチャルーア」の銅像どうぞうモンテビデオてられ、遺骨いこつは2002ねんにようやく169ねんぶりにウルグアイにかえった。

チャルーアぞくほこたか闘争とうそうしんウルグアイじんにとってもほこりであり、ガラ・チャルーア(garra Charrúa チャルーアのつめ)という言葉ことばはチャルーアぞく不屈ふくつ闘争とうそうしんあらわし、現在げんざいではサッカーの試合しあいなど、けっしてけられないときにウルグアイじんたましいのようなものを表現ひょうげんするとき使つかわれることもある。たような意味いみでサングレ・チャルーア(sangre Charrúa チャルーアの自分じぶんたちにチャルーアぞくながれていることをほこる)とうこともある。

サッカーウルグアイ代表だいひょうチームはロス・チャルーアスとばれる。ブラジルのポルトアレグレのラグビーチームにもチャルーアのかんするものがある。

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう