チェコ人じん(チェコじん、チェコ語ご: Češi[注釈ちゅうしゃく 1])は、現在げんざいのチェコを中心ちゅうしんに居住きょじゅうしているスラヴ系けい民族みんぞく。西にしスラヴ語ご系けいのチェコ語ご話者わしゃである。
ケルト系けい民族みんぞくボイイ人じんと混血こんけつを繰くり返かえし、現在げんざいの民族みんぞくになった。7世紀せいき始はじめに最初さいしょのスラヴ人じん国家こっかサモ王国おうこく[注釈ちゅうしゃく 2](623年ねん-658年ねん)を建国けんこくしたが、まもなく滅亡めつぼうした。921年ねんボヘミア公国こうこくが建国けんこくされ、プシェミスル朝あさが繁栄はんえいしたが、1278年ねんにボヘミア公こうのオタカル2世せいがハプスブルク家かのルドルフ1世せいによって討うたれると、プシェミスル朝あさは衰退すいたいし、オタカルの孫まごヴァーツラフ3世せいの代だいでプシェミスル朝あさが途絶とだえると、ドイツ系けいのルクセンブルク家かのヨハンがボヘミア公こうとなり、チェコ人じん王朝おうちょうは消滅しょうめつした。
1212年ねんにはヨハンの子こオットー4世せいの金きむ印しるし勅書ちょくしょにより王国おうこくに昇格しょうかくした。事実じじつ上じょう神かみ聖きよしロろーマ帝国まていこく内うち初はつの独立どくりつ国家こっかとなる。13世紀せいき後半こうはん、王国おうこく領りょうは最大さいだいとなり絶頂ぜっちょう期きとなる。1356年ねんの皇帝こうていカール4世せい(ボヘミア王おうを兼かねた)による金きむ印しるし勅書ちょくしょにより、ボヘミア王国おうこくは中ちゅう欧おうにおける最高さいこう権威けんいを獲得かくとくした。
しかし、14世紀せいき以降いこうは、ドイツ人じん支配しはいはルクセンブルク家かからハプスブルク家かへと受うけ継つがれる王朝おうちょうのみにとどまらず、多数たすうのドイツ人じん植民しょくみんによってチェコ人じんは社会しゃかいの下層かそうへ追おいやられていく。これに対たいするチェコ人じんたちの民族みんぞく意識いしきは徐々じょじょに高たかまっていった。15世紀せいきと17世紀せいきの、支配しはい層そうドイツ人じんに対たいする、プラハ窓まど外がい投擲とうてき事件じけんに始はじまる宗教しゅうきょう戦争せんそうはその典型てんけいとも言いえる。2度目どめの事件じけんは、ヨーロッパを巻まき込こむ最大さいだいの宗教しゅうきょう戦争せんそうである三さん十じゅう年ねん戦争せんそうを招来しょうらいするが、チェコでは支配しはい者しゃハプスブルク家かに屈服くっぷくし、従属じゅうぞくを迫せまられた。ハプスブルク家かの権威けんいが低下ていかした19世紀せいき中庸ちゅうように、オーストリア・ハンガリー帝国ていこくという事実じじつ上じょうの連邦れんぽう国家こっかが成立せいりつする。また、ハプスブルク家かの皇位こうい継承けいしょう者しゃフランツ・フェルディナント大公たいこうの妻つまゾフィー・ホテクがチェコ人じんであったために皇族こうぞくの地位ちいを得えられなかった。第だい一いち次じ世界せかい大戦たいせん後のちにハプスブルク帝国ていこくは分裂ぶんれつ解体かいたいしたものの、直後ちょくごに東方とうほうのスロヴァキアと合同ごうどうを組くんだチェコスロヴァキアが誕生たんじょうした。
なお、広義こうぎのチェコ人じんにはモラヴィア人じんを含ふくんでいる。モラヴィア人じんは9世紀せいき~10世紀せいきに大だいモラヴィア王国おうこくを形成けいせいしたスラヴ系けい民族みんぞくであるが、元々もともとチェコ人じんと同一どういつと言いうわけではなかった。しかしながら、大だいモラヴィア王国おうこくが滅ほろんだ後のちは、ボヘミアのチェコ人じんと共ともに従属じゅうぞくを強しいられ、その過程かていで、大勢おおぜいを占しめるチェコ人じんに同化どうかされたものと思おもわれる。現代げんだいのモラヴィアのモラヴィア語ご(英語えいご版ばん)は、チェコ語ごの方言ほうげんの扱あつかいとなっている。