国王 こくおう は君臨 くんりん すれども統治 とうち せず
編集 へんしゅう
この政治 せいじ 体制 たいせい は、貴族 きぞく 身分 みぶん (シュラフタ )が都市 とし 民 みん ・商工 しょうこう 業者 ぎょうしゃ (ブルジョワジー )や法曹 ほうそう など他 た の諸 しょ 身分 みぶん と国王 こくおう を政治 せいじ の場 ば から排除 はいじょ したことにより強固 きょうこ なものとされた。シュラフタはニヒル・ノヴィ (1505年 ねん )、ヘンリク条項 じょうこう (1573年 ねん )、そしてその後 ご に結 むす ばれた数 すう 多 おお くのパクタ・コンヴェンタ (選出 せんしゅつ 時 じ における国王 こくおう と貴族 きぞく との契約 けいやく )を通 つう じて諸 しょ 特権 とっけん を集積 しゅうせき してゆき、君主 くんしゅ が彼 かれ らの特権 とっけん に手出 てだ しする事 こと は許 ゆる されなかった。この連合 れんごう 共和 きょうわ 国家 こっか における政治 せいじ 原則 げんそく とは「我々 われわれ の国家 こっか は国王 こくおう の監督 かんとく のもとにある共和 きょうわ 国 こく である」というものだった。
16世紀 せいき の開明 かいめい 的 てき な大 だい 宰相 さいしょう ヤン・ザモイスキ はこの原則 げんそく を「国王 こくおう は君臨 くんりん すれども統治 とうち せず "Rex regnat et non gubernat" 」と要約 ようやく している。この言葉 ことば は他国 たこく でもよく使用 しよう され、イギリスや過去 かこ のドイツの政体 せいたい などを表 あらわ す際 さい に引用 いんよう されるが、実 じつ はこれを歴史 れきし 上 じょう 世界 せかい で初 はじ めて述 の べたのはヤン・ザモイスキであり、ポーランドの政体 せいたい のあるべき姿 すがた 、すなわち政治 せいじ の合議 ごうぎ 制 せい 、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ について述 の べたのである。独 どく 任 にん 制 せい や専制 せんせい はポーランド社会 しゃかい にそぐわないものとされた。この時代 じだい 、この合議 ごうぎ 制 せい の原則 げんそく によりポーランドは欧州 おうしゅう でもっとも強力 きょうりょく な国家 こっか へと大 だい 発展 はってん した。この時代 じだい は合議 ごうぎ 制 せい の原則 げんそく が国家 こっか の発展 はってん にとって望 のぞ ましい方向 ほうこう にのみ作用 さよう したのである。それは、イギリス の歴史 れきし 学者 がくしゃ ノーマン・ディヴィスが指摘 してき するように、当時 とうじ のポーランドが共通 きょうつう の政治 せいじ 的 てき 価値 かち 観 かん を持 も ち、自身 じしん の利害 りがい よりも国家 こっか のあり方 かた を優先 ゆうせん した、社会 しゃかい 的 てき 責任 せきにん の意識 いしき と哲学 てつがく 的 てき な水準 すいじゅん が非常 ひじょう に高 たか い知的 ちてき な人々 ひとびと の集 あつ まりによって運営 うんえい されていたからである。
国家 こっか の頂点 ちょうてん にあるのは選挙 せんきょ で選 えら ばれる国王 こくおう 、上院 じょういん 、そして飛 と びぬけた権力 けんりょく を備 そな えたセイム の三 さん 者 しゃ であった。国王 こくおう にはヘンリク条項 じょうこう と選出 せんしゅつ 時 じ に取 と り決 き められるパクタ・コンヴェンタ によって、市民 しみん (つまりシュラフタ)の権利 けんり を尊重 そんちょう することが義務 ぎむ づけられていた。国王 こくおう は大勢 おおぜい の貴族 きぞく 層 そう の意向 いこう により、その権力 けんりょく をかなり制限 せいげん されていた。歴代 れきだい の国王 こくおう は、ポーランドの政治 せいじ システムの根幹 こんかん (そしておよそ確立 かくりつ されているとは言 い い難 がた い宗教 しゅうきょう 的 てき 寛容 かんよう の根幹 こんかん )をなすと見 み なされた、ヘンリク条項 じょうこう を承認 しょうにん することを余儀 よぎ なくされた。やがてヘンリク条項 じょうこう はパクタ・コンヴェンタの中 なか に組 く み込 こ まれ、国王 こくおう 選出 せんしゅつ に際 さい しての重要 じゅうよう な誓約 せいやく の一 ひと つになった。
「黄金 おうごん の自由 じゆう 」(この語 かたり はヤギェウォ朝 あさ 断絶 だんぜつ 直後 ちょくご の1573年 ねん から使 つか われ始 はじ めた)の政治 せいじ システムは、以下 いか の原則 げんそく をその基礎 きそ としていた。
国王 こくおう 自由 じゆう 選挙 せんきょ …国王 こくおう は投票 とうひょう を希望 きぼう する全 すべ てのシュラフタによる自由 じゆう 選挙 せんきょ によって選 えら ばれる。
セイム (下院 かいん 議会 ぎかい )…議会 ぎかい であるセイムは国王 こくおう によって2年 ねん ごとに召集 しょうしゅう される。
パクタ・コンヴェンタ (議会 ぎかい に関 かん する契約 けいやく )…即位 そくい 時 じ に国王 こくおう と貴族 きぞく (国政 こくせい 参加 さんか 者 しゃ )とが取 と り決 き める契約 けいやく 。諸 しょ 権利 けんり の請願 せいがん も行 おこな われる。国王 こくおう の政治 せいじ 行動 こうどう を束縛 そくばく し、ヘンリク条項 じょうこう に起源 きげん を持 も つ。
ロコシュ (抵抗 ていこう 権 けん あるいは強訴 ごうそ 権 けん )…シュラフタは、彼 かれ らに保障 ほしょう されている諸 しょ 特権 とっけん が国王 こくおう によって脅 おびや かされた場合 ばあい 、反乱 はんらん (強訴 ごうそ )を起 お こすことを法的 ほうてき に認 みと められる。
リベルム・ヴェト (自由 じゆう 拒否 きょひ 権 けん )…個々 ここ の地方 ちほう 代表 だいひょう が、セイムでの決議 けつぎ において多数 たすう 派 は の意見 いけん に反対 はんたい 出来 でき る権利 けんり 。セイムの会期 かいき 中 ちゅう 、法案 ほうあん をことごとく廃案 はいあん にしてきた「無 む 制限 せいげん の拒否 きょひ 権 けん 」といったニュアンスで語 かた られることが多 おお い。17世紀 せいき 後半 こうはん の危機 きき の時代 じだい に入 はい ると、リベルム・ヴェトは地方 ちほう 議会 ぎかい であるセイミク にも適用 てきよう された。
コンフェデラツィア (政治 せいじ 連盟 れんめい )…共通 きょうつう の政治 せいじ 目的 もくてき のために団体 だんたい (政党 せいとう や会派 かいは )を結成 けっせい する権利 けんり 。
共和 きょうわ 国 こく の政治 せいじ システムには単純 たんじゅん な枠組 わくぐ みを適用 てきよう することは難 むずか しく、様々 さまざま なモデルを当 あ て嵌 は めて説明 せつめい されているため、統一 とういつ 的 てき な見解 けんかい がない。
共和 きょうわ 国 こく の性格 せいかく に関 かん して、国家 こっか 連合 れんごう 、連邦 れんぽう 、二 に 国家 こっか それぞれの自治 じち 体制 たいせい (つまり両国 りょうこく の地位 ちい は対等 たいとう )のどれだったかという問題 もんだい 。共和 きょうわ 国 こく を三 さん 者 しゃ のうちどれだったかと判断 はんだん することは難 むずか しい。逆 ぎゃく にこの三 さん 者 しゃ の全 すべ てであったとも言 い える。どれか一 ひと つとは言 い えないのである。
寡頭制 せい なのかどうかという問題 もんだい 。シュラフタ のみが参政 さんせい 権 けん を持 も っていたと言 い っても、彼 かれ らの階層 かいそう は人口 じんこう の約 やく 10%を占 し めていたのであり、少数 しょうすう 者 しゃ による支配 しはい というイメージとはずれがある。
全 すべ てのシュラフタに等 ひと しい権利 けんり と特権 とっけん が与 あた えられる民主 みんしゅ 政治 せいじ 。シュラフタの間 あいだ では当然 とうぜん のことながら財産 ざいさん の多寡 たか はあり、ヨーロッパで最 もっと も裕福 ゆうふく とも言 い われた大 だい 資産 しさん 家 か からまったくの無産 むさん 者 しゃ までさまざまな者 もの がいたが、彼 かれ らの間 あいだ に法的 ほうてき な身分 みぶん の上下 じょうげ は一切 いっさい なく、法的 ほうてき には全 すべ てのシュラフタが平等 びょうどう の政治 せいじ 的 てき 権利 けんり を有 ゆう していた。彼 かれ らの拠 よ るセイム (国会 こっかい )が立法 りっぽう 、外交 がいこう 、宣戦 せんせん 布告 ふこく 、課税 かぜい (既存 きそん の税制 ぜいせい の変更 へんこう 、新 あたら しい税 ぜい の制定 せいてい )といった重要 じゅうよう な事項 じこう について国家 こっか の主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ り、国王 こくおう の政策 せいさく に反対 はんたい することもできた。共和 きょうわ 国 こく は当時 とうじ のヨーロッパ諸国 しょこく の中 なか で最 もっと も高 たか い、約 やく 10%の参政 さんせい 権 けん 者 もの を抱 かか えていた。フランス では1831年 ねん の時点 じてん で人口 じんこう の約 やく 1%、1867年 ねん のイギリス では約 やく 3%に参政 さんせい 権 けん が与 あた えられているに過 す ぎなかったのとは対照 たいしょう 的 てき である。
選挙 せんきょ 王制 おうせい 。シュラフタによって選出 せんしゅつ される国王 こくおう 、つまり世襲 せしゅう 君主 くんしゅ でない国王 こくおう が国家 こっか の首長 しゅちょう であること。
立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい 、つまり君主 くんしゅ がパクタ・コンヴェンタ やその他 た の法律 ほうりつ によって制約 せいやく されており、シュラフタは国王 こくおう が法的 ほうてき に不正 ふせい な行為 こうい をしている場合 ばあい は従 したが う義務 ぎむ はないとされた。セイム(国会 こっかい )はしばしば国王 こくおう の政策 せいさく に反対 はんたい し、それを阻止 そし してきた。
評価 ひょうか - 対立 たいりつ から亡国 ぼうこく へ
編集 へんしゅう
「黄金 おうごん の自由 じゆう 」は極 きわ めて特異 とくい でその評価 ひょうか には論争 ろんそう の多 おお い政治 せいじ システムである。それはヨーロッパの主要 しゅよう 国 こく において絶対 ぜったい 主義 しゅぎ が支配 しはい 的 てき だった時代 じだい において、例外 れいがい 的 てき に権力 けんりょく の強 つよ い貴族 きぞく の支配 しはい と、弱体 じゃくたい な王権 おうけん とで構成 こうせい される点 てん で特徴 とくちょう ある性格 せいかく を有 ゆう していたし、ある種 しゅ の近代 きんだい 的 てき 価値 かち と似通 にかよ った要素 ようそ を備 そな えていた。ヨーロッパが中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か 、絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 、宗教 しゅうきょう 戦争 せんそう や王朝 おうちょう による争 あらそ いに直面 ちょくめん している時期 じき 、共和 きょうわ 国 こく は地方 ちほう 分権 ぶんけん 、国家 こっか 連合 れんごう と連邦 れんぽう 制 せい 、民主 みんしゅ 政治 せいじ 、宗教 しゅうきょう 的 てき 寛容 かんよう さらには平和 へいわ 主義 しゅぎ までも経験 けいけん していた。シュラフタがしばしば国王 こくおう による戦争 せんそう 計画 けいかく を廃案 はいあん にしたことは、民主 みんしゅ 的 てき 平和 へいわ 論 ろん に関 かん する論議 ろんぎ に相当 そうとう するものとさえ見 み なされる。「黄金 おうごん の自由 じゆう 」システムは民主 みんしゅ 制 せい 、立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい 、連邦 れんぽう 制 せい の先駆 せんく 的 てき 存在 そんざい とさえ評価 ひょうか されることがある。共和 きょうわ 国 こく の「市民 しみん 」たるシュラフタは、抵抗 ていこう 権 けん 、社会 しゃかい 契約 けいやく 、個人 こじん の自由 じゆう 、合意 ごうい に基 もと づく政治 せいじ 運営 うんえい 、独立 どくりつ 心 しん の尊重 そんちょう といった価値 かち を称賛 しょうさん したが、それらは世界 せかい 的 てき に見 み れば、近代 きんだい になって広 ひろ く普及 ふきゅう したリベラル な民主 みんしゅ 政治 せいじ の概念 がいねん である。19・20世紀 せいき のリベラルな民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ のように、シュラフタは国家 こっか 権力 けんりょく に対 たい して強 つよ い不安 ふあん を抱 だ いていた。ポーランド貴族 きぞく は国家 こっか の権威 けんい 主義 しゅぎ については強 つよ い反感 はんかん を持 も っていた。
おそらくポーランドの「貴族 きぞく 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ 」に最 もっと も似 に た人々 ひとびと はヨーロッパではなく、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく (とくに南部 なんぶ ) の奴隷 どれい を所有 しょゆう する「貴族 きぞく 」たちの中 なか にいた。奴隷 どれい を所有 しょゆう する民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ たち、そしてジョージ・ワシントン 、トマス・ジェファソン といったアメリカ「建国 けんこく の父 ちち 」 たちは、貴族 きぞく 共和 きょうわ 国 こく の改革 かいかく 派 は シュラフタ達 たち と多 おお くの価値 かち 観 かん を共有 きょうゆう していた。近代 きんだい 史 し において、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく が1791年 ねん に世界 せかい で2番目 ばんめ の成文 せいぶん 憲法 けんぽう である5月3日 にち 憲法 けんぽう を制定 せいてい したことは、偶然 ぐうぜん の符合 ふごう では決 けっ してないのである。起草 きそう 者 しゃ の一人 ひとり であるポーランド王 おう スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ も、「アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく やイギリス を参考 さんこう にしてさらにポーランドの事情 じじょう に合 あ うものにした」と述 の べている。
一方 いっぽう で、黄金 おうごん の自由 じゆう の受益 じゅえき 者 しゃ は貴族 きぞく に限 かぎ られていて、小作農 こさくのう や都市 とし 民 みん はそこから排除 はいじょ されていたという批判 ひはん 的 てき な指摘 してき も存在 そんざい する。これもアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の初期 しょき の歴史 れきし において大 だい 土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ や大 だい 商人 しょうにん たちが権力 けんりょく を独占 どくせん したことと似通 にかよ っている。人口 じんこう の大 だい 多数 たすう を占 し める庶民 しょみん は法的 ほうてき 自由 じゆう が保障 ほしょう されず、貴族 きぞく の横暴 おうぼう から身 み を守 まも ることも出来 でき ず(平民 へいみん が幸福 こうふく な生活 せいかつ が送 おく れるかどうかはまったく各 かく 領主 りょうしゅ の人徳 にんとく と能力 のうりょく 次第 しだい であった)、都市 とし の発展 はってん は停滞 ていたい し、地方 ちほう では農奴 のうど 制 せい が一般 いっぱん 的 てき になってしまったというのである。後 ご の時代 じだい の人々 ひとびと は当時 とうじ のポーランドを振 ふ り返 かえ って、共和 きょうわ 国 こく が「貴族 きぞく の天国 てんごく 、ユダヤ人 じん の楽園 らくえん 、農民 のうみん の地獄 じごく 」[注釈 ちゅうしゃく 1] だったのだと批判 ひはん 的 てき に主張 しゅちょう するようになったが、この見方 みかた を裏付 うらづ ける実証 じっしょう 的 てき 研究 けんきゅう は充分 じゅうぶん に行 おこな われているとは言 い い難 がた い状況 じょうきょう である。そして貴族 きぞく 階級 かいきゅう であるシュラフタ自身 じしん も、彼 かれ らのうちでより強大 きょうだい な権力 けんりょく を持 も つ大 だい 貴族 きぞく (マグナート )に従属 じゅうぞく して自由 じゆう を奪 うば われていった。
一方 いっぽう で庶民 しょみん でもクラクフ大学 だいがく などの大学 だいがく を出 で て学位 がくい を取 と ったエリート は貴族 きぞく 同様 どうよう の政治 せいじ 的 てき 権利 けんり を持 も ち、国政 こくせい に参加 さんか することができた。彼 かれ らは実家 じっか が裕福 ゆうふく な商人 しょうにん であったり、自分 じぶん の後見人 こうけんにん に貴族 きぞく や裕福 ゆうふく な商人 しょうにん がいたりして、その才能 さいのう を認 みと められて大学 だいがく 進学 しんがく や外国 がいこく 留学 りゅうがく の援助 えんじょ を受 う けた。1791年 ねん にポーランド共和 きょうわ 国 こく 憲法 けんぽう を作成 さくせい したグループの中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ の一人 ひとり でポーランド科学 かがく アカデミー の前身 ぜんしん となるポーランド科学 かがく 友 とも の会 かい を創設 そうせつ したスタニスワフ・スタシツ などはそういった場合 ばあい に当 あ たる。
ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく は国家 こっか としての生 い き残 のこ りに失敗 しっぱい したため、極端 きょくたん な場合 ばあい 、共和 きょうわ 国 こく の徹底 てってい した自由 じゆう 主義 しゅぎ は却 かえ って「内戦 ないせん と侵略 しんりゃく 、国家 こっか の弱体 じゃくたい と優柔不断 ゆうじゅうふだん や愛国心 あいこくしん の欠乏 けつぼう 」を招 まね いたという一 いち 面 めん 的 てき な非難 ひなん を受 う ける。絶対 ぜったい 主義 しゅぎ と国民 こくみん 国家 こっか (同化 どうか 政策 せいさく の制度 せいど 化 か )という、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ に対抗 たいこう する「(当時 とうじ の感覚 かんかく で)近代 きんだい 的 てき 」な政治 せいじ システムの建設 けんせつ が求 もと められた際 さい に有力 ゆうりょく 者 しゃ たちの何人 なんにん かが常 つね に自由 じゆう 至上 しじょう 主義 しゅぎ (リバタリアニズム )に拘 かかわ ったため、共和 きょうわ 国 こく は改革 かいかく 反対 はんたい 派 は の「自由 じゆう 」の発露 はつろ である「リベルム・ヴェト 」の行使 こうし を繰 く り返 かえ しながら、国家 こっか 機能 きのう を麻痺 まひ させて徐々 じょじょ に衰退 すいたい を続 つづ け、自由 じゆう が行 い き過 す ぎた無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい の瀬戸際 せとぎわ まで追 お いやられた。イギリス の歴史 れきし 学者 がくしゃ ノーマン・ディヴィス が指摘 してき するように、ポーランド社会 しゃかい が何 なに 世紀 せいき ものあいだ性善説 せいぜんせつ と、それに基 もと づいたリベルム・ヴェト制度 せいど のもとで民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と多 た 文化 ぶんか 主義 しゅぎ の追求 ついきゅう をしていたことは、巨大 きょだい 化 か する領域 りょういき 国家 こっか 同士 どうし が戦 たたか う弱肉強食 じゃくにくきょうしょく の時代 じだい になると、リバタリアニズムを追求 ついきゅう する一部 いちぶ 有力 ゆうりょく 者 しゃ たちに悪用 あくよう されるようになり、国家 こっか の改革 かいかく に対 たい する圧倒的 あっとうてき に不利 ふり な要素 ようそ となった。シュラフタの多 おお くは自分 じぶん 達 たち が完璧 かんぺき な体制 たいせい の国家 こっか に住 す んでいると信 しん じていた。一部 いちぶ の人々 ひとびと が黄金 おうごん の自由 じゆう とサルマティズム という根拠 こんきょ 希薄 きはく な美学 びがく に疑 うたが いをもち、個人 こじん の自由 じゆう は国家 こっか の近代 きんだい 的 てき な発展 はってん のために一部 いちぶ 制限 せいげん すべきだという考 かんが え(カント 哲学 てつがく 的 てき な保守 ほしゅ 主義 しゅぎ =穏健 おんけん 主義 しゅぎ )を持 も つようになったが、それに気付 きづ いた時期 じき は遅 おそ すぎた。「大 だい 洪水 こうずい 」で外国 がいこく 軍 ぐん の撃退 げきたい に成功 せいこう した体験 たいけん が、余計 よけい に改革 かいかく のコンセンサス形成 けいせい を遅 おく らせた。シュラフタの多 おお くは保守 ほしゅ 主義 しゅぎ でなくリバタリアニズム(自由 じゆう 至上 しじょう 主義 しゅぎ )の影響 えいきょう を受 う けて、近代 きんだい 的 てき な常備 じょうび 軍 ぐん とその強化 きょうか のための税 ぜい 負担 ふたん を拒 こば み、シュラフタのうち特 とく にマグナート たちは自 みずか らの個人 こじん 的 てき 利益 りえき を追求 ついきゅう するために、諸 しょ 外国 がいこく の勢力 せいりょく と結 むす びついて共和 きょうわ 国 こく の政治 せいじ システムを麻痺 まひ させた。改革 かいかく 勢力 せいりょく は徐々 じょじょ にその力 ちから をつけていき、最終 さいしゅう 的 てき にはポーランド社会 しゃかい の圧倒的 あっとうてき 多数 たすう 派 は となったが、そのとき既 すで にロシア軍 ぐん は共和 きょうわ 国 こく の首都 しゅと ワルシャワ に迫 せま ってきていたのである。
タルゴヴィツァ連盟 れんめい の首領 しゅりょう である売国奴 ばいこくど (スタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキ )の卑劣 ひれつ で恥知 はじし らずな行為 こうい は絶対 ぜったい に許 ゆる せないとして、その肖像 しょうぞう 画 が の一 いち 枚 まい を改革 かいかく 派 は の兵士 へいし たちが火刑 かけい にする光景 こうけい (ワルシャワ 、1794年 ねん )。 ヤン・ピョトル・ノルブリン画 が
こういう既得 きとく 権益 けんえき を持 も つ有力 ゆうりょく 者 しゃ たちによるジェレミ・ベンサム 的 てき な偏狭 へんきょう な功利 こうり 主義 しゅぎ にもとづいたリバタリアニズム (自由 じゆう 至上 しじょう 主義 しゅぎ )の横行 おうこう により、共和 きょうわ 国 こく は着々 ちゃくちゃく と軍事 ぐんじ 力 りょく および能率 のうりつ 性 せい (つまり官僚 かんりょう 制 せい )を構築 こうちく していく近隣 きんりん 諸国 しょこく に対抗 たいこう することが出来 でき なくなっていったあげく、ポーランドを狙 ねら う諸 しょ 外国 がいこく の野心 やしん の標的 ひょうてき になったのである。そして18世紀 せいき 後半 こうはん 、共和 きょうわ 国 こく のリバタリアンたちはタルゴヴィツァという都市 とし に集結 しゅうけつ して彼 かれ らの政治 せいじ 連盟 れんめい である「タルゴヴィツァ連盟 れんめい 」をつくり、共和 きょうわ 国 こく の大改革 だいかいかく の流 なが れに頑強 がんきょう に抵抗 ていこう し、こともあろうにロシアと結託 けったく しワルシャワの中央 ちゅうおう 政府 せいふ に対 たい して武力 ぶりょく 反乱 はんらん を起 お こした。彼 かれ らはロシアから彼 かれ ら個人 こじん 個人 こじん の「自由 じゆう 」と「財産 ざいさん 権 けん 」、すなわち租税 そぜい の免除 めんじょ と私有地 しゆうち の保全 ほぜん を保障 ほしょう されたのである。「タルゴヴィツァの売国奴 ばいこくど 」と呼 よ ばれたリバタリアン(自由 じゆう 至上 しじょう 主義 しゅぎ 者 しゃ )・ユーティリタリアン(功利 こうり 主義 しゅぎ 者 しゃ )たちは祖国 そこく ポーランドよりも自 みずか らの個人 こじん 的 てき な経済 けいざい 的 てき 利害 りがい を優先 ゆうせん した。このためポーランド社会 しゃかい は完全 かんぜん に疲弊 ひへい してしまい、民間 みんかん 財政 ざいせい はまだ比較的 ひかくてき 裕福 ゆうふく だったものの国家 こっか の財政 ざいせい は破産 はさん に近 ちか い状態 じょうたい となり、近隣 きんりん の絶対 ぜったい 主義 しゅぎ 諸国 しょこく による領土 りょうど 分割 ぶんかつ によって民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と多 た 民族 みんぞく 主義 しゅぎ の国家 こっか 「ポーランド」そのものが失 うしな われてしまったのである。
リバタリアン勢力 せいりょく である「タルゴヴィツァの売国奴 ばいこくど 」たちは、ロシアから提供 ていきょう されたはずの政治 せいじ 的 てき 自由 じゆう や個人 こじん 財産 ざいさん 保全 ほぜん の保障 ほしょう はロシアによる政治 せいじ 的 てき 方便 ほうべん に過 す ぎなかったことを、祖国 そこく の共和 きょうわ 国 こく が分割 ぶんかつ 消滅 しょうめつ され、ロシア兵 へい がやってきて自分 じぶん たちの領地 りょうち を好 す き勝手 かって に略奪 りゃくだつ するようになってから初 はじ めて気 き づいたのである。彼 かれ らの自由 じゆう も財産 ざいさん 保全 ほぜん も保障 ほしょう されることがなく、すべてツァーリ の一存 いちぞん の下 した に入 はい ることになってしまった。現代 げんだい のポーランドで「タルゴヴィツァの連中 れんちゅう (タルゴヴィチャニンtargowiczanin)」といえば愚 おろ か者 もの ・売国奴 ばいこくど ・無責任 むせきにん ・自分勝手 じぶんがって の代名詞 だいめいし となっている。
一方 いっぽう 、当時 とうじ の改革 かいかく 勢力 せいりょく やその穏健 おんけん 主義 しゅぎ 思想 しそう を受 う け継 つ いだ人々 ひとびと はポーランド分割 ぶんかつ 時代 じだい を通 つう じて国民 こくみん 活動 かつどう を続 つづ け、後 ご のポーランドの発展 はってん の思想 しそう 的 てき 原動力 げんどうりょく のひとつとなっていった。
「黄金 おうごん の自由 じゆう 」は、同 どう 時代 じだい の世界 せかい にはめずらしいある種 しゅ の民主 みんしゅ 主義 しゅぎ による国家 こっか 体制 たいせい を出現 しゅつげん させたが、ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく のような都市 とし 国家 こっか の政治 せいじ システムと幾 いく らか類似 るいじ した部分 ぶぶん があった。興味深 きょうみぶか いことに両者 りょうしゃ は「最 もっと も静穏 せいおん なる共和 きょうわ 国 こく 」を自称 じしょう していた。ポーランドの政治 せいじ 制度 せいど における最大 さいだい の(かつ当時 とうじ としては唯一 ゆいいつ とも言 い える)欠陥 けっかん であったリベルム・ヴェト を採用 さいよう しなかったイタリア の都市 とし 国家 こっか はポーランドと似 に た運命 うんめい をたどらずに済 す んだ。フランスとスペイン 、そしてローマ教皇 きょうこう は、イタリアを分割 ぶんかつ するという議論 ぎろん に入 はい ることが出来 でき なかった。これらの国々 くにぐに は、サルデーニャ王国 おうこく が1861年 ねん にイタリアを統一 とういつ して国民 こくみん 国家 こっか を創設 そうせつ するまでバラバラに存在 そんざい していた。
^ このような見方 みかた は、現代 げんだい 、特 とく に20世紀 せいき 中 ちゅう ごろに共産 きょうさん 主義 しゅぎ 思想 しそう 、文化 ぶんか 闘争 とうそう 以後 いご のドイツや独立 どくりつ 前後 ぜんこう のリトアニア などで高 たか まった国粋 こくすい 主義 しゅぎ による反 はん ポーランド思想 しそう 、シオニズム に代表 だいひょう されるユダヤ人 じん 社会 しゃかい の民族 みんぞく 運動 うんどう の発展 はってん と同 どう 時期 じき に平行 へいこう して起 お こったものである。実 じつ は「貴族 きぞく の天国 てんごく 、ユダヤ人 じん の楽園 らくえん 、農民 のうみん の地獄 じごく 」の言葉 ことば は当時 とうじ のポーランドのものでなく、20世紀 せいき ドイツ のユダヤ人 じん 小説 しょうせつ 家 か アルフレッド・デブリン(Alfred Döblin )がその著書 ちょしょ 『Reise in Polen』の中 なか で編 あ み出 だ したもので、そういった一個人 いっこじん の見方 みかた が正 ただ しいのかどうかがまったく吟味 ぎんみ されることなく一人 ひとり 歩 ある きし勝手 かって に「有名 ゆうめい な言葉 ことば 」として広 ひろ まったものである。実際 じっさい のところ、他国 たこく との比較 ひかく で見 み れば、例 たと えば多 おお くのロシア人 じん 農民 のうみん がモスクワ大公 たいこう 国 こく における領主 りょうしゅ たちの苛烈 かれつ な搾取 さくしゅ に耐 た えかねて逃 に げ出 だ し、難民 なんみん となって当時 とうじ のポーランドにやってきて安住 あんじゅう の地 ち を見出 みいだ した事実 じじつ があり、このことからも当時 とうじ のポーランドが「農民 のうみん の地獄 じごく 」だったとはとても言 い いがたい。Nicholas Valentine Riasanovsky (2000). A History of Russia . Oxford University Press. ISBN 0195121791 Googleブック