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黄金の自由 - Wikipedia

黄金おうごん自由じゆう

貴族きぞく支配しはいによる民主みんしゅ主義しゅぎ政治せいじシステム

黄金おうごん自由じゆう(おうごんのじゆう、ラテン語らてんごAurea Libertas アウレア・リベルタスポーランドZłota Wolność ズウォタ・ヴォルノシチ)、貴族きぞく共和きょうわこくまたは貴族きぞく民主みんしゅ主義しゅぎとは、ポーランド王国おうこくおよびルブリン合同ごうどう1569ねんポーランド・リトアニア共和きょうわこくにおいて機能きのうした、貴族きぞく支配しはいによる民主みんしゅ主義しゅぎ政治せいじシステム。このシステムのしたでは、領地りょうちゆうするすべての貴族きぞくシュラフタ)が法的ほうてき平等びょうどうであり、きわめておおくのしょ特権とっけん享受きょうじゅしていた。この特権とっけんもとづき、貴族きぞく階級かいきゅう立法府りっぽうふであるセイム(ポーランド議会ぎかい)を構成こうせいし、国王こくおう選挙せんきょによって選出せんしゅつしていた(選挙せんきょ王政おうせい)。

共和きょうわこく権力けんりょく頂点ちょうてんをなす1573ねん国王こくおう選挙せんきょヤン・マテイコ

国王こくおう君臨くんりんすれども統治とうちせず 編集へんしゅう

この政治せいじ体制たいせいは、貴族きぞく身分みぶんシュラフタ)が都市としみん商工しょうこう業者ぎょうしゃブルジョワジー)や法曹ほうそうなどしょ身分みぶん国王こくおう政治せいじから排除はいじょしたことにより強固きょうこなものとされた。シュラフタはニヒル・ノヴィ(1505ねん)、ヘンリク条項じょうこう(1573ねん)、そしてそのむすばれたすうおおくのパクタ・コンヴェンタ選出せんしゅつにおける国王こくおう貴族きぞくとの契約けいやく)をつうじてしょ特権とっけん集積しゅうせきしてゆき、君主くんしゅかれらの特権とっけん手出てだしすることゆるされなかった。この連合れんごう共和きょうわ国家こっかにおける政治せいじ原則げんそくとは「我々われわれ国家こっか国王こくおう監督かんとくのもとにある共和きょうわこくである」というものだった。

16世紀せいき開明かいめいてきだい宰相さいしょうヤン・ザモイスキはこの原則げんそくを「国王こくおう君臨くんりんすれども統治とうちせず "Rex regnat et non gubernat" 」と要約ようやくしている。この言葉ことば他国たこくでもよく使用しようされ、イギリスや過去かこのドイツの政体せいたいなどをあらわさい引用いんようされるが、じつはこれを歴史れきしじょう世界せかいはじめてべたのはヤン・ザモイスキであり、ポーランドの政体せいたいのあるべき姿すがた、すなわち政治せいじ合議ごうぎせい民主みんしゅ主義しゅぎについてべたのである。どくにんせい専制せんせいはポーランド社会しゃかいにそぐわないものとされた。この時代じだい、この合議ごうぎせい原則げんそくによりポーランドは欧州おうしゅうでもっとも強力きょうりょく国家こっかへとだい発展はってんした。この時代じだい合議ごうぎせい原則げんそく国家こっか発展はってんにとってのぞましい方向ほうこうにのみ作用さようしたのである。それは、イギリス歴史れきし学者がくしゃノーマン・ディヴィスが指摘してきするように、当時とうじのポーランドが共通きょうつう政治せいじてき価値かちかんち、自身じしん利害りがいよりも国家こっかのありかた優先ゆうせんした、社会しゃかいてき責任せきにん意識いしき哲学てつがくてき水準すいじゅん非常ひじょうたか知的ちてき人々ひとびとあつまりによって運営うんえいされていたからである。

内容ないよう 編集へんしゅう

国家こっか頂点ちょうてんにあるのは選挙せんきょえらばれる国王こくおう上院じょういん、そしてびぬけた権力けんりょくそなえたセイムさんしゃであった。国王こくおうにはヘンリク条項じょうこう選出せんしゅつめられるパクタ・コンヴェンタによって、市民しみん(つまりシュラフタ)の権利けんり尊重そんちょうすることが義務ぎむづけられていた。国王こくおう大勢おおぜい貴族きぞくそう意向いこうにより、その権力けんりょくをかなり制限せいげんされていた。歴代れきだい国王こくおうは、ポーランドの政治せいじシステムの根幹こんかん(そしておよそ確立かくりつされているとはがた宗教しゅうきょうてき寛容かんよう根幹こんかん)をなすとなされた、ヘンリク条項じょうこう承認しょうにんすることを余儀よぎなくされた。やがてヘンリク条項じょうこうはパクタ・コンヴェンタのなかまれ、国王こくおう選出せんしゅつさいしての重要じゅうよう誓約せいやくひとつになった。

黄金おうごん自由じゆう」(このかたりヤギェウォあさ断絶だんぜつ直後ちょくご1573ねんから使つかわれはじめた)の政治せいじシステムは、以下いか原則げんそくをその基礎きそとしていた。

  • 国王こくおう自由じゆう選挙せんきょ国王こくおう投票とうひょう希望きぼうするすべてのシュラフタによる自由じゆう選挙せんきょによってえらばれる。
  • セイム下院かいん議会ぎかい)…議会ぎかいであるセイムは国王こくおうによって2ねんごとに召集しょうしゅうされる。
  • パクタ・コンヴェンタ議会ぎかいかんする契約けいやく)…即位そくい国王こくおう貴族きぞく国政こくせい参加さんかしゃ)とがめる契約けいやくしょ権利けんり請願せいがんおこなわれる。国王こくおう政治せいじ行動こうどう束縛そくばくし、ヘンリク条項じょうこう起源きげんつ。
  • ロコシュ抵抗ていこうけんあるいは強訴ごうそけん)…シュラフタは、かれらに保障ほしょうされているしょ特権とっけん国王こくおうによっておびやかされた場合ばあい反乱はんらん強訴ごうそ)をこすことを法的ほうてきみとめられる。
  • リベルム・ヴェト自由じゆう拒否きょひけん)…個々ここ地方ちほう代表だいひょうが、セイムでの決議けつぎにおいて多数たすう意見いけん反対はんたい出来でき権利けんり。セイムの会期かいきちゅう法案ほうあんをことごとく廃案はいあんにしてきた「制限せいげん拒否きょひけん」といったニュアンスでかたられることがおおい。17世紀せいき後半こうはん危機きき時代じだいはいると、リベルム・ヴェトは地方ちほう議会ぎかいであるセイミクにも適用てきようされた。
  • コンフェデラツィア政治せいじ連盟れんめい)…共通きょうつう政治せいじ目的もくてきのために団体だんたい政党せいとう会派かいは)を結成けっせいする権利けんり

共和きょうわこく政治せいじシステムには単純たんじゅん枠組わくぐみを適用てきようすることはむずかしく、様々さまざまなモデルをめて説明せつめいされているため、統一とういつてき見解けんかいがない。

  • 共和きょうわこく性格せいかくかんして、国家こっか連合れんごう連邦れんぽう国家こっかそれぞれの自治じち体制たいせい(つまり両国りょうこく地位ちい対等たいとう)のどれだったかという問題もんだい共和きょうわこくさんしゃのうちどれだったかと判断はんだんすることはむずかしい。ぎゃくにこのさんしゃすべてであったともえる。どれかひとつとはえないのである。
  • 寡頭せいなのかどうかという問題もんだいシュラフタのみが参政さんせいけんっていたとっても、かれらの階層かいそう人口じんこうやく10%をめていたのであり、少数しょうすうしゃによる支配しはいというイメージとはずれがある。
  • すべてのシュラフタにひとしい権利けんり特権とっけんあたえられる民主みんしゅ政治せいじ。シュラフタのあいだでは当然とうぜんのことながら財産ざいさん多寡たかはあり、ヨーロッパでもっと裕福ゆうふくともわれただい資産しさんからまったくの無産むさんしゃまでさまざまなものがいたが、かれらのあいだ法的ほうてき身分みぶん上下じょうげ一切いっさいなく、法的ほうてきにはすべてのシュラフタが平等びょうどう政治せいじてき権利けんりゆうしていた。かれらのセイム国会こっかい)が立法りっぽう外交がいこう宣戦せんせん布告ふこく課税かぜい既存きそん税制ぜいせい変更へんこうあたらしいぜい制定せいてい)といった重要じゅうよう事項じこうについて国家こっか主導しゅどうけんにぎり、国王こくおう政策せいさく反対はんたいすることもできた。共和きょうわこく当時とうじのヨーロッパ諸国しょこくなかもっとたかい、やく10%の参政さんせいけんものかかえていた。フランスでは1831ねん時点じてん人口じんこうやく1%、1867ねんイギリスではやく3%に参政さんせいけんあたえられているにぎなかったのとは対照たいしょうてきである。
  • 選挙せんきょ王制おうせい。シュラフタによって選出せんしゅつされる国王こくおう、つまり世襲せしゅう君主くんしゅでない国王こくおう国家こっか首長しゅちょうであること。
  • 立憲りっけん君主くんしゅせい、つまり君主くんしゅパクタ・コンヴェンタやその法律ほうりつによって制約せいやくされており、シュラフタは国王こくおう法的ほうてき不正ふせい行為こういをしている場合ばあいしたが義務ぎむはないとされた。セイム(国会こっかい)はしばしば国王こくおう政策せいさく反対はんたいし、それを阻止そししてきた。

評価ひょうか - 対立たいりつから亡国ぼうこく 編集へんしゅう

黄金おうごん自由じゆう」はきわめて特異とくいでその評価ひょうかには論争ろんそうおお政治せいじシステムである。それはヨーロッパの主要しゅようこくにおいて絶対ぜったい主義しゅぎ支配しはいてきだった時代じだいにおいて、例外れいがいてき権力けんりょくつよ貴族きぞく支配しはいと、弱体じゃくたい王権おうけんとで構成こうせいされるてん特徴とくちょうある性格せいかくゆうしていたし、あるしゅ近代きんだいてき価値かち似通にかよった要素ようそそなえていた。ヨーロッパが中央ちゅうおう集権しゅうけん絶対ぜったい主義しゅぎ宗教しゅうきょう戦争せんそう王朝おうちょうによるあらそいに直面ちょくめんしている時期じき共和きょうわこく地方ちほう分権ぶんけん国家こっか連合れんごう連邦れんぽうせい民主みんしゅ政治せいじ宗教しゅうきょうてき寛容かんようさらには平和へいわ主義しゅぎまでも経験けいけんしていた。シュラフタがしばしば国王こくおうによる戦争せんそう計画けいかく廃案はいあんにしたことは、民主みんしゅてき平和へいわろんかんする論議ろんぎ相当そうとうするものとさえなされる。「黄金おうごん自由じゆう」システムは民主みんしゅせい立憲りっけん君主くんしゅせい連邦れんぽうせい先駆せんくてき存在そんざいとさえ評価ひょうかされることがある。共和きょうわこくの「市民しみん」たるシュラフタは、抵抗ていこうけん社会しゃかい契約けいやく個人こじん自由じゆう合意ごういもとづく政治せいじ運営うんえい独立どくりつしん尊重そんちょうといった価値かち称賛しょうさんしたが、それらは世界せかいてきれば、近代きんだいになってひろ普及ふきゅうしたリベラル民主みんしゅ政治せいじ概念がいねんである。19・20世紀せいきのリベラルな民主みんしゅ主義しゅぎしゃのように、シュラフタは国家こっか権力けんりょくたいしてつよ不安ふあんいていた。ポーランド貴族きぞく国家こっか権威けんい主義しゅぎについてはつよ反感はんかんっていた。

おそらくポーランドの「貴族きぞく民主みんしゅ主義しゅぎしゃ」にもっと人々ひとびとはヨーロッパではなく、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく(とくに南部なんぶ奴隷どれい所有しょゆうする「貴族きぞく」たちのなかにいた。奴隷どれい所有しょゆうする民主みんしゅ主義しゅぎしゃたち、そしてジョージ・ワシントントマス・ジェファソンといったアメリカ「建国けんこくちちたちは、貴族きぞく共和きょうわこく改革かいかくシュラフタたちおおくの価値かちかん共有きょうゆうしていた。近代きんだいにおいて、ポーランド・リトアニア共和きょうわこくが1791ねん世界せかいで2番目ばんめ成文せいぶん憲法けんぽうである5月3にち憲法けんぽう制定せいていしたことは、偶然ぐうぜん符合ふごうではけっしてないのである。起草きそうしゃ一人ひとりであるポーランドおうスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキも、「アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリス参考さんこうにしてさらにポーランドの事情じじょううものにした」とべている。

一方いっぽうで、黄金おうごん自由じゆう受益じゅえきしゃ貴族きぞくかぎられていて、小作農こさくのう都市としみんはそこから排除はいじょされていたという批判ひはんてき指摘してき存在そんざいする。これもアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく初期しょき歴史れきしにおいてだい土地とち所有しょゆうしゃだい商人しょうにんたちが権力けんりょく独占どくせんしたことと似通にかよっている。人口じんこうだい多数たすうめる庶民しょみん法的ほうてき自由じゆう保障ほしょうされず、貴族きぞく横暴おうぼうからまもることも出来できず(平民へいみん幸福こうふく生活せいかつおくれるかどうかはまったくかく領主りょうしゅ人徳にんとく能力のうりょく次第しだいであった)、都市とし発展はってん停滞ていたいし、地方ちほうでは農奴のうどせい一般いっぱんてきになってしまったというのである。時代じだい人々ひとびと当時とうじのポーランドをかえって、共和きょうわこくが「貴族きぞく天国てんごくユダヤじん楽園らくえん農民のうみん地獄じごく[注釈ちゅうしゃく 1]だったのだと批判ひはんてき主張しゅちょうするようになったが、この見方みかた裏付うらづける実証じっしょうてき研究けんきゅう充分じゅうぶんおこなわれているとはがた状況じょうきょうである。そして貴族きぞく階級かいきゅうであるシュラフタ自身じしんも、かれらのうちでより強大きょうだい権力けんりょくだい貴族きぞくマグナート)に従属じゅうぞくして自由じゆううばわれていった。

一方いっぽう庶民しょみんでもクラクフ大学だいがくなどの大学だいがく学位がくいったエリート貴族きぞく同様どうよう政治せいじてき権利けんりち、国政こくせい参加さんかすることができた。かれらは実家じっか裕福ゆうふく商人しょうにんであったり、自分じぶん後見人こうけんにん貴族きぞく裕福ゆうふく商人しょうにんがいたりして、その才能さいのうみとめられて大学だいがく進学しんがく外国がいこく留学りゅうがく援助えんじょけた。1791ねんポーランド共和きょうわこく憲法けんぽう作成さくせいしたグループの中心ちゅうしん人物じんぶつ一人ひとりポーランド科学かがくアカデミー前身ぜんしんとなるポーランド科学かがくともかい創設そうせつしたスタニスワフ・スタシツなどはそういった場合ばあいたる。

ポーランド・リトアニア共和きょうわこく国家こっかとしてののこりに失敗しっぱいしたため、極端きょくたん場合ばあい共和きょうわこく徹底てっていした自由じゆう主義しゅぎかえって「内戦ないせん侵略しんりゃく国家こっか弱体じゃくたい優柔不断ゆうじゅうふだん愛国心あいこくしん欠乏けつぼう」をまねいたといういちめんてき非難ひなんける。絶対ぜったい主義しゅぎ国民こくみん国家こっか同化どうか政策せいさく制度せいど)という、民主みんしゅ主義しゅぎ対抗たいこうする「(当時とうじ感覚かんかくで)近代きんだいてき」な政治せいじシステムの建設けんせつもとめられたさい有力ゆうりょくしゃたちの何人なんにんかがつね自由じゆう至上しじょう主義しゅぎリバタリアニズム)にかかわったため、共和きょうわこく改革かいかく反対はんたいの「自由じゆう」の発露はつろである「リベルム・ヴェト」の行使こうしかえしながら、国家こっか機能きのう麻痺まひさせて徐々じょじょ衰退すいたいつづけ、自由じゆうぎた政府せいふ状態じょうたい瀬戸際せとぎわまでいやられた。イギリス歴史れきし学者がくしゃノーマン・ディヴィス指摘してきするように、ポーランド社会しゃかいなに世紀せいきものあいだ性善説せいぜんせつと、それにもとづいたリベルム・ヴェト制度せいどのもとで民主みんしゅ主義しゅぎ文化ぶんか主義しゅぎ追求ついきゅうをしていたことは、巨大きょだいする領域りょういき国家こっか同士どうしたたか弱肉強食じゃくにくきょうしょく時代じだいになると、リバタリアニズムを追求ついきゅうする一部いちぶ有力ゆうりょくしゃたちに悪用あくようされるようになり、国家こっか改革かいかくたいする圧倒的あっとうてき不利ふり要素ようそとなった。シュラフタのおおくは自分じぶんたち完璧かんぺき体制たいせい国家こっかんでいるとしんじていた。一部いちぶ人々ひとびと黄金おうごん自由じゆうサルマティズムという根拠こんきょ希薄きはく美学びがくうたがいをもち、個人こじん自由じゆう国家こっか近代きんだいてき発展はってんのために一部いちぶ制限せいげんすべきだというかんがえ(カント哲学てつがくてき保守ほしゅ主義しゅぎ穏健おんけん主義しゅぎ)をつようになったが、それに気付きづいた時期じきおそすぎた。「だい洪水こうずい」で外国がいこくぐん撃退げきたい成功せいこうした体験たいけんが、余計よけい改革かいかくのコンセンサス形成けいせいおくらせた。シュラフタのおおくは保守ほしゅ主義しゅぎでなくリバタリアニズム(自由じゆう至上しじょう主義しゅぎ)の影響えいきょうけて、近代きんだいてき常備じょうびぐんとその強化きょうかのためのぜい負担ふたんこばみ、シュラフタのうちとくマグナートたちはみずからの個人こじんてき利益りえき追求ついきゅうするために、しょ外国がいこく勢力せいりょくむすびついて共和きょうわこく政治せいじシステムを麻痺まひさせた。改革かいかく勢力せいりょく徐々じょじょにそのちからをつけていき、最終さいしゅうてきにはポーランド社会しゃかい圧倒的あっとうてき多数たすうとなったが、そのときすでにロシアぐん共和きょうわこく首都しゅとワルシャワせまってきていたのである。

 
タルゴヴィツァ連盟れんめい首領しゅりょうである売国奴ばいこくどスタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキ)の卑劣ひれつ恥知はじしらずな行為こうい絶対ぜったいゆるせないとして、その肖像しょうぞういちまい改革かいかく兵士へいしたちが火刑かけいにする光景こうけいワルシャワ、1794ねん)。 ヤン・ピョトル・ノルブリン

こういう既得きとく権益けんえき有力ゆうりょくしゃたちによるジェレミ・ベンサムてき偏狭へんきょう功利こうり主義しゅぎにもとづいたリバタリアニズム自由じゆう至上しじょう主義しゅぎ)の横行おうこうにより、共和きょうわこく着々ちゃくちゃく軍事ぐんじりょくおよび能率のうりつせい(つまり官僚かんりょうせい)を構築こうちくしていく近隣きんりん諸国しょこく対抗たいこうすることが出来できなくなっていったあげく、ポーランドをねらしょ外国がいこく野心やしん標的ひょうてきになったのである。そして18世紀せいき後半こうはん共和きょうわこくのリバタリアンたちはタルゴヴィツァという都市とし集結しゅうけつしてかれらの政治せいじ連盟れんめいである「タルゴヴィツァ連盟れんめい」をつくり、共和きょうわこく大改革だいかいかくながれに頑強がんきょう抵抗ていこうし、こともあろうにロシアと結託けったくしワルシャワの中央ちゅうおう政府せいふたいして武力ぶりょく反乱はんらんこした。かれらはロシアからかれ個人こじん個人こじんの「自由じゆう」と「財産ざいさんけん」、すなわち租税そぜい免除めんじょ私有地しゆうち保全ほぜん保障ほしょうされたのである。「タルゴヴィツァの売国奴ばいこくど」とばれたリバタリアン(自由じゆう至上しじょう主義しゅぎしゃ)・ユーティリタリアン(功利こうり主義しゅぎしゃ)たちは祖国そこくポーランドよりもみずからの個人こじんてき経済けいざいてき利害りがい優先ゆうせんした。このためポーランド社会しゃかい完全かんぜん疲弊ひへいしてしまい、民間みんかん財政ざいせいはまだ比較的ひかくてき裕福ゆうふくだったものの国家こっか財政ざいせい破産はさんちか状態じょうたいとなり、近隣きんりん絶対ぜったい主義しゅぎ諸国しょこくによる領土りょうど分割ぶんかつによって民主みんしゅ主義しゅぎ民族みんぞく主義しゅぎ国家こっか「ポーランド」そのものがうしなわれてしまったのである。

リバタリアン勢力せいりょくである「タルゴヴィツァの売国奴ばいこくど」たちは、ロシアから提供ていきょうされたはずの政治せいじてき自由じゆう個人こじん財産ざいさん保全ほぜん保障ほしょうはロシアによる政治せいじてき方便ほうべんぎなかったことを、祖国そこく共和きょうわこく分割ぶんかつ消滅しょうめつされ、ロシアへいがやってきて自分じぶんたちの領地りょうち勝手かって略奪りゃくだつするようになってからはじめてづいたのである。かれらの自由じゆう財産ざいさん保全ほぜん保障ほしょうされることがなく、すべてツァーリ一存いちぞんしたはいることになってしまった。現代げんだいのポーランドで「タルゴヴィツァの連中れんちゅう(タルゴヴィチャニンtargowiczanin)」といえばおろもの売国奴ばいこくど無責任むせきにん自分勝手じぶんがって代名詞だいめいしとなっている。

一方いっぽう当時とうじ改革かいかく勢力せいりょくやその穏健おんけん主義しゅぎ思想しそういだ人々ひとびとはポーランド分割ぶんかつ時代じだいつうじて国民こくみん活動かつどうつづけ、のポーランドの発展はってん思想しそうてき原動力げんどうりょくのひとつとなっていった。

類似るいじしたシステム 編集へんしゅう

黄金おうごん自由じゆう」は、どう時代じだい世界せかいにはめずらしいあるしゅ民主みんしゅ主義しゅぎによる国家こっか体制たいせい出現しゅつげんさせたが、ヴェネツィア共和きょうわこくのような都市とし国家こっか政治せいじシステムといくらか類似るいじした部分ぶぶんがあった。興味深きょうみぶかいことに両者りょうしゃは「もっと静穏せいおんなる共和きょうわこく」を自称じしょうしていた。ポーランドの政治せいじ制度せいどにおける最大さいだいの(かつ当時とうじとしては唯一ゆいいつともえる)欠陥けっかんであったリベルム・ヴェト採用さいようしなかったイタリア都市とし国家こっかはポーランドと運命うんめいをたどらずにんだ。フランスとスペイン、そしてローマ教皇きょうこうは、イタリアを分割ぶんかつするという議論ぎろんはいることが出来できなかった。これらの国々くにぐには、サルデーニャ王国おうこく1861ねんにイタリアを統一とういつして国民こくみん国家こっか創設そうせつするまでバラバラに存在そんざいしていた。

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ このような見方みかたは、現代げんだいとくに20世紀せいきちゅうごろに共産きょうさん主義しゅぎ思想しそう文化ぶんか闘争とうそう以後いごのドイツや独立どくりつ前後ぜんこうリトアニアなどでたかまった国粋こくすい主義しゅぎによるはんポーランド思想しそうシオニズム代表だいひょうされるユダヤじん社会しゃかい民族みんぞく運動うんどう発展はってんどう時期じき平行へいこうしてこったものである。じつは「貴族きぞく天国てんごく、ユダヤじん楽園らくえん農民のうみん地獄じごく」の言葉ことば当時とうじのポーランドのものでなく、20世紀せいきドイツのユダヤじん小説しょうせつアルフレッド・デブリン(Alfred Döblin)がその著書ちょしょ『Reise in Polen』のなかしたもので、そういった一個人いっこじん見方みかたただしいのかどうかがまったく吟味ぎんみされることなく一人ひとりあるきし勝手かってに「有名ゆうめい言葉ことば」としてひろまったものである。実際じっさいのところ、他国たこくとの比較ひかくれば、たとえばおおくのロシアじん農民のうみんモスクワ大公たいこうこくにおける領主りょうしゅたちの苛烈かれつ搾取さくしゅえかねてし、難民なんみんとなって当時とうじのポーランドにやってきて安住あんじゅう見出みいだした事実じじつがあり、このことからも当時とうじのポーランドが「農民のうみん地獄じごく」だったとはとてもいがたい。Nicholas Valentine Riasanovsky (2000). A History of Russia. Oxford University Press. ISBN 0195121791  Googleブック

外部がいぶリンク 編集へんしゅう