「スタニスワフ・アウグストの国王 こくおう 選出 せんしゅつ 」(ベルナルド・ベッロット 画 が 、1778年 ねん )
ブジェシチ 近郊 きんこう のヴォウチン (Wołczyn )に生 う まれた。元 もと の名前 なまえ はスタニスワフ・アントニ・ポニャトフスキ(Stanisław Antoni Poniatowski)といった。
父 ちち スタニスワフ・ポニャトフスキ 伯爵 はくしゃく は啓蒙 けいもう 主義 しゅぎ 者 しゃ で、チャルトリスキ家 か の指導 しどう する党派 とうは 「ファミリア 」の一員 いちいん として頭角 とうかく をあらわした。1752年 ねん 、20歳 さい になったばかりのスタニスワフは国会 こっかい 議員 ぎいん に当選 とうせん し、その雄弁 ゆうべん さによって注目 ちゅうもく を集 あつ めた。スタニスワフが若 わか くして国政 こくせい に進 すす むことが出来 でき たのは、共和 きょうわ 国 こく でも最 さい 有力 ゆうりょく の貴族 きぞく 家門 かもん の一 ひと つであるチャルトリスキ家 か の伯父 おじ たち、ミハウ・フリデリク・チャルトリスキ 公爵 こうしゃく とアウグスト・アレクサンデル・チャルトリスキ 公爵 こうしゃく の支援 しえん に負 お うところが大 おお きかった。
1755年 ねん 、スタニスワフは伯父 おじ たちのおかげでリトアニア大膳 だいぜん 官 かん の地位 ちい を手 て に入 い れ、ロシア駐在 ちゅうざい のイギリス大使 たいし サー・チャールズ・ハンバリー・ウィリアムズ (英語 えいご 版 ばん ) の秘書 ひしょ としてサンクトペテルブルク に赴任 ふにん した。スタニスワフはエリザヴェータ 女帝 にょてい と宰相 さいしょう アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン 伯爵 はくしゃく の覚 おぼ えもよく、ザクセン 公使 こうし としてロシア宮廷 きゅうてい に出入 でい りする資格 しかく を得 え た。
スタニスワフはロシア宮廷 きゅうてい で後 のち に女帝 にょてい エカチェリーナ2世 せい となるエカチェリーナ・アレクセーエヴナ大公 たいこう 妃 ひ と知 し り合 あ った。エカチェリーナはこのハンサムで有能 ゆうのう な若 わか いポーランド貴族 きぞく に入 い れ込 こ み、他 た の愛人 あいじん たちをすべて捨 す ててしまうほどだった。スタニスワフとエカチェリーナとの間 あいだ には娘 むすめ のアンナ (ロシア語 ご 版 ばん 、ポーランド語 ご 版 ばん ) まで生 う まれたが、スタニスワフは1759年 ねん 、ロシア宮廷 きゅうてい の陰謀 いんぼう 事件 じけん に巻 ま き込 こ まれて帰国 きこく せざるを得 え なくなった。
1762年 ねん 、ロシア宮廷 きゅうてい でのクーデター (ロシア語 ご 版 ばん ) によってエカチェリーナ2世 せい が即位 そくい し、その直後 ちょくご にポーランドでアウグスト3世 せい が没 ぼっ すると、女帝 にょてい は元 もと 愛人 あいじん のスタニスワフを王位 おうい につけてポーランドへの影響 えいきょう 力 りょく を強 つよ めようとした。派遣 はけん されたロシア軍 ぐん を後 うし ろ盾 たて にしたチャルトリスキ家 か の「ファミリア」がクーデタによって政権 せいけん 与党 よとう となり、1764年 ねん 9月 がつ 7日 にち に32歳 さい のスタニスワフがワルシャワ郊外 こうがい のヴォーラ でポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の国王 こくおう に選出 せんしゅつ された。スタニスワフは先代 せんだい の2人 ふたり の国王 こくおう の名前 なまえ を採 と って「スタニスワフ・アウグスト 」と名乗 なの った。また一部 いちぶ の人々 ひとびと からは、ポニャトフスキ家 か の紋章 もんしょう に由来 ゆらい する「雄 お 牛 うし 」(Ciołek)というあだ名 な で呼 よ ばれていた。
バール連盟 れんめい に誘拐 ゆうかい されるスタニスワフ・アウグスト
スタニスワフの戴冠 たいかん 式 しき は1764年 ねん 11月25日 にち にワルシャワ で執 と り行 おこな われた。国王 こくおう の伯父 おじ たちは、アウグスト・アレクサンデル の息子 むすこ アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ を国王 こくおう にしたいと考 かんが えていたが、アダム・カジミェシュ本人 ほんにん が辞退 じたい してしまっていた。チャルトリスキ家 か はスタニスワフが自分 じぶん たちをないがしろにして国政 こくせい を運営 うんえい していくことをよく思 おも わなかった。スタニスワフは「ファミリア」の改革 かいかく 構想 こうそう を基本 きほん にした経済 けいざい 改革 かいかく に着手 ちゃくしゅ したものの、1766年 ねん に伯父 おじ たちと決裂 けつれつ した後 のち は改革 かいかく は進 すす まなかった。
スタニスワフの即位 そくい 後 ご 、ロシアのポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく に対 たい する内政 ないせい 干渉 かんしょう は強 つよ まった。1768年 ねん 、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく は法的 ほうてき にロシア帝国 ていこく の保護 ほご 国 こく になった。保護 ほご 国 こく 化 か に反対 はんたい する貴族 きぞく たちはバール連盟 れんめい を結成 けっせい し、フランス やオスマン帝国 ていこく の支援 しえん を得 え てロシア軍 ぐん との戦 たたか いを始 はじ めた。バール連盟 れんめい は1770年 ねん 10月 がつ に親 しん ロシア派 は のスタニスワフを国王 こくおう と認 みと めないと宣言 せんげん したため、スタニスワフはロシア軍 ぐん に対 たい する支持 しじ を貫 つらぬ いた。翌 よく 1771年 ねん 、スタニスワフは連盟 れんめい の参加 さんか 者 しゃ たちによってワルシャワ郊外 こうがい で一時 いちじ 的 てき に誘拐 ゆうかい され、軟禁 なんきん 状態 じょうたい におかれている。
1772年 ねん 、スタニスワフの抗議 こうぎ もむなしく第 だい 一 いち 次 じ ポーランド分割 ぶんかつ が行 おこな われ、共和 きょうわ 国 こく の領土 りょうど ・人口 じんこう のおよそ3分 ぶん の1が失 うしな われた。国王 こくおう はマグナート たちの容赦 ようしゃ のない非 ひ 協力 きょうりょく 的 てき な態度 たいど に直面 ちょくめん して、何 なん の対策 たいさく も講 こう じられなかった。こうした状況 じょうきょう にあって、スタニスワフは領土 りょうど 分割 ぶんかつ の黒幕 くろまく であるロシア大使 たいし オットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルク 伯爵 はくしゃく (Otto Magnus von Stackelberg )に依存 いぞん せざるを得 え なくなっていった。
ヤン・マテイコ による肖像 しょうぞう 画 が
一方 いっぽう で、スタニスワフは文化 ぶんか や教育 きょういく に関 かん する政策 せいさく では共和 きょうわ 国 こく に大 おお きく貢献 こうけん していた。国王 こくおう は1765年 ねん に騎士 きし 学校 がっこう (School of Chivalry )を創設 そうせつ した。同校 どうこう は共和 きょうわ 国 こく に奉仕 ほうし するエリートの育成 いくせい を目指 めざ すもので、タデウシュ・コシチュシュコ らを輩出 はいしゅつ した。また1773年 ねん 、スタニスワフは世界 せかい で最初 さいしょ の国家 こっか 教育 きょういく 省 しょう である国民 こくみん 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい (Commission of National Education )を設立 せつりつ している。スタニスワフはすでに1765年 ねん から、ポーランドにおける啓蒙 けいもう 主義 しゅぎ を牽引 けんいん する週刊 しゅうかん 新聞 しんぶん 『モニトル 』(Monitor )紙 し を発行 はっこう していた。国王 こくおう 主催 しゅさい の木曜 もくよう 晩餐 ばんさん 会 かい (Thursday dinners )は、首都 しゅと における最 もっと も重要 じゅうよう なサロン の一 ひと つだったし、またワルシャワ国立 こくりつ 劇場 げきじょう (National Theater, Warsaw )を設立 せつりつ したのも彼 かれ であった。
1783年 ねん ないし1784年 ねん 、スタニスワフは愛人 あいじん エルジュビェタ・グラボフスカ (Elżbieta Grabowska )と秘密 ひみつ 結婚 けっこん した。エルジュビェタは元 もと はヤン・イェジ・グラボフスキという貴族 きぞく の妻 つま であったが、秘密 ひみつ 結婚 けっこん の前 まえ にスタニスワフとの間 あいだ に何人 なんにん かの子供 こども をもうけていた。
1788年 ねん から1792年 ねん まで開催 かいさい された4年 ねん 議会 ぎかい では、スタニスワフはそれまで対立 たいりつ していた愛国 あいこく 派 は の人々 ひとびと と手 て を組 く むようになり、両者 りょうしゃ は協力 きょうりょく して1791年 ねん 、「5月3日 にち 憲法 けんぽう 」の制定 せいてい にこぎ着 つ けた。憲法 けんぽう の制定 せいてい 過程 かてい で、共和 きょうわ 国 こく の世襲 せしゅう 王制 おうせい への移行 いこう が決 き まると、スタニスワフは自分 じぶん の一族 いちぞく をポーランドの世襲 せしゅう 王家 おうけ にしようと考 かんが えたが実現 じつげん せず、先代 せんだい の国王 こくおう アウグスト3世 せい の孫 まご であるザクセン選 せん 帝 みかど 侯 こう フリードリヒ・アウグスト が王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ に選 えら ばれた。
1797年 ねん の肖像 しょうぞう 画 が
まもなく、憲法 けんぽう の廃棄 はいき を求 もと めるタルゴヴィツァ連盟 れんめい が結成 けっせい された。連盟 れんめい はエカチェリーナ2世 せい に協力 きょうりょく を要請 ようせい し、1792年 ねん 5月 がつ にロシア軍 ぐん はポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国内 こくない に進軍 しんぐん し、ポーランド・ロシア戦争 せんそう が開始 かいし された。スタニスワフがフーゴ・コウォンタイ (Hugo Kołłątaj )らの助言 じょげん を受 う け入 い れてタルゴヴィツァ連盟 れんめい に参加 さんか すると、ポーランド国王 こくおう 軍 ぐん の士気 しき は衰 おとろ え、それまで国王 こくおう 軍 ぐん を指揮 しき してきたタデウシュ・コシチュシュコ や国王 こくおう の甥 おい ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ 公爵 こうしゃく による奮戦 ふんせん も無駄 むだ に終 お わってしまった。戦争 せんそう はポーランド側 がわ の敗北 はいぼく に終 お わり、新 しん 憲法 けんぽう は廃止 はいし され、翌 よく 1793年 ねん にはロシアとプロイセンによる第 だい 二 に 次 じ ポーランド分割 ぶんかつ が敢行 かんこう された。
1795年 ねん 10月 がつ 24日 にち 、第 だい 三 さん 次 じ ポーランド分割 ぶんかつ が行 おこな われると同時 どうじ に、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく は消滅 しょうめつ した。1ヶ月 かげつ 後 ご の11月25日 にち 、スタニスワフは強制 きょうせい 的 てき に退位 たいい させられた。スタニスワフはサンクトペテルブルクへと居 きょ を移 うつ し、半 なか ば監視 かんし 状態 じょうたい に置 お かれながら、ロシア政府 せいふ から多額 たがく の年金 ねんきん を支給 しきゅう されて余生 よせい を送 おく った。
1938年 ねん 、スタニスワフの遺骸 いがい は生地 きじ であるヴォウチンの教会 きょうかい に運 はこ ばれ、さらに1995年 ねん 、ワルシャワの聖 ひじり ヤン大 だい 聖堂 せいどう (St. John's Cathedral, Warsaw )に移 うつ された。そこは1791年 ねん 5月 がつ 3日 にち 、彼 かれ が自 みずか ら起草 きそう した憲法 けんぽう の発布 はっぷ を祝福 しゅくふく した場所 ばしょ である。