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サルマタイ - Wikipedia

サルマタイ

ウラル南部なんぶから黒海こっかい北岸ほくがんにかけて活動かつどうしたイランけい遊牧民ゆうぼくみん(ぜん4世紀せいき-4世紀せいき)
サルマタイじんから転送てんそう

サルマタイギリシア:Sarmatai、ラテン語らてんご:Sarmatae、英語えいご:Sarmatians)は、紀元前きげんぜん4世紀せいきから紀元きげん4世紀せいきにかけて、ウラル南部なんぶから黒海こっかい北岸ほくがんにかけて活動かつどうしたイランけい遊牧民ゆうぼくみん集団しゅうだん紀元前きげんぜん7世紀せいきすえからウラル南部なんぶにいたサウロマタイ紀元前きげんぜん4世紀せいきころ東方とうほうから移動いどうしてきた遊牧民ゆうぼくみんくわわって形成けいせいされたとされる[1]。サルマタイはギリシアであり、ラテン語らてんごではサルマタエとなる。また、かれらのいた黒海こっかい北岸ほくがん地域ちいきをそのにちなんでサルマティアとぶため、サルマティアじんともばれる。

紀元前きげんぜん1世紀せいきころ黒海こっかい周辺しゅうへんしょぞく

構成こうせい部族ぶぞく

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ストラボン紀元前きげんぜん65ねん - 25ねん)によると、サルマタイは以下いか部族ぶぞくかれていたという。

また、時代じだいにはアランじんもこれにくわえられる。 [2][1]

サウロマタイとサルマタイ

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サルマタイのはじめて登場とうじょうするのは紀元前きげんぜん4世紀せいきのギリシアの著作ちょさくである。それ以前いぜんヘロドトスなどにしるされたように、サウロマタイという名前なまえのよく民族みんぞく登場とうじょうしていた。サウロマタイはサルマタイの直接ちょくせつ祖先そせんとされ、考古学こうこがくてきにはドンがわから西にしカザフスタンにいたるまでの地域ちいきにおける紀元前きげんぜん7世紀せいきから紀元前きげんぜん4世紀せいき文化ぶんかをサウロマタイ文化ぶんかとし、それにつづ文化ぶんかをサルマタイ文化ぶんか紀元前きげんぜん4世紀せいき - 紀元前きげんぜん2世紀せいき)としている。[3]

ヘロドトスによるとサウロマタイはウラルがわからヴォルガがわ流域りゅういき草原そうげん地帯ちたい遊牧ゆうぼくいとなんでいたが、ヒッポクラテスしるしたように紀元前きげんぜん5世紀せいきすえになるとマイオティスアゾフうみ周辺しゅうへん移住いじゅうしていた。紀元前きげんぜん4世紀せいき中葉ちゅうようになると、クニドスのエウドクソスはタナイスがわ(ドンがわ)にむシュルマタイ(syrmatai)というサウロマタイけい部族ぶぞく記録きろくし、カリュアンダのスキュラクスもタナイスがわ(ドンがわ)にシュルマタイの存在そんざいしるし、サウロマタイのいち集団しゅうだんとした。しかし、フィリッポフカ古墳こふん発掘はっくつ調査ちょうさによると、紀元前きげんぜん5世紀せいきまつまでにウラル川中かわなか流域りゅういきでサルマタイの勢力せいりょく増大ぞうだいしていたことがあきらかとなる。[4]

サルマタイのスキティア侵略しんりゃく

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サルマタイのスキティア侵略しんりゃくについては様々さまざま史料しりょう断片だんぺんてき記録きろくされているが、ヘロドトスとうしるされているスキタイほど詳細しょうさい史料しりょう存在そんざいしない。しかしながら、紀元前きげんぜん4世紀せいきまつにはサルマタイしょ部族ぶぞくがサウロマタイにわってドンがわせまり、そのうちのシラケスぞくボスポロス王国おうこく権力けんりょく闘争とうそうふか関与かんよしてクバンがわ流域りゅういき支配しはいいたという。ときスキタイだいスキタイ国家こっか)は紀元前きげんぜん339ねんのアテアス(アタイアス)おう死後しごから弱体じゃくたいし、紀元前きげんぜん3世紀せいきにはドンがわえて侵攻しんこうしてきたサルマタイによって征服せいふくされてしまう。以降いこう、この地域ちいきはスキタイのスキティアからサルマタイのサルマティアとばれるようになった。サルマタイは黒海こっかい北岸ほくがん征服せいふくすると、そこにあったギリシア植民しょくみんにも侵略しんりゃくし、自由じゆうみんたちを捕虜ほりょにしてりさばいた。サルマタイから圧迫あっぱくされたスキタイはクリミア半島くりみあはんとうまれ、だいさんスキタイ国家こっか形成けいせいした。その地域ちいきしょうスキティアとばれた。[5]

ポントス・ボスポロス王国おうこく従軍じゅうぐん

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ポントスボスポロスおうパルナケス在位ざいい紀元前きげんぜん63ねん - 紀元前きげんぜん47ねん)がローマたたかうことになったため、シラケスおうのアベアコスは騎兵きへい2まん、アオルソイおうのスパディネスは20まん高地たかちアオルソイぞくはさらにそれ以上いじょう騎兵きへいおくって従軍じゅうぐんさせた。[6]

パルティアとローマのたたか

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アルメニア王国おうこく地図ちず

35ねんパルティアおうアルタバヌス2せい在位ざいい10ねんごろ - 38ねん)の王位おうい不満ふまんったパルティア貴族きぞくマ帝国まていこく支援しえんもとめた。ローマのティベリウスみかど在位ざいい14ねん - 37ねん)は援軍えんぐん派遣はけんするとともにティリダテス3せいあらたなパルティアおうえ、前年ぜんねんにアルタバヌス2せいうばったアルメニア王国おうこくかえした。このたたかいでサルマタイは両方りょうほうがわにかりされ、たがいにそうってアルメニア奪還だっかん貢献こうけんした。[7]

ボスポロスとローマのたたか

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ボスポロス王国おうこく位置いち

ボスポロス王国おうこくのミトリダーテス(在位ざいい41ねん - 45ねん)は王位おういおとうとコチュスうばわれて以来いらい各地かくち彷徨ほうこうっていたが、ボスポロス王国おうこくからローマの将軍しょうぐんディーディウスとその精兵せいびょう撤退てったいし、王国おうこくにはコチュス(在位ざいい:45ねん - 62ねん)とローマ騎士きしユーリウス・アクィラのひきいる少数しょうすう援軍えんぐんしかのこっていないことをった。ミトリダーテスはにん指揮しきしゃくびって部族ぶぞく煽動せんどうして離反りはんうながし、軍勢ぐんぜいあつめてダンダリカぞくおう放逐ほうちくし、その王国おうこく掌中しょうちゅうおさめた。これをいたアクィラとコチュスは、自分じぶんらだけの手勢てぜい自信じしんてなかったため、アオルシーぞく強力きょうりょく支配しはいしゃであったエウノーネスに使節しせつおくり、同盟どうめい条約じょうやくむすんだ。[8]

りょうぐん合同ごうどうして縦隊じゅうたいをつくり、進軍しんぐん開始かいしした。前部ぜんぶ後尾こうびはアオルシーぞくが、中央ちゅうおうはローマの援軍えんぐんとローマふう装備そうびしたボスポロスの部族ぶぞくかためる。こうした隊形たいけいてき撃退げきたいしながら、ダンダリカ王国おうこくくび邑ソザにたっした。すでにミトリダーテスがこのまち放棄ほうきしていたため、ローマぐん予備よびたいのこしてかんすることにした。ついでシラキーぞく領地りょうち侵入しんにゅうし、パンダかわわたり、くび邑ウスペを包囲ほういした。このまちおかてられ、城壁じょうへきほりまもられていたが、城壁じょうへきいしではなく、やなぎ細工ざいくえだ細工ざいくかさねたものにをつめただけのものであったため、突破とっぱするのにさほど時間じかんがかからなかった。包囲ほういぐんかべよりたかろうきずき、そこから松明たいまつやりみ、てき混乱こんらんおとしいれた。[9]

翌日よくじつ、ウスペのまち使節しせつおくってきて「自由じゆうみんいのち保証ほしょうしてくれ」と嘆願たんがんし、奴隷どれいいちまんにん提供ていきょうしようとした。ローマぐんはこのもうことわり、殺戮さつりく号令ごうれいくだした。ウスペの町民ちょうみん潰滅かいめつは、付近ふきん人々ひとびと恐怖きょうふのどんぞこおとしいれた。シラキーぞくおうゾルシーネスはミトリダーテスの絶体絶命ぜったいぜつめいすくってやろうか、それとも父祖ふそ伝来でんらい王位おうい維持いじしようかと、ながあいだかんがえあぐねた。つい自分じぶん部族ぶぞく利益りえきって、人質ひとじち提供ていきょうし、カエサルぞうしたにひれした。こうしてローマぐんはタナイスかわ出発しゅっぱつして以来いらいさん日間にちかん行軍こうぐんいちてきうしなわずに勝利しょうりることができた。しかしその帰途きとうみ帰航きこうしていたいくそうかのふねが、タウリーぞく海岸かいがんげられ、その蛮族ばんぞく包囲ほういされ、援軍えんぐん隊長たいちょうとそのへいがたくさんころされた。[10]

ミトリダーテスは自分じぶん軍隊ぐんたいすこしもたよれなくなり、アオルシーぞくのエウノーネスにろうとした。ミトリダーテスは服装ふくそう外見がいけん現在げんざい境遇きょうぐうにできるだけつかわしく工夫くふうし、エウノーネスの王宮おうきゅうおもむいた。[11]

エウノーネスは盛名せいめいをはせたこのひと運命うんめいわりかたと、そしていまもなお尊厳そんげんうしなわぬ哀訴あいそにひどくしんうごかされた。そして嘆願たんがんしゃ気持きもちをなぐさめ、ローマの恩赦おんしゃうために、アオルシーぞくとそのおう誠意せいいえらんだことに感謝かんしゃした。さっそくエウノーネスは使節しせつつぎのような文書ぶんしょをカエサルのところおくった。「ローマの最高さいこう司令しれいかんらと偉大いだい民族みんぞくおうたちの友情ゆうじょうは、まず地位ちい相似そうじからまれている。とクラウディウスはそのうえ勝利しょうりけあっている。戦争せんそう恩赦おんしゃわるときはいつも、その終結しゅうけつかがやかしい。このようにして、征服せいふくされたゾルシーネスはなにも剥奪はくだつされなかった。なるほどミトリダーテスはさらにきびしいばっあたいする。かれのため権力けんりょく王位おうい復活ふっかつねがうのではない。ただかれ凱旋がいせんしきしたり、斬首ざんしゅらしめたりしないようにとねがうだけである。」[12]

ウァンニウスに従軍じゅうぐんするイアジュゲスぞく

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かつてローマのドルスス・カエサルスエビぞく王位おういえていたウァンニウス内紛ないふんによって放逐ほうちくされたため、ウァンニウスはローマに支援しえんもとめた。しかし、クラウディウスみかど在位ざいい41ねん - 54ねん)は蛮族ばんぞく同士どうしあらそいにぐん派遣はけんしたくなかったので、戦闘せんとうはせず、最低限さいていげんぐん川岸かわぎし配備はいびするのみで、ウァンニウスには避難ひなんしょあたえてやった。ウァンニウスにはかれ部族ぶぞく(クァディーぞく)の歩兵ほへいとサルマタイのイアジュゲスぞく騎兵きへい味方みかたとなった。てきヘルムンドゥリーぞくルギイーぞくなどかずおおく、太刀打たちうちできないとおもったウァンニウスはとりでにこもって籠城ろうじょうせんもうとした。しかし、てき包囲ほういにたまりかねたイアジュゲスぞくってたため、ウァンニウスも羽目はめになり敗北はいぼくきっした。[13]

アランの登場とうじょう

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1世紀せいきになると文献ぶんけんからアオルシ(アオルソイ)のえ、わってアランという遊牧民ゆうぼくみん強大きょうだいとなる。このことは漢文かんぶん史料しりょうにもしるされており、「奄蔡こくおもねらん改名かいめいす」とある。この奄蔡はアオルシにおもねらんはアランに比定ひていされている。考古学こうこがくてきには2世紀せいきから4世紀せいきにおける黒海こっかい北岸ほくがん文化ぶんか後期こうきサルマタイ文化ぶんかんでいるが、この文化ぶんかになはアランであるとされる。アランについて4世紀せいき後半こうはんのローマ軍人ぐんじんアンミアヌス・マルケリヌスは「かれらはいえたず、くわ使つかおうともせず、にく豊富ほうふちち常食じょうしょくとする」としるしている。[14]

のちにアランはきたカフカスから黒海こっかい北岸ほくがん地方ちほう支配しはいし、その一部いちぶパンノニアフンぞく起因きいんする民族みんぞく移動いどうドナウがわ流域りゅういきからきたイタリアに侵入しんにゅうし、一部いちぶガリア入植にゅうしょくした。さらにその一部いちぶバルバロイ統治とうちするためローマじんによってブリテンとう派遣はけんされた。また、その一部いちぶイベリア半島はんとう通過つうかしてきたアフリカにまで到達とうたつした。アランよりまえにパンノニアに進出しんしゅつし、ローマじんによってブリテンとう防衛ぼうえい派遣はけんされたイアジュゲスぞくもブリテンとうにサルマタイ文化ぶんか痕跡こんせきのこした。[15]

考古学こうこがくによるサルマタイ文化ぶんか

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古墳こふん特徴とくちょう

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サルマタイの遺跡いせきていたいら墳丘ふんきゅう古墳こふんである。埋葬まいそう儀礼ぎれいおおきな特徴とくちょうはポドボイである。被葬ひそうしゃはそのはかしつ仰臥ぎょうが伸展葬しんてんそうみなみまくらほうむられた。また、サウロマタイと同様どうよう地下ちかしき横穴よこあなや、プラン方形ほうけいあるいは楕円だえんがた竪穴たてあなられているが、サウロマタイと比較ひかくしてはかしつはか壙はちいさい。竪穴たてあなでははか壙のえんひくだんつくられた片付かたづはか時折ときおりられるが、その場合ばあい古墳こふん主体しゅたいであるという。竪穴たてあな天井てんじょう丸太まるたいた樹皮じゅひなどでおおわれた。おおきなはか壙の場合ばあいは、天井てんじょう構造こうぞう複雑ふくざつになり、羨道せんどうともなうものもある。方形ほうけいはか壙では被葬ひそうしゃはか壙の対角線たいかくせんじょう安置あんちされていた。このような対角線たいかくせん埋葬まいそう紀元前きげんぜん5世紀せいきのサウロマタイで若干じゃっかんられていたが、サルマタイ時代じだいにとくに発達はったつした儀礼ぎれいである。また、はか壙床めん白亜はくあ散布さんぷされるれいられている。副葬品ふくそうひんとしては、特徴とくちょうてきまるそこ土器どき青銅せいどうせい鏃、長剣ちょうけんおよび短剣たんけんなどがあり、前肢ぜんしともなおすひつじにく死者ししゃのためにそなえられた。[16]

前期ぜんきサルマタイ時代じだい遺跡いせき

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前期ぜんきサルマタイ文化ぶんかオレンブルクしゅうプロホロフカむら古墳こふんぐん発掘はっくつによってあきらかにされたため、プロホロフカ文化ぶんかばれる。プロホロフカ文化ぶんか紀元前きげんぜん4世紀せいきにはまだみなみウラル地方ちほう分布ぶんぷ中心ちゅうしんがあったが、どう世紀せいきまつまでにヴォルガ・ドンがわ流域りゅういき拡大かくだいし、さらに紀元前きげんぜん3世紀せいきにはドンがわえてドニェプルがわ流域りゅういきたっしている。

ノーヴイ・クマクむら古墳こふんぐん
  • プロホロフカ文化ぶんか早期そうき埋葬まいそうであるオルスク近郊きんこうノーヴイ・クマクむら古墳こふんぐんでは、発掘はっくつされた19古墳こふんのうち、サウロマタイのものが12、サルマタイのものが4であった。サルマタイに関係かんけいづけられた12ごうふんではポドボイつくられていたが、副葬品ふくそうひんのセットはサウロマタイと同様どうようであった。しかし、プロホロフカ文化ぶんか特徴とくちょうてきまるそこつぼがたすりけん土器どきや頸部がたかどう洋梨ようなしがたふくらんだ水差みずさしがた土器どき発見はっけんされ、りょう文化ぶんか混合こんごうられた。このはかは鏃とけん形式けいしきから紀元前きげんぜん400ねんごろ比定ひていされた。地下ちかしき横穴よこあなれいとしてはメチェト・サイ8ごうふん5ごうはかがある。ながさ4.6m、はば1.7〜1.9mの羨道せんどうきたからみなみにのび、はかしつつうじていた。はかしつにはほそ木材もくざい枠組わくぐみされただい身分みぶんたか2人ふたり巫女ふじょとみなされた女性じょせいゆたかな副葬品ふくそうひんとともにならんでほうむられていた。耳飾みみかざりや腕輪うでわなどの金銀きんぎん製品せいひんにつけた右側みぎがわ女性じょせいながさ50cm、底部ていぶ直径ちょっけいが14cmのえびら左足ひだりあしいていた。えびらには10ほんのこされていた。矢柄やがら白樺しらかんばあるいはポプラせい、鏃は青銅せいどうせいであった。西側にしがわには白亜はくあかたまり貝殻かいがらがあり、その南側みなみがわ青銅せいどうせいおおきなきょうとその木製もくせいケースへん発見はっけんされた。左側ひだりがわ女性じょせいは25〜30さい年齢ねんれいで、銀製ぎんせい装飾そうしょくひんにつけていた。東側ひがしがわにはだい青銅せいどうせいきょうがあった。直径ちょっけい15.5cm。かがみしたには植物しょくぶつんでつくったもの痕跡こんせきがあり、かわ残存ざんそんしていた。かがみ鏡面きょうめんかがみ別々べつべつ鋳造ちゅうぞうされ、接合せつごうされたものである。みじか中子なかごじょう先端せんたんかってすぼまっている。かがみ中央ちゅうおうには円錐えんすいがた突起とっきがあり、その外側そとがわ断面だんめん半円はんえんがただいいちの突帯がめぐり、さらにかがみえん沿って断面だんめんたか五角形ごかっけいだいの突帯がめぐっている。中央ちゅうおうだいいちの突帯とのあいだにはじゅう同心円どうしんえんぶんがあり、だいいちだいの突帯のあいだにはしょうアジア起源きげん人物じんぶつ動物どうぶつ表現ひょうげんされた図像ずぞうがある。中央ちゅうおう突起とっきがあり、えんたかがった円形えんけいきょう前期ぜんきサルマタイ時代じだい特徴とくちょうてき形式けいしきであり、中央ちゅうおうアジアからヴォルガがわ流域りゅういきにかけてひろ分布ぶんぷした。はかは鏃によって紀元前きげんぜん4世紀せいきへんねんされている。
カリノフカむら古墳こふんぐん
  • ヴォルガ川下かわしもりゅう左岸さがんたっしたプロホロフカ文化ぶんか古墳こふんいちれいとしては、ヴォルゴグラードきた35kmに位置いちするカリノフカむら古墳こふんぐんがよくられている。発掘はっくつされた62の古墳こふんには全部ぜんぶで253埋葬まいそうおこなわれ、サウロマタイ・サルマタイ時代じだい関係かんけいづけられているものが159あった。サウロマタイ時代じだいが5前期ぜんきサルマタイ時代じだいが63中期ちゅうきサルマタイ時代じだいが60後期こうきサルマタイ時代じだいが31である。前期ぜんきへんねんされるはかはいずれも前代ぜんだい古墳こふんさい利用りようしたもので、はばせますみまる方形ほうけい竪穴たてあなはかしつひろいポドボイ入口いりくちあな横穴よこあなちょうじくがわにある地下ちかしき横穴よこあなの3型式けいしき分類ぶんるいされる。とりわけポドボイでは単独たんどくそうばかりでなく、入口いりくちあなから左右さゆうにポドボイがつくられ家族かぞく埋葬まいそうされたごうそうはかがみられた。12ごうふん28ごうはかでは入口いりくちあなから東西とうざいにそれぞれはかしつつくられていた。西側にしがわはかしつにはおくから未成年みせいねんしゃ成人せいじん男性だんせい子供こども成人せいじん女性じょせいの4たい安置あんちされていた。未成年みせいねんしゃ埋葬まいそうはポドボイの西にしかべつくられたさらにちいさなみにおこなわれていた。東側ひがしがわはかしつでは成人せいじん男性だんせい2たい埋葬まいそうされていた。被葬ひそうしゃ仰臥ぎょうが伸展葬しんてんそうあたま子供こどものぞいてはいずれも南南西なんなんせいである。はかしつ木材もくざい閉塞へいそくされ、さらにうえからくさあしそう充填じゅうてんされていた。副葬品ふくそうひんは、西側にしがわはかしつ男性だんせいにはガラスせいビーズ、おすひつじかたかぶとこつ白亜はくあ女性じょせいには青銅せいどうせい指輪ゆびわ2てんとガラスせいビーズ、つぼがた土器どきなどがそなえられていた。また、東側ひがしがわはかしつ一方いっぽう男性だんせい青銅せいどうせいきょう断片だんぺんや、鉄製てつせいナイフなど、他方たほう男性だんせい鉄製てつせい鏃などをともなっていた。かがみえんたかがった形式けいしきである。
クヴァシノ埋葬まいそう
  • アゾフうみ北岸ほくがんのクヴァシノえき発見はっけんされた埋葬まいそうでは鉄製てつせいほこ2てん鉄製てつせい銜3てんと銜留1つい出土しゅつどした。ほこクバンがわ流域りゅういきマイオタイ発見はっけんされる型式けいしき類似るいじし、銜は全体ぜんたいひねったようなねじれ文様もんようがあり、りょうはしがくるりとまるめられたまきとなる。銜留は2あなしき彎曲わんきょくしたかたちで、紀元前きげんぜん3世紀せいきまでにへんねんされている。さらにドニェプル川下かわしも流域りゅういきでは紀元前きげんぜん4〜3世紀せいきまでにへんねんされるサルマタイのはかすくなくとも5られている。それらは対角線たいかくせん埋葬まいそうや鏃などの特徴とくちょうによって判断はんだんされている。

[17]

中期ちゅうきサルマタイ時代じだい遺跡いせき

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サルマタイ文化ぶんか中期ちゅうきサルマタイ時代じだい最盛さいせいむかえた。この時代じだい文化ぶんかサラトフきたのヴォルガがわ左岸さがん位置いちするスースルィむら古墳こふんぐんにちなんでスースルィ文化ぶんかばれる。サルマタイのはかはヴォルガ川下かわしも流域りゅういきからきたカフカス、黒海こっかい北岸ほくがん、ドナウがわ流域りゅういきにいたる広範囲こうはんい分布ぶんぷする。トルコせきやザクロせきものなどを動物どうぶつ体躯たいくなどにぞうはました多色たしょく装飾そうしょく動物どうぶつ様式ようしき金製きんせい武器ぶき馬具ばぐ、ディアデム、容器ようきなどがイタリアおよびローマ辺境へんきょうしょしゅうから輸入ゆにゅうされた銀製ぎんせい容器ようきなどと一緒いっしょ発見はっけんされることがこの時代じだいおおきな特徴とくちょうである。このような資料しりょう出土しゅつどしたれいとしては、ドン川下かわしも流域りゅういき右岸うがんのホフラチ古墳こふんや、サドーヴイ古墳こふんがよくられている。とりわけサドーヴイ古墳こふん出土しゅつど多色たしょく動物どうぶつ様式ようしき金製きんせい馬具ばぐ装飾そうしょくはサルマタイばかりでなく、ピョートル大帝たいていシベリア・コレクションのなかにも類例るいれいられている。また、青銅せいどうせい鍑も多数たすう発見はっけんされている。鍑は前期ぜんきサルマタイ時代じだいからられているが、この時代じだいになると、さまざまな形態けいたいの鍑が登場とうじょうしている。主要しゅよう形式けいしきとしては、どうたまごがたで、半円はんえんがた突起とっきが3つあり、垂直すいちょくったからくちえんくちひげがたちいさな突帯が連続れんぞくするようにき、どう一番いちばんはばひろ部分ぶぶん縄目なわめした突帯がめぐるものであり、円錐えんすい台形だいけいけんだいがつくものと、けんだいがないものとがある。また動物どうぶつがたとなるものもしばしばられる。このような特徴とくちょうてき資料しりょうとくにドンがわ流域りゅういき中心ちゅうしん分布ぶんぷしており、当時とうじのサルマタイ文化ぶんか中心ちゅうしんがこの地域ちいきにあったことを示唆しさしている。一方いっぽう前期ぜんきサルマタイ時代じだい中心ちゅうしんであったみなみウラル地方ちほうではこの時代じだいにはサルマタイの埋葬まいそう減少げんしょうしており、サルマタイが全体ぜんたいてき西にし移動いどうしたことをしめしている。中期ちゅうき埋葬まいそうおおくは先行せんこうする時代じだい古墳こふん利用りようしたさい利用りようであるが、一部いちぶていたいら比較的ひかくてき小規模しょうきぼ古墳こふんきずいたものもある。埋葬まいそう儀礼ぎれい前代ぜんだいとほぼ同様どうようであるいる。墳丘ふんきゅうでは木炭もくたんはいそううまおすひつじほね検出けんしゅつされ、また時折ときおり青銅せいどうせい鍑が発見はっけんされることで、埋葬まいそうはかじょう家畜かちく生贄いけにえにして追悼ついとうえんおこなわれたことを物語ものがたっている。[18]

ソコロヴァ・モギーラ
  • ブグがわ下流かりゅう右岸うがんコヴァリョフカ郊外こうがいのソコロヴァ・モギーラは青銅器せいどうき時代じだい造営ぞうえいされた墳丘ふんきゅうだか6.4m、直径ちょっけい70mの古墳こふんであり、さまざまな時代じだいはかが26つくられていたが、墳丘ふんきゅう中央ちゅうおうつくられた3ごうはか中期ちゅうきサルマタイ時代じだいのものであった。はか壙はふかさ1.6m〜1.3m、プラン方形ほうけいで、うえから木材もくざいおおわれていた。被葬ひそうしゃは45〜50さい女性じょせいで、仰臥ぎょうが伸展葬しんてんそう西南せいなん西にしまくらにしていた。女性じょせいはさまざまなかたち金製きんせいアップリケがけられた豪華ごうか衣服いふくていた。そして螺旋らせんがたのペンダントや、金製きんせい耳飾みみかざり、3種類しゅるいの頸かざり、金製きんせい腕輪うでわ金製きんせいフィブラ、金製きんせいビーズなどの装飾そうしょくけていた。被葬ひそうしゃ頭部とうぶ左側ひだりがわには銀製ぎんせいオイコノエとカンタロス、右側みぎがわには銀製ぎんせい青銅せいどうきょう銀製ぎんせい金製きんせいわくがある木製もくせい団扇うちわ青銅せいどうせいバケツがた容器ようきなど、足元あしもと右側みぎがわには大理石だいりせきせい容器ようき、アラバスターせい容器ようきいしせい容器ようき銀製ぎんせいさじほねせいくしなど、足元あしもとには木製もくせいだんがあり、そのうえにガラスせいさら、ファイアンスせいさらほねせい団扇うちわかれていた。さらに、被葬ひそうしゃ右側みぎがわには護符ごふとみなされる遺物いぶつがまとめられていた。とくに注目ちゅうもくされるのはかがみである。鏡面きょうめん直径ちょっけいは13.3cm、かがみえんがったサルマタイに特徴とくちょうてき形式けいしきであるが、まるりされた胡座あぐらして両手りょうてかくはいゆうひげ人物じんぶつ東方とうほうてき特徴とくちょうしめす。はか金製きんせいフィブラなどにより、1世紀せいき前半ぜんはんから中葉ちゅうようへんねんされた。そしておびただしい各種かくしゅ容器ようき護符ごふ団扇うちわかがみなどの儀礼ぎれいてき資料しりょうによって、被葬ひそうしゃがサルマタイの高貴こうき巫女ふじょであったと推定すいていされている。[19]
ダーチ1ごうふん
  • ドン川下かわしもりゅうアゾフ郊外こうがいのダーチ1ごうふん耕作こうさくされて墳丘ふんきゅうたかさが0.9m、直径ちょっけいは35mが残存ざんそんしていた。墳丘ふんきゅう中央ちゅうおう位置いちする1ごうはかは3.1×3.2m、ふかさ3.3mの方形ほうけい竪穴たてあなであり、すでに攪乱かくらんけて副葬品ふくそうひんはアンフォラやガラス破片はへんなどわずかなものしかのこっていなかった。しかしながらはか壙西がわ発見はっけんされた方形ほうけいかくあなからは豪華ごうか馬具ばぐのセット、短剣たんけん半球はんきゅうがたむねかざり、鹿しかがた腕輪うでわ、が出土しゅつどした。馬具ばぐ金製きんせいかざりばん前面ぜんめんけられたうまおおい、銜留りょうはし金製きんせい象嵌ぞうがん円形えんけい小型こがたファレラが接合はぎあわされた鉄製てつせいくつわ同様どうよう楕円だえんがたのファレラ、半球はんきゅうがた金製きんせいむねかざり、しまメノウが象嵌ぞうがんされた金製きんせい大型おおがたファレラ1たいなどからなる。大型おおがたファレラのメノウのまわりをまるふう表現ひょうげんされたよこたわる4とうのライオンがいている。ライオンのももしり象嵌ぞうがんされている。そして。ライオンとライオンのあいだには大粒おおつぶのザクロせき象嵌ぞうがんされ、一方いっぽうのファレラではそこに女性じょせいぞうまれている。さらにファレラのえんにはトルコせき、ガラスの象嵌ぞうがんがめぐっている。また、メノウの頂点ちょうてんにも象嵌ぞうがんされたロゼットぶんけられている。短剣たんけんさや豪華ごうか金製きんせい装飾そうしょくばんおおわれていた。装飾そうしょくばん全体ぜんたいにわたってわしがフタコブラクダをおそ闘争とうそうぶんかえされている。柄頭つかがしらにはフタコブラクダが単独たんどく表現ひょうげんされている。さや基部きぶ先端せんたん両側りょうがわ半円はんえんがた突出とっしゅつがあり、そのうち基部きぶ左側ひだりがわのぞく3かしょ同様どうよう闘争とうそうぶん表現ひょうげんする半球はんきゅうがた突起とっきがついている。基部きぶ左側ひだりがわ突出とっしゅつにはからだ後方こうほうへよじったグリフィンが表現ひょうげんされている。動物どうぶつ体躯たいくさやえんにトルコせきとザクロせきこまかく象嵌ぞうがんされている。とくえん沿った象嵌ぞうがんはサルマタイにはめずらしいひしがたであり、トルコせき2おきにザクロせきかれている。半球はんきゅうがたむねかざりは金製きんせいで、頂点ちょうてん円形えんけい珊瑚さんご象嵌ぞうがんされ、そのまわりをトルコせきとザクロせき象嵌ぞうがんされた連続れんぞくさんかくぶんが2じゅうかこみ、四方しほう同様どうよう三角さんかくぶん文様もんようたいびてえんをめぐる同様どうよう文様もんようたい接続せつぞくしている。むねかざりのえん一方いっぽうがわ1個いっこ金製きんせいたまきが、反対はんたいがわに2たまきがそれぞれけられている。鹿しかがた腕輪うでわ金製きんせいであり、全体ぜんたい左右さゆうから2とうずつ鹿しか直列ちょくれつしてかいい、中央ちゅうおう前肢ぜんしの蹄をわせているかたちであるが、かく鹿しか頭部とうぶえだかくはそれぞれから突出とっしゅつして表現ひょうげんされたユニークなものである。鹿しかどうにはトルコせき珊瑚さんご、ガラスが象嵌ぞうがんされている。はか主体しゅたい発見はっけんされた鉄製てつせいぶくろしき鏃から1世紀せいき後半こうはんへんねんされている。4かしょ突出とっしゅつのあるけんさやはアルタイの木製もくせいさや起源きげんがあるとかんがえられるが、金製きんせい象嵌ぞうがん装飾そうしょくばん類例るいれいはアフガニスタンのティリャ・テペと北西ほくせいカフカスのゴルギッピアで発見はっけんされ、また彫像ちょうぞう表現ひょうげんされたれいとしてはパルミュラやアナトリア東部とうぶのアルサメイアでられており、広範囲こうはんい文化ぶんか関係かんけいがあったことが推測すいそくされる。[20]
ポロギむら2ごうふん1ごうはか
  • ブグ川中かわなか流域りゅういきのポロギむら2ごうふん1ごうはか青銅器せいどうき時代じだい古墳こふん中央ちゅうおうつくられた地下ちかしき横穴よこあなである。地下ちかしき横穴よこあなはウクライナのサルマタイの埋葬まいそうではまれ型式けいしきである。羨道せんどうながさ3.5m、はば2.1mで、南側みなみがわからはかしつ接続せつぞくしていた。はかしつくちいし閉鎖へいさされていた。はかしつ北西ほくせい男性だんせい被葬ひそうしゃかんほうむられていた。副葬品ふくそうひんとしては、鉄製てつせいたまきあたま短剣たんけんてつがたなてつ鏃、金製きんせいたいかざりばん2つい金製きんせい首輪くびわ動物どうぶつがた片手かたて銀製ぎんせいはいなどであった。短剣たんけんだいあかかわられたさやおさまっていた。さや上部じょうぶ金製きんせいライオンがたかざり、さらにさや中央ちゅうおうにタムガぶん金製きんせいばんき、さらに上部じょうぶ下部かぶさやの4かしょ連続れんぞくハートがたぶん金製きんせいかざりがあり、鐺には金製きんせい半球はんきゅうがたかざりが3てんついていた。多色たしょく動物どうぶつ様式ようしき装飾そうしょくされたおびかざりばん一方いっぽうの1ついかざりばん馬蹄ばていがたであるが、左右さゆうかたちはばことなったものである。かざりばん中央ちゅうおうにはライオンのような猛獣もうじゅう頭部とうぶまるりでき、その両側りょうがわからグリフィンが前肢ぜんし猛獣もうじゅう後肢あとあしつかみついている。しかしながら、猛獣もうじゅう背後はいごには両手りょうてでグリフィンの後肢あとあし鷲掴わしづかみにした人物じんぶつっている。かざりばん周囲しゅうい方形ほうけい象嵌ぞうがんがめぐっている。人物じんぶつかおまるがおながで、かみって頭頂とうちょう饅頭まんじゅうのようにまるめており、モンゴロイドてき特徴とくちょうをもっている。けんられたタムガ文様もんよう西暦せいれき70ねん〜80年代ねんだい黒海こっかい北岸ほくがんのオルビアで発行はっこうされたサルマタイおうイニスメウスの貨幣かへいられるものと同様どうようであり、はかをそれとどう時代じだいへんねんすることを可能かのうにしている。[21]
コビャコヴォ10ごうふん
  • ドン川下かわしもりゅうロストフ・ナ・ドヌー郊外こうがいのコビャコヴォ10ごうふん墳丘ふんきゅうたかさが3mの古墳こふんである。墳丘ふんきゅうにははげしくけた箇所かしょがあり、ローマの青銅せいどうせい容器ようき断片だんぺん発見はっけんされており、追悼ついとうえんおこなわれたことをしめしていた。古墳こふん中央ちゅうおうからやや南東なんとうがわ方形ほうけいはか壙があり、内部ないぶに2.5m四方しほう正方形せいほうけい槨墓しつつくられ、25〜30さい女性じょせい埋葬まいそうされていた。女性じょせいあたま赤色あかいろうすかわつくられたディアデムを、頸には多色たしょく動物どうぶつ様式ようしき金製きんせいかしじょう首輪くびわうでにも同様どうよう金製きんせい腕輪うでわ右手みぎてゆびにも金製きんせい指輪ゆびわをつけていた。ディアデムにはうす金製きんせいばんいてつくられた生命せいめい中心ちゅうしんにその両側りょうがわに3とうずつの鹿しかと2ずつのとりしょうえんぶんのアップリケがけられていた。首輪くびわは、長髪ちょうはつゆうひげ長剣ちょうけんひざ戦士せんし座像ざぞう中心ちゅうしんにして、両側りょうがわししあたまよろい空想くうそうてきな3にん人物じんぶつがグリフィンと闘争とうそうする表現ひょうげんされている。人物じんぶつみみよろい、グリフィンのあごみみあしどうももつばさなどにトルコせき象嵌ぞうがんされていた。腕輪うでわにはグリフィンが連続れんぞくして表現ひょうげんされ、ももつめなどのトルコせきとザクロせき象嵌ぞうがんされていた。また、指輪ゆびわにはしずくがたもの2象嵌ぞうがんされていた。女性じょせい衣服いふくにはロゼットぶんなどのアップリケが多数たすうけられていた。おも副葬品ふくそうひんとしては表面ひょうめん石膏せっこう塗布とふされた木製もくせいぶたづけしょうばこ多色たしょく動物どうぶつ様式ようしき文様もんよう装飾そうしょくされたフラスコがた金製きんせい小型こがた香油こうゆれ、鉄製てつせいおのぶたづけ灰色はいいろすりけんがた土器どき鉄製てつせいナイフ、銀製ぎんせいさじ、ライオン頭部とうぶ正面しょうめんかん表現ひょうげんする金製きんせい象嵌ぞうがんファレラと半球はんきゅうがた青銅せいどうせいファレラかく2てん鉄製てつせいくつわなどがあった。ディアデムの生命せいめい鹿しかとりのモチーフと香油こうゆれはホフラチ古墳こふん出土しゅつどれい類似るいじしてるが、首輪くびわ闘争とうそうのモチーフはセミレチエのカルガルゥの金製きんせいディアデムに類例るいれいがあり、長髪ちょうはつゆうひげ人物じんぶつ東方とうほうとの関係かんけい指摘してきされている。さらに、中期ちゅうきサルマタイ時代じだい埋葬まいそうから多数たすう出土しゅつどするかがみ大半たいはんきょうであるが、中国ちゅうごくきょうやコビャコヴォのれいのように中国ちゅうごくからの搬入はんにゅうひん発見はっけんされており、サルマタイが中央ちゅうおうアジアをつうじて中国ちゅうごく間接かんせつてきあるいは直接的ちょくせつてき関係かんけいしていたことをしめしている。コビャコヴォ10ごうふんは1世紀せいきまつから2世紀せいきへんねんされている。[22]

後期こうきサルマタイ時代じだい遺跡いせき

編集へんしゅう

後期こうきサルマタイ時代じだいは1世紀せいき黒海こっかい北岸ほくがん登場とうじょうしたアラン(アラノイ)の民族みんぞくめいからアラン文化ぶんかばれる。後期こうきサルマタイ時代じだい埋葬まいそう特徴とくちょうはヴォルガ・ドン地方ちほうでは小規模しょうきぼ墳丘ふんきゅうきずえんふんであるが、ウラルがわ流域りゅういきではその時代じだいあらたにきずいた東西とうざいなが墳丘ふんきゅうられる。墳丘ふんきゅうには小規模しょうきぼなポドボイはばせま方形ほうけい壙がつくられた。ポドボイでは入口いりくちあな西にしかべはかしつ穿うがたれた。また、きたカフカスでは地下ちかしき横穴よこあな分布ぶんぷし、ドニェストル・ドナウりょう河間こうまでは墳丘ふんきゅうきずかない壙墓がられる。はかきゅう地表ちひょうめん丸太まるた木材もくざいしばえだあし閉塞へいそくされた。埋葬まいそう単独たんどくそう大半たいはんであり、仰臥ぎょうが伸展葬しんてんそうきたあるいはみなみまくらにした。ポドボイせまはか壙では北枕きたまくら主流しゅりゅうである。そして、この時代じだい最大さいだい特徴とくちょうみなみウラル地方ちほう、ヴォルガ川下かわしも流域りゅういき、ヴォルガ・ドン両川りょうかわあいだでみられる被葬ひそうしゃあたまむくろ変型へんけいである。あたまむくろ変型へんけい紀元前きげんぜんから散発さんぱつてきにみられたが、この時代じだい非常ひじょう発展はってんした風習ふうしゅうである。一方いっぽう死者ししゃそなえる家畜かちくなどの一部いちぶのみである。また、はかではぜん時代じだい同様どうよう白亜はくあかたまりがみられたが、硫黄いおうかたまり火打石ひうちいしけずった痕跡こんせきもしばしば検出けんしゅつされた。はかはなった痕跡こんせきはすくなく、儀礼ぎれい簡素かんそされたとみなされている。副葬品ふくそうひん武器ぶき道具どうぐ装飾そうしょくひん化粧けしょう道具どうぐ香炉こうろ護符ごふなどである。武器ぶきではかんあたまけん短剣たんけん、鏃がられ、けん被葬ひそうしゃひだり短剣たんけんみぎかれ、鏃は少数しょうすうである。馬具ばぐ通例つうれい被葬ひそうしゃ足下あしもとかれた。装飾そうしょくひんとしてはおびかざりばん、フィブラ、頸かざりの一部いちぶとして発見はっけんされる小型こがたきょうあるいはたれかざりなどがある。小型こがたきょう前代ぜんだいから発展はってんしていたものであるが、この時代じだいにはかがみというよりもたれかざりとして使用しようされたとかんがえられている。土器どきねろくろせいがあり、後者こうしゃはドンがわやクバンがわ流域りゅういきあるいはボスポロス王国おうこく製作せいさくされたものである。動物どうぶつがた把手とっていたろくろせい水差みずさしがた土器どきはこの時代じだい特徴とくちょうてき資料しりょうである。また、ヴォルガがわ左岸さがんではホラズムせい化粧けしょうのかかった赤色あかいろ土器どき登場とうじょうしている。[23]

レベデフカむら古墳こふんぐん
  • 後期こうきサルマタイ時代じだい注目ちゅうもくされる遺跡いせきれいとしては、ウラルがわ左岸さがん流域りゅういきにあるレベデフカむら古墳こふんぐんげられる。レベデフカの古墳こふんぐんは8ぐんかれ、サウロマタイからサルマタイの埋葬まいそうが101発掘はっくつされた。そのうちの50後期こうきサルマタイ時代じだいへんねんされている。埋葬まいそう形態けいたいは23がポドボイ、17はばせま竪穴たてあな、4はか壙のひろはかであった。被葬ひそうしゃ仰臥ぎょうが伸展葬しんてんそう北枕きたまくら安置あんちされていたが、2のポドボイでは屈葬くっそうであった。また、20たいあたまむくろ変型へんけい確認かくにんされたが、そのうちの半数はんすう以上いじょうがポドボイ検出けんしゅつされた。だい5はかぐん23ごうふん主体しゅたいはか壙がひろく、副葬品ふくそうひんゆたかなはかであった。主体しゅたいには男性だんせい安置あんちされ、中国ちゅうごくうちぎょうはなぶんきょう青銅せいどうせいフィブラ、金製きんせいアップリケ、中央ちゅうおうアジア起源きげんのろくろせい赤色あかいろ片手かたてつぼがた土器どきひくうつわだいのある青銅せいどうせいパテラ、ながのある鉄製てつせい柄杓ひしゃくなどが副葬ふくそうされていた。23ごうふんにはおいそうはかつくられ、かん男性だんせい安置あんちされ、玉髄ぎょくずい柄頭つかがしらをもつ鉄製てつせい長剣ちょうけん短剣たんけんなが砥石といし青銅せいどうせいフィブラ、可動かどうしきした青銅せいどうせい小型こがたバックル、ガラスせいゴブレットが副葬ふくそうされていた。はかともに2世紀せいきから3世紀せいき前半ぜんはんへんねんされた。そしてだい6はかぐん1ごうふんは、東西とうざいならぶ2つの墳丘ふんきゅうながさ34m、はば10〜14m、たかさ0.3〜0.5mのるい連結れんけつしたかたちであった。埋葬まいそう東側ひがしがわ墳丘ふんきゅうのポドボイおこなわれていた。副葬品ふくそうひん鉄製てつせい長剣ちょうけん鉄製てつせい銜、ボスポロスせいガラス容器ようきへん青銅せいどうせいフィブラ、円形えんけい金製きんせいアップリケ、鉄製てつせいナイフなどである。長剣ちょうけんは”金属きんぞくせい柄頭つかがしらのないけん”に分類ぶんるいされる型式けいしきであり、柄頭つかがしら部分ぶぶん円盤えんばんじょう玉髄ぎょくずいともなういわゆる”たまけん”である。この玉髄ぎょくずいうえにはシーレーンのかおあるいは獅子しし人面じんめんかたしで表現ひょうげんされた金製きんせい装飾そうしょくばんけられていた。かざりばんえんがくおよびりょうほおにガラスが象嵌ぞうがんされ、象嵌ぞうがんまわりはほそつぶいている。A.M.ハザーノフによれば、金属きんぞくせい柄頭つかがしらのないけんは2世紀せいき〜4世紀せいき盛行せいこうしているが、たまけんはサルマタイでは類例るいれいすくないという。ガラス容器ようきとフィブラによってはかは2世紀せいき〜3世紀せいき前半ぜんはんへんねんされた。[24]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん』p.219.
  2. ^ まもる岡田おかだへん 1990, p.57.
  3. ^ まもる岡田おかだへん 1990, pp.56-57,
  4. ^ ゆきしま 2008, p.188.
  5. ^ ゆきしま 2008, pp.187-189.
  6. ^ 飯尾いいお 1994,p49-50
  7. ^ 『タキトゥス年代ねんだい』6かん-31〜37≪國原くにはら1965,p160-163≫
  8. ^ タキトゥス12かん-15
  9. ^ タキトゥス12かん-16
  10. ^ タキトゥス12かん-17
  11. ^ タキトゥス12かん-18
  12. ^ タキトゥス12かん-19
  13. ^ タキトゥス12かん-29,30
  14. ^ まもる岡田おかだへん 1990, pp.57-58.
  15. ^ ゆきしま 2008, pp.224-225,
  16. ^ 藤川ふじかわ,1999,p243-244
  17. ^ 藤川ふじかわ,1999,p244-248
  18. ^ 藤川ふじかわ,1999,p248-249
  19. ^ 藤川ふじかわ,1999,p249-251
  20. ^ 藤川ふじかわ,1999,p251-253
  21. ^ 藤川ふじかわ,1999,p253-255
  22. ^ 藤川ふじかわ,1999,p255-256
  23. ^ 藤川ふじかわ,1999,p257-258
  24. ^ 藤川ふじかわ,1999,p258-260

参考さんこう文献ぶんけん

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  • まもる岡田おかだへん 1990:まもる雅夫まさお岡田おかだ英弘ひでひろ へん中央ちゅうおうユーラシアの世界せかい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ民族みんぞく世界せかい 4〉、1990ねん6がつISBN 978-4-634-44040-1 
  • ゆきしま 2008:ゆきしま宏一こういち『スキタイ騎馬きば遊牧ゆうぼく国家こっか歴史れきし考古こうこ雄山閣ゆうざんかく〈ユーラシア考古学こうこがく選書せんしょ〉、2008ねん9がつISBN 978-4-639-02036-3 
  • 小松こまつ久男ひさお梅村うめむらひろしへん へん中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん平凡社へいぼんしゃ、2005ねん4がつISBN 978-4-582-12636-5 
  • 國原くにはら吉之助よしのすけわけ世界せかい古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう22 タキトゥス』(筑摩書房ちくましょぼう1965ねん
  • ストラボンわけ飯尾いのおじん)『ギリシア・ローマ世界せかい地誌ちしII』(龍溪りゅうけいしょしゃ1994ねんISBN 4844783777
  • 藤川ふじかわしげる世界せかい考古学こうこがく6 中央ちゅうおうユーラシアの考古学こうこがく』(1999ねんどうなりしゃISBN 4886211771

関連かんれん項目こうもく

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