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典論 - Wikipedia

てんろん

古代こだい中国ちゅうごくぶんみかど(曹丕)があらわした文学ぶんがくろん

てんろん』(てんろん)は、たかしぶんみかど曹丕)があらわした文学ぶんがくろん文学ぶんがくしょぜん5かん、100へんあかりみかど曹叡)のだいかんせきされたが、裴松時代じだい南朝なんちょうそう)はまだ存在そんざいしていた。その、『太平たいへい御覧ごらん』のく『戴延西にしせい』によるとてんろん石碑せきひろくいしぶみあったが、あずますすむすえには4つ存在そんざいし2つがくなっていた。とうだい石本いしもとはなくなり、そうだい写本しゃほん散逸さんいつした。現在げんざいることが出来できるのは、『文選ぶんせん』におさめられた「論文ろんぶんへんだけだが、『ぜんさん國文こくぶん』は『てんりゃくとうからてんろん復元ふくげんし、19へん(うちへんめいがあるのは13へん)をおさめている。

崑崙山こんろんざん(こんろんざん)のみねあたまにあたる。ここは天帝てんてい下界げかいにおけるなので、じゃくみずというふかかわによって外界がいかいとさえぎられ、ほのおやままわりをかこまれている。山上さんじょう鳥獣ちょうじゅう草木くさきるいは、みな火炎かえんなかまれ、成長せいちょうしてく。そこでここには「浣布」(かかんぷ。あらぬの)という布地ぬのじさんするが、それはやま草木くさきかわ繊維せんいでか、あるいは、鳥獣ちょうじゅうつくったものである。

かんころ西域せいいきからこの布地ぬのじ献上けんじょうしてたことがあるが、そのながいことられなかった。ところが、たかしはじごろになって、人々ひとびとはそのようなぬの存在そんざいしないのではないかと疑問ぎもんった。ぶんみかど曹丕)は、だいたいせい容赦ようしゃなくくすものであって、生命せいめいのこ余地よちなどいはずであるとかんがえ、『てんろん』でこれがありないことを論証ろんしょうし、ものりのきかじりの智識ちしき否定ひていした。

さらにあきらみかど曹叡)が即位そくいするにおよび、三公みつきみたいして、「先帝せんてい(曹丕)がしるわしたまうた『てんろん』は不朽ふきゅう格言かくげんである。これをいしぶみきざみ、霊廟れいびょうそとおよふとしがくて、石経いしきょうともながしめそうぞ」とみことのりくだした。ところがそこへ、西域せいいき使者ししゃ浣布でつくった袈裟けさ献上けんじょうしてたので、石碑せきひきざまれた『てんろん』のこの部分ぶぶんけずられることになり、天下てんかのものわらいとなったのであった[1]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ さがせかみ まきじゅうさん 浣布 平凡社へいぼんしゃライブラリー

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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