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陳羣 - Wikipedia

ちん

中国ちゅうごくかん末期まっきからさんこく時代じだい政治せいじ

ちん(ちん ぐん、? - あおりゅう4ねん12月24にち236ねん2がつ7にち[1])は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい政治せいじ。『三国志さんごくしたかししょ「桓二陳徐衛盧伝」につてがある。長文ちょうぶんしゅう潁川ぐんもとあきらけん現在げんざい河南かなんしょうもとあきらたてやすし)の出身しゅっしん祖父そふちんまことちちちんおさむちんやすしつまは荀氏。

ちん
たかし
ろく尚書しょうしょごとつかさそら・潁陰こう
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
しゅう潁川ぐんもとあきらけん
死去しきょ あおりゅう4ねん12月24にち[1]236ねん2がつ7にち
拼音 Chén Qún
長文ちょうぶん
諡号しごう やすしこう
主君しゅくん りゅう曹操そうそう曹丕曹叡
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こくほう制度せいど整備せいび従事じゅうじし、政略せいりゃくめん活躍かつやくした。とく九品くほんかんじんほうは、ずいだい科挙かきょ本格ほんかくてき施行しこうされるまで、かく王朝おうちょう人材じんざい登用とうよう基本きほん方式ほうしきとなった。

経歴けいれき

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わか

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おさなころから祖父そふちんまことに、将来しょうらいにおいて一族いちぞくさかんにする人物じんぶつ期待きたいされた。ちちちんおさむ友人ゆうじんである名士めいしあなとおるが、年少ねんしょうひね羣の才能さいのうみとちんおさむ慶賀けいがしたことから、ちん羣の世間せけんられるようになった。同郷どうきょうからしもりかさねちょうげんならんで名声めいせいあつめ、「からしひねもりちょう」ともしょうされた[2]

きょうひらた元年がんねん194ねん)、しゅう刺史ししとなったりゅう登用とうようされ、しゅう吏の筆頭ひっとうであるべつとなった。りゅう備がとうけん死後しご混乱こんらんするじょしゅう領有りょうゆうしようとすると、みなみ袁術西にしりょぬのがいる状況じょうきょうでは危険きけんと諫言したが、ききいれられなかった。まもなくりゅう備は、袁術と交戦こうせん状態じょうたいになったすきりょぬのかれ領地りょうちうしなったため、ちん羣の言葉ことばもちいなかったことを後悔こうかいした。ひね羣はしげるざい推挙すいきょされ、柘県県令けんれい任命にんめいされたが、就任しゅうにんせずちちともじょしゅう避難ひなんした。

曹操そうそうつかえる

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たてやすし3ねん198ねん)、曹操そうそうじょしゅうりょぬのほろぼしたときりょぬのぐんちゅうにあり、曹操そうそううと平伏ひれふした[3]曹操そうそう招聘しょうへいされ、つかさそら西にしじょうぞくとなった。同郷どうきょう荀彧推挙すいきょされた人物じんぶつ1人ひとりともわれる[4]

曹操そうそうおうしゅう逵を登用とうようすると、ちん羣は命令めいれいしょ封緘ふうかんしたまま返上へんじょうし、「道徳どうとくけが人物じんぶつ」と登用とうよう反対はんたいした。曹操そうそうがききいれず任用にんようしたところ、彼等かれら結局けっきょくとがめけて処刑しょけいされることになり、曹操そうそう自分じぶん不明ふめいひね羣にびた。一方いっぽうちん羣が推挙すいきょしたちんや戴乾は後年こうねんちん矯は高官こうかんのぼり、戴乾はが叛いたときの国難こくなんじゅんじた。人々ひとびとひね羣の人物じんぶつ鑑識かんしきたか評価ひょうかした。

しょう・酇・長平ながだい県令けんれいつとめたが[5]ちちちんおさむくなったためかんはなれた[6]つかさじょう復職ふくしょくし、たか功績こうせきげてしょさむらいにんじられた。さらにまいり丞相じょうしょう軍事ぐんじて、けんやす18ねん213ねん)にはんこくとして建国けんこくされると、ちゅうすすむ昇進しょうしんした。

曹操そうそうにくけい復活ふっかつ議論ぎろんさせたとき以前いぜんちんおさむにくけいについて意見いけんしていたことをっていたため、ちん羣に発言はつげんもとめた。ひね羣は死刑しけい減刑げんけい手段しゅだんとして、にくけい復活ふっかつさせることを提案ていあんした。鍾繇賛成さんせいしたが、おうあきらなど反対はんたい多数たすうであったために、見送みおくりとなった。のちさむらいちゅうとなり、丞相じょうしょう東西とうざい曹掾を配下はいかにおいた。

けんやす22ねん217ねん)に曹丕太子たいしとなったのち司馬しばただししゅともにそのよんともしょうされた[7]。曹丕はひね羣にふか敬意けいいをもってせっし、かおかいなぞらとなえた。

けんやす24ねん219ねん)、りゅうおとうとらん加担かたんし、りゅう廙は連座れんざさせられるところだったが、ちん羣のはたらきかけでけいまぬかれた。ひね羣はりゅう廙のれいけても「国家こっかのためであって個人こじんのためではない」とこたえた。

重臣じゅうしんとして

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のべやすし元年がんねん220ねん正月しょうがつ曹操そうそうぼっし曹丕(ぶんみかど)が王位おういそくくと、あきらたけちんこう尚書しょうしょとなり、さらに禅譲ぜんじょう尽力じんりょくした[8]。またこのころ九品くほんかんじんほう建議けんぎ制定せいていした。禅譲ぜんじょうさいはなともよろこびのいろせず、とくはな歆が曹丕の不興ふきょうったが、ちん羣が「かんちょうしんであった道義どうぎしん表情ひょうじょうてしまったのです」と弁明べんめいしたことで、はな歆は尊重そんちょうされるようになった[9]

はつ年間ねんかん、曹丕が卞太きさき両親りょうしん爵位しゃくい追贈ついぞうしようとすると、「女性じょせい爵位しゃくいあたえるのは、古代こだい王者おうじゃたちのてんそくではない」と反対はんたいした。曹丕はこの提議ていぎとなえ、さき命令めいれい撤回てっかいした[10]。この提議ていぎは『三国志さんごくししょ后妃こうひでんちん寿ひさしひょうでも「すべての王者おうじゃ規範きはんとし、後世こうせいつたえるだけの価値かちがある」と称賛しょうさんされている。

尚書しょうしょぼくしゃさむらいちゅうて、尚書しょうしょれい・潁郷こう昇進しょうしんした。はつ4ねん223ねん)、司馬しば懿とともあわびちゅうすすむ推挙すいきょした。正直しょうじきあわび勛は幾度いくども曹丕と対立たいりつ。のちはつ7ねん226ねん)にはひね羣らの諫言もききいれられず、処刑しょけいされている[11]

はつ5ねん224ねん)、曹丕がまごけんつため広陵こうりょうぐん侵攻しんこうすると、ちん羣はちゅうりょうぐん兼任けんにんした。帰還きかんさいかりふしとなり、水軍すいぐん統率とうそつした。もとあきらもどったのちはつ6ねん225ねん)、鎮軍大将軍だいしょうぐんなかまもるぐんろく尚書しょうしょごと昇進しょうしんした。

はつ7ねん(226ねん)5がつ16にち、曹丕がやまいたおれると、曹真曹休司馬しば懿ととものこみことのり後事こうじたくされた。曹丕がぼっし、いだ曹叡あきらみかど)がそのひつぎ見送みおくろうとすると、曹真やおうあきららとともに、暑気しょき理由りゆうめさせた[12]

曹叡が即位そくいすると潁陰こう昇進しょうしん。500加増かぞうりょう邑1300となり、さらに司馬しば懿らととも開府かいふゆるされた。12月にはつかさそらにんじられ[1]つづろく尚書しょうしょごと仕事しごとおこなった。曹叡がはじめて政務せいむさいは、主君しゅくん追従ついしょう臣下しんか同士どうし不和ふわしょうじさせるしゃたち用心ようじんするよう上奏じょうそうした。

ふとし4ねん230ねん)、曹真のしょくかん征伐せいばつ反対はんたいしたが、曹真はそれをわずに敢行かんこう結局けっきょく長雨ながあめたたられ進軍しんぐんできず、ふたたひね羣の進言しんげんによって帰還きかん勅命ちょくめいされた。ふとし5ねん231ねん)に名将めいしょうちょう戦死せんしすると、これを愛惜あいせきする曹叡に同調どうちょうしたが、からし毗からは君主くんしゅ弱気よわきにさせるべきではないと批判ひはんされた[13]

曹叡の公主こうしゅ一人ひとり若死わかじにすると、曹叡はかなしみみずかひつぎ見送みおくろうとした。ひね羣は出費しゅっぴおおさを理由りゆう反対はんたい上奏じょうそうおこなったが、ききいれられなかった。あおりゅう年間ねんかんには曹叡が宮殿きゅうでん造営ぞうえい工事こうじ熱中ねっちゅうしたが、ちん羣はおおくの群臣ぐんしんたち同様どうよう上奏じょうそう自省じせいもとめた。これにより計画けいかく幾分いくぶんかは縮小しゅくしょうされたところがあった。

あおりゅう4ねん(236ねん)12月24にちくなり、やすしこうおくりなされた。ちんやすしあといだ。せいはじめ4ねん243ねん)7がつみかど曹芳ひとしおう)は詔勅しょうちょくくだし、曹操そうそうびょうにわ功臣こうしん20にんまつった。そのなかにはひね羣もふくまれている[14]

幾度いくど政治せいじ得失とくしつについて密奏みっそうしたが、草稿そうこうすべ破棄はきし、当時とうじひとだれもその内容ないようらなかった。高官こうかんにありながらなに仕事しごとをしていないと批判ひはんするものもあったとされ、実際じっさいただしひね羣をそのように批判ひはんし、ちん羣は曹叡から叱責しっせきけた[15]ひね羣没せいはじめ年間ねんかんに『めいしんそう』が編纂へんさんされ、その密奏みっそうあきらかになると、人士じんし感嘆かんたんけた。

一族いちぞく

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祖父そふちんまことふとしおかけんちょうちちちんおさむ平原へいげんくにしょうさむらいちゅうだいおおとり歴任れきにんした。叔父おじひね諶はつかさそらじょうとなったがはやくなった。祖父そふちち叔父おじのいずれも名声めいせいたかかった。ひね羣はちち祖父そふ以上いじょう栄達えいたつし、ちんやすしつかさそら追贈ついぞうされたが、ちんやすしでんちゅうの『博物はくぶつ』によると、「おおやけひね羣・ちんやすし)はきょうちんおさむ)におとり、きょうちょうちんまこと)におとる」とわれたという。

ちんやすしぼっするとちんまことこういだが、ちんまことぼっすると継嗣けいしがなく、おとうとちんあつしこういだ。ひね羣伝ちゅうの『ちん』によるとひね羣の子孫しそんおとろえたが、ちん諶のまごちんひろし廷尉、そのひねじゅんふとしじょうとなるなど栄達えいたつした。

つまの荀氏は荀彧のむすめひね羣はそのおとうと荀顗西にしすすむふとしじょう)の才能さいのうみとめた[16]

人物じんぶつ

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当時とうじにあってしるししょう鑑定かんていほうひろめた人物じんぶつわれる。ひねいわく、それは前漢ぜんかん時代じだいからはじまったもので、『あいしるし』『あいしゃくけい』などの書物しょもつからまなんだ。ひね羣は韋誕にそれを伝授でんじゅし、人物じんぶつにまでひろまった[17]

曹操そうそう時代じだい、その参謀さんぼうかくよしみ不行跡ふぎょうせき度々たびたび弾劾だんがいした。曹操そうそうかくよしみ才能さいのうしみそのげんもちいなかったが、ちん羣の誠実せいじつさも同様どうよう尊重そんちょうした[18]

曹叡の時代じだいちぇりんとも冀州出身しゅっしん人物じんぶつについて評論ひょうろんした。曹操そうそうによって処刑しょけいされた従兄じゅうけいちぇとなえて筆頭ひっとうとしたちぇりんたいし、ちん羣は「たもつだけのさとしがなかった」と酷評こくひょうしたことで、ちぇりんから「大丈夫だいじょうぶたるもの名君めいくんとの出会であいが大切たいせつなのであり、きみのようなひととうとぶにあたいしない」と批判ひはんびた[19]

朝廷ちょうていないでは好悪こうおによって物事ものごと判断はんだんすること、道義どうぎはずれたことをひとしつけることはなく、つね名誉めいよ道義どうぎおもんじた。『三国志さんごくし』の編者へんしゃちん寿ひさしは、しょ「桓二陳徐衛盧伝」のひょうで、「名誉めいよ徳義とくぎにより行動こうどうし、高潔こうけつ人柄ひとがらたか声望せいぼうっていた」とのしょうさんおくった。『袁子』の著者ちょしゃ袁準はその書中しょちゅうで「仁愛じんあい極致きょくち君主くんしゅおやについて、躊躇ためらいながらやむを発言はつげんするもの」とし、ちん羣のような人物じんぶつがその長者ちょうじゃとなえた。

あずますすむ袁宏の「さん国名こくめいしんじょさん」(『文選ぶんせん所収しょしゅう)ではの9にんしょくの4にんの7にんめいしんとして賞賛しょうさんされており、そのなかちんやすしとともにげられている[20][21]

出典しゅってん

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  • 三国志さんごくししょ まき22 ひね羣伝

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 三国志さんごくししょ あきらみかど
  2. ^ 三国志さんごくししょ ちょうげんでん
  3. ^ 三国志さんごくししょ 袁渙つてちゅう『袁氏世紀せいき
  4. ^ 三国志さんごくししょ 荀彧でんちゅう『荀彧別伝べつでん
  5. ^ 三国志さんごくししょ なにつてちゅうしょ』(おうせん)によると、りゅう備がそむいてから(けんやす4ねん以降いこう事変じへんおおくなった東南とうなん地方ちほうに、曹操そうそうひね羣を酇県れいとするなど名士めいし起用きようして、安定あんていさせた。
  6. ^ こうかんおおとり臚陳くん』によるとちんおさむ死去しきょけんやす4ねん199ねん)6がつ
  7. ^ すすむしょせんみかど司馬しば懿)きの
  8. ^ 三国志さんごくししょ ぶんみかどちゅうけんじみかどでん
  9. ^ 三国志さんごくししょ はな歆伝ちゅうじょ
  10. ^ 三国志さんごくししょ たけせん皇后こうごうでん
  11. ^ 三国志さんごくししょ あわび勛伝
  12. ^ ぶんみかどおよびそのちゅうく『たかし春秋しゅんじゅう
  13. ^ 三国志さんごくししょ からし毗伝ちゅうりゃく
  14. ^ 三国志さんごくししょ ひとしおうおさむ
  15. ^ 三国志さんごくししょ おうつばらつてちゅうただし別伝べつでん』。当時とうじ人々ひとびとただし批判ひはんを、事実じじつはんするとかんがえたともしるす。
  16. ^ 荀彧でんちゅうすすむあき
  17. ^ 三国志さんごくししょ なつこうなおつてちゅうあいしるししょ
  18. ^ 三国志さんごくししょ かくよしみでん
  19. ^ 三国志さんごくししょ ちぇ琰伝
  20. ^ めいしん20せんには、荀彧荀攸袁渙ちぇじょちんなつほうげんおうけいちんやすし以上いじょうたかし)、しょかずらあきら龐統蔣琬けん以上いじょうしょく)、しゅうちょうあきら魯粛しょかずらりくへりくだ顧雍おそれこぼし以上いじょう)を選出せんしゅつしている
  21. ^ ちん羣は「長文ちょうぶんどおりみやび かく終始しゅうし おもえ元首げんしゅ なずらえどうはじ みん知徳ちとく 懼若ざいおのれ よしみはかりごと肆庭 讜言みつるみみ 玉生たまにゅう雖麗 ひかり踰把 徳積とくづみ雖微 みちうつ天下てんか」とうたわれている