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龐統 - Wikipedia

みつる(ほう とう、179ねん - 214ねん[1][2])は、中国ちゅうごくこうかん末期まっき武将ぶしょう政治せいじまごけんりゅうつかえた。もとしげんみちごう鳳雛ほうすうおくりなやすしこう荊州みなみぐんじょうけん出身しゅっしん。「臥龍がりょうがりょう」「ふくりゅうふくりゅう」とばれたしょかずらあきらたいして、「鳳雛ほうすうほうすう」としょうせられた。おとうと龐林龐宏したがえちち龐徳こうぞくけい龐山みんつましょかずらあきらあね)ら。

龐統
清朝時代の龐統の肖像
きよしあさ時代じだいの龐統の肖像しょうぞう
こうかん
関内かんないこう軍師ぐんしちゅうろうしょう
出生しゅっしょう 光和こうわ2ねん179ねん[1]
荊州みなみぐんじょうけん
死去しきょ たてやすし19ねん214ねん)[1]
えきしゅうこうかんぐん雒県
拼音 Páng Tǒng
もと
諡号しごう やすしこう
別名べつめい 鳳雛ほうすう渾名あだな
主君しゅくん まごけんりゅう
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生涯しょうがい

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わかころ口下手くちべたであまりなりがえなかったことから評判ひょうばんなかったが、人物じんぶつ鑑定かんてい有名ゆうめい司馬しばに、その才能さいのうみとめられたことでようやくたかまった。また人物じんぶつ鑑定かんていすぐれたでんたつみにまみえたさいは、なか英雄えいゆうであるとたか評価ひょうかされた[3]ぐんこう曹となり[4]のちしゅうこう曹をになった[5]しゅうが荊州を攻略こうりゃくしてみなみぐん太守たいしゅにんぜられると、龐統はみなみぐんこう曹になった[6]しょく攻略こうりゃく途中とちゅうともえたかしにてしゅう病死びょうしすると、龐統は遺骸いがいおくって江東こうとうった。

そのまごけんは荊州をりゅうつぶさ割譲かつじょうした。荊州を領有りょうゆうしたりゅう備のしたてんずるも、りゅうつぶさ耒陽県令けんれいしょくにんぜられ、仕事しごととどこおらせたために罷免ひめんされた。これをいたまごけんぐん魯粛が、りゅう備への手紙てがみなかで「龐統は大役たいやくあたえてこその人物じんぶつ」とすすめ、しょかずらあきらもまたかれりゅうつぶさにとりなした。りゅう備は目通めどおりさせ、かれ充分じゅうぶんかたったのち、かれおおいに有能ゆうのうだと評価ひょうかし、ちゅう従事じゅうじ任命にんめいし、しょかずらあきらおな役職やくしょくである軍師ぐんしちゅうろうしょう任命にんめいされた。

りゅう備は龐統と面会めんかいし、相互そうごかたった[7]りゅう陣営じんえいつぎ方策ほうさくとして、西にしえきしゅうることがかんがえられていたが、おりしもえきしゅうおさめるりゅうあきらちょうまつ説得せっとく法正のりまさ使者ししゃとして曹操そうそうとの関係かんけいってりゅう備とよしみむすび、ちょうとのたたかいへの援軍えんぐん要請ようせいしてきた。りゅう備と対面たいめんした法正のりまさちょうまつとともに惰弱だじゃくりゅうあきら見限みかぎっており、このじょうじてえきしゅうはいりゅうあきらからこれをうばうことを進言しんげんした。りゅう備は難色なんしょくしめしたものの龐統はこれを諫めて、えきしゅうることをりゅうつぶさ決心けっしんさせた。龐統はりゅうつぶさに「無理むり手段しゅだんえきしゅううばっても、ただしい方法ほうほう統治とうちし、道義どうぎってかれらにむくいて、ことさだまったのち大国たいこくあたえれば、信義しんぎそむくことはないだろう」とかたった[8]にゅうしょくさいしては龐統がりゅうつぶさ同行どうこうし、しょかずらあきらは荊州の留守るすまもることになった。

えきしゅうはいった当初とうしょりゅうあきらりゅう備たちの本心ほんしんらずに歓迎かんげいうたげひらくなど防備ぼうびだったので、龐統はこの機会きかいりゅうあきららえて、無用むようたたかうことえきしゅうるようりゅうつぶさ進言しんげんした。しかしりゅう備は「他国たこくはいったばかりで、恩愛おんあい信義しんぎはまだあらわれていない。それはいかん」(これは重大じゅうだいことであるから、あわててはいけない[9]。)とこたえ、これをききいれなかった。そのりゅう備軍はかんちゅうちょう対峙たいじするりをして駐屯ちゅうとんし、成都せいとにいるりゅうあきらをどうめるかを検討けんとうしていたが、龐統はりゅうつぶさたいして、昼夜ちゅうや兼行けんこう成都せいと強襲きょうしゅうする上計あげ関所せきしょまもりゅうあきらしょうあざむいてへいうば成都せいと目指めざなかけい一旦いったんしろみかどじょうまで退しりぞしたけいさんけい提示ていじした。りゅう備はちゅうけい採用さいようした。

そこでりゅう備は龐統の策略さくりゃくもちいて、ひがし曹操そうそうまごけんたたかりゅうつぶさたいして援軍えんぐんもとめてきたことを口実こうじつに、軍団ぐんだん移動いどうさせると、白水しろみずせき中国語ちゅうごくごばんまもりゅうあきらぐん楊懐こうびつけてだまちにし、これをてて白水しろみずせき占領せんりょうした。成都せいとにむかって進撃しんげきし、連戦れんせん連勝れんしょうした(りゅう備のにゅうしょく)。

りゅう備は宴会えんかいひらき、っていたりゅう備は「今日きょう酒席しゅせきじつ愉快ゆかいである」とった。これをいた龐統は「他国たこく討伐とうばつちゅうに、上機嫌じょうきげんっておられるのは仁君じんくんらしからぬ行為こういですぞ」とった。りゅう備は泥酔でいすいしていたので龐統の言葉ことば立腹りっぷくし、「かつてしゅうたけしおういん討伐とうばつして連戦れんせん連勝れんしょうしたとき、将兵しょうへいねぎらうときに無礼講ぶれいこうゆるしていたとくぞ。それが仁君じんくんたたかいではないのか? きみもうすことは矛盾むじゅんしており不愉快ふゆかいだ。ただちに退出たいしゅつせよ!」とさけんだ。龐統は後退あとずさりしてった。りゅう備はすぐに後悔こうかいしてもどってくるようにたのんだ。龐統はもとのせきもどったが、まったくらぬかお陳謝ちんしゃせず、平然へいぜんいをつづけた。りゅう備がかれかって、先程さきほど議論ぎろんだれ間違まちがっているかきくと、龐統は「君臣くんしんともにまちがっておりました」とこたえた。りゅう備は大笑おおわらいして、はじめとおなじように酒宴しゅえんたのしんだ。

りゅう備軍は、成都せいと攻略こうりゃくまえりゅうちょうつとむまも雒城包囲ほういした。しかしこの包囲ほういせん最中さいちゅう、龐統は流矢ながれやあめのようにりそそぐ、あるいはなが)にたって死去しきょした。享年きょうねん36[10]りゅう備は龐統のおおいにかなしんだ。のちに関内かんないこうついふうされ、けい耀3ねん260ねん)9がつにはやすしこう諡号しごうおくられた。

人物じんぶつ

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龐統は人物じんぶつ評価ひょうかこのんでおこなったが、その場合ばあいはいつもその人物じんぶつ過大かだい評価ひょうかしていた。あるひとにその理由りゆうたずねられたさい、龐統は「現在げんざい天下てんかみだれ、正道せいどうおとろえ、善人ぜんにんすくなく悪人あくにんおおい。ぎるくらいの評価ひょうかをして、名誉めいよよくたしてやらなければ、善事ぜんじおこなうものえないだろう。こころざしあるもの希望きぼうあたえ、努力どりょくさせられるのだから、これもいいではないか」とこたえている。

龐統は江東こうとう帰還きかんするさいに、りく顧邵ぜんらとは懇意こんいであり、龐統はりく績を「駿馬しゅんめ」、顧邵を「あしおそいがちからのあるうし」、ぜん琮をなんじみなみの樊子あきらたとえてとなえた。龐統がしゅう瑜のかえりは、かれらが見送みおくりにやってきており、りく績と顧邵からわかれのさいに「天下てんか太平たいへいになったら、また四海しかい批評ひひょうしましょう」とわれるなど、ふか交流こうりゅうがあった。

三国志さんごくし』において、龐統のつて法正のりまさつて同時どうじひょうされている。ちん寿ひさしひょうにいわく「龐統はつね人物じんぶつ批評ひひょうこのみ、経学けいがく策謀さくぼうにすぐれ、当時とうじ、荊・すわえ地域ちいき人士じんしから、才能さいのうひいでた人物じんぶつうたわれていた」「しんてはめると荀彧兄弟きょうだい」とあり、法正のりまさとも曹操そうそう腹心ふくしん軍師ぐんしたちに匹敵ひってきすると評価ひょうかされている。あずますすむ袁宏の「さん国名こくめいしんじょさん」(『文選ぶんせん所収しょしゅう)ではの9にんしょくの4にんの7にんめいしんとして賞賛しょうさんされており、そのなかげられている[11][12]

三国志さんごくし演義えんぎ』での龐統

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成都せいとたけしこうほこらの龐統ぞう中央ちゅうおう

小説しょうせつ三国志さんごくし演義えんぎ』においては、龐統の兄弟きょうだいしょかずらあきらいもうとめとり、義兄弟ぎきょうだいとなっている。あかかべたたかではしゅう瑜にたいして曹操そうそうやぶるための献策けんさくおこなう。しゅう瑜は曹操そうそうぐん軍船ぐんせん火攻ひぜめにしようとかんがえていたが、いちせきをつけてもふねげてしまい、ひろがらないということが問題もんだいとなる。そこで龐統は連環れんかんけいばれるさくしゅう瑜にすすめる。龐統自身じしんしゅう瑜の陣営じんえい偵察ていさつにやって蔣幹をうまくあざむき、曹操そうそう軍営ぐんえいもぐ曹操そうそう面会めんかいし、北方ほっぽうじん弱点じゃくてんである船酔ふなよ対策たいさくとして、ふね同士どうしくさりつなげることを進言しんげんするのである。このことにより、がついても曹操そうそうぐん軍船ぐんせんげられないようになり、りゅう備・まごけん連合れんごうぐんによる火攻ひぜめで曹操そうそうぐん大敗たいはいしたということになっている。また、曹操そうそう臣下しんかとなっていた親友しんゆうじょけいまれないように、べつ方面ほうめん派遣はけんされるようにしけるさくさづけている。

そのしゅう瑜の葬儀そうぎ参列さんれつしたしょかずらあきら対面たいめんし、りゅうつぶさつかえるようさそわれる。かれざいしんだ魯粛によってまごけん引見いんけんされるが、みにく風貌ふうぼうと、まごけんいかけにきちんとこたえなかったことからうとまれてしまう。つぎに龐統はりゅうつぶさ面会めんかいするが、りゅう備がその風貌ふうぼうしょかずらあきら推挙すいきょする龐統かどうかがわからず、閑職かんしょく地方ちほう県令けんれいあてがってしまう。すると龐統は1かげつあいだしゅばかりんで職務しょくむなまけ、村人むらびとからうったえられることになる。しかし、りゅう備が派遣はけんしたちょう詰問きつもんされたところ、まっていた1かげつぶん仕事しごと半日はんにちすべ片付かたづけてしまう。これによって、龐統がその才能さいのうりゅうつぶさみとめられることになり、さらにりゅう備は自身じしん行為こういいましめることになっている。

またそのについては、気遣きづかったりゅう備があたえた白馬はくばって、りゅう備のわりに危険きけん間道かんどうすすんだため、「落鳳坡」という場所ばしょりゅう備と間違まちがえられて、ちょうつとむ配下はいか伏兵ふくへい射殺しゃさつされたという描写びょうしゃになっている。

なお落鳳坡という地名ちめい実在じつざいし(現在げんざい四川しせんしょう徳陽とくよう白馬はくばせき鎮)、落鳳坡の石碑せきひ付近ふきんには龐統がある。

参考さんこう文献ぶんけん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c The Sanguozhi stated that Pang Tong died at the age of 36 (by East Asian age reckoning) in 214 CE. By calculation, his birth year should be around 179.
  2. ^ de Crespigny, Rafe (2007). A biographical dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23–220 AD). Brill. p. 689. ISBN 978-90-04-15605-0 
  3. ^ 三国志さんごくしこころざし りゅうひょうでんちゅうく『でん
  4. ^ 三国志さんごくし』にはこの時点じてんみなみぐんこう曹にかんする記述きじゅつはありません。
  5. ^ 三国志さんごくししょくこころざし 龐統でんちゅうく『こうひょうでん
  6. ^ 三国志さんごくししょくこころざし 龐統でんちゅうく『荊州けんこころざし
  7. ^ りゅう備は「きみしゅう瑜のこうそうだったころわたしおとずれていたが、そのときしゅうまごけんに、わたしかせるようひそかに進言しんげんしていたとく。そのようなことがまことにあったのか?」とった。龐統は「ありました」とこたえた。りゅう備は「あのときわたし危難きなんかかえていて、どうしてもかなければならなかった。しかししゅう瑜のちる寸前すんぜんであったようだ。智謀ちぼうかんがえることはみなおおむねおなじであることよ。あのとき孔明こうめいわたしたずねるのを一人ひとりつよいさめてくれたが、この事態じたいおそれていたのだな。わたしは、きた曹操そうそうふせがねばならないまごけんわたし支援しえんたよりにしているとかんがえていたので、かれしんけっしてうたがわなかったが、あの訪問ほうもんはとてもあやうく万全ばんぜんさくではなかったなあ」と嘆息たんそくしてった。
  8. ^ 九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう
  9. ^ 三国志さんごくし』「しょくしょ まき さきおもでん
  10. ^ せつ新語しんご言語げんごへんりゅうたかししるべちゅうでは享年きょうねん38となっている。なお雒の攻囲こういせんは213ねんから214ねん越年えつねんしておこなわれているため、龐統の没年ぼつねんがどちらなのかは不明ふめいである。
  11. ^ めいしん20せんには、荀彧荀攸袁渙ちぇじょちんなつほうげんおうけいちんやすし以上いじょうたかし)、しょかずらあきら龐統蔣琬けん以上いじょうしょく)、しゅうちょうあきら魯粛しょかずらりくへりくだ顧雍おそれこぼし以上いじょう)を選出せんしゅつしている
  12. ^ 龐統は「元弘もとひろちょう みやびせいないとおる たかしぜんあいぶつ かんはじめおわり らん備矣 かちぬりたかし 先生せんせいしるべ 振起しんき清風せいふう 綢繆あきら 妄惟 夙夜匪懈 よしざい緝熙 さんりゃくすんでひね 覇業はぎょうやめもと」とうたわれている

外部がいぶリンク

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