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夏侯玄 - Wikipedia

なつほう げん(かこう げん、たてやすし14ねん209ねん) - 嘉平かへい6ねん254ねん)2がつ22にち)は、中国ちゅうごくさんこく時代じだいたかし武将ぶしょう政治せいじ太初たいしょ[1]しゅう沛国譙県(現在げんざい安徽あんきしょう亳州譙城)のひとちちなつこうなお生母せいぼ徳陽とくようさとぬし曹真いもうと)。つまめぐみしゅうと[2]同母どうぼいもうとなつこう司馬しば前妻ぜんさい)。むすめ嶠(かずひろしまご)のつま[3]

なつほうげん
たかし
ふとしつね
出生しゅっしょう たてやすし14ねん
しゅう沛国譙県
死去しきょ 嘉平かへい6ねん2がつ22にち
拼音 xiàhóu xuán
太初たいしょ
主君しゅくん 曹叡曹芳
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生涯しょうがい

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はつ7ねん226ねん)にちちなつほうしょうくなると、そのいだ。若年じゃくねんから名声めいせいはくし、20さいさむらいろう黄門こうもんさむらいろうにんじられた。曹叡あきらみかど)に目通めどおりしたさいもう皇后こうごうおとうとであるもう同席どうせきさせられたことにたい嫌悪けんおかんあらわにしたため、曹叡の不興ふきょうって羽林はばやしかん左遷させんされた[4]。また、なつほうげん鄧颺しょかずら当時とうじ名士めいしたがいに称号しょうごうい、なつほうげんは「よんさとし」の1人ひとりかぞえられた。曹叡はこれを軽薄けいはく評判ひょうばんはや風潮ふうちょうとしてきらっていたともつたわる[5]

せいはじめ年間ねんかん初期しょき曹芳ひとしおう)の治世ちせいで、宗室そうしつである従兄弟いとこ曹爽政権せいけん掌握しょうあくすると、縁戚えんせきであるなつほうげん出世しゅっせし、つねさむらいなかまもるぐん昇進しょうしんした。人物じんぶつがあるという評価ひょうかのとおり、登用とうようした武官ぶかん俊英しゅんえいばかりとなった。一方いっぽうまもるぐんかん常態じょうたいしていた賄賂わいろ風習ふうしゅうめさせることはできなかったともつたわる。のち司馬しばなつこうげん交代こうたいするにおよんで法令ほうれい整備せいびし、この風習ふうしゅう一掃いっそうされた。

司馬しばから政治せいじについて意見いけんもとめられると、九品くほんかんじんほう批判ひはんしたうえ中正ちゅうせいかん権限けんげん縮小しゅくしょう主張しゅちょうし、さらに地方ちほう制度せいど抜本ばっぽんてき改正かいせい意見いけんべた。司馬しば懿はなつこうげん返書へんしょおくり、すぐれた人物じんぶつないかぎりその政策せいさく実施じっしできないだろうとべた。なつこうげんはさらに返書へんしょおくり、司馬しば懿の消極しょうきょくてき姿勢しせい非難ひなんした。

そのかりふしせい西にし将軍しょうぐんみやこただし雍涼しゅうしょ軍事ぐんじ昇進しょうしんした。友人ゆうじんであったまさるちょう重用じゅうようし、せいはじめ5ねん244ねん)にはまさる進言しんげんけて曹爽とともしょくかん侵攻しんこうしたが、輸送ゆそうくるしみおおきな被害ひがいした。かねてからこの軍事ぐんじ行動こうどう反対はんたい姿勢しせいしめしていた司馬しば懿に再度さいど撤退てったい進言しんげんされ、なつほうげんがそれに同調どうちょうする意見いけんを曹爽につたえたことで、ぐん帰還きかんすることとなった(きょうぜいやく[6]

せいはじめ10ねん249ねん)、司馬しば懿のクーデター(高平たかひらりょうへん)により曹爽が処刑しょけいされると、なつほうげん中央ちゅうおう召還しょうかんされ、だいおおとりとなった。同年どうねんしたがえちちなつこうしょくかん亡命ぼうめいしているが、なつほうげんかれ同行どうこうもとめられたものの、これを拒絶きょぜつした。

すうねんにはふとしつね転任てんにんしたが、曹爽との関係かんけい理由りゆう抑圧よくあつされ、不遇ふぐう日々ひびかこった。中書ちゅうしょれいゆたかは、司馬しば懿ののちいで政権せいけんにぎった司馬しば信任しんにんけていたが、ひそかになつこうげんしんせていた。司馬しば誅殺ちゅうさつし、なつほうげん大将軍だいしょうぐんとして政権せいけんにぎらせようとかんがえ、ちょうらと計画けいかくめぐらした。

しかし嘉平かへい6ねん(254ねん)2がつ22にち[7]計画けいかく露見ろけんしまずゆたか誅殺ちゅうさつされ、なつこうげんちょう緝らは廷尉鍾毓もとおくられた。調しらべをけても供述きょうじゅつ拒否きょひし、鍾毓が事実じじつ符合ふごうするよう作成さくせいした供述きょうじゅつしょせられると、ただうなずくばかりだった。また、このに鍾毓のおとうと鍾会れしい態度たいど接近せっきんしてくると、なつほうげん毅然きぜんとした態度たいどでこれをこばんだ。

鍾毓の立件りっけんもとづき、なつほうげんらは大逆だいぎゃくざいわれ、刑法けいほうによりこししょされた。享年きょうねん46。けいのぞんでも顔色かおいろひとえず、堂々どうどうとした態度たいどけいふくした。なつこうげんさんぞく皆殺みなごろしとなったが、せいもと年間ねんかんはいり、なつほうしょうしたがえまごなつこうほんあきらりょうていこうふうじられ300邑をりょうし、なつほうしょうのちいだ。

学者がくしゃとしてもひいでていたなつほうげんは、『らくあつしろん』『ちょうりょうろん』『ほんにくけいろん』をあらわした。その文章ぶんしょうすじかよっており、世間せけんひろつたわった。とくに『らくあつしろん』は王羲之おうぎし書写しょしゃしたことで有名ゆうめいである。

評価ひょうか

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とも名声めいせいあつめたなにからは「ひたすらふかい。それゆえにこそ天下てんか人々ひとびと意志いし通暁つうぎょうする」とひょうされた[8]むすめおっとであるかず嶠からはその人柄ひとがら敬慕けいぼされた[3]。また、鍾会はしょくかんきょう降伏ごうぶくしたさいかれひょうして「しょかずら誕やなつこうげんでもかれ以上いじょうではあるまい」とべた[9]きょう維の評価ひょうかたかさと同時どうじに、なつほうげん名士めいし代表だいひょうかくであったことの証左しょうさでもある。

人物じんぶつのあるでんには交際こうさい拒絶きょぜつされた。2人ふたり共通きょうつう友人ゆうじんである荀粲なつこうげんを「いち時代じだい風靡ふうびする英傑えいけつ」とひょうでん嘏に交際こうさいすすめたが、でん嘏は「その器量きりょうよりおおきな野心やしんつ、道徳どうとくはずれた人物じんぶつ」とし、れなかった[10]

三国志さんごくし』の編者へんしゃちん寿ひさしは、「しょなつこう曹伝」のひょうで、なつほうげんすぐれた才能さいのう功績こうせきみとめつつも曹爽のあやまりをただすことができなかったてん批判ひはんし、「悲劇ひげきてき最期さいごむかえたことも仕方しかたなかったのではないか」とひょうした。同書どうしょ注釈ちゅうしゃくしゃ裴松は、たてつてされているちちなつこうなおして、「ちちしの才能さいのうぬし」としるした[11]

あずますすむ袁宏の「さん国名こくめいしんじょさん」(『文選ぶんせん所収しょしゅう)ではの9にんしょくの4にんの7にんめいしんとして賞賛しょうさんされており、そのなかげられている[12][13]

出典しゅってん

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  • 三国志さんごくししょ まき9 なつこうなおつて なつこうげんでん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 三国志さんごくししょ 曹真でんちゅうたかし春秋しゅんじゅう』、でん嘏伝ちゅうでん』ではたいはつ
  2. ^ まき12・稽神くるるだい2
  3. ^ a b 三国志さんごくししょ かずひろしでんちゅうすすむ諸公しょこうさん
  4. ^ まごもりざつ』によれば、美男びなん有名ゆうめいだったなつほうげんと、風采ふうさいのあがらなかったもう曾が同席どうせきしたことを、当時とうじ人々ひとびとが「あしたまじゅにもたれかる」とひょうしたためだともわれる。
  5. ^ 三国志さんごくししょ しょかずら誕伝ちゅう』 なお、この記事きじでは「つねさむらいなつほうげん」とあるが、正史せいし本文ほんぶんしたがうと、なつほうげんつねさむらいになったのは曹叡の死後しご
  6. ^ 曹真でんちゅうりゃく』『かんすすむ春秋しゅんじゅう
  7. ^ 三国志さんごくししょ ひとしおうおさむ
  8. ^ 曹真でんちゅうたかし春秋しゅんじゅう
  9. ^ 三国志さんごくししょくしょ きょう維伝
  10. ^ 三国志さんごくししょ でん嘏伝ちゅうでん
  11. ^ 三国志さんごくししょくしょ ただしまことつてちゅう
  12. ^ めいしん20せんには、荀彧荀攸袁渙ちぇじょちんなつほうげんおうけいちんやすし以上いじょうたかし)、しょかずらあきら龐統蔣琬けん以上いじょうしょく)、しゅうちょうあきら魯粛しょかずらりくへりくだ顧雍おそれこぼし以上いじょう)を選出せんしゅつしている
  13. ^ なつほうげんは「ふち哉泰はつ 宇量高雅こうが うつわはん自然しぜん 標準ひょうじゅんかり 全身ぜんしん由直よしなお あと洿必にせ しょ匪難 そんそくえき 萬物ばんぶつとろけ 孰任其累 ろくごう徒廣だだっぴろ よう靡寄 きみおや自然しぜん 匪由めいきょう けい授既どう じょうれいけんいた」とうたわれている