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和洽 - Wikipedia

かず ひろし(わ こう、か こう[1]なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだいたかしにかけての人物じんぶつしゅうなんじみなみぐん西平にしだいらけん出身しゅっしん禽・かず逌。まご逌の)は嶠・かずいく。『三国志さんごくししょつてがある。

生涯しょうがい

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三国志さんごくしかずひろしでんちゅうく『なんじみなみ先賢せんけんでん』によると、人物じんぶつ批評ひひょうもとによって見出みいだされたとわれる。こうれん推挙すいきょされ、大将軍だいしょうぐんから招聘しょうへいけたが、いずれもおうじなかった。冀州った袁紹なんじみなみ大夫たいふ招聘しょうへいすると、かずひろしは冀州を危険きけんて、一族いちぞくとも荊州りゅうひょうせた。りゅうひょう上客じょうきゃくれいを以ってかずひろしぐうしたが、かずひろしりゅうひょう暗愚あんぐ判断はんだんしたため、みなみくだたけりょう居住きょじゅうした。

たてやすし13ねん208ねん)に曹操そうそうが荊州を平定へいていしたのち招聘しょうへいされて丞相じょうしょうじょうぞくとなる。当時とうじ曹操そうそうした官吏かんり人事じんじ職務しょくむにあたっていたのはちぇもうであったが、かずひろし清廉せいれんさにおもきをきすぎるかれらのやりかたぎとして批判ひはんした。

けんやす18ねん213ねん)11月、おうつばらもりかさねまもるともに、はんこくとして建国けんこくされたさむらいちゅうとなる[2]もりかさねとも曹操そうそうからつよ信任しんにんけ、競争心きょうそうしんつよおうつばらからは嫉妬しっとけた[3]もう玠が讒言ざんげんけると、曹操そうそう事実じじつ関係かんけい調査ちょうさするようつよ依頼いらいした。曹操そうそうが讒者をかばったので事実じじつあきらかにすることはできず、もう玠は失脚しっきゃくしたものの、免職めんしょくまされた。

けんやす20ねん215ねん)、曹操そうそうかんちゅうちょうやぶると、その住民じゅうみん移住いじゅうさせるさく提言ていげん曹操そうそうはすぐにはれなかったが、結局けっきょくかんちゅう放棄ほうきして住民じゅうみん移住いじゅうさせた。こののちろうちゅうれい転任てんにんした。

はつ元年がんねん220ねん)、ぶんみかど曹丕)が即位そくいするとひかりろくくん安城あきちんこうてられる。はつ7ねん227ねん)にあかりみかど曹叡)が即位そくいしたのち爵位しゃくい西陵せいりょうきょうこうのぼった。さらに転任てんにんしてふとしつねとなったが、清貧せいひん生活せいかつかたまもり、あきらみかどから穀物こくもつきぬ帛をたまものあずかされるほどだった。死去しきょのち、簡侯とおくりなされた。

出典しゅってん

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  • 三国志さんごくししょ まき23 かずひろしでん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ちくま学芸がくげい文庫ぶんこの『正史せいし 三国志さんごくし』ではふりがなをわこうどう三国志さんごくし演義えんぎ』ではかこうとする。
  2. ^ 三国志さんごくししょたけみかどちゅうく『たかし春秋しゅんじゅう』。
  3. ^ 三国志さんごくししょもりかさねでん