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孝廉 - Wikipedia

こうれん(こうれん)は、中国ちゅうごく前漢ぜんかんたけみかど制定せいていした秀才しゅうさい[1]などとならさときょさとせん察挙科目かもくひとつ。こうかどとは父母ちちははへのこうじゅんおよ物事ものごとたいするれんせい態度たいど意味いみする。こうかどは察挙つねなかもっと重要じゅうようされた科目かもくである[2]

概要がいよう

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もとひかり元年がんねんぜん134ねん)、たけみかどただしなか建議けんぎれ、毎年まいとしこくぐんごとにこうしゃれんしゃかく1めい推挙すいきょするようにめいじた。やがてこのたねの察挙はこうかど通称つうしょうされるようになり、かんだい察挙せいなかさい重要じゅうよう科目かもくとしての地位ちいめるようになり、かんだいかんじん主要しゅよう選抜せんばつ手段しゅだんとなった。儒教じゅきょうてき教養きょうよう素行そこうそなえている人物じんぶつおも推挙すいきょされた。

通例つうれいとしては在野ざいやものひゃくせき以下いかぞく吏がぐん太守たいしゅまたはくに諸侯しょこうしょうによってこうかど推薦すいせんされ、推挙すいきょされた人物じんぶつ中央ちゅうおう派遣はけんされたのちただちに官職かんしょくかず、まずはろうしょ配置はいちされろうかんとなった。これは宮廷きゅうてい宿衛しゅくえい担当たんとうすることで朝廷ちょうてい実務じつむ実地じっち体験たいけんしながら学習がくしゅうすることを目的もくてきとしていた。このようにして一定いってい期間きかん経過けいかされたのちさんひゃくせきろうちゅうになったのちしなだい結果けっかによりよんひゃくせき前後ぜんこうけん県令けんれいちょうそうあるいは中央ちゅうおう官職かんしょく選抜せんばつされる制度せいどであった。のち対象たいしょうしゃろくひゃくせき未満みまんとする制限せいげんができた[3][4]

よしみ元年がんねん132ねん)、尚書しょうしょれいひだりつよし建議けんぎによりこうかどおうじるものはまん40さい以上いじょうとされ(しかし、才能さいのう品行ひんこう非常ひじょうすぐれた人物じんぶつ年齢ねんれいかかわらないで推挙すいきょすることとなった)、同時どうじ儒生じゅせい出身しゅっしんこうかどせいたいしてはけいじゅつぶん出身しゅっしん場合ばあいには箋奏の試験しけん義務付ぎむづけられた。これ以降いこう正規せいき官吏かんり登用とうよう試験しけんとして整備せいびされていった。

なかにはこうかど秀才しゅうさい辟召しるしといった中央ちゅうおう政権せいけんへの推挙すいきょけながられいみかどはなのように一切いっさい任官にんかん登用とうよう拒否きょひしたれい[5]こうかどによる推挙すいきょけたが、そこでの登用とうよう拒否きょひして辟召・しるし召による登用とうようけるれいもあった。これはそれぞれの採用さいようはつ任官にんかんかん扶の各々おのおの時代じだい政治せいじ世論せろん状況じょうきょうなどによるものとの研究けんきゅうがある[6]

しかしその役人やくにん権力けんりょくしゃ豪族ごうぞくむすびつきがつよくなると、権力けんりょくしゃ豪族ごうぞく子弟してい優先ゆうせんして推挙すいきょされるようになり、この制度せいど形骸けいがいしていく。つねみかどれいみかどにはこうかどによる推挙すいきょこばもの割合わりあいたかかった[6]先述せんじゅつのように地方ちほう権力けんりょくしゃ豪族ごうぞく意向いこうつよ反映はんえいされるようになったこうかどをはじめとするさときょさとせんせい形骸けいがいし、のちにたかしでその是正ぜせいのために九品くほんかんじんほう施行しこうされ縮小しゅくしょうしたさときょさとせんせい併用へいようされるがそれもすすむあさ南北なんぼくあさ時代じだいつうじて次第しだい形骸けいがいしていき、ずいあさいた科挙かきょ導入どうにゅうされるにいたった[7]

こうかどは、地方ちほう長官ちょうかんによる推挙すいきょ制度せいどから科挙かきょ制度せいどへの過渡かと制度せいどであったとえるだろう。

出典しゅってん

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  1. ^ こうかん光武みつたけみかどいみなしげるざいとされた
  2. ^    (中国ちゅうごく) こう漢書かんしょひだりあまね列伝れつでん史論しろん, ウィキソースより閲覧えつらん, "かんはつみことのり舉賢りょう方正ほうせいしゅうぐん察孝れん秀才しゅうさい、斯亦みつぎこれかた也。中興ちゅうこう以後いごふくぞうあつししらき有道ありみちけんのう直言ちょくげん獨行どっこう高節こうせつしつじき清白すずしろあつしあつぞく。" 
  3. ^ 福井ふくいしげるみやびかんだい賢良けんりょう方正ほうせいこう」『東洋とうよう研究けんきゅうだい43かんだい3ごう東洋とうよう研究けんきゅうかい、1984ねん12月31にち、433-459ぺーじdoi:10.14989/1539652021ねん2がつ28にち閲覧えつらん 
  4. ^    (中国ちゅうごく) 漢書かんしょ』「せんみかど, ウィキソースより閲覧えつらん, "舉廉吏、まこと欲得よくとく其真也。吏ろくひゃくせき大夫たいふ有罪ゆうざいさき請、秩祿上通かみとおりあし以效其賢ざい自今じこん以來いらい毋得舉。" 
  5. ^   しょ·かたわざでん (中国ちゅうごく), 三國志さんごくし/まき29#はな, ウィキソースより閲覧えつらん  - はな佗字もと,沛國譙人也,いちめい旉。ゆうがくじょけんどおりすうけい。沛相ひね珪舉こうれんふとしじょう琬辟,みな就。
  6. ^ a b 西川にしかわ利文としふみこうかん官吏かんり登用とうようほうかんするさん問題もんだい」『佛教大學ぶっきょうだいがく大學院だいがくいん研究けんきゅう紀要きようだい15かん佛教大学ぶっきょうだいがく学会がっかい、1987ねん3がつ、107-136ぺーじCRID 1050287838683676672ISSN 0386-328X 
  7. ^ 曾我そが静雄しずお<論説ろんせつ>中国ちゅうごく選挙せんきょみつぎきょ科挙かきょ」『りんだい53かんだい4ごう史学しがく研究けんきゅうかい (京都きょうと大学だいがく文学部ぶんがくぶない)、1970ねん7がつ、488-512ぺーじCRID 1390009224845962752doi:10.14989/shirin_53_488hdl:2433/237989ISSN 0386-9369