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北条高時 - Wikipedia

北条ほうじょうだか

日本にっぽん武将ぶしょう

北条ほうじょう だか(ほうじょう たかとき)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき北条ほうじょうとく宗家そうけ当主とうしゅ鎌倉かまくら幕府ばくふだい14だい執権しっけん在職ざいしょく1316ねん - 1326ねん)。だい9だい執権しっけん北条ほうじょう貞時さだとき三男さんなん

 
北条ほうじょう だか
北条ほうじょうだかぞうたから戒寺所蔵しょぞう
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき
生誕せいたん よしみもと元年がんねん12月2にち1304ねん1がつ9にち
死没しぼつ 元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん5月22にち1333ねん7がつ4にち
改名かいめい なり寿ことぶきまる幼名ようみょう)→だかたかしかん法名ほうみょう
かみごう とくたかしだい権現ごんげん
戒名かいみょう 日輪寺にちりんじ殿でんたかしかん
墓所はかしょ 鎌倉かまくら小町こまち ひがしかち寺跡てらあとやぐら
官位かんい せいした相模さがみもり修理しゅうりけん大夫たいふしたがえよんした
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふだい14だい執権しっけん
主君しゅくん まもりくに親王しんのう
氏族しぞく 北条ほうじょうとくむね
父母ちちはは ちち北条ほうじょう貞時さだときははさとしうみえんなり安達あだちやすしむねむすめ
兄弟きょうだい さとしひさきく寿ことぶきまるたかときたいたかしあかつききむ寿ひさしまる千代ちよ寿ひさしまる北条ほうじょうしつ北条ほうじょう熙時しつ土岐ときひかりじょうしつ北条ほうじょうもとしつ
つま 正室せいしつ安達あだちあらわむすめ
側室そくしつ常葉ときわまえ御内おんうちじん五大ごだいいんそうしげるいもうと
側室そくしつきょく
くにときどきぎょう女子じょし2にん[1]
養子ようし
花押かおう 北条高時の花押
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生涯しょうがい

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誕生たんじょう元服げんぷく

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よしみもと元年がんねん12月2にち1304ねん1がつ9にち)、北条ほうじょう貞時さだとき三男さんなんとしてまれる。三男さんなんであったが、長兄ちょうけい次兄じけい夭折ようせつしているので、事実じじつじょう嫡男ちゃくなんであった。

のべけい2ねん1309ねん)に7さい元服げんぷくする(『鎌倉かまくら年代ねんだい』)。このくわしい様子ようすつたえる史料しりょういまのところ発見はっけんされていないが、それまでのとく宗家そうけ当主とうしゅ北条ほうじょうやすしとき経時きょうじどきよりゆき時宗じしゅう元服げんぷく様子ようすは『吾妻あづまきょう』で、ちち貞時さだとき元服げんぷく様子ようすは『建治けんじさんねん』で確認かくにんすることができる[2]同様どうように、幕府ばくふ御所ごしょにおいて、将軍しょうぐん当時とうじまもりくに親王しんのう)を烏帽子えぼしおやとしておこなわれたものとかんがえられている。

元服げんぷくさいしては烏帽子えぼしおやへんいみな実名じつめいの1)をけることがおおいが、「こう」の名乗なのりをかるとおり、将軍しょうぐんへんいみなまもりくに親王しんのうの「まもり」または「くに」の1)はけなかったようである。どう時代じだい(のうえ立場たちば)のもので「こう」のもちいる人物じんぶつはおらず、研究けんきゅうでは祖先そせんとされるひらたこうもち高望王たかもちおうあやかったものとする見解けんかいしめされている。元々もともと細川ほそかわ重男しげおがこのせつ[ちゅう 1]となえたものの根拠こんきょなしとして論文ろんぶんとうではしめしてはいなかったが、角田つのだ朋彦ともひこ根拠こんきょきでこれを支持しじしている。これは、細川ほそかわ著書ちょしょで、北条ほうじょう時宗じしゅうこう祖父そふ)のだいに、とく宗家そうけによる政治せいじ支配しはい体制たいせい確立かくりつさせるにあたりその正統せいとうせい主張しゅちょうするために、にあたる北条ほうじょうよしとき武内たけうち宿禰すくねになぞらえる伝説でんせつまれて流布るふしていたこと[3][4] や、時宗じしゅうとは不可分ふかぶん関係かんけいにあった平頼綱たいらのよりつな貞時さだとき乳母うばおっとにあたる)がみずからの家格かかく向上こうじょうさせるため、次男じなんむねじょしゅうともく)の名字みょうじ名前なまえの1)を平資盛たいらのすけもりもとめた可能かのうせいがあること[5]べており、こうしたかんがかた可能かのうならば、同様どうよう時宗じしゅう自分じぶん嫡男ちゃくなん名字みょうじ平貞盛たいらのさだもりに、貞時さだとき嫡男ちゃくなん名字みょうじ高望王たかもちおうに、それぞれもとめたとかんがえることができるのではないかという理由りゆうによるものである。くわえて角田つのだは、貞時さだときだかだいには将軍しょうぐん御家人ごけにんというへんいみな授与じゅよ図式ずしき存在そんざいせず[ちゅう 2]とく宗家そうけ当主とうしゅである貞時さだときの「さだ」のこうの「こう」の御家人ごけにんあたえられる図式ずしきがこの時代じだい成立せいりつしていたことが御家人ごけにん名前なまえからうかが[7]、これはとくむね権力けんりょく確立かくりつしていたことの徴証ちょうしょうひとつとしてれるとする見解けんかいしめしている[8]

家督かとく相続そうぞく執権しっけんへの就任しゅうにん

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おうちょう元年がんねん1311ねん)、9さいときちち貞時さだとき死去しきょ貞時さだとき死去しきょさいこうしゅうと安達あだちあらわうち管領かんりょう長崎ながさきえんおさなこう後見こうけんとして指名しめいした。そのだかまで3だい中継なかつ執権しっけん[ちゅう 3]て、正和しょうわ5ねん1316ねん)、ちちおなじ14さいで14だい執権しっけんとなる。そのころにはえん嫡男ちゃくなん長崎ながさきだか権勢けんせいつよめていた。

たかときは、すで日蓮にちれん弟子でしにちろう殿中でんちゅうにて諸宗しょしゅうとの問答もんどう対決たいけついのちくだし、にちろう高齢こうれいのためわりに門下もんかにちしるし1264ねん - 1328ねん)を討論とうろんかわせ、ぶん2ねん1318ねん)12がつ20日はつかからよくもとおう元年がんねん1319ねん)9がつ15にちにかけ3かいにわたり、いわゆる鎌倉かまくら殿中でんちゅう問答もんどう弟子でしにちせい記録きろくのこす)をおこなわせた。とき征夷大将軍せいいたいしょうぐんみや将軍しょうぐんまもりくに親王しんのうである。結果けっかにちしるし諸宗しょしゅうをことごとく論破ろんぱし、題目だいもくむね布教ふきょうこうゆるした。

在任ざいにんちゅうには、諸国しょこくでの悪党あくとう活動かつどうや、奥州おうしゅう蝦夷えぞ反乱はんらん安藤あんどうらんなどがき、正中せいちゅう元年がんねん1324ねん)、京都きょうと後醍醐天皇ごだいごてんのう幕府ばくふ転覆てんぷく計画けいかくした正中せいちゅうへんでは、倒幕とうばく計画けいかくろく探題たんだいによって未然みぜんふせがれ、後醍醐天皇ごだいごてんのう側近そっきん日野ひのあさ佐渡さどとう配流はいるし、計画けいかく加担かたんしたもの処罰しょばつされた。

執権しっけん退任たいにんから最期さいごまで

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正中せいちゅう3ねん1326ねん)には、やまいのため24さい執権しっけんしょくして出家しゅっけ法名ほうみょうたかしかん)する。後継こうけいめぐり、こう実子じっしくに長崎ながさきと、おとうとたい安達あだち対立たいりつする騒動そうどうよしみれき騒動そうどう)がこる。3月には金沢かなざわさだあきら執権しっけん就任しゅうにんするがすぐに辞任じにんし、4がつ赤橋あかばし守時もりとき就任しゅうにんすることで収拾しゅうしゅうする。この騒動そうどう背景はいけいには、太守たいしゅだか庶子しょしであるくに長崎ながさきたいし、こう時正ときまさしつ実家じっか安達あだちであったため、せい嫡子ちゃくしまれるまでとしてたかとき実弟じっていたい安達あだちとの確執かくしつがあったとされる。

元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)には、こうえんらを誅殺ちゅうさつしようとしたとして長崎ながさき高頼たかよりなどのたかとき側近そっきんらが処罰しょばつされる事件じけんこる。8月に後醍醐天皇ごだいごてんのうふたた倒幕とうばくくわだてて笠置山かさぎやまこもり、河内かわうちでは楠木くすのき正成まさしげ挙兵きょへいする元弘もとひろらんこると、ぐん派遣はけんして鎮圧ちんあつさせ、よく1332ねん3がつにはまた後醍醐天皇ごだいごてんのう隠岐島おきのしま配流はいるし、側近そっきん日野ひのしゅんもとらを処刑しょけいする。皇位こういにはあらたに持明院じみょういんみつるひかりげん天皇てんのうてる。

元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん1333ねんうるう2がつ後醍醐天皇ごだいごてんのう隠岐おき脱出だっしゅつして伯耆ほうきこく船上山せんじょうさん挙兵きょへいすると、幕府ばくふ西国さいこく倒幕とうばく勢力せいりょく鎮圧ちんあつするため、北条ほうじょう一族いちぞく名越なごしだか御家人ごけにん筆頭ひっとうである下野げやこく御家人ごけにん足利あしかがたかし尊氏たかうじ京都きょうと派遣はけんする。4月にこう赤松あかまつ則村のりむら円心えんしん)のぐんたれ、こう後醍醐天皇ごだいごてんのうかた寝返ねがえって、5月7にちろく探題たんだい攻略こうりゃく同月どうげつ8にち関東かんとうでは上野うえのこく御家人ごけにん新田にった義貞よしさだ挙兵きょへいし、幕府ばくふぐん連破れんぱして鎌倉かまくら進撃しんげきする。5月18にち新田しんでんぐん鎌倉かまくら侵攻しんこうすると、しばらくはちこたえるも、4にちの5がつ22にち守備しゅび突破とっぱされて鎌倉かまくら市内しない乱入らんにゅうされたため、たかとき北条ほうじょう菩提寺ぼだいじかずら西ケ谷にしがやひがししょうてら退しりぞき、北条ほうじょう一族いちぞく家臣かしんらとともに自刃じじんしててた。享年きょうねん31(まん29さいぼつ)。

 
ひがしかち寺跡てらあとおくにある北条ほうじょうだか腹切はらきやぐら

とくたかしだい権現ごんげん

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鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう後醍醐天皇ごだいごてんのうから「とくたかしだい権現ごんげん」というかみごう下賜かしされ、かみとしてたから戒寺まつられている。鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうした5月22にちに、こう慰霊いれいのためにとくたかしだい権現ごんげんかいだい般若はんにゃけい転読てんどくかいおこなわれる。境内けいだいとくたかしだい権現堂ごんげんどうまつられている北条ほうじょうだかぞうが、輿こし本堂ほんどうむかえられ(「とくたかしだい権現ごんげんかい」)、「だい般若はんにゃけい転読てんどくかい」がおこなわれる。だい般若はんにゃけい正式せいしき名称めいしょうだい般若はんにゃ波羅蜜はらみつけいといい三蔵さんぞう法師ほうしがインドからかえった600かんおよぶものである。転読てんどくわると、こう神像しんぞう権現堂ごんげんどうもど[9]

人物じんぶつ

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北条ほうじょうだか烏天狗からすてんぐだまされるの月岡つきおか芳年よしとし芳年ほうねん武者むしゃ无類』より)

古典こてん太平たいへい』や『ぞうきょう』『れきあいだ』『鎌倉かまくらきゅうだい』など後世こうせい成立せいりつした記録きろくでは、趣味しゅみふけり、幕政ばくせい混乱こんらんさせた暗君あんくんとしてかれる傾向けいこうにあり、江戸えど時代じだいから明治めいじにかけての史学しがくでも、その傾向けいこうがあった。大正たいしょう時代じだい日本にっぽん教科書きょうかしょでも、『太平たいへい』の記述きじゅつ参考さんこうとしており、こう闘犬とうけん田楽でんがく耽溺たんできして政務せいむかえりみない暗愚あんぐ当主とうしゅとして記載きさいしている[10]

太平たいへい』には、こう妖霊ぼしよろこおどり、一方いっぽう藤原ふじわらなかはんが妖霊ぼし亡国ぼうこく予兆よちょうであるため、鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうすることを予測よそくしたエピソードが挿入そうにゅうされている[10]さらに、一族いちぞく礎石そせききずいた初代しょだい執権しっけん北条ほうじょう時政ときまさが、江島えじま参籠さんろうしたところ、江島えじま弁財天べざいてん時政ときまさたいして時政ときまさから7だいあいだ北条ほうじょう安泰あんたいである加護かごほどこしたはなし記載きさいし、とくむねで7代目だいめたるこうちち貞時さだときだいにその加護かごれたと記載きさいする。『太平たいへい』は、たかとき暗愚あんぐであったうえ江島えじま弁財天べざいてん加護かごまでれてしまったのだから、鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう至極しごく当然とうぜんのことであった、とだんじている[11]

れきあいだ』は、こう人物じんぶつぞうについて「すこぶほろびからだにて、将軍家しょうぐんけ執権しっけんかながたかりけり」「正体しょうたいき」としるしている。一族いちぞくである金沢かなざわさだあきらのこした『金沢文庫かなざわぶんこ古文書こもんじょ』にもかれ病弱びょうじゃくだったことが強調きょうちょうされており、かれ病状びょうじょう一喜一憂いっきいちゆうする周囲しゅうい様子ようすをうかがわせる。またさだあらわ書状しょじょうには「田楽でんがくそと他事たじこう」ともかれており、田楽でんがく愛好あいこうしていたことはたしかである。かれ虚弱きょじゃく体質たいしつ原因げんいんとして、祖父そふ時宗じしゅうさらには高祖父こうそふまでさかのぼ安達あだち正室せいしつとした血族けつぞく結婚けっこんにあるとおもわれる。実際じっさいかれ正室せいしつ安達あだちである。また、『じょう河原かわはら落書らくがき』には「いぬ田楽でんがく関東かんとうノホロ(めつ)フルぶつうんナカラ」とかれており、鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうからあいだもないときからこう闘犬とうけん田楽でんがく愛好あいこうしたことが、幕府ばくふほろぼした要因よういんひとつだとされてきたことがうかがえる[12]。また田楽でんがくについては1330ねんもととく2ねん)に東大寺とうだいじしゅ掻会にて参加さんかする田楽でんがく役者やくしゃ選任せんにんにたいして幕府ばくふ介入かいにゅうしており南都なんと反感はんかんったことも田楽でんがくこうわるひょうされる要因よういんの1つとなっている。

ちち貞時さだとき場合ばあい、そのちちである時宗じしゅうぼっしたときには14さいであり、政務せいむいそしむ父親ちちおや姿すがたっており、23さいときひら禅門ぜんもんらん実権じっけん掌握しょうあくしてからは、政務せいむいそしんでとくむね専制せんせい確立かくりつしたが、こう場合ばあいかれが3さいとききたよしみもとらん以来いらい貞時さだとき政務せいむたいする意欲いよくうしなって酒浸さけびたりの生活せいかつになっていたうえ、こうが9さいときにはちちっていたため、たかとき政務せいむおこなちち姿すがたらなかった[13]。また、晩年ばんねん貞時さだとき酒浸さけびたりになって政務せいむ放棄ほうきしたため、こう家督かとくいだころには幕府ばくふ長崎ながさきえんらの御内おんうちじん外戚がいせき安達あだちあらわ北条ほうじょう庶家などの寄合よりあいしゅうらが主導しゅどうする寄合よりあいによって「かたちごと子細しさいなく」(先例せんれいしたが形式けいしきどおりに)運営うんえいされるようになっており、最高さいこう権力けんりょくしゃであったはずのとくむね将軍しょうぐん同様どうよう装飾そうしょくてき地位ちいとなっていたため、たかとき主導しゅどうてき立場たちばることをもとめられていなかった[14]。その一方いっぽうで、たかときゆめまどうとせきらの禅僧ぜんそうとも親交しんこうって、仏画ぶつがなどにもしたしみ、ぜんである南山なんざんくもいただきしょうみずかえがいた作例さくれいられている[15]

また、『ぞうきょう』も、こう病弱びょうじゃくであり、鎌倉かまくら支配しはいしゃとしてっていたものの、うつろでいることがおおかった、体調たいちょうすぐれているときは、田楽でんがく闘犬とうけんきょうじることもあったとしるしている[16]。また、田楽でんがく闘犬とうけん愛好あいこうしたのは、執権しっけん退しりぞいた1326ねん以降いこうであったとしるしている[17]。『太平たいへい』の記述きじゅつは、『ぞうきょう』などとくらべると、悪意あくいのある誇張こちょう目立めだつと指摘してきされる[17]。こうした『太平たいへい』におけるこうぞうは、討幕とうばくたした後醍醐天皇ごだいごてんのうならびにその一派いっぱが、鎌倉かまくら幕府ばくふ失政しっせい弾劾だんがいし、喧伝けんでんするなかつくげたものという側面そくめんもあるとされる[18]

1884ねん明治めいじ17ねん)11月東京とうきょうさるわか初演しょえんされた黙阿弥もくあみさくかつれきぶつしん歌舞伎かぶき北条ほうじょうきゅうだい名家めいかこう(ほうじょうくだいめいかのいさおし)通称つうしょうこう』で、きゅう代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろうこう高慢こうまんかつ孤独こどく愚鈍ぐどん深層しんそう心理しんり内側うちがわからきわめて写実しゃじつてき表現ひょうげんして大当おおあたりとなったが、これが今日きょうあるこう人物じんぶつぞう決定的けっていてきなものにした。どうさく今日きょうでも上演じょうえんされることがおお人気にんきさくとなっている。また近年きんねんでは、NHK大河たいがドラマ太平たいへい』(こうやく片岡かたおか鶴太郎つるたろう)や湯口ゆぐち聖子せいこさく漫画まんがふう墓標ぼひょう』(秋田あきた書店しょてん)の影響えいきょうからか、病弱びょうじゃく、かつ虚無きょむかんただよわせた人物じんぶつぞう定着ていちゃくするようになった[19]

経歴けいれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

参考さんこう資料しりょう北条ほうじょう時政ときまさ以来いらい後見こうけん次第しだい東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ所蔵しょぞう)、鎌倉かまくら年代ねんだい増補ぞうほぞく史料しりょう大成たいせい)、関東かんとう開闢かいびゃくすめらぎだい并年だい記事きじ東京大学とうきょうだいがく所蔵しょぞう

へんいみなけた人物じんぶつ

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こうだいには「だか」の一般いっぱん御家人ごけにん下賜かしする図式ずしき成立せいりつしていたことが論文ろんぶんによって指摘してきされており(前述ぜんじゅつ参照さんしょう)、これに該当がいとうする人物じんぶつ以下いかものとみられる。

北条ほうじょう一門いちもん

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ほか

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
  • 高橋たかはし直樹なおき北条ほうじょうだか最期さいご」(『鎌倉かまくら擾乱じょうらん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 所収しょしゅう、1996ねん
テレビドラマ
漫画まんが

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ くわえてちち貞時さだときの「さだ」が平貞盛たいらのさだもり由来ゆらいするとするせつ
  2. ^ 角田つのだ論文ろんぶんされたのちに、赤橋あかばしひさとき久明ひさあき親王しんのうひさ守時もりときたかとき嫡男ちゃくなんくにときまもりくに親王しんのうへんいみなたまわっていることが指摘してきされている[6]が、これはとく宗家そうけ赤橋あかばしりゅう北条ほうじょう将軍しょうぐん烏帽子えぼしおやとする家系かけいであったためであり、例外れいがいとみなす。
  3. ^ 11だいそうせん、12だいひろしとき、13だいもとの3めいす。ちちであるだい9だい貞時さだとき正安まさやす3ねん1301ねん)に10代執権しっけんしょくゆずっていたが、貞時さだときの1ヶ月かげつほどまえくなっており、貞時さだとき逝去せいきょそうせん執権しっけんにあった。
  4. ^ ドラマ(創作そうさくぶつ)の脚色きゃくしょくによるものではあるが、NHK大河たいがドラマ太平たいへい」(1991ねん)のだい1ではまた太郎たろう尊氏たかうじ)が北条ほうじょうだか烏帽子えぼしおやとして元服げんぷくし「こう」のあたえられた様子ようすえがかれ、ナレーションでもそのむね解説かいせつされていた。
  5. ^ ただし、「高綱たかつな」のは『系図けいず纂要とう系図けいずるいられるのみで、『小笠原おがさわらあやしょ』「とりもち日記にっき徳治とくじ2ねん1307ねん)7がつ12にちじょうから当初とうしょは「もりはじめ」と名乗なのっており、こう元服げんぷくさんヶ月かげつには出家しゅっけしていること確認かくにんされるため、そのさんヶ月かげつほどの短期間たんきかん名乗なのっていた可能かのうせいは(ないとはえないものの)ひくいとされる。

出典しゅってん

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  1. ^ 鈴木すずき由美ゆみちゅう先代せんだいらん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2021ねん、38ぺーじ 
  2. ^ a b 山野さんや 2012, p. 164.
  3. ^ 細川ほそかわ重男しげお本郷ほんごう和人かずと北条ほうじょうとく宗家そうけ成立せいりつ試論しろん」『東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ研究けんきゅう紀要きよう』11ごう、2001ねん 
  4. ^ 細川ほそかわ重男しげおとくむね専制せんせい政治せいじ論理ろんり」『年報ねんぽう三田みた中世ちゅうせい研究けんきゅう』9ごう、2002ねん 
  5. ^ 細川ほそかわ重男しげお飯沼いいぬま大夫たいふ判官ほうがん両統りょうとう迭立」『白山はくさん史学しがく』38ごう、2002ねん 
  6. ^ a b 山野さんや 2012, p. 182, 脚注きゃくちゅう(27)
  7. ^ 紺戸こんとあつし武家ぶけ社会しゃかいにおける加冠かかんいち付与ふよ政治せいじせいについて : 鎌倉かまくら幕府ばくふ御家人ごけにん場合ばあい」『中央ちゅうおう史学しがくだい2かん中央大学ちゅうおうだいがく、1979ねん3がつ、10-26ぺーじCRID 1570009752940858752ISSN 03889440 にはその事例じれいいくつか紹介しょうかいされている。後述こうじゅつへんいみなけた人物じんぶつふし参照さんしょうのこと。
  8. ^ 角田つのだ朋彦ともひこへんいみなはなし」『だんかづら』3・4ごう、2004ねん、20-21ぺーじ 
  9. ^ おも行事ぎょうじとくたかしだい権現ごんげんかいだい般若はんにゃけい転読てんどくかい”. きむ龍山たつやましゃくみつるいんえんひたすらたから戒寺. 2016ねん3がつ23にち閲覧えつらん
  10. ^ a b 永井ながい 2009, p. 4.
  11. ^ 永井ながい 2009, pp. 4–5.
  12. ^ 日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい & 細川ほそかわ 2015, p. 175.
  13. ^ 日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい & 細川ほそかわ 2015, p. 176.
  14. ^ 細川ほそかわ 2011, pp. 132–133, 142–145.
  15. ^ 財団ざいだん法人ほうじん 三溪さんけいえん へん横浜よこはま開港かいこういち周年しゅうねん記念きねん特別とくべつてんはら三溪さんけい美術びじゅつ蒐集しゅうしゅう三溪さんけいきゅうぞうひん」』2009ねん、21ぺーじ 
  16. ^ 永井ながい 2009, pp. 11–12.
  17. ^ a b 永井ながい 2009, p. 12.
  18. ^ 永井ながい 2009, p. 10.
  19. ^ 永井ながい 2009, pp. 6–8.
  20. ^ a b c d e f g h i j k l 紺戸こんとあつし武家ぶけ社会しゃかいにおける加冠かかんいち付与ふよ政治せいじせいについて」『中央ちゅうおう史学しがく』2ごう、1979ねん 15ぺーじ系図けいずほか。
  21. ^ 細川ほそかわ 2000, p. 32.
  22. ^ 田中たなか 2013, p. 25, 「中世ちゅうせい前期ぜんき下野げや足利あしかがろん」.
  23. ^ a b c 田中たなか 2013, p. 69, 臼井うすい信義のぶよしたかし父祖ふそよりゆき家時いえとき年代ねんだいこう―」
  24. ^ 櫻井さくらい; 樋口ひぐちしゅうおとこ; にしき昭江あきえ へん足利尊氏あしかがたかうじのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん、224ぺーじ 
  25. ^ 江田えだ郁夫いくお総論そうろん 下野げや宇都宮うつのみや」『下野しもの宇都宮うつのみやえびすひかりさち出版しゅっぱん〈シリーズ・中世ちゅうせい関東かんとう武士ぶし研究けんきゅう だいよんかん〉、2011ねん、9ぺーじ 
  26. ^ 峰岸みねぎし, 入間田いりまだ & 白根しらね 2007, p. 96, 市村いちむら高男たかお鎌倉かまくら成立せいりつの「結城ゆうき系図けいずほんかんする基礎きそてき考察こうさつ -系図けいず研究けんきゅう視点してん方法ほうほう探求たんきゅう-」.
  27. ^ 峰岸みねぎし, 入間田いりまだ & 白根しらね 2007, 今野こんの慶信よしのぶ藤原ふじわらみなみ武智たけち麿まろ四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図けいず」.
  28. ^ もりしげるあかつき佐々木ささきしるべほまれ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1994ねん、17ぺーじ 
  29. ^ 肥前ひぜん千葉ちば調査ちょうさ委員いいんかい服部はっとり英雄ひでお 中世ちゅうせい小城おぎ景観けいかんうみからかんがえる」」『中世ちゅうせい肥前ひぜん千葉ちば足跡あしあと : しょう京都きょうと小城おぎ源流げんりゅう佐賀さがけん小城おぎ教育きょういく委員いいんかい、2011ねんhdl:2324/20437CRID 1130282270956311040https://hdl.handle.net/2324/20437 なお、この論文ろんぶんではこうたねあにとして千葉ちばたねだかこうの1けた人物じんぶつとして掲載けいさいされているが、たねだかなる人物じんぶつ系図けいずるいでは確認かくにんされていない。
  30. ^ 細川ほそかわ 2000, p. 183, 脚注きゃくちゅう(61).
  31. ^ 細川ほそかわ 2000, p. 184, 脚注きゃくちゅう(73).
  32. ^ ぐんしょ系図けいずしゅう よん』p.362 「大友おおとも系図けいず」に「太郎たろうだかたまものいち早世そうせい」、p.372 「立花たちばな系図けいず」に「北條ほうじょう相模さがみもりだかため烏帽子えぼしおや。授いち云々うんぬん。」、『入江いりえ文書ぶんしょ』(『大分おおいたけん史料しりょう10』所収しょしゅう)の「大友おおとも田原たはら系図けいず」に「相模さがみもりだか元服げんぷく」とある。
  33. ^ 典拠てんきょは『結城ゆうき』など。くわしくは当該とうがい項目こうもく参照さんしょうのこと。

参考さんこう文献ぶんけん史料しりょう

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文献ぶんけん図書としょ
史料しりょう

関連かんれん項目こうもく

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