葛西かさい 高清たかきよ(かさい たかきよ)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきから南北なんぼく朝あさ時代じだい前期ぜんきの武将ぶしょう。葛西かさい氏しの当主とうしゅ。葛西かさい 清高きよたか(かさい きよたか)とも呼よばれる。「仙台せんだい葛西かさい系図けいず」にみられる良りょう清きよし(よしきよ)と同どう一人物いちじんぶつと考かんがえられる。
当主とうしゅ・葛西かさい貞清さだきよ(清せい貞さだ)の子ことして生うまれた。執権しっけん・北条ほうじょう高だか時じから「高こう」の偏へん諱いみなを受うけた。
元弘もとひろ元年がんねん(1331年ねん)9月がつ、元弘もとひろの乱らんに際さいして、北条ほうじょう高だか時じの命いのちによって畿内きないへ派遣はけんされた討伐とうばつ軍ぐんに「葛西かさい三郎兵衛さぶろべえ尉じょう」の名ながあるが[1]、諸根もろね樟くすのき一いちはこれを高こう清きよしに比定ひていしている[2]。
貞治さだはる4年ねん(1365年ねん)4月がつ17日にち、54歳さいで死亡しぼうしたとされる[3]。また、『龍りゅう源はじめ寺てら葛西かさい氏し過去かこ帳ちょう』では同年どうねん4月がつ7日にちに良よ清せいが死亡しぼうしたと記しるされており、両者りょうしゃは同どう一人物いちじんぶつと考かんがえられる。