(Translated by https://www.hiragana.jp/)
平頼綱 - Wikipedia

平頼綱たいらのよりつな

日本にっぽん武将ぶしょう

たいら 頼綱よりつな(たいら の よりつな)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき武士ぶし北条ほうじょうとくむねいえ御内おんうちじんもとこうむ襲来しゅうらい鎌倉かまくら幕府ばくふ8だい執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅう、9だい執権しっけん北条ほうじょう貞時さだとき寄合よりあいしゅう執事しつじうち管領かんりょう)、さむらいしょ所司しょしで、貞時さだとき乳母うばちちである。ちち歴代れきだい執権しっけん執事しつじつとめたひら盛時せいじ[注釈ちゅうしゃく 2]御内おんうちじん筆頭ひっとうかくとして北条ほうじょうとく宗家そうけ専制せんせい体制たいせい補佐ほさした。

 
たいら 頼綱よりつな
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき - 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ せいおう6ねん4がつ22にち1293ねん5月29にち
改名かいめい 頼綱よりつな→杲円(こうえん)
別名べつめい たいら新左衛門しんざえもんじょうひら禅門ぜんもん
官位かんい 左衛門尉さえもんのじょう
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ さむらいしょ所司しょし
主君しゅくん 北条ほうじょうよりゆきながときせいむら時宗じしゅう貞時さだとき
氏族しぞく 長崎ながさき
父母ちちはは ちちひら盛時せいじ
兄弟きょうだい 頼綱よりつな長崎ながさきこうつな?[注釈ちゅうしゃく 1]
つま 北条ほうじょう貞時さだとき乳母うば
そうつな飯沼いいぬまむね高頼たかよりためつな
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

編集へんしゅう

時宗じしゅう執事しつじ

編集へんしゅう

頼綱よりつな北条ほうじょうやすしときつかえたひらもりつなまごわれている。頼綱よりつな代々だいだい北条ほうじょう嫡流ちゃくりゅうとくむねいえつかえる御内おんうちじんとして時宗じしゅうつかえ、時宗じしゅういのち実行じっこううつ役割やくわりになっていた。たいら金吾きんごともばれ、また左衛門尉さえもんのじょうにんじられていたので、たいら左衛門尉さえもんのじょうともしょうされた。ひろちょう元年がんねん1261ねん)のころちち盛時せいじからさむらいしょ所司しょし継承けいしょうし、ぶんひさし9ねん1272ねん以前いぜんにはとく宗家そうけ執事しつじとなっている。

生年せいねん明確めいかくかってはいないが、次男じなんむねぶんひさし4ねん1267ねん)のまれであることから、じん元年がんねん1240ねんごろまれたのではないかとされる[1]。その場合ばあい泰盛やすもり時宗じしゅう中間ちゅうかん世代せだい相当そうとうし、けんちょう8ねん1256ねんかんはじめ改元かいげん)まで執権しっけんであった北条ほうじょうよりゆきへんいみな(「よりゆき」の)をけて元服げんぷくしたものと判断はんだんされる。『吾妻あづまきょう』ではけんちょう8ねん1がつ4にちじょうの「たいら新左衛門しんざえもん三郎さぶろう」をはつとして4かい登場とうじょうする[2]

ぶんなが8ねん1271ねん)9がつこうむ襲来しゅうらいもと間近まぢかという緊迫きんぱくした状況じょうきょう国内こくない一致いっち団結だんけつした防衛ぼうえい必要ひつようとされるなか過激かげき他宗たしゅう批判ひはんおこない、国内こくない宗教しゅうきょう対立たいりつ扇動せんどうする日蓮にちれんが、くちげき対象たいしょうとしていた浄土宗じょうどしゅうそうくだりさと告訴こくそされると、さむらいしょ所司しょしであった頼綱よりつな調しらべをおこなっている。幕府ばくふ訴状そじょう受理じゅりすると、つぎに『成敗せいばい式目しきもく』のさだめにしたがい、訴状そじょうたいする「ひねじょう」(答弁とうべんしょ)を日蓮にちれんもとめた。日蓮にちれんひねじょう提出ていしゅつするが、「庵室あんしつ凶徒きょうとあつ弓箭きゅうせん(弓矢ゆみや)・兵仗ひょうじょう(武器ぶき)をたくわえている」とのくだりさとしがわ指摘してき否定ひていせず、こうむ襲来しゅうらい対応たいおうするために防衛ぼうえい体制たいせい強化きょうかおこな幕府ばくふこととなえる「悪党あくとう」とされ[3]、『成敗せいばい式目しきもくだい12じょう悪口わるぐち(あっこう)のとがめ」の最高さいこうけいとなる佐渡さど流罪るざい判決はんけつがくだり、流罪るざい執行しっこうしている。このとき日蓮にちれん頼綱よりつなてた書状しょじょうで、頼綱よりつなを「天下てんか棟梁とうりょう」といている。

日蓮にちれん佐渡さど流罪るざいから3ねんぶんなが11ねん1274ねん)にしゃくめんされ、鎌倉かまくら頼綱よりつな面会めんかいしている。鎌倉かまくら幕府ばくふは『成敗せいばい式目しきもくだいじょう寺社じしゃナレリトイエドモ崇敬すうけいどうジ」の立場たちばで、『ほんべつあたま仏祖ぶっそすべ』によれば、城門じょうもん西にしあらたに愛染あいぜんどう建立こんりゅうし、庄田しょうだいちせんまちさんひゃくまんつぼ)の収益しゅうえき上納じょうのうするので、他宗たしゅう批判ひはんをやめ、こうむ襲来しゅうらい危機ききせまっているため、他宗たしゅう同様どうよう一致いっち団結だんけつして、護国ごこくいのるように日蓮にちれん提案ていあんするも、日蓮にちれんはこのもうことわり、その身延みのぶ入山にゅうざんしている。同年どうねん最初さいしょこうむ襲来しゅうらいであるぶんながやくこっている。

安達あだち泰盛やすもりとの対立たいりつ

編集へんしゅう

時宗じしゅうは、ごくしょう人数にんずうおこなわれた「寄合よりあい」とばれる秘密ひみつ会議かいぎ意思いし決定けっていおこなっており、頼綱よりつなはこの寄合よりあい参加さんかする寄合よりあいしゅうであり、安達あだち泰盛やすもりなら北条ほうじょう時宗じしゅう重臣じゅうしんで、御家人ごけにん統率とうそつするさむらいしょ所司しょしとして警察けいさつ軍事ぐんじ治安ちあん維持いじとうおこなっている(寄合よりあいしゅう泰盛やすもり諏訪すわもりけい太田おおたかんゆう佐藤さとうぎょうれん頼綱よりつなの5めい)。弘安ひろやす2ねん1279ねん)の日蓮にちれん書状しょじょう聖人せいじん難事なんじ)には「平等びょうどうしろとうもいかりて此の一門いちもんをさんざんとなす」とあり、平等びょうどう頼綱よりつな)の勢力せいりょくが、有力ゆうりょく御家人ごけにんであったしろとう秋田あきたじょうかいのこと。秋田あきたじょうかいとは官職かんしょくによるで、ここでは泰盛やすもりのことをいう)の勢力せいりょく拮抗きっこうしていたことしめしている。こうむ襲来しゅうらいによって幕府ばくふしょ問題もんだい噴出ふんしゅつすると同時どうじに、戦時せんじ体制たいせいじょうじてそう権力けんりょく拡大かくだいしていくなかで、とくむね権力けんりょく行使こうしする御内おんうちじん勢力せいりょくし、その筆頭ひっとうである頼綱よりつなと、とくむね外戚がいせき伝統でんとうてき外様とざま御家人ごけにん代表だいひょうする泰盛やすもりとの対立たいりつふかまっていた。弘安ひろやす7ねん1284ねん正月しょうがつにはうち管領かんりょう就任しゅうにん確認かくにんされ、ちちからいださむらいしょ所司しょし寄合よりあいしゅううち管領かんりょうねるとくむね被官ひかんさい上位じょういとして長崎ながさき一門いちもんとく宗家そうけ公文こうぶんしょ幕府ばくふしょ機関きかん進出しんしゅつしている。

弘安ひろやす7ねん(1284ねん)4がつ両者りょうしゃ調停ちょうていしていた執権しっけん時宗じしゅうが34さいわかさで死去しきょする。とくむね同時どうじ北条ほうじょう一族いちぞくない不穏ふおんうごきがしょうじ、ろく探題たんだい北方ほっぽう北条ほうじょうむら鎌倉かまくらおもむこうとして三河みかわこくかえされ、探題たんだい南方なんぽう北条ほうじょうこくは6がつ悪行あくぎょう理由りゆう鎌倉かまくら召還しょうかんされ、常陸ひたちこく配流はいるとなったのち誅殺ちゅうさつされた。どきこく叔父おじどきこうは8がつ謀反むほん露見ろけんしたとして種々しゅじゅ拷問ごうもんくわえられて佐渡さどこくながされた[注釈ちゅうしゃく 3]。7月に14さい貞時さだとき執権しっけん就任しゅうにんする。貞時さだとき外祖父がいそふである泰盛やすもり将軍しょうぐん権力けんりょく強化きょうかとくむね御内おんうちじん権力けんりょく抑制よくせいする改革かいかく弘安ひろやす徳政とくせい)をおこない、貞時さだとき乳母うばちちうち管領かんりょうである頼綱よりつなとの対立たいりつさら激化げきかする。弘安ひろやす8ねん1285ねん)11月、ついに鎌倉かまくら市街しがい武力ぶりょく衝突しょうとついたり、執権しっけん貞時さだときほうじる頼綱よりつな先制せんせい攻撃こうげきによって泰盛やすもりその一族いちぞくち、泰盛やすもり与党よとうであった御家人ごけにんそう一掃いっそうされた。 これを霜月しもづき騒動そうどう弘安ひろやす合戦かっせん)という。有力ゆうりょく御家人ごけにん500にん戦死せんししたとつたえられており、この争乱そうらん全国ぜんこくひろがり、全国ぜんこく二分にぶんするあらそいとなった。なお同年どうねん頼綱よりつな出家しゅっけし、以降いこう平左衛門へいざえもん入道にゅうどう」とばれている。

頼綱よりつな専制せんせい支配しはい

編集へんしゅう

もと寇後、御家人ごけにんとうたいする恩賞おんしょう問題もんだい発生はっせいし、財政難ざいせいなんのなかで3度目どめもとぐん襲来しゅうらいそなえて国防こくぼう強化きょうかしなければならないなど、国内外こくないがい難題なんだいかさなっていたなか頼綱よりつな泰盛やすもりすすめた御家人ごけにんそう拡大かくだいなどの弘安ひろやす改革かいかく路線ろせん撤回てっかいし、御家人ごけにん保護ほご政策せいさくをとりながら、しばらくは追加ついかほう頻繁ひんぱんとう手続てつづきを重視じゅうしした政治せいじおこなっていた。とく宗家そうけ専制せんせい体制たいせい強化きょうか訴訟そしょう公正こうせい異国いこく警護けいご悪党あくとう禁圧きんあつとうおこなっている。こうむ襲来しゅうらい訴訟そしょう急増きゅうぞうしていた九州きゅうしゅうには、のち鎮西ちんぜい探題たんだいとなる鎮西ちんぜい談議だんぎしょ設置せっちし、鎌倉かまくらろく探題たんだいわるせんもん訴訟そしょう機関きかん設置せっちした。だが弘安ひろやす10ねん1287ねん)に7だい将軍しょうぐんみなもとおもんみかんたて親王しんのうしておもんみかん親王しんのうとなってからは専制せんせい政治せいじくようになる(このたて親王しんのうおもんみやすし将軍しょうぐんしょくから退しりぞ京都きょうと追放ついほうするための準備じゅんびであるという)[注釈ちゅうしゃく 4]

頼綱よりつなとくむね権力けんりょく強化きょうかされる施策しさくおこなったが、それは頼綱よりつな専権せんけん強化きょうかするものであり、霜月しもづき騒動そうどういちねんにはそれまで重要じゅうよう政務せいむ執事しつじ書状しょじょう必要ひつようであったとくむね花押かおうさない執事しつじ書状しょじょう発給はっきゅうされている。若年じゃくねん主君しゅくん貞時さだときようする頼綱よりつな公文こうぶんしょのままに運営うんえいし、とく宗家そうけ広大こうだい所領しょりょう軍事ぐんじりょく背景はいけいとして寄合よりあいしゅう支配しはいし、騒動そうどうから7ねんあまりにおよんだその権力けんりょくは「いまさら貞時さだときだいきがごとくになりて」という執権しっけんをもしのぐものであった。

頼綱よりつな専制せんせい政治せいじ貞時さだときにも不安ふあんされ、せいおう6ねん1293ねん)4がつ鎌倉かまくらだい地震じしん混乱こんらんじょうじて、鎌倉かまくらだい地震じしん10日とおかけいだに鎌倉かまくら材木座ざいもくざ)の自邸じてい貞時さだとき軍勢ぐんぜい急襲きゅうしゅうされ、頼綱よりつな自害じがいし、次男じなん飯沼いいぬまむね一族いちぞくほろぼされた。これをひら禅門ぜんもんらんという。『れきあいだ』によると、頼綱よりつな不和ふわだった嫡男ちゃくなんそうつなが「頼綱よりつな次男じなんむね将軍しょうぐんにしようとしている」と貞時さだとき讒訴ざんそしたことが発端ほったんとされている。

頼綱よりつな長崎ながさきこうつな一族いちぞく惣領そうりょうとなり、とく宗家そうけ執事しつじとなっている。ひかりつな頼綱よりつなおとうとおい従兄弟いとことうせつがあり確定かくていしていない。さむらいしょ所司しょし頼綱よりつな長男ちょうなんそうつなにんじられている。霜月しもつき騒動そうどう失脚しっきゃくした御家人ごけにんたちも徐々じょじょ復帰ふっきし、安達あだち泰盛やすもりおいそうあらわであるときあらわ安達あだち家督かとく継承けいしょうし、以後いご長崎ながさき安達あだち婚姻こんいん関係かんけいむすぶまでになった。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ れきあいだ』では長崎ながさきえんについて、「せいおうタレシ平左衛門へいざえもん入道にゅうどうおいひかり綱子つなこ」(せいおう6ねん(1293ねん)のひら禅門ぜんもんらんたれた平左衛門へいざえもん入道にゅうどう杲円(頼綱よりつな)のおいひかりつな)としている。この記述きじゅつただしければ頼綱よりつなひかりつな兄弟きょうだいということになる。
  2. ^ 頼綱よりつな職務しょくむもりつな後継こうけいしゃべるものだが、もりつな卒去そっきょ頼綱よりつな政治せいじ活動かつどう開始かいしまで間隔かんかくきすぎるため、頼綱よりつなちち盛時せいじで、盛時せいじもりつなもりつな頼綱よりつな祖父そふ推定すいていされる(細川ほそかわ重男しげおせつ)。
  3. ^ 鎌倉かまくら年代ねんだい裏書うらがきによる。『れきあいだ』では弘安ひろやす4ねん1281ねん)のこととなっている。
  4. ^ ただし、おもんみやすしたて親王しんのう追放ついほう朝廷ちょうてい内部ないぶ対立たいりつともなうもの(大覚寺だいかくじみつる持明院じみょういんみつる分立ぶんりつし、大覚寺だいかくじみつるおもんみやすしみをはかり、持明院じみょういんみつるがその排除はいじょもとめた)とするせつもある[4]

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ もり幸夫ゆきお平頼綱たいらのよりつな公家くげ政権せいけん」(『三浦みうら文化ぶんか』54ごう、1994ねん)。もりむね生年せいねんぶんなが3ねん(1266ねん)としているが、弘安ひろやす2ねん(1279ねん)9がつ発生はっせいした鎌倉かまくら日蓮宗にちれんしゅう弾圧だんあつとして著名ちょめいねつげん法難ほうなんつたえる『弟子でしぶんちょう』に「飯沼いいぬま判官ほうがんじゅうさんさい」(かぞどし)とある(細川ほそかわ、2000ねん、P.183)ことから、逆算ぎゃくさんすると生年せいねんぶんなが4ねん(1267ねん)が正確せいかくである。
  2. ^ 吾妻あづまきょう人名じんめい索引さくいん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん)による。登場とうじょう箇所かしょは、けんちょう8ねん正月しょうがつ4にち・9にちじょうたいら新左衛門しんざえもん三郎さぶろう」、せいよしみ2ねん1258ねん)1がつ11にちじょうたいら新左衛門しんざえもん三郎さぶろう頼綱よりつな」、ひろちょう3ねん1263ねん正月しょうがつ1にちじょうたいら新左衛門しんざえもんじょう頼綱よりつな」の4箇所かしょである。
  3. ^ 高木たかぎゆたか増補ぞうほ改訂かいてい 日蓮にちれん――その行動こうどう思想しそう』90ぺーじ
  4. ^ 曽我部そがべあい「〈宮家みやけ成立せいりつしょ前提ぜんてい」『中世ちゅうせい王家おうけ政治せいじ構造こうぞう』(どうなりしゃ、2021ねん) P238-242.

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 網野あみの善彦よしひここうむ襲来しゅうらい』 小学館しょうがくかん文庫ぶんこ、2001ねん1がつ(1974ねん刊行かんこう)。
  • 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら政権せいけんとくむね専制せんせいろん』 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねん
  • かけい雅博まさひろこうむ襲来しゅうらい徳政令とくせいれい』 講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2009ねん5がつ(2001ねん刊行かんこう)。
  • 細川ほそかわ重男しげお飯沼いいぬま大夫たいふ判官ほうがん両統りょうとう迭立 ―「平頼綱たいらのよりつな政権せいけん」のさい検討けんとう―」(『白山はくさん史学しがく』38ごう、2002ねん
  • 細川ほそかわ重男しげお飯沼いいぬま大夫たいふ判官ほうがんむね ―「平頼綱たいらのよりつな政権せいけん」のさい検討けんとう―」(所収しょしゅう細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら北条ほうじょう神話しんわ歴史れきし 権威けんい権力けんりょく』(日本にっぽん史料しりょう研究けんきゅうかい、2007ねんだい5しょう) ※2002ねん論文ろんぶん改訂かいていばん

関連かんれん作品さくひん

編集へんしゅう
小説しょうせつ
  • 高橋たかはし直樹なおき異形いぎょう寵児ちょうじ」(『鎌倉かまくら擾乱じょうらん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 所収しょしゅう創作そうさくまじえているが長編ちょうへんちか分量ぶんりょう中編ちゅうへんであり、頼綱よりつなえがいたしょとしてはもっとながい。
映画えいが
テレビドラマ