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二階堂貞藤 - Wikipedia

二階堂にかいどうさだふじ

鎌倉かまくら時代じだい後期こうき御家人ごけにん鎌倉かまくら幕府ばくふ 政所まんどころ執事しつじたてたけし政権せいけん ざつ決断けつだんしょよんばんしゅしたがえ出羽守でわのかみ謀反むほん嫌疑けんぎ処刑しょけい

二階堂にかいどう さだふじ(にかいどう さだふじ)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき御家人ごけにん鎌倉かまくら幕府ばくふ政所まんどころ執事しつじ法名ほうみょうみち(どううん)でばれることもおおい。

 
二階堂にかいどう さだふじ
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき
生誕せいたん ぶんひさし4ねん1267ねん
死没しぼつ たてたけし元年がんねん12月28にち1335ねん1がつ23にち))
改名かいめい さだふじみち蘊(法名ほうみょう
官位かんい したがえ出羽守でわのかみ
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ 政所まんどころ執事しつじ
主君しゅくん 北条ほうじょうだか後醍醐天皇ごだいごてんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみおつ麻呂まろながれ 二階堂にかいどう
父母ちちはは ちち二階堂にかいどうこうふじ
兄弟きょうだい どきふじさだふじ
けんふじふじ兼義かねよし
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

編集へんしゅう

ぶんひさし4ねん1267ねん)、二階堂にかいどうこうふじとして誕生たんじょう甲斐かいこく山梨やまなしぐんまきそうおもで、よしみもと3ねん1305ねん)には鎌倉かまくらからゆめまどうとせきまねきよしきょてら[1]再興さいこうした。

正中せいちゅう元年がんねん1324ねん)、後醍醐天皇ごだいごてんのう倒幕とうばく計画けいかく露見ろけんした正中せいちゅうへんにおいて、『太平たいへい』にれば鎌倉かまくらおくられた後醍醐天皇ごだいごてんのう誓書せいしょ判読はんどくめたという。

もととく元年がんねん1329ねん)、京都きょうとでは後醍醐天皇ごだいごてんのうりょうじん親王しんのうへの譲位じょういもとめる持明院じみょういんみつるあいだ対立たいりつ発生はっせいし、双方そうほう鎌倉かまくらはたらきかけており、3月にはみち蘊(さだふじ)が使者ししゃとして上洛じょうらくみち蘊は持明院じみょういんみつるがわ有利ゆうり独自どくじ調停ちょうていあん提示ていじしており、北条ほうじょうさだあきらみち蘊に批判ひはんてきだった。みち蘊の独断どくだんかんしては、同年どうねん2がつには政所まんどころ執事しつじ二階堂にかいどうこうさだ死去しきょし、後任こうにんされていたみち蘊の上洛じょうらくちゅうくだりさださだ補任ほにんされたことにたいしての不満ふまんしめしたものであるとする指摘してきもある[2]

もととく2ねん1330ねん)に引付ひきつけあたまじん守護しゅごとなっていた甲斐かいにおいてふたたゆめまどまね庄内しょうない恵林寺えりんじ[3]創建そうけんもととく3ねん1331ねん)、後醍醐天皇ごだいごてんのう譲位じょういうなが使者ししゃとして安達あだちだかけいとも上洛じょうらくし、宮方みやかた楠木くすのき正成まさしげ挙兵きょへいした千早ちはやじょうめに参加さんかした。せいけい元年がんねん1332ねん)には政所まんどころ執事しつじつとめ、とくむね北条ほうじょうだか補佐ほさする。

太平たいへい』によれば「朝敵ちょうてきさいいち武家ぶけ補佐ほさ」となされたが、賢才けんさいほまたかさをみとめられ、鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう一旦いったんゆるされた。たてたけし政権せいけん参加さんかし、ざつ決断けつだんしょところよんばんしゅ北陸ほくりくどう管轄かんかつした。しかし、西園寺さいおんじこうむねによる北条ほうじょう再興さいこう陰謀いんぼう加担かたんしたとされ、たてたけし元年がんねん12月28にち1335ねん1がつ23にち)にろくじょう河原かわはらにおいて処刑しょけいされた。享年きょうねん68[4]。その室町むろまち幕府ばくふ成立せいりつすると正安まさやす元年がんねん1301ねん)に出家しゅっけ引退いんたいしていた[5]あにときふじ復帰ふっきして幕府ばくふつかえている[6]

東寺とうじひゃくごう文書ぶんしょ』に「二階堂にかいどうこうふじ書状しょじょう」がのこっている[7]

日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • 年月日ねんがっぴしょうしたがえ検非違使けびいし左衛門尉さえもんのじょう叙位じょい補任ほにん
  • 年月日ねんがっぴしょう出羽守でわのかみ転任てんにん
  • のべけい元年がんねん(1308ねんうるう8がつひがし使として派遣はけん
  • もとおう2ねん(1320ねん)2がつ出家しゅっけ法名ほうみょうみち蘊)
  • もととく2ねん(1330ねん)1がつ24にちばん引付ひきつけあたまじん補任ほにん
  • 元弘もとひろ元年がんねん(1331ねん)1がつ23にちばん引付ひきつけあたまじん。9月:ひがし使として派遣はけん
  • 元弘もとひろ2ねん(1332ねん)1がつ24にち政所まんどころ執事しつじ補任ほにん
  • 元弘もとひろ3ねん(1333ねん)5がつ22にち鎌倉かまくら滅亡めつぼうにより政所まんどころ執事しつじにんえる。
  • たてたけし元年がんねん(1334ねん)8がつ: 八番制雑訴決断所四番衆に補任ほにん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 山梨やまなしけん山梨やまなし
  2. ^ 永井ながい金沢かなざわさだあらわ』(2003)
  3. ^ 山梨やまなしけん甲州こうしゅう
  4. ^ 「六波羅南北過去帳」息子むすこけんふじまご3にん同時どうじられたという。『だい日本にっぽん史料しりょう』6へん2さつ203ぺーじ
  5. ^ 市古いちこ貞次ていじ国書こくしょ人名じんめい辞典じてん 3』岩波書店いわなみしょてん、1996ねん、「二階堂にかいどうふじ」(P548)
  6. ^ 木下きのしたさとし、「二階堂にかいどう」 『室町むろまち幕府ばくふ外様とざましゅ奉行ぶぎょうしゅどうなりしゃ、2018ねん、P240-242
  7. ^ 京都きょうと府立ふりつ総合そうごう資料しりょうかん"東寺とうじひゃくごう文書ぶんしょWEB"

出典しゅってん

編集へんしゅう
  • 永井ながいすすむ しる日本にっぽん歴史れきし学会がっかい へん金沢かなざわさだあらわ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2003ねん6がつISBN 4642052283