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里見氏 - Wikipedia

里見さとみ

中世ちゅうせい日本にっぽん武家ぶけとしてはじまった氏族しぞく

里見さとみ(さとみし)は、日本にっぽん氏族しぞくのひとつ。中世ちゅうせい日本にっぽん武家ぶけとしてはじまった。本姓ほんせいみなもと河内かわうちはじめ[1]みなもと新田にった義重よししげよししゅんとする氏族しぞくで、新田にった庶宗である[1]戦国せんごく時代じだい一族いちぞくからは房総ぼうそう地方ちほうりょうする戦国せんごく大名だいみょう安房あわ里見さとみ[2]

里見さとみ
家紋
本姓ほんせい 清和せいわはじめ新田にったながれ
いえ みなもと義重よししげ
里見さとみよししゅん[1]
種別しゅべつ 武家ぶけ
大名だいみょう改易かいえき
士族しぞく
出身しゅっしん 上野うえのこく碓氷うすいぐん里見さとみさと[1][注釈ちゅうしゃく 1]
おも根拠地こんきょち 安房あわこく
著名ちょめい人物じんぶつ 里見さとみ義実よしざね
里見さとみよし
里見さとみ義弘よしひろ
里見さとみよしよりゆき
里見さとみ義康よしやす
支流しりゅう分家ぶんけ 大岡おおおか
太田おおた
田中たなか
天童てんどう
鳥山とりやま
蜂須賀はちすかほか
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

概要がいよう

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里見さとみ新田にったの庶宗であり、「大新田おおしんでんともばれた[1]鎌倉かまくら時代ときよには御家人ごけにんとして将軍しょうぐん近侍きんじし、鎌倉かまくら時代じだいまつ動乱どうらんでは惣領そうりょう新田にった義貞よしさだ行動こうどうをともにした。南北なんぼくあさには一族いちぞくかれ、みなみ朝方あさがたきた朝方あさがたわかれてたたかった。

安房あわ里見さとみ家伝かでんでは、里見さとみ嫡流ちゃくりゅうである里見さとみ義実よしざね安房あわ入国にゅうこくしたとされるが、系譜けいふ関係かんけいさだかではない。安房あわ里見さとみ戦国せんごく大名だいみょうとして成長せいちょうして房総ぼうそう割拠かっきょし、江戸えど時代じだい初頭しょとうには安房あわいちこくおさめる館山たてやまはんおもとなったが、1614ねん里見さとみ忠義ただよしだい改易かいえきされた[3]

このほか、鎌倉かまくら時代じだいから室町むろまち時代じだいにかけて諸国しょこくかれた里見さとみがある。出羽でわ里見さとみ美濃みの里見さとみ越後えちご里見さとみ榛名はるな里見さとみ仁田山にたやま里見さとみ)などである。

里見さとみ発祥はっしょうから室町むろまち時代じだいまで

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里見さとみこり

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里見さとみおく鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん新田にった義重よししげの庶長子ちょうし新田にったよししゅん里見さとみ太郎たろう)を初代しょだいとする。里見さとみ新田にったよししゅん上野うえのこく碓氷うすいぐん八幡やはたそう里見さとみさと現在げんざい群馬ぐんまけん高崎たかさき上里見かみさとみまち中里見なかさとみまち下里見しもさとみまち)にうつり、その苗字みょうじとしたことにはっする[2][1]

系図けいずによるとしゅん新田にった竹林たけばやし六郎ろくろう太郎たろうともしょうしている[よう出典しゅってん]ことから、新田にったそううちにも所領しょりょうっており、里見さとみ本拠ほんきょ竹林たけばやし高林たかばやしさととする研究けんきゅうもある[よう出典しゅってん]

鎌倉かまくら時代ときよ室町むろまち時代ときよ

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鎌倉かまくら時代ときよになると、よししゅん長子ちょうし里見さとみ義成よしなりみなもと頼朝よりともつかえて御家人ごけにんとなった。義成よしなり頼朝よりとも重用じゅうようされ、頼朝よりとも死後しご代々だいだい将軍しょうぐん近侍きんじした。

鎌倉かまくら時代じだいまつ里見さとみ義胤よしたねよししゅんの6せいまご)は、ほん宗家そうけ新田にったとも倒幕とうばくぐん参加さんか新田にった義貞よしさだ随行ずいこうし、鎌倉かまくらめにくわわりこうげ、戦後せんご越後えちごこく守護しゅごだいにんぜられた。南北なんぼくあさ動乱どうらんでは南朝なんちょうかたしたがっていたものの、宗家そうけ没落ぼつらくすると一族いちぞくなか北朝ほくちょうがわ参加さんかするものあらわれた。室町むろまち幕府ばくふしたがって美濃みのこく所領しょりょう里見さとみ義宗よしむねもそのひとりである。義宗よしむねかんおう擾乱じょうらん足利あしかが直義ただよししたがったが、直義ただよし敗北はいぼくして美濃みの里見さとみ所領しょりょううしない、没落ぼつらくした。

その鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが満兼みつかねしだされて常陸ひたちこく所領しょりょう人物じんぶつに、里見さとみけんがいる。いえけん里見さとみもとは、足利あしかが持氏もちうじ奉公ほうこうしゅとしてつかえた。いえもとは、上野うえのこく常陸ひたちこくなどに所領しょりょうあたえられていた。しかしえいとおるらんいえけん自害じがいつづいて結城ゆうき合戦かっせんいえもといえ父子ふしたれ、上野うえの里見さとみ嫡流ちゃくりゅうはここで断絶だんぜつした[4]

いえもとのもうひとりのとされる義実よしざね安房あわこくび、のちに安房あわ里見さとみとなったとされている。だが、近年きんねんにおいて、義実よしざね(あるいはいえけん)を旧来きゅうらい伝承でんしょうによる上野うえの里見さとみ嫡流ちゃくりゅうではなく、美濃みの里見さとみ義宗よしむね末裔まつえいであったとするせつされている[5][6][7]

室町むろまち時代ときよ以降いこう発祥はっしょう上野うえのこくにおける里見さとみは、里見さとみよしれん義胤よしたね)の三男さんなんである仁田山にたやまれん系統けいとうぞくして、戦国せんごく時代じだい二階堂にかいどう政行まさゆき配下はいか仁田にった山城やましろおもであった里見さとみれんそうれん)などが散見さんけんされ、いえれんのち上杉うえすぎ謙信けんしん討伐とうばつけて戦死せんしげて、宗義しゅうぎのち戦死せんし)と義宗よしむね碓氷うすいぐん里見さとみきょうのがれて、榛名はるな里見さとみしょうしたという[10]。また、いえれんもとには同族どうぞくえんたより、安房あわこくわれた安房あわ里見さとみ一族いちぞく里見さとみ勝広かつひろという人物じんぶつせたとつたえられる[注釈ちゅうしゃく 2]

安房あわ里見さとみ

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安房あわ里見さとみ(あわさとみし)は、戦国せんごく時代じだい安房あわこく掌握しょうあく房総半島ぼうそうはんとう勢力せいりょく拡大かくだいし、戦国せんごく大名だいみょうした氏族しぞくである。「関東かんとうふくそち」(関東かんとう管領かんりょう異称いしょう)もしくは「関東かんとうふく将軍しょうぐん」を自称じしょうした。

安房あわ里見さとみ初代しょだい里見さとみ義実よしざねは、結城ゆうき合戦かっせん討死うちじにした里見さとみもと子息しそくとされる人物じんぶつで、安房あわこくうつ安西あんざい追放ついほうして領主りょうしゅとなったとされる(里見さとみ義実よしざね安房あわ入国にゅうこく伝説でんせつ[11]。しかし、義実よしざね出自しゅつじ安房あわ入国にゅうこく経緯けいいについての詳細しょうさい不明ふめいである。どう時代じだい史料しりょう確認かくにんができないことから、安房あわ里見さとみ系譜けいふじょう初代しょだいとされる義実よしざね、2だいとされる成義なりよし架空かくう人物じんぶつとするせつもある。天文てんもん内訌ないこう経緯けいいだい国府台こうのだい合戦かっせん状況じょうきょうなど、江戸えど時代じだいしるされた軍記ぐんきぶつ記載きさい土台どだいとしていた従来じゅうらいせつは、近年きんねん史料しりょう発掘はっくつ研究けんきゅう進展しんてんにしたがっておおきな疑義ぎぎしめされており、さい検討けんとうおこなわれている[注釈ちゅうしゃく 3]

戦国せんごく初期しょき安房あわ里見さとみ

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どう時代じだい文書ぶんしょ確認かくにんできる最初さいしょ安房あわ里見さとみ当主とうしゅは、3代目だいめとされる里見さとみよしどおりである。えいただし5ねん1508ねん9月25にち安房あわこく一宮いちのみや鶴谷つるたに八幡宮はちまんぐうおさめられたむねさつには「鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんげん朝臣あそんまさし古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが政氏まさうじ)」のとともに「ふくそちみなもとよしどおり里見さとみよしどおり)」のしるされている。これは里見さとみよしどおり実在じつざいせい安房あわ支配しはい確立かくりつしめ明証めいしょうであるとかんがえられている。その古河ふるかわ公方くぼういえ内紛ないふんさいしては、しょうゆみ公方くぼう足利あしかが義明よしあきほうじ、上総かずさ下総しもうさ相模さがみへたびたび侵入しんにゅうし、こう北条ほうじょうをはじめとするはんしょうゆみ公方くぼう大名だいみょう国人くにびとあらそう。だいひさし6ねん(1526ねん11月26にちには、里見さとみ軍勢ぐんぜい(4だい当主とうしゅ里見さとみよしゆたか後見人こうけんにんであった叔父おじ里見さとみみのる軍勢ぐんぜいとされているが、とう主義しゅぎゆたか本人ほんにんとするせつもある)が三浦みうらぐん鎌倉かまくらぐん侵入しんにゅうし、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうき、玉縄たまなわしろした北条ほうじょうかたたたかっているが、これもしょうゆみ公方くぼう意向いこうしたがったものであるとされている(鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうたたか[12]

天文てんもん2ねん1533ねん7がつ27にち里見さとみよしゆたか叔父おじ里見さとみみのるつが、翌年よくねん4がつ6にちにはじつ堯の実子じっし里見さとみよしが、こう北条ほうじょう与力よりきて、里見さとみよしゆたかもるいね村城むらしろおとし、よしゆたか自害じがい家督かとくいだ。この一連いちれん内紛ないふん天文てんもん内訌ないこう稲村いなむらへん)とぶ。天文てんもん内訌ないこうについては、若年じゃくねんゆたか思慮しりょ後見人こうけんにんである叔父おじ排除はいじょしたことがきっかけであるとえがかれてきたが、近年きんねん史料しりょう発掘はっくつ結果けっかとしてよしゆたかはすでに壮年そうねんむかえており、庶流である里見さとみみのる堯・よし父子ふしによる宗家そうけたいする下克上げこくじょう一環いっかんであったとの見方みかたつよまっている。このため、よしゆたか以前いぜんを「前期ぜんき里見さとみ」、よし堯以を「後期こうき里見さとみ」とんで区別くべつする研究けんきゅうもいる[13][ようページ番号ばんごう]

また天文てんもん内訌ないこう関連かんれんし、「後期こうき里見さとみ」がその正当せいとうせい主張しゅちょうするために「前期ぜんき里見さとみ」にかんする記録きろく改変かいへんしたうたがいもたれている。よしゆたか若年じゃくねん当主とうしゅとされたてんや、だい2だい当主とうしゅ里見さとみ成義なりよし」の実在じつざいうたがわれるてんなどがそれであり、よしゆたか以前いぜん里見さとみ記録きろく異常いじょうすくないことも「後期こうき里見さとみ」による史料しりょう隠滅いんめつ関係かんけいしているとわれている。また、「前期ぜんき里見さとみ」の一族いちぞくどおりまたはゆたか子孫しそん)と推定すいていされる「みなもとみんふとし」という人物じんぶつ安房あわこく白浜しらはましろにいたことも確認かくにんされている[14][15][16]

天文てんもん内訌ないこう以後いご

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天文てんもん内訌ないこうにおいてのち北条ほうじょうむすだい5だい当主とうしゅとなった里見さとみよしであったが、そのこう北条ほうじょうり、ふたたしょうゆみ公方くぼうかたにつく。そのこう北条ほうじょう上総かずさ武田たけだとたびたび干戈かんかまじえた。里見さとみは、天文てんもん7ねん1538ねん)のだいいち国府台こうのだい合戦かっせんにおける大敗たいはいこう北条ほうじょうによる安房あわめなどでたびたび苦境くきょうおちいったが、越後えちご上杉うえすぎ同盟どうめいむことによりけ、上総かずさ勢力せいりょく伸張しんちょうした。

里見さとみよし義弘よしひろ親子おやこは、えいろく6ねん1563ねん)およびえいろく7ねん1564ねん)のだい国府台こうのだい合戦かっせんのち北条ほうじょう敗北はいぼくきっするが、えいろく10ねん1567ねん)のさん船山ふなやま合戦かっせん北条ほうじょうやぶり、上総かずさでの勢力せいりょくけん確固かっこたるものにした。こう北条ほうじょう上杉うえすぎ連携れんけいすると、これに対抗たいこうして義弘よしひろ甲斐かい武田たけだ同盟どうめいみ(きのえぼう同盟どうめい)、着々ちゃくちゃく勢力せいりょく拡大かくだい下総しもうさ南部なんぶにも影響えいきょうおよぼすようになり、最盛さいせいむかえた。だが、天正てんしょう2ねん1574ねん)に堯がぼっしたころより北条ほうじょうかえしが発生はっせいし、天正てんしょう5ねん1577ねん)、里見さとみ義弘よしひろはたびたび交戦こうせんした北条ほうじょう氏政うじまさ和睦わぼくぼうしょういち)して下総しもうさから撤退てったいし、以後いご領国りょうごく経営けいえい専念せんねんする。

義弘よしひろ天正てんしょう6ねん1578ねん)にぼっすると、嫡子ちゃくしうめ王丸おうまるおとうとよしよりゆき義弘よしひろ庶子しょしとも)とのあいだ家督かとくあらそいが発生はっせいし、また上総かずさ国人くにびと離反りはんなどによりいちぜいおとろえた。しかし家督かとくあらそいをせいして当主とうしゅとなった里見さとみよしよりゆき豊臣とよとみ秀吉ひでよし接近せっきんし、安房あわ上総かずさ全域ぜんいき下総しもうさ南部なんぶ安堵あんどることに成功せいこうする。

館山たてやまはん成立せいりつ改易かいえき

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よしよりゆきあといだ里見さとみ義康よしやすは、小田原おだわら征伐せいばつさんじんするも、そう無事ぶじれい違反いはんおかしたために秀吉ひでよしいかりをった。これにより上総かずさ下総しもうさ没収ぼっしゅうされ、安房あわいちこくのみが安堵あんどされた。このとき徳川とくがわ家康いえやすがとりなしたことにより、以降いこう里見さとみ徳川とくがわよしみよしみつうじるようになる[17]

慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたか論功行賞ろんこうこうしょうによって常陸ひたち鹿島かしまりょう3まんせき加増かぞうされ、館山たてやまはん都合つごう12まん2000せき大名だいみょうとなった。また、義康よしやすおとうと里見さとみ忠重ただしげ上野うえの板鼻いたはな1まんせき藩主はんしゅにんじられた[18][ようページ番号ばんごう]。だが、慶長けいちょう18ねん1613ねん)に里見さとみ忠重ただしげ突如とつじょ改易かいえき処分しょぶんとなり、よく慶長けいちょう19ねん1614ねん)には宗家そうけ里見さとみ忠義ただよししゅうとしゅうとである大久保おおくぼ忠隣ただちか失脚しっきゃく連座れんざして安房あわ没収ぼっしゅうされ、鹿島かしま代替だいたいとして伯耆ほうき倉吉くらよし3まんせきてんふうとなった。しかし実際じっさいは、かれには100にん扶持ふちほどの糧米りょうまいしかあたえられておらず、配流はいるおなあつかいだった。そして元和がんわ8ねん1622ねん)、忠義ちゅうぎ病死びょうしすると、跡継あとつぎがいないとして改易かいえきされた。

安房あわ里見さとみ末裔まつえい

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実際じっさいには、忠義ちゅうぎには正室せいしつ2人ふたり女子じょしがいたほか、側室そくしつに3にん男子だんしがいたといわれている。

忠義ちゅうぎであるとされている里見さとみとしてるは、もと家臣かしんしるしひがしそだてられたという。子孫しそん越前えちぜん鯖江さばえはんあるじ間部まべつかえた。子孫しそんのこしており、それぞれ150ひょうりの下級かきゅう旗本はたもと他家たけ仕官しかんしたという[19]

忠義ちゅうぎ叔父おじである里見さとみ忠重ただしげもと板鼻いたはな藩主はんしゅ)は改易かいえき酒井さかいあづけられ、子孫しそん出羽でわ庄内しょうないはん家臣かしんとしてつかえている。

また、里見さとみよしなん里見さとみ義政よしまさがおり、そのせいまご里見さとみよしふゆ常陸ひたち水戸みとはんとなっている。

昭和しょうわ前期ぜんき実業じつぎょう社会しゃかい教育きょういくである里見さとみじゅんきち大丸だいまるだい2だい社長しゃちょう千葉ちばけん出身しゅっしん)も、安房あわ里見さとみ一族いちぞくである。その江戸えど遠江とおとうみ掛川かけがわはん太田おおた)につかえていたが、明治維新めいじいしん藩主はんしゅてんふう上総かずさこく松尾まつおはん)によって房総ぼうそうもどった。

安房あわ里見さとみ歴代れきだい当主とうしゅ

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  1. 里見さとみ義実よしざね
  2. 里見さとみ成義なりよし
  3. 里見さとみよしどおり
    里見さとみみのる[注釈ちゅうしゃく 4]
  4. 里見さとみよしゆたか
  5. 里見さとみよし
  6. 里見さとみ義弘よしひろ
    里見さとみ義重よししげ[注釈ちゅうしゃく 5]
  7. 里見さとみよしよりゆき
  8. 里見さとみ義康よしやす
  9. 里見さとみ忠義ただよし

主要しゅよう家臣かしん

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安房あわ里見さとみ主要しゅよう家臣かしんとして正木まさきがいる。

一門いちもんしゅ
  • 岡本おかもととおる
  • 正木まさきよししゅん
正木まさき
  • 正木まさきよりゆきとき
  • 正木まさきみちしゅん
  • 正木まさきよりゆきじょう
その
  • 安西あんざい勝峯かつみね
  • 安西あんざいけいみね
  • 安西あんざい景綱かげつな
  • 安西あんざいけいしげる
  • 安西あんざいみのるもと
  • 安西あんざい清勝きよかつ
  • 真田さなだ三河みかわまもる
  • 真田さなだ信濃しなの
  • 真田さなだけんすけ
  • 加藤かとう信景さだかげ
  • 多賀たが高明こうめい
  • 多賀たがだかかた
  • 鑓田やりたかつじょう
  • 府馬ふま
  • 烏山からすやま時貞ときさだ
  • 上野うえのすけこく
  • 竜崎りゅうざきわたる七郎しちろう
  • 竜崎りゅうざき六郎ろくろう
  • 加藤かとう信景さだかげ
  • 加藤かとうひろしけい

など

曲亭馬琴きょくていばきんの『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』は、安房あわ里見さとみ初期しょき時期じき設定せってい年代ねんだいとしている[21]馬琴ばきん構想こうそうは、結城ゆうき合戦かっせんやぶ安房あわちのびて義成よしなり成義なりよし)とともに10世代せだいおよ房総ぼうそうこく支配しはい基礎きそてた義実よしざね歴史れきしからげ「ひとしくん」とし、その仁政じんせい根拠こんきょ八犬士はっけんしという虚構きょこうによってうらづけようとしたものととらえることができる[22]

越後えちご里見さとみ

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越後えちごこく鎌倉かまくら時代じだい以来いらい里見さとみえんふか土地とちであり、支族しぞくろした。里見さとみよししゅん次男じなん田中たなか義清よしきよ越後えちご所領しょりょう下向げこうしたという。里見さとみ義成よしなり次男じなん義継よしつぎ越後えちごこく波多はた岐荘大井おおい田郷たごうげん新潟にいがたけん十日町とおかまち)に所領しょりょう義成よしなり三男さんなん鳥山とりやま時成ときなり波多はた岐荘に所領しょりょうた。だい井田いだ鳥山とりやま田中たなかなど、里見さとみ支族しぞく越後えちご新田にったとう形成けいせいし、南北なんぼくあさ動乱どうらんには宗家そうけ新田にった義貞よしさだしたがって活躍かつやくした。

だい井田いだ

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だい井田いだ(おおいだし)は、里見さとみ義成よしなり義継よしつぎとそのまましが、越後えちご魚沼うおぬまぐん大井おおい田郷たごう新潟にいがたけん十日町とおかまち)を領地りょうちとしたことからはじまる。

だい井田いだ越後えちご新田にったとうをまとめ、新田にった義貞よしさだすうじゅう挙兵きょへいしたさいには、けいたかし越後えちごより2,000軍勢ぐんぜい参上さんじょうし、義貞よしさだぐん中核ちゅうかくとして鎌倉かまくらめにくわわった。たてたけし新政しんせいからはけいたかし次男じなんけい式部しきぶ大夫たいふ弾正だんじょうしょう弼)が義貞よしさだ配下はいかしょうとして勇戦ゆうせんし、湊川みなとがわ合戦かっせんでの敗北はいぼくのち越前えちぜんによった義貞よしさだ救援きゅうえんすべく越後えちごで2まんへいあつめたが、義貞よしさだ戦死せんしほう瓦解がかいしてしまった。

越後えちご大井田おいだ

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こののち本拠ほんきょ大井田おいだじょう足利あしかがかた大軍たいぐん攻撃こうげきけ、かろうじて滅亡めつぼうはまぬがれたものの、しょう土豪どごうとしてつづくことになる。

戦国せんごく時代じだいには長尾ながお台頭たいとうともに、とく近隣きんりん上田うえだ長尾ながお関係かんけいふかめ、だい井田いだけい長尾ながお政景まさかげおとうとけいこくむすめ婿むことし、上杉うえすぎ景勝かげかつ幼少ようしょう守役もりやくけいおとうとつとめた。景勝けいしょう上杉うえすぎ当主とうしゅとなってからは、けいこく大井田おいだもとせい側近そっきんとして上杉うえすぎ家中かちゅうでもおもきをなしたが、天正てんしょう18ねん1590ねん)に突如とつじょけいこく切腹せっぷくめいじられ、もとせい乱心らんしんにより他家たけあずかりとなり断絶だんぜつした。

だい井田いだ名跡みょうせきは、親族しんぞく島倉しまくらしゅんつぎぎ、以後いご米沢よねざわ藩士はんしとしてつづいた。

京都大きょうとだい井田いだ

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このほか、室町むろまち幕府ばくふ足利あしかが将軍家しょうぐんけから丹波たんば山城やましろ近江おうみ所領しょりょうたまい、奉公ほうこうしゅとして活躍かつやくしただい井田いだがいた。

大嶋おおしま

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新田にった義貞よしさだしたが鎌倉かまくら幕府ばくふ陥落かんらくをなした大嶋おおしまのなかで、のち足利尊氏あしかがたかうじしたが三河みかわ守護しゅごにまで発展はってんした大嶋おおしまがいた。

安房あわけい越後えちご里見さとみ

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安房あわ里見さとみ内紛ないふん天文てんもん内訌ないこう)でたれた里見さとみよしゆたか遺児いじ里見さとみむね越後えちごのがれたという。この系統けいとうして越後えちご里見さとみう。

美濃みの里見さとみ

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美濃みの里見さとみ(みのさとみし)は、里見さとみ義成よしなり末子まっし義直よしなお承久じょうきゅうらんのち美濃みのこく円教寺えんきょうじ地頭じとうとなり、同地どうち移住いじゅうしたことにはじまる(『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく[23])。

南北なんぼくあさ時代じだい里見さとみ義宗よしむねきた朝方あさがたについて所領しょりょうたが、かんおう擾乱じょうらん足利あしかが直義ただよし味方みかた没落ぼつらくした。

安房あわ里見さとみ初代しょだい里見さとみ義実よしざね出自しゅつじについては、美濃みの里見さとみ系統けいとうとする関連かんれんけのせつもある[24][ようページ番号ばんごう] [25][ようページ番号ばんごう][26][ようページ番号ばんごう]

出羽でわ里見さとみ

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出羽でわ里見さとみ(でわさとみし)は、上記じょうき里見さとみ義直よしなお初代しょだいとする家系かけいである。子孫しそん出羽でわこく成生なりゅうしょうげん山形やまがたけん天童てんどう)を拠点きょてん勢力せいりょく扶植ふしょくしたが、出羽いずはへの移住いじゅう経緯けいいなどははっきりしない。

天童てんどう

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南北なんぼくあさ時代じだい成生なりゅうしょう拠点きょてんとした出羽でわ里見さとみだい5だい当主とうしゅ里見さとみ義景よしかげがなく、おなみなもと義国よしくに家系かけいである足利あしかが一門いちもん斯波しばけん三男さんなん義宗よしむね養子ようしとした。里見さとみ義宗よしむね家督かとくぐと天童てんどうしょうした。義宗よしむねのちには、斯波しば支族しぞくである最上もがみから最上もがみ直家なおいえよりゆきただしはいっている(よりゆきじき斯波しばけん二男じなんである最上もがみ兼頼かねよりまごで、義宗よしむねだいおいにあたる)。新田しんでんけい家系かけいながら足利あしかがけいをひくこととなった天童てんどうは、里見さとみ一門いちもん家臣かしんだんとして編成へんせいして勢力せいりょく拡大かくだいするとともに、上山うえやま東根ひがしね鷹巣たかのすという庶流を領内りょうない各地かくち移住いじゅうさせて支配しはいけん確立かくりつしていった。

南北なんぼくあさ時代じだいから室町むろまち時代ときよにかけて、出羽いずはこく南部なんぶでは最上もがみ国人くにびと統合とうごう支配しはいけんかためており、一族いちぞく養子ようしりした天童てんどうたいしても従属じゅうぞくもとめるようになる。しかし、天童てんどう斯波しばから養子ようしをとっただけで家系かけい新田にった一門いちもんであることから一定いってい独立どくりつ維持いじしてきた。天童てんどう延沢のぶさわ飯田いいだ尾花沢おばなざわ楯岡たておか長瀞ながとろ六田ろくでん成生なりゅうらとともに最上さいじょうはちだて形成けいせいし、最上もがみ出羽でわ侵攻しんこうをたくらむ伊達だて対抗たいこうしていった。

天正てんしょう5ねん(1577ねん)、最上もがみ義光よしみつ天童てんどうだい16だい当主とうしゅ天童てんどうよりゆきさだとの講和こうわむすび、よりゆきさだむすめ天童てんどう御前ごぜん)を側室そくしつむかえたが、その最上もがみ天童てんどう一族いちぞく最上さいじょうはちだてあらそいはつづいた。天正てんしょう12ねん1584ねん)、だい17だい当主とうしゅ天童てんどうよりゆききよしのときに天童てんどうじょう落城らくじょう天童てんどう出羽でわ里見さとみ一門いちもん家臣かしんだん最上さいじょう吸収きゅうしゅうされ、最上さいじょう勢力せいりょく拡大かくだい貢献こうけんしてゆくことになる。

最上さいじょうつかえた里見さとみ人物じんぶつとして、里見さとみみんがいる[27]上山うえやましろあるじ上山うえやま満兼みつかね里見さとみ満兼みつかね)の一族いちぞく重臣じゅうしんであったみんは、天正てんしょう10ねん1582ねん)にさい上方かみがたてんじ、主君しゅくんって上山うえやま城主じょうしゅとなった。みん義光よしみつ最上もがみ義康よしやす讒言ざんげんざんげんしておいえ騒動そうどう最上もがみ騒動そうどう)の一因いちいんをつくり、粛清しゅくせいされたという。

仙台せんだい藩士はんし里見さとみ

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天童てんどうよりゆききよし伊達だてまさしむねたよってのがれ、天童てんどう仙台せんだいはん重臣じゅうしんとして名跡みょうせきのこしている。

天正てんしょう10ねん(1582ねん)に里見さとみみん主君しゅくん上山うえやま城主じょうしゅ上山うえやま満兼みつかねったさいみん実兄じっけい里見さとみ内蔵助くらのすけ[27]をともに殺害さつがいしている。里見さとみ内蔵助くらのすけ里見さとみもとかち[27]もとかちはのちに叔父おじ一族いちぞくおおくをって仙台せんだいはんつかえた[28]もとかち里見さとみ重勝しげかつ紀州きしゅうはん出仕しゅっししたのち仙台せんだいはんつかえた[29]

水戸みと藩士はんし里見さとみ

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出羽でわ里見さとみ傍流ぼうりゅうは、水戸みとはんつかえた。

江戸えど時代じだい初期しょき最上さいじょう山形やまがたはん)は最上さいじょうおやだい発生はっせいしたいえ騒動そうどう最上もがみ騒動そうどう)によって、江戸えど幕府ばくふいのちにより改易かいえきされた。最上さいじょう家臣かしんであった里見さとみ義親よしちか加賀かがはんおも松平まつだいら筑前ちくぜんもり召抱めしかかえられたが、かつての主筋しゅうすじ山野辺やまのべ義忠よしただ最上さいじょうおや実弟じってい)が水戸みとはん仕官しかんしたのにともない、加賀かがはんしてみずからも水戸みとはんさい仕官しかんすることとなった。

この義親よしちか子孫しそん幕末ばくまつ志士しし里見さとみ四郎しろう左衛門さえもんおやちょうがいる。おやちょう戸田とださん衛門えもん忠之ただゆきむすめ婚姻こんいんし、嫡男ちゃくなん里見さとみちかしけんまれる。おやちょうおやけん親子おやこは、縁戚えんせきである水戸みとはん家老がろう戸田とだただし太夫たゆう安島あじま帯刀たてわき兄弟きょうだいとも関係かんけいふかく、尊皇そんのう攘夷じょうい邁進まいしん天狗てんぐとうらんにてしょなまとう攻撃こうげきけてにしている。

このほか、水戸みとはんつかえた里見さとみには、前述ぜんじゅつ安房あわ里見さとみ傍流ぼうりゅう里見さとみよし堯のなん系統けいとう)がある。

支流しりゅう

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天童てんどう - 出羽でわこく有力ゆうりょく国人くにびと足利あしかがけい斯波しばけん三男さんなん天童てんどう義宗よしむね里見さとみ義景よしかげ養子ようし)がいえ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 里見さとみむら (群馬ぐんまけん)げん群馬ぐんまけん高崎たかさき上里見かみさとみまち中里見なかさとみまち下里見しもさとみまちさと見神けんしんしゃ所在地しょざいち
  2. ^ くわしくは桐生きりゅうちかしつな参照さんしょう
  3. ^ (滝川たきかわ 2014, §. 房総ぼうそう里見さとみろん研究けんきゅう整理せいり中心ちゅうしんに)に研究けんきゅう整理せいりされている。
  4. ^ 本来ほんらいじつ堯はおいであるよしゆたか後見人こうけんにんとされており、「里見さとみきゅうだい」とする場合ばあい歴代れきだい当主とうしゅにはふくまない。また、近年きんねんでは当主とうしゅ後見人こうけんにんであったとする記録きろく後世こうせい創作そうさくとされている[20]
  5. ^ 義弘よしひろ嫡男ちゃくなん近年きんねんでは正式せいしき里見さとみ当主とうしゅであったとするせつ有力ゆうりょくである[よう出典しゅってん]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f 太田おおた 1934, p. 2633.
  2. ^ a b 大野おおの 1933, p. 7.
  3. ^ 大野おおの 1933, p. 491.
  4. ^ 大野おおの 1933, p. 20.
  5. ^ 峰岸みねぎし 1997, p. [ようページ番号ばんごう].
  6. ^ 峰岸みねぎし 1998, p. [ようページ番号ばんごう].
  7. ^ 滝川たきかわ 2007, p. [ようページ番号ばんごう].
  8. ^ 毛呂けろ 1910, pp. 94–95.
  9. ^ 太田おおた 1934, p. 2634.
  10. ^ 上野うえのこくこころざし仁田山にたやまきゅうるいじょう[8][9]
  11. ^ 太田おおた 1934, pp. 2635–2636.
  12. ^ 大野おおの 1933, p. 123.
  13. ^ 滝川たきかわ 1992.
  14. ^ 早川はやかわ 1970, p. [ようページ番号ばんごう].
  15. ^ 佐藤さとう 1997, p. [ようページ番号ばんごう].
  16. ^ 千葉ちばけん史料しりょう研究けんきゅう財団ざいだん 2007, pp. 843–844, §. 前期ぜんき里見さとみから後期こうき里見さとみへ.
  17. ^ 市村いちむら 1994, p. [ようページ番号ばんごう].
  18. ^ 滝川たきかわ 1996.
  19. ^ せん野原のはら 2001, pp. 137–140.
  20. ^ 滝川たきかわ 1992, p. [ようページ番号ばんごう].
  21. ^ kotobank-南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん, §. あらすじ.
  22. ^ 石川いしかわしげる (1998), “『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』の史伝しでんてき展開てんかい(うえ)”, 国際こくさい文化ぶんか研究けんきゅう論集ろんしゅう 6: 188-175, https://hdl.handle.net/10097/34468 2019ねん1がつ16にち閲覧えつらん 
  23. ^ 太田おおた 1934, p. 2641.
  24. ^ 峰岸みねぎし 1997.
  25. ^ 峰岸みねぎし 1998.
  26. ^ 滝川たきかわ 2007.
  27. ^ a b c 太田おおた 1934, p. 2640.
  28. ^ kotobank-里見さとみもとかち.
  29. ^ kotobank-里見さとみ重勝しげかつ.
  30. ^ 成田なりた企画きかく政策せいさく広報こうほう 2002, p. 2.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 峰岸みねぎし純夫すみお ちょとおるとくらん里見さとみ義実よしざね」、稲村いなむら城跡じょうせき保存ほぞんするかい編集へんしゅう へん里見さとみ稲村いなむら城跡じょうせきをみつめて』 だい3しゅう里見さとみ稲村いなむら城跡じょうせき保存ほぞんするかい、1998ねん12月。 NCID BN15843676 


外部がいぶリンク

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