北条ほうじょう 忠ただし時とき(ほうじょう ただとき、建けん長ちょう元年がんねん(1249年ねん) - 弘安ひろやす7年ねん10月2日にち(1284年ねん11月10日にち))は、鎌倉かまくら時代ときよの武士ぶし。北条ほうじょう重しげる時ときの十じゅう男なんだが、他たの兄弟きょうだい達たちの中なかに夭折ようせつするなどして業績ぎょうせきを残のこせず、日ひの目めを浴あびなかった者ものもいたため、六ろく男おとことして扱あつかわれることもある[1]。通称つうしょうは陸奥むつ十郎じゅうろう。子こに親したし時ときがいる。
弘ひろ長ちょう3年ねん(1263年ねん)、椀わん飯めしの儀式ぎしきに参列さんれつ。宗尊親王むねかたしんのうの鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう参詣さんけいに際さいし供奉ぐぶを担当たんとう。建治けんじ3年ねん(1277年ねん)に従したがえ五ご位い下か、左近さこん将監しょうげんに叙位じょいされる。同年どうねん、北条ほうじょう貞時さだときが元服げんぷくした折おり、儀式ぎしきで馬うまの牽引けんいんを担当たんとうした。弘安ひろやす4年ねん(1281年ねん)、引付ひきつけ衆しゅに補任ほにんされる。同どう7年ねん(1284年ねん)死去しきょ。『続ぞく拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』に歌うたが一いち首しゅ採録さいろくされている。