(Translated by https://www.hiragana.jp/)
赤松則祐 - Wikipedia

赤松あかまつ則祐のりすけ

鎌倉かまくら時代じだい末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだい武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう

赤松あかまつ 則祐のりすけ(あかまつ のりすけ/そくゆう)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから南北なんぼくあさ時代じだいにかけての武将ぶしょう守護しゅご大名だいみょう室町むろまち幕府ばくふぜんりつかた播磨はりまこく備前びぜんこく摂津せっつこく守護しゅご赤松あかまつ6だい当主とうしゅ

 
赤松あかまつ 則祐のりすけ
赤松あかまつ則祐のりすけ江戸えど時代じだいあつまりいにしえじゅうしゅ』より)
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ - 南北なんぼくあさ時代じだい
生誕せいたん 正和しょうわ3ねん1314ねん
死没しぼつ 建徳けんとく2ねん/おうやす4ねん11月29にち[1]1372ねん1がつ13にち
改名かいめい 律師りっしみょうぜん[1]
別名べつめい 律師りっし[1]
戒名かいみょう 宝林寺ほうりんじ殿どのてんみょうぜん
墓所はかしょ 兵庫ひょうごけん赤穂あこうぐん上郡かみごおりまち河野原こうのはら宝林寺ほうりんじ
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふぜんりつかた播磨はりま備前びぜん摂津せっつ守護しゅご[1]
主君しゅくん 後醍醐天皇ごだいごてんのう足利尊氏あしかがたかうじ義詮よしあきら義満よしみつ
氏族しぞく 赤松あかまつ
父母ちちはは ちち赤松あかまつ則村のりむら[1]
兄弟きょうだい はん[1]さだはん[1]則祐のりすけ氏範うじのり[1]氏康うじやす
つま 正室せいしつ佐々木ささきみちほまれむすめ
義則よしのり[1]どきそく[1]満則みつのり[1]そく[1]ぼう有馬ありまよしゆう[1]ゆうしゅう[1]細川ほそかわ頼元よりもと正室せいしつ
養子ようしちょくよりゆきはん赤松あかまつはん
テンプレートを表示ひょうじ

いみなは「そくゆう」ともばれる[2]

生涯しょうがい

編集へんしゅう

正和しょうわ3ねん1314ねん)、赤松あかまつ則村のりむらとして誕生たんじょう

元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)、後醍醐天皇ごだいごてんのう鎌倉かまくら幕府ばくふ打倒だとうかか挙兵きょへいする(元弘もとひろらん[3]則祐のりすけ比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじはいって律師りっしみょうぜんしょうしており、そのえんによって後醍醐天皇ごだいごてんのう皇子おうじ天台座主てんだいざしゅであった護良親王もりよししんのうしたがい、熊野くまの十津川とつかわ吉野よしのじょうなどで転戦てんせんした[3]元弘もとひろ3ねん1333ねん)、護良親王もりよししんのう使者ししゃとして倒幕とうばく令旨れいしちち円心えんしん則村のりむら)にとどけ、赤松あかまつ播磨はりま挙兵きょへいちちしたがって東上とうじょう瀬川せかわ合戦かっせんにも従軍じゅうぐん京都きょうとろく探題たんだい攻撃こうげきする[3]

則祐のりすけには武勇ぶゆうでんおおく、『太平たいへい』にもいくつかしるされている。熊野くまの十津川とつかわでは護良親王もりよししんのうまもって善戦ぜんせんちちしたがっての高田たかだ兵庫ひょうご輔頼おもとのたたかいにおいては、後方こうほう撹乱かくらん実行じっこうし、西条さいじょう山城やましろ突入とつにゅうして勝敗しょうはいめた。また、洛中らくちゅうでの桂川かつらがわたたかいでは、増水ぞうすいした桂川かつらがわ単騎たんきおどりこみ、敵陣てきじん一番乗いちばんのりをたした。京都きょうとにおいても相撲すもうじんとしての武勇ぶゆうでんがあったという(『梅松うめまつろん』)[4][5]

たてたけし政権せいけんしたにおいて、足利尊氏あしかがたかうじちゅう先代せんだいらん平定へいてい後醍醐天皇ごだいごてんのう反旗はんきひるがえすとちちあにらとともたかし味方みかたし、たてたけし3ねん1336ねん)にみこと後醍醐天皇ごだいごてんのうかた北畠きたばたけ顕家あきいえ楠木くすのき正成まさしげやぶれ、九州きゅうしゅうびるさいちちとも播磨はりまかまえた。

赤松あかまつ役目やくめ後醍醐天皇ごだいごてんのうかた播磨はりま足止あしどめし、たかし再起さいき時間じかんかせぐことで、ちち播磨はりま広範囲こうはんい戦線せんせん展開てんかい則祐のりすけ感状かんじょう山城やましろだい戦線せんせん大将たいしょうめいじられる。後醍醐天皇ごだいごてんのうかた新田にった義貞よしさだによってさか本城ほんじょう中心ちゅうしんとするだいいち戦線せんせんくずされ、だい戦線せんせんささえじょう次々つぎつぎ陥落かんらくするなか、則祐のりすけ奮戦ふんせん感状かんじょう山城やましろまもく。白旗はっきじょうした激戦げきせん展開てんかいされている最中さいちゅう九州きゅうしゅうちていたたかしところおとずれ、東上とうじょううながす。

正平しょうへい5ねん/かんおう元年がんねん1350ねん)、かんおう擾乱じょうらん最中さいちゅうちちぼっし、長兄ちょうけいはん当主とうしゅおよ播磨はりま摂津せっつ守護しゅごとなるが、よく正平しょうへい6ねん/かんおう2ねん1351ねん)に急死きゅうしのこりょう分割ぶんかつされ、摂津せっつおい光範みつのりあたえられ、則祐のりすけ当主とうしゅ播磨はりま守護しゅごとなる[3]。この決定けってい理由りゆうについては、しゅうと(しゅうと)が幕府ばくふ実力じつりょくしゃ佐々木ささきみちほまれだったことと、長年ながねんちちした功績こうせきかさねてきたことがげられる。次兄じけいさだはん幕府ばくふうとまれていたことも家督かとく相続そうぞくつながった[6][7][8][9]

同年どうねん7がつ護良親王もりよししんのう皇子おうじきょうりょう親王しんのうを推載、南朝なんちょうった。このためみこと嫡男ちゃくなん義詮よしあきら討伐とうばつけるが、直後ちょくご義詮よしあきら叔父おじ直義ただよし京都きょうとから出奔しゅっぽんしたため、この軍事ぐんじ作戦さくせん謀略ぼうりゃく則祐のりすけ降伏ごうぶく偽装ぎそうともされるが、真相しんそう不明ふめい翌年よくねん正平しょうへい一統いっとう破棄はきした南朝なんちょう京都きょうと占領せんりょうし、北朝ほくちょう皇族こうぞくったため義詮よしあきらしょ大名だいみょう動員どういんめいじるとこれにおうじて帰順きじゅん正平しょうへい8ねん/文和ふみかず2ねん1353ねん)に南朝なんちょうへのそなえとして城山しろやまじょう築城ちくじょうした。正平しょうへい10ねん/文和ふみかず4ねん1355ねん)には松田まつだわって備前びぜん守護しゅごにんじられた。

正平しょうへい14ねん/のべぶん4ねん1359ねん)、2だい将軍しょうぐんとなった義詮よしあきら南朝なんちょう征討せいとう従軍じゅうぐんした。正平しょうへい16ねん/かんやすし元年がんねん1361ねん)、幕府ばくふ執事しつじから失脚しっきゃくした細川ほそかわきよし南朝なんちょうぞくして楠木くすのき正儀まさよしらと京都きょうと占領せんりょう則祐のりすけおさな足利あしかが義満よしみつ播磨はりま白旗はっきじょう避難ひなんさせた[3]。このとき則祐のりすけ義満よしみつ無聊ぶりょうなぐさめるため、家臣かしんめいじて風流ふうりゅうおどり「赤松あかまつばやし」で接待せったいした[3]。これをおおいによろこんだ義満よしみつ将軍しょうぐんになったのち毎年まいとし赤松あかまつ屋敷やしきたずねてこれをたという。よく正平しょうへい17ねん/貞治さだはる元年がんねん1362ねん)に山名やまなたたかい、建徳けんとく元年がんねん/おうやす3ねん1370ねん)にぜんりつかた任命にんめいされ管領かんりょう細川ほそかわよりゆきこれ補佐ほさした。

建徳けんとく2ねん/おうやす4ねん(1371ねん)11月23にち高熱こうねつたおれ、そのまま回復かいふくせずに11月29にちこく京都きょうと西洞院にしのとういんじょうやしき死去しきょ[3]享年きょうねん59または61[1]だったともいう。死因しいん肺炎はいえんだったとされる[10][11]

墓所はかしょ兵庫ひょうごけん赤穂あこうぐん上郡かみごおりまち河野原こうのはら宝林寺ほうりんじどうてらには則祐のりすけ坐像ざぞう現存げんそんする。

人物じんぶつ

編集へんしゅう
  • 茶人ちゃじんとしてもられ茶器ちゃき造詣ぞうけいふかかった(きよし玩名ぶつ則祐のりすけかた衝を所持しょじしていたとある)。しゅうと佐々木ささきみちほまれとも数寄すき大名だいみょう元祖がんそといわれる。
  • 勲功くんこうおお器量きりょうすぐれた武将ぶしょうで、関白かんぱく近衛このえみちも「赤松あかまつ則祐のりすけ律師りっし他界たかい云々うんぬん随分ずいぶん大名だいみょううえ武家ぶけためめのちゅうこうことなるものか、しむし、しむし」とべている(『かん』)[12]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 今井いまいたかしほかへん 1984, p. 292.
  2. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 13ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g 高坂こうさかよしみ赤松あかまつ則村のりむら」『ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1994ねん 
  4. ^ こうさか 1970, pp. 13–33.
  5. ^ 濱田はまだ 2009, pp. 27–35.
  6. ^ こうさか 1970, pp. 47–53.
  7. ^ こうさか 1970, pp. 71–85.
  8. ^ 濱田はまだ 2009, pp. 39–43.
  9. ^ 濱田はまだ 2009, pp. 50–54.
  10. ^ こうさか 1970, pp. 85–86.
  11. ^ 濱田はまだ 2009, pp. 54–61.
  12. ^ こうさか 1970, p. 144.

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

関連かんれん作品さくひん

編集へんしゅう
映画えいが
テレビドラマ