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僧録 - Wikipedia

そうろく

僧侶そうりょ登録とうろく住持じゅうじ任免にんめんなどの人事じんじ統括とうかつした役職やくしょく

そうろく(そうろく)は、僧侶そうりょ登録とうろく住持じゅうじ任免にんめんなどの人事じんじ統括とうかつした役職やくしょくである。

中国ちゅうごくにおけるそうろく

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中国ちゅうごくでは、とう元和がんわ年間ねんかん設置せっちされたのがはじまりとされ[1]はしはじめ法師ほうし初代しょだいとする。その開成かいせい年間ねんかん左右さゆうがいそうろくもうけられた。

日本にっぽんにおけるそうろく

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鹿しかえんそうろく

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日本にっぽんではたてたけし3ねん1336ねん)、足利尊氏あしかがたかうじによってぜんりつかた(ぜんりつがた)が設置せっちされ、禅宗ぜんしゅう臨済曹洞りょうむねおよりつむね真言しんごんりつむねふくむ)を統括とうかつした。ぜんりつかたには細川ほそかわかず藤原ふじわらゆうはん藤原ふじわらみなみ)、六角ろっかく氏頼うじより赤松あかまつ則祐のりすけらが任命にんめいされた。

のちぜんりつかた室町むろまち幕府ばくふ正式せいしき機関きかんとなり、そうろく(そうろくし)とばれるようになる。1379ねんはるみょう初代しょだいそうろくにんじられた[2]

1398ねん絶海ぜっかい中津なかつそうろくにんじられる。当時とうじ中津なかつ相国寺しょうこくじ塔頭たっちゅう寺院じいんである鹿しかえんいん院主いんじゅであり、以後いご鹿しかえんいん院主いんじゅそうろく兼務けんむするようになり、鹿しかえんそうろく(ろくおんそうろく)とばれるようになった。

鹿しかえんそうろく臨済宗りんざいしゅう事実じじつじょう最高さいこう機関きかんとして五山ごさん以下いかしょてら統括とうかつし、しょてら寺格じかく決定けってい住持じゅうじ任免にんめん所領しょりょう訴訟そしょうなどの処理しょりおこなった。のち名誉めいよしょくして皇族こうぞくなどがそうろくにんじられるようになると、そうろく幕府ばくふ連絡れんらくやくであったかげりょうしょく(いんりょうしき)が実務じつむ責任せきにんしゃとして台頭たいとうした。かげりょうしょく就任しゅうにんした人物じんぶつでは8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ側近そっきんてられた瓊真しべられる。

15だい将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき織田おだ信長のぶながによって追放ついほうされたのちかげりょうしょくつづ義昭よしあき影響えいきょうかれていたらしく、天正てんしょう12ねん1584ねん)に当時とうじかげりょうしょくであったきよし叔寿いずみ義昭よしあき使者ししゃとして島津しまつ義久よしひさもとおもむいている[3]

金地きんじそうろく

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元和がんわ元年がんねん1615ねん)、江戸えど幕府ばくふによって寺院じいんしょ法度はっと制定せいていされると、そうろくかげりょうしょく一旦いったん廃止はいしされた。

1619ねん以心崇伝すうでんそうろく任命にんめいされ以後いご南禅寺なんぜんじ金地院こんちいん住持じゅうじそうろく兼務けんむするようになり、金地きんじそうろく(こんちそうろく)とばれるようになった。

また、曹洞宗そうとうしゅうせきさんのように、臨済宗りんざいしゅう以外いがいにもそうろくかれた宗派しゅうは存在そんざいする。

歴代れきだいそうろく

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以下いかおも歴代れきだいそうろくしる[4][5]

鹿しかえんそうろく
金地きんじそうろく

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ さんやすしだいそうそうりゃくまきちゅう左右さゆうがいそうろく
  2. ^ このほか貞治さだはる5ねん1366ねん)にこううららから使者ししゃ来日らいにちしたさい、2だい将軍しょうぐん足利あしかが義詮よしあきらからかりそうろく資格しかくあたえられて交渉こうしょうたったことはある。
  3. ^ 高鳥たかとりれん戦国せんごくかげりょうしょく幕府ばくふ政治せいじ」『足利あしかが将軍家しょうぐんけ政治せいじ秩序ちつじょ寺院じいん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2022ねんISBN 978-4-642-02976-6)P316-317.
  4. ^ 今枝いまえだあいしん中世ちゅうせい禅宗ぜんしゅう研究けんきゅう東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1970ねん
  5. ^ 財団ざいだん法人ほうじんぜん文化ぶんか研究所けんきゅうじょしん日本にっぽん禅宗ぜんしゅう権力けんりょくしゃ禅僧ぜんそうたち〉』

関連かんれん項目こうもく

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