(Translated by https://www.hiragana.jp/)
熊野 - Wikipedia

熊野くまの

和歌山わかやまけん南部なんぶ三重みえけん南部なんぶからなる地域ちいき
熊野くまの地方ちほうきゅう牟婁むろぐんにしきふく龍神りゅうじんむらふくまない)のデータ
くに 日本の旗 日本にっぽん
地方ちほう 近畿きんき地方ちほう東海とうかい地方ちほう
人口じんこう 272,936ひと
国勢調査こくせいちょうさ、2010ねん
面積めんせき 3140.39km2
人口じんこう密度みつど 86.9ひと/km2

熊野くまの(くまの)は、紀伊きい半島はんとう南端なんたん和歌山わかやまけん南部なんぶ三重みえけん南部なんぶからなる地域ちいき

熊野くまのきゅう牟婁むろぐん)の範囲はんい
あおきしわたるてら那智滝なちだき那智勝浦なちかつうらまち
熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃ田辺たなべ
熊野灘くまのなだ紀北きほくまち
熊野川くまのがわ紀宝きほうまち新宮しんぐう
三段壁さんだんへき白浜しらはままち

きゅうくにでは紀伊きいこく南部なんぶにあたり、上古じょうこ熊野くまのこく大概たいがい一致いっちする。熊野くまの三山さんざん田辺たなべ熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃ新宮しんぐう熊野くまの速玉はやたま大社たいしゃ那智勝浦なちかつうらまち熊野くまの那智なち大社たいしゃ)を中心ちゅうしんとする熊野くまの信仰しんこう中心ちゅうしんとしてられる。

きゅう牟婁むろぐん

編集へんしゅう

熊野くまのとは、近世きんせい牟婁むろぐんのことであり、明治めいじ以降いこう (1889ねん1933ねん) の和歌山わかやまけん西牟婁にしむろぐん東牟婁ひがしむろぐん三重みえけん北牟婁きたむろぐん南牟婁みなみむろぐんの4ぐんすとされる[1][2]現在げんざいぐんではこの4ぐん田辺たなべ新宮しんぐう尾鷲おわせ熊野くまのくわえた44ぐん(410まち1むら)となる[3]

ただしぐんによる定義ていぎしたがえば、市町村しちょうそん合併がっぺいによりその範囲はんい本来ほんらい牟婁むろぐんとは若干じゃっかん相違そういする。きゅう日高ひだかぐん龍神りゅうじんむら田辺たなべ龍神りゅうじんむらとなり、このエリアにふくまれるようになった一方いっぽうきゅう北牟婁きたむろぐんにしきまち度会わたらいぐん紀勢きせいまちにしきだいまちにしきとなり、このエリアにはふくまれなくなった。

きゅう牟婁むろぐん面積めんせきは3000km2え、佐賀さがけんよりもひろいが、人口じんこうは30まんにん未満みまんすくなく、国政こくせい選挙せんきょでは、衆議院しゅうぎいんしょう選挙せんきょ三重みえけんだい4和歌山わかやまけんだい3のそれぞれ一部いちぶにすぎない。

きゅう牟婁むろぐん市町村しちょうそん

くち熊野くまのおく熊野くまの

編集へんしゅう

紀州きしゅうはんでは、熊野くまの牟婁むろぐん)を和歌山わかやまからちかじゅんに「くち熊野くまの」「おく熊野くまの」とんでいた。周参見すさみげん:すさみまち)にはくち熊野くまの代官だいかんしょ木本きもとげん熊野くまの)にはおく熊野くまの代官だいかんしょかれそれぞれりょう熊野くまの政治せいじてき中心ちゅうしんとなっていた。ただし、りょう熊野くまの境界きょうかい一定いっていのものではなく、『紀伊きいぞく風土記ふどき』(1839)ではおおむねげん串本くしもとまち那智勝浦なちかつうらまち田辺たなべ中辺路なかへじまち本宮もとみやまちあいだ境界きょうかいとしているが、『南紀なんき徳川とくがわ』(1901)では熊野川くまのがわ境界きょうかいとしている。

その範囲はんい

編集へんしゅう

大化たいか改新かいしん以前いぜんには、西にし現在げんざい田辺たなべ田辺たなべ地域ちいき2005ねん合併がっぺい以前いぜん市域しいき)をふくまなかったというせつがある[4]ひがしさかい現在げんざいとほぼおなじだった。

みなべまち日高ひだかぐん所属しょぞくするものの文化ぶんか経済けいざいめん田辺たなべ西牟婁にしむろぐんとのつながりがふかく、「『熊野くまの地域ちいきしんナンバープレート導入どうにゅう推進すいしん協議きょうぎかい」への参加さんか検討けんとうされている地域ちいきふくまれている[5]

奈良ならけん吉野よしのぐん十津川とつかわむら下北山しもきたやまむら上北山かみきたやまむらについてもきゅう牟婁むろぐんとのつながりがふかく、十津川とつかわむらにある玉置たまき神社じんじゃ熊野くまの三山さんざんおくいんばれ、下北山しもきたやまむら上北山かみきたやまむらはかつて紀伊きいこく牟婁むろぐんであったとされている[6]

和歌山わかやまけん東牟婁ひがしむろ振興しんこうきょくうち熊野くまのエリア観光かんこう推進すいしん実行じっこう委員いいんかいは、東牟婁ひがしむろぐん新宮しんぐう田辺たなべ本宮もとみやまち(2005ねんまで東牟婁ひがしむろぐん本宮もとみやまち)を熊野くまのとしている[7]。これは振興しんこうきょく管内かんない本宮もとみやまち熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃがある)をくわえた地域ちいきである(≒東牟婁ひがしむろ地域ちいき)。

熊野くまの簡易かんい裁判所さいばんしょ熊野くまの検察庁けんさつちょうは、三重みえけん熊野くまの南牟婁みなみむろぐん管区かんくとする(≒南牟婁みなみむろ地域ちいき)。

呼称こしょう

編集へんしゅう

伝承でんしょうではつぎのような由来ゆらいがあるとしている。

地名ちめい語源ごげんについては諸説しょせつある。

るいしょう

編集へんしゅう
牟婁むろ
きゅう牟婁むろぐん基本きほんてき熊野くまのおな範囲はんいあらわす。ただし、地域ちいき全体ぜんたい地名ちめいというよりは、和歌山わかやまけん三重みえけん各々おのおの県土けんど一部いちぶあらわすのに使つかわれる。
紀南きなん
紀伊きいこく南部なんぶ同様どうようりょうけん一部いちぶあらわすことがおおい。また、和歌山わかやまけんがわではその範囲はんいらぎがあり、三重みえけんがわではきゅう北牟婁きたむろぐんふくまずきゅう南牟婁みなみむろぐんかぎられる。
ひがし紀州きしゅう
紀伊きいこく東部とうぶ熊野くまの牟婁むろ)の三重みえけん部分ぶぶん

近代きんだいまで(明治めいじ以前いぜん

編集へんしゅう

熊野くまのこく

編集へんしゅう

日本書紀にほんしょき神代かみしろおさむうえ)によるとかみカグツチんだときにイザナミいのちとし紀伊きいこく熊野くまの有馬ありまむらほうむられたという[8]現在げんざいはなくつ神社じんじゃほうむられているとされる)。

また、『古事記こじき神武じんむ東征とうせいだんおよび『日本書紀にほんしょきいわあまり彦の東征とうせいだんによるとかみ日本にっぽんいわあまり彦(のちの神武じんむ天皇てんのう)はあにとともに東方とうほう遠征えんせい熊野くまのかみ邑に上陸じょうりくした[8]神武じんむ東征とうせい)。熊野くまのあやしいくま妖気ようきたりうしなってしまうが、てんあきら大神おおがみからけん目覚めざめ、はち咫烏道案内みちあんない宇陀うだはい橿原かしはらみや天皇てんのうとして即位そくいしたという[8]。この熊野くまのかみ邑を新宮しんぐうとみるせつがある[8](ただし異説いせつあり)。

上古じょうこには熊野くまのこくがあり、なりつとむまでには熊野くまの国造くにのみやつこかれるようになったが、大化たいか改新かいしん孝徳たかのり (645ねん〜654ねん)、紀伊きいこく牟婁むろぐんとして併合へいごうされた。併合へいごうまえ熊野くまの範囲はんいは、西にし田辺たなべ田辺たなべ地域ちいきふくまず、ひがし現在げんざいおなじだったが、併合へいごうに、田辺たなべにあった牟婁むろさとわせて牟婁むろぐんとし、その一方いっぽうでのちの北牟婁きたむろぐん志摩しまこくえいおそれぐんうつされた[4]

紀伊きいこく

編集へんしゅう

熊野くまの三山さんざん歴史れきし非常ひじょうふるい(熊野くまの本宮ほんぐう大社たいしゃ創建そうけんたかしかみとされる)が、907ねん宇多うた法皇ほうおう熊野くまの御幸みゆき契機けいきに、皇族こうぞく貴族きぞくあいだ熊野くまの信仰しんこうひろまってきた。中世ちゅうせいになると、貴族きぞくわり武士ぶし庶民しょみん熊野くまのまいをするようになった。

天正てんしょう10ねん(1582ねん)に、のちの北牟婁きたむろぐん紀伊きいこく牟婁むろぐんうつされた。

江戸えど時代じだいには熊野くまのふく紀伊きいこく全域ぜんいきが、紀州きしゅう徳川とくがわ紀州きしゅうはんとなった。

きん現代げんだい明治めいじ以後いご

編集へんしゅう

廃藩置県はいはんちけんこう複数ふくすうけん1871ねんより和歌山わかやまけん度会わたらいけん1876ねんより和歌山わかやまけん三重みえけん)に分割ぶんかつされ、1889ねんぐんかくけん2ぐんずつけい4ぐん分割ぶんかつされた。

1936ねん吉野よしの熊野くまの国立こくりつ公園こうえん設置せっち

原発げんぱつ反対はんたい運動うんどう

編集へんしゅう

1967ねん中部電力ちゅうぶでんりょくによるあしはま原子力げんしりょく発電はつでんしょ計画けいかく現在げんざいみなみ伊勢いせまちだいまちにまたがる)の建設けんせつ計画けいかく反対はんたいする非常ひじょうおおきな運動うんどうこったため、当時とうじ三重みえ県知事けんちじは「終止符しゅうしふ宣言せんげん」をし、原子力げんしりょく発電はつでんしょ計画けいかくをいったん停止ていしさせた[9]

1971ねん熊野灘くまのなだめんする井内いうちうら(いちうら)での原子力げんしりょく発電はつでんしょ建設けんせつ計画けいかく発覚はっかく[9]井内いうちうらは、熊野くまの中心ちゅうしんから北東ほくとうやく3キロほどの位置いちにあった。なお、井内いうちうらでの建設けんせつ意図いとされた背景はいけいには、このまえ発表はっぴょうされた、あしはま原子力げんしりょく発電はつでんしょ計画けいかくへの反発はんぱつはげしかったことがあげられるという主張しゅちょうもある[9]

中部電力ちゅうぶでんりょくけん正式せいしき協力きょうりょくもとめたが、熊野くまのの6つの漁協ぎょきょうすべて、漁業ぎょぎょう深刻しんこく影響えいきょうあたえるとしてもう反対はんたいおこなった[9]当時とうじ熊野くまの市長しちょう原発げんぱつについて、市議会しぎかい判断はんだんゆだねるとしたが、市議会しぎかいは、計画けいかく発覚はっかくから5ヶ月かげつ市民しみんからの原発げんぱつ拒否きょひ請願せいがん全会ぜんかい一致いっち採択さいたくした[9]

だが、中部電力ちゅうぶでんりょく計画けいかくあきらめず、地元じもと人々ひとびと原発げんぱつ建設けんせつのメリットをつづけるなどしたため、誘致ゆうちさい検討けんとうもとめる陳情ちんじょうえ、当時とうじ有権者ゆうけんしゃ半数はんすうやく1まんにん)にちか署名しょめいせられるなどした[9]

1980ねん熊野くまの市議会しぎかい原発げんぱつ建設けんせつについて、「調査ちょうさ研究けんきゅう機関きかん市議会しぎかいへの設置せっち」を採択さいたくし、誘致ゆうちすすめるうごきをしめした[9]。このため、原発げんぱつ反対はんたいは、推進すいしん市議しぎ自宅じたくしかけ、徹夜てつや説得せっとくこころみるなど、運動うんどうちからしで推進すいしんしようとした[9]

1986ねんチェルノブイリ原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこ発生はっせいし、この影響えいきょうで、熊野くまの原発げんぱつ建設けんせつについても、反対はんたい主流しゅりゅうとなっていった[9]

1987ねん市議しぎせん反対はんたい14にん当選とうせんして過半数かはんすうとなり、5かいとなる原発げんぱつ拒否きょひ決議けつぎをするなどした結果けっか総合そうごう計画けいかくから「原発げんぱつ」の項目こうもくけずられ、原発げんぱつ建設けんせつはついに頓挫とんざした[9]

2000ねん中部電力ちゅうぶでんりょくあしはま原子力げんしりょく発電はつでんしょ計画けいかくげた[9]同社どうしゃは2014ねん朝日新聞あさひしんぶん取材しゅざいたいして、井内いうちうらでの原発げんぱつ建設けんせつ計画けいかくについて「現在げんざいはない」としている[9]

世界せかい遺産いさん登録とうろく

編集へんしゅう

2004ねん世界せかい遺産いさん紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう登録とうろく[10]

市町村しちょうそん合併がっぺいにより、1957ねん北牟婁きたむろぐんにしきまち度会わたらいぐん紀勢きせいまちにしきげんだいまちにしき)に、2005ねん日高ひだかぐん龍神りゅうじんむら田辺たなべ龍神りゅうじんむらになった。

北牟婁きたむろ地域ちいき

編集へんしゅう
尾鷲おわせ北牟婁きたむろぐん度会わたらいぐんだいまちにしき
荷坂峠にざかとうげ以南いなん矢ノ川峠やのことうげ以北いほく地域ちいきで、もっと北東ほくとう位置いちする。中心ちゅうしん都市とし尾鷲おわせで、海岸かいがんせん熊野灘くまのなだ)はすべてがリアス式海岸りあすしきかいがんとなっている。人口じんこうは4まんにんじゃくであり、きゅう4ぐんもっとすくない。多雨たう地域ちいきである熊野くまの地方ちほうなかでもあめおお地域ちいきであり、年間ねんかん降水こうすいりょうは4000mmにたっする。尾鷲おわせヒノキ代表だいひょうされる林業りんぎょうさかんである。また、長島ながしまこう、引本港ほんこう尾鷲おわせこうなどの天然てんねん良港りょうこう発達はったつし、漁業ぎょぎょうさかんな地域ちいきでもある。平安へいあん時代じだいには志摩しまこくえいおそれぐんぞくしていたが、天正てんしょう10ねん1582ねん)に紀伊きいこく牟婁むろぐん編入へんにゅうされた。尾鷲おわせには三重みえ県立けんりつ熊野くまの古道ふるみちセンターがある。

南牟婁みなみむろ地域ちいき

編集へんしゅう
熊野くまの南牟婁みなみむろぐん
矢ノ川峠やのことうげ以南いなん熊野川くまのがわ北山川きたやまがわ以東いとう地域ちいきで、中心ちゅうしん都市とし熊野くまのである。人口じんこうやく4まんにん熊野くまの木本もくほんより北東ほくとうリアス式海岸りあすしきかいがんであるが、南西なんせい一変いっぺん直線ちょくせんてきつぶてはま七里御浜しちりみはま新宮しんぐうまで25kmつづく。七里御浜しちりみはま沿岸えんがんには熊野くまの地域ちいきでは比較的ひかくてきひろ平野へいやひろがり、御浜みはままちミカン代表だいひょうされる果樹かじゅえんおおられる。一方いっぽう山間さんかんでは丸山まるやませんまい代表だいひょうされる棚田たなだ数多かずおお分布ぶんぷする。熊野くまの有馬ありまには熊野くまの自然しぜん崇拝すうはい原型げんけいとなるはなくつ神社じんじゃ存在そんざいする。

東牟婁ひがしむろ地域ちいき

編集へんしゅう
新宮しんぐう東牟婁ひがしむろぐん田辺たなべ本宮もとみやまち
熊野川くまのがわ北山川きたやまがわ以西いせい大塔山おおとうざん以東いとう地域ちいきで、中心ちゅうしん都市とし新宮しんぐうである。人口じんこうやく8まんにん。ただし、串本くしもとまち平成へいせいだい合併がっぺいまえ西牟婁にしむろぐんぞくしており、きゅう本宮もとみやまち現在げんざい田辺たなべはいっている。新宮しんぐうから串本くしもとまではふたた熊野灘くまのなだリアス式海岸りあすしきかいがんつづくが、北牟婁きたむろ地域ちいきくらべると地形ちけいゆるやかであり、潮岬しおのみさき太地たいち隆起りゅうき海食かいしょく台地だいちうえ集落しゅうらく存在そんざいする。熊野くまの三山さんざんゆうし、熊野くまの信仰しんこう中心ちゅうしんとなる地域ちいきである。勝浦かちうらこうマグロ水揚みずあげで、太地たいじこうクジラりょう有名ゆうめいである。本宮もとみやまちには和歌山わかやまけん世界せかい遺産いさんセンターがある。

西牟婁にしむろ地域ちいき

編集へんしゅう
田辺たなべ龍神りゅうじんむら本宮もとみやまちのぞく)・西牟婁にしむろぐん
大塔山おおとうざん以西いせいの、くち熊野くまのばれる地域ちいきで、中心ちゅうしん都市とし田辺たなべである。人口じんこうやく12まんにん3地域ちいき熊野灘くまのなだ沿岸えんがんであるが、この地域ちいき枯木かれきなだめんする。田辺たなべきゅう牟婁むろぐん最大さいだい都市としであり、「牟婁むろ」の名前なまえ田辺たなべ発祥はっしょうである。田辺湾たなべわんはさんだ白浜しらはままち観光かんこうとしておも関西かんさい方面ほうめんからの観光かんこうきゃくおおく、南紀なんき白浜しらはま空港くうこう存在そんざいする。田辺たなべ闘鶏とうけい神社じんじゃ熊野くまの三山さんざん別宮べつくてき存在そんざいであった。富田川とんだがわ流域りゅういき比較的ひかくてきひろ平野へいや形成けいせいされ、水田すいでんおおられる。上富田かみとみだまちには熊野くまの高校こうこうがある。

おも山地さんち山脈さんみゃく

編集へんしゅう

熊野くまのはほぼ全域ぜんいき紀伊きい山地さんち南部なんぶ壮年そうねん山地さんちで、「熊野くまのさんせんろくひゃくみね」とばれる山々やまやまつらなる。

  • 台高山脈だいこうさんみゃく尾鷲おわせ紀北きほくまち奈良ならけん吉野よしの地域ちいきとの境界きょうかい山脈さんみゃくきゅう牟婁むろぐんないではどう倉山くらやま(1474m)が最高峰さいこうほう
  • 熊野くまの山地さんち尾鷲おわせ南部なんぶから那智勝浦なちかつうらまち北部ほくぶつらなる山地さんちおもやま高峰山たかぼうやま(1045m)、子ノ泊山ねのとまりやま(907m)、大雲取山おおくもとりやま(966m)など。
  • 大塔おおとう山脈さんみゃく最高峰さいこうほう大塔山おおとうざん(1122m)を中心ちゅうしんとして南北なんぼくびる山脈さんみゃく東牟婁ひがしむろぐん西牟婁にしむろぐん境界きょうかいとなった。
  • みね山脈さんみゃく串本くしもとまち古座川こざがわまちあいだひろがる山脈さんみゃく最高峰さいこうほう峯ノ山みねのやま(482m)串本くしもとまち東牟婁ひがしむろぐんうつるまでひがし西牟婁にしむろぐん境界きょうかいであった。
  • 果無山脈はてなしさんみゃく田辺たなべから北東ほくとうかい日高ひだか地域ちいき吉野よしの地域ちいきとの境界きょうかいをなす山脈さんみゃく最高峰さいこうほう冷水山ひやみずやま(1262m)

おも河川かせん

編集へんしゅう

おも海域かいいき

編集へんしゅう

人文じんぶん

編集へんしゅう

熊野くまの三山さんざんはじめとする修験しゅげんどう神社じんじゃ山中さんちゅうにあり、熊野くまの古道ふるみちつうじている。これらは世界せかい遺産いさんに「高野山こうのやま」「吉野よしの大峯おおみね」とわせて「紀伊きい山地さんち霊場れいじょう参詣さんけいどう」として登録とうろくされている。

おも産業さんぎょう林業りんぎょう漁業ぎょぎょう串本くしもと串本くしもとまち)・勝浦かつうら那智勝浦なちかつうらまち)・長島ながしま紀北きほくまち)の遠洋えんよう漁業ぎょぎょうのほか、太地たいち太地たいじまち)の捕鯨ほげいでもられる。

都市としてき地域ちいき

編集へんしゅう

人口じんこう集中しゅうちゅう地区ちくじゅん人口じんこう集中しゅうちゅう地区ちくが、田辺たなべ白浜しらはままち串本くしもとまち那智勝浦なちかつうらまち新宮しんぐう熊野くまの尾鷲おわせ紀北きほくまち設定せっていされている。このうち新宮しんぐうには新宮しんぐう三輪崎みわさき佐野さのの2箇所かしょ紀北きほくまちには長島ながしま相賀あいが・引本の2箇所かしょ設定せっていされている。 都市とし雇用こようけんでは、田辺たなべ新宮しんぐう尾鷲おわせみっつの都市としけんみとめられる。また、人口じんこう集中しゅうちゅう地区ちく人口じんこうが1まんにん未満みまんのため都市とし雇用こようけんにはふくまれないものの、熊野くまの串本くしもとまちにもそれぞれをかくとした小規模しょうきぼ通学つうがく通勤つうきんけんられる。

交通こうつう

編集へんしゅう

鉄道てつどう

編集へんしゅう

きゅう牟婁むろぐん存在そんざいする鉄道てつどう路線ろせん海沿うみぞいをむすぶJR紀勢本線きせいほんせんのみであり、有人ゆうじんえき紀伊長島きいながしまえき尾鷲おわせえき熊野くまのえき新宮しんぐうえき紀伊きい勝浦かちうらえき古座こざえき串本くしもとえき周参見すさみえき白浜しらはまえき紀伊きい田辺たなべえきの10えきである。JR東海とうかい特急とっきゅう南紀なんき名古屋なごや紀伊きい勝浦かちうらあいだを、JR西日本にしにほん特急とっきゅうくろしお京都きょうと新大阪しんおおさか新宮しんぐうあいだむすんでいる。所要しょよう時間じかん名古屋なごや紀伊長島きいながしまやく2あいだ紀伊長島きいながしま新宮しんぐうやく1あいだ新大阪しんおおさか紀伊田辺きいたなべやく2あいだ紀伊田辺きいたなべ新宮しんぐうあいだやく2あいだとなっている。

高速こうそく道路どうろ

編集へんしゅう

自動車じどうしゃ専用せんよう道路どうろとして、紀勢きせい自動車じどうしゃどう熊野くまの尾鷲おわせ道路どうろ那智勝浦なちかつうら新宮しんぐう道路どうろ開通かいつうみである(2015ねん9がつ現在げんざい)。以上いじょうはいずれも近畿きんき自動車じどうしゃどう紀勢線きせいせん一部いちぶとして計画けいかくされており、きゅう牟婁むろぐんいき相当そうとうする南紀なんき田辺たなべ紀伊長島きいながしまあいだ無料むりょうとなる予定よていである。

インターチェンジ一覧いちらん

編集へんしゅう
  • 紀勢きせい自動車じどうしゃどう:3紀伊長島きいながしまIC-4海山みやまIC-5尾鷲おわせきたIC
  • 熊野くまの尾鷲おわせ道路どうろ:6尾鷲おわせみなみIC-7三木里みきさとIC-8賀田よしたIC-9熊野くまの新鹿あたしかIC-10熊野くまのだいはくIC
  • 那智勝浦なちかつうら新宮しんぐう道路どうろ新宮しんぐう三輪崎みわさき-新宮しんぐうみなみIC-那智勝浦なちかつうらIC-那智勝浦なちかつうらまち市屋いちや
  • 紀勢きせい自動車じどうしゃどう:34南紀なんき田辺たなべ-35上富田かみとんだ-36南紀なんき白浜しらはま-37日置川ひきがわ-38すさみ-39すさみみなみ

一般いっぱんどう

編集へんしゅう

紀伊きい半島はんとう一周いっしゅうする国道こくどう42ごうもっと主要しゅようとされるルートであり、尾鷲おわせ熊野くまの新宮しんぐう串本くしもと田辺たなべといった沿岸えんがん都市としむすんでいる。大内山おおうちやま紀伊長島きいながしま海山みやま尾鷲おわせ尾鷲おわせ熊野くまのあいだにはおおきなとうげがあり、異常いじょう気象きしょうには通行止つうこうどめになることがある。熊野くまの古道ふるみち伊勢路いせじはま街道かいどう)・だいあたり相当そうとうする。 また、熊野川くまのがわ沿いに新宮しんぐうから本宮もとみや経由けいゆ十津川とつかわ方面ほうめんける国道こくどう168ごう尾鷲おわせ熊野くまのあいだ漁村ぎょそんむすび、熊野くまのからは紀伊きい山地さんちないはい紀和きわ本宮もとみや中辺路なかへじ経由けいゆ上富田かみとんだいた国道こくどう311ごうなども国道こくどう42ごうじゅんずる幹線かんせんであり、熊野くまの古道ふるみち伊勢路いせじ本宮もとみやみち)・中辺路なかへじ相当そうとうする。

おもなバス業者ぎょうしゃ

編集へんしゅう

みちえき・パーキングエリア

編集へんしゅう

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 岩波書店いわなみしょてん広辞苑こうじえん
  2. ^ a b c 三省堂さんせいどう『コンサイス日本にっぽん地名ちめい事典じてん
  3. ^ a b Yahoo!百科ひゃっか事典じてん 熊野くまの (紀伊きい半島はんとう)
  4. ^ a b 南牟婁みなみむろぐん教育きょういくかい紀伊きい南牟婁みなみむろぐん
  5. ^ 熊野くまの新聞しんぶんオンライン 「『熊野くまの』ナンバー導入どうにゅう目指めざす 8がつには推進すいしん協議きょうぎかい設立せつりつ 議員ぎいん新宮しんぐう意見いけん交換こうかん[リンク]
  6. ^ 北山きたやまさと歴史れきし”. 下北山しもきたやまむら公式こうしきWebサイト. 2010ねん5がつ13にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん2がつ28にち閲覧えつらん
  7. ^ 熊野くまのだい辞典じてん”. 熊野くまのエリア観光かんこう推進すいしん実行じっこう委員いいんかい. 2013ねん1がつ14にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん2がつ28にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d e f g h 笠原かさはらひろしくに (2015ねん12月12にち). “熊野くまの信仰しんこう発展はってん発展はってん東北とうほく”. みやぎ街道かいどう交流こうりゅうかい. 2020ねん7がつ15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん2がつ28にち閲覧えつらん
  9. ^ a b c d e f g h i j k l 保坂ほさかともあきら熊野くまの古道ふるみちまもった 原発げんぱつ「ノー」 世界せかい遺産いさん10ねん 足元あしもと井内いうちうら」『朝日新聞あさひしんぶん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2014ねん5がつ12にち夕刊ゆうかん 名古屋なごや本社ほんしゃばん、1めん
  10. ^ 世界せかい遺産いさん登録とうろくへのあゆみ”. 和歌山わかやまけん世界せかい遺産いさんセンター. 2024ねん2がつ28にち閲覧えつらん