赤松あかまつ 満則みつのり(あかまつ みつのり)は、室町むろまち時代ときよ前期ぜんきの武将ぶしょう。赤松あかまつ大河内おおこうち流りゅうの祖そ。
赤松あかまつ則祐のりすけの子こで義則よしのりの実弟じってい。元もと中なか8年ねん/明徳めいとく2年ねん(1391年ねん)12月30日にち、明徳めいとくの乱らんで山名やまな氏清うじきよと山名やまな満幸みつゆきが京都きょうとに攻せめ込こんできた際さい、兄あにと共ともに二に条じょう猪熊いのくまにおいて奮戦ふんせんして山名やまな軍ぐんに勝利しょうりするも、自身じしんは戦死せんしした。享年きょうねん26[1]。
兄あには弟おとうとの奮戦ふんせんに感謝かんしゃし、幼おさない遺児いじの満まん政せいを引ひき取とって養育よういくした。また将軍しょうぐん・足利あしかが義満よしみつも満則みつのりの奮戦ふんせんを大だいとして摂津せっつ中島なかじま郡ぐんをその勲功くんこうに報むくいて義則よしのりに与あたえた[2]。なお、満則みつのりは父ちちより播磨はりま大河内おおこうち庄しょうを所領しょりょうとして与あたえられていたため、彼かれの系統けいとうは赤松あかまつ大河内おおこうち家かとして続つづき、嘉吉よしきちの乱らんののちに満まん政せいが惣領そうりょう家かになっている。