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高階泰経 - Wikipedia

高階たかしなやすしけい

平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代じだい初期しょき公卿くぎょうこう白河しらかわ法皇ほうおう側近そっきんいん近臣きんしん)。せいさん大蔵おおくらきょう高階たかしなたかしなかちょくなりけいもと)、うけたまわしんじ曼殊まんしゅいんけん律師りっし法印ほういん

高階たかしな やすしけい(たかしな の やすつね)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての公卿くぎょう若狭わかさまもる高階たかしなやすしじゅうこう白河しらかわ法皇ほうおう側近そっきんいん近臣きんしん)。

 
高階たかしな やすしけい
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん 大治おおはる5ねん1130ねん
死没しぼつ たてひとし元年がんねん11月23にち1201ねん12月20にち
別名べつめい こうさん
官位かんい せいさん大蔵おおくらきょう
主君しゅくん 近衛天皇このえてんのう後白河天皇ごしらかわてんのうこう白河しらかわいん
氏族しぞく 高階たかしな
父母ちちはは 高階たかしなやすしじゅう藤原ふじわらはじめけんむすめ
つま 藤原ふじわら行広ゆきひろむすめ
けいなかりゅうなかうけたまわしん
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経歴けいれき

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仁平にだいら元年がんねん1151ねん)に近衛天皇このえてんのうろく蔵人くろうどせられる。久寿きゅうじゅ2ねん1155ねん検非違使けびいし左衛門さえもん少尉しょういね、同年どうねん7がつ後白河天皇ごしらかわてんのう践祚せんそするとつづろく蔵人くろうどにんぜられると、以後いごこう白河しらかわみかど側近そっきんとなった。同年どうねん10がつ即位そくいれいともなってしたがえ叙爵じょしゃくする。

よく久寿きゅうじゅ3ねん1156ねん河内かわうちまもるにんぜられると、もと3ねん1158ねん出羽守でわのかみおう元年がんねん1161ねん摂津せっつもり受領じゅりょう歴任れきにん、このあいだもと2ねん1157ねんみやつこみやしょうによりしたがえじょうじょせられている。えいよろず元年がんねん1165ねん二条天皇にじょうてんのうじゅんじん親王しんのうろくじょう天皇てんのう)に譲位じょういして崩御ほうぎょすると、よくながまん2ねん1166ねんたいけい少納言しょうなごんとしてきょうかんふくす。のち、じんやす2ねん1167ねんせいうけたまわやす元年がんねん1171ねんしたがえよんうけたまわやす2ねん1172ねんしたがえよんじょううけたまわやす5ねん1175ねんせいよん順調じゅんちょう昇進しょうしんした。

その右京大夫うきょうのだいぶ伊予いよもり大蔵おおくらきょう歴任れきにんする一方いっぽうで、こう白河しらかわいん近臣きんしんつとめ、おも武家ぶけとの折衝せっしょうにあたる。法皇ほうおうだいいち近臣きんしんひょうされ(『たま』)、こう白河しらかわいん寵愛ちょうあいぶりとその権勢けんせい丹後局たんごのつぼね高階たかしな栄子えいこ)ともならしょうされた[1]。しかし、うけたまわ寿ことぶきひさしらんこるなかで、政権せいけん中枢ちゅうすうにあったために失脚しっきゃくすることもおおく、うけたまわ3ねん1179ねん)の平清盛たいらのきよもりによるのち白河しらかわいん鳥羽とば殿どの幽閉ゆうへいうけたまわさんねん政変せいへん)でたいけいかいかんされ、うけたまわ5ねん1181ねんふくにんする。寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)2がつしたがえさんじょせられて公卿くぎょうのぼるが、同年どうねん11がつ木曾きそ義仲よしなかによる再度さいどのち白河しらかわいん幽閉ゆうへいほうじゅうてら合戦かっせん)によってふたたかいかんされ、よくもとこよみ元年がんねん1184ねん義仲よしなかはいするとたいけい復帰ふっき。さらに、文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)には源義経みなもとのよしつねくだり謀叛ぼうほんさいして、こう白河しらかわいんへのぎをつとめていたことから、みなもと頼朝よりともから謀叛ぼうほんへの関与かんようたがわれて子息しそく高階たかしなけいなかとともにかいかんい、伊豆いずこくへの流罪るざいとなった。

文治ぶんじ5ねん1189ねん)にさい出仕しゅっしゆるされ、たてひさ2ねん1191ねんせいさんいたる。けんひさ8ねん1197ねん)に出家しゅっけし、たてひとし元年がんねん1201ねん)11月23にち薨去こうきょ享年きょうねん72。

日本一にっぽんいちだい天狗てんぐ

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みなもと頼朝よりともたいけいてた書状しょじょうなかで「日本にっぽんだいいちだい天狗てんぐ余人よにんことこうか」との表現ひょうげんがあり、従来じゅうらいこれは頼朝よりともこう白河しらかわいん批判ひはんした語句ごくであるとして、こう白河しらかわいん形容けいようするさいもちいられることがおおかった。しかし近年きんねん、この「日本一にっぽんいちだい天狗てんぐ」との表現ひょうげんこう白河しらかわいんではなく、たいけいした文句もんくではないかとするせつ浮上ふじょうした。この日本にっぽんだいいちだい天狗てんぐという表現ひょうげんは『たま文治ぶんじ元年がんねん11がつ26にちじょう、『吾妻あづまきょう文治ぶんじ元年がんねん11がつ15にちじょう頼朝よりとも高階たかしなやすしけい書状しょじょう文面ぶんめんられる。河内かわうちさちとおじょう悦子えつこらは、この書状しょじょう院宣いんぜんではなくたいけい私信ししんたいする返書へんしょであることを理由りゆうだい天狗てんぐたいけいせつとな[2]五味ごみ文彦ふみひこ保立ほたて道久みちひさらも賛同さんどうした。

しかしいん意向いこうらせるほか書状しょじょうたいけい私信ししん形式けいしきっていること、書状しょじょうとどけた使者ししゃたいけい私邸していではなくいん御所ごしょたずねていること、たいけい個人こじんへのたんなる私信ししんにしては言葉ことばづかいが丁寧ていねいすぎること、書状しょじょう内容ないようをよくむと頼朝よりとも反論はんろん論理ろんり構成こうせいからたいけいを「日本にっぽんこくだいいちだい天狗てんぐ」とんでいるとは解釈かいしゃくできないことなどから、やはりこの表現ひょうげんたいけい個人こじんではなくのち白河しらかわひょうしたものであろうという反論はんろん川合かわいやすしなどからている。

なお永井ながい路子みちこは、「だい天狗てんぐ」とは頼朝よりともたいするいんがわ評語ひょうご天魔てんま所為しょい」にたいする頼朝よりともがわ対抗たいこうてき揶揄やゆであろうとし、橋本はしもと義彦よしひこがりの近臣きんしんたいけいを「日本にっぽんこくだいいちだい天狗てんぐ」とするのはいかぶりであるとし[3]、そのてんからもだい天狗てんぐこう白河しらかわせつほう自然しぜんとする。

また菱沼ひしぬま一憲かずのりは「だい天狗てんぐ」をくだり義経よしつねとみなすせつ提唱ていしょうした[4]。これについてもこう白河しらかわ弁明べんめいは「くだり義経よしつね謀反むほんは、人間にんげん(こののもの)には責任せきにんがない」というものだからりたないとの批判ひはんがある[5]

かんれき

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注記ちゅうきのないものは『公卿くぎょう補任ほにん』による。

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん
  2. ^ 河内かわうちさち輔『頼朝よりとも時代じだい いちいちはち年代ねんだい内乱ないらん平凡社へいぼんしゃ選書せんしょ、1990ねん
  3. ^ 橋本はしもと義彦よしひこみなもとどおりおや吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、1992ねん
  4. ^ 菱沼ひしぬま一憲かずのりみなもと頼朝よりともえびすひかりさち出版しゅっぱん、2017ねん
  5. ^ 呉座ござ勇一ゆういち武士ぶしとはなにか』新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう選書せんしょ〉、2022ねん
  6. ^ a b だい日本にっぽん史料しりょう
  7. ^ またはであるけいなかむすめ

参考さんこう文献ぶんけん

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