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松平義建 - Wikipedia

松平まつだいらよしけん

江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう美濃みの高須たかすはん10代藩主はんしゅしたがえよん侍従じじゅう、掃部あたま摂津せっつもりひだり少将しょうしょう。「高須たかすよん兄弟きょうだい」のちち

松平まつだいら よしけん(まつだいら よしたつ)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう美濃みのこく高須たかすはん10代藩主はんしゅ通称つうしょうはんろう官位かんいしたがえよん侍従じじゅう掃部あたま摂津せっつもりひだり少将しょうしょう自身じしん特筆とくひつすべき治績ちせきすくないが、息子むすこ高須たかすよん兄弟きょうだい筆頭ひっとうおおくが幕末ばくまつ活躍かつやくした。現在げんざい徳川とくがわ宗家そうけけん男系だんけい子孫しそんである。

 
松平まつだいら よしけん
松平まつだいらよしけんぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 寛政かんせい11ねん12月13にち1800ねん1がつ7にち
死没しぼつ 文久ぶんきゅう2ねん8がつ20日はつか1862ねん9月13にち
別名べつめい 通称つうしょうはん次郎じろう
戒名かいみょう よしじゅんいんたてほまれさきがけみどりじょうとき
墓所はかしょ 岐阜ぎふけん海津かいづ行基ぎょうきてら
官位かんい したがえよん侍従じじゅう掃部あたま摂津せっつもりひだり少将しょうしょう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり家慶いえよし
はん 美濃みの高須たかすはんあるじ
氏族しぞく 水戸みと徳川とくがわ高須たかす松平まつへい
父母ちちはは ちち松平まつだいら義和よしかずはは平松ひらまつ
兄弟きょうだい しつけんようけい遠藤えんどうたねあきらせんひめ
つま 正室せいしつ徳川とくがわ治紀はるとしじょぶんまわしひめ
側室そくしつ古森こうもり奥山おくやま/今西いまにしひさし千代ちよ
源之助げんのすけ徳川とくがわ慶勝よしかつたけしげるせい三郎さぶろう
徳川とくがわ茂徳しげのり容保かたもりていけい、鐡丸、義勇ぎゆうみゆき
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生涯しょうがい

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寛政かんせい11ねん12月13にち1800ねん1がつ7にち)、松平まつだいら義和よしかずとも)の次男じなんとして江戸えど水戸みとはん小石川こいしかわやしき出生しゅっしょうした。ちち義和よしかず当時とうじ水戸みと徳川とくがわ部屋住へやず身分みぶんであったが、文化ぶんか元年がんねん(1804ねん)に高須たかす松平まつへい末期まっき養子ようしとしてはいり、高須たかすはん相続そうぞくした。あにしつ早世そうせいしたため、文化ぶんか10ねん4がつ23にち1813ねん5月23にち)、ちち嫡子ちゃくしとなる。

文化ぶんか12ねん4がつ28にち1815ねん6月5にち)、11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなり目見まみする。文化ぶんか13ねん12月16にち1816ねん2がつ1にち)、したがえよん侍従じじゅう・掃部あたま叙任じょにんされる。

文政ぶんせい年中ねんじゅう摂津せっつもりあらためる。ちち死去しきょにより、天保てんぽう3ねん3月6にち1832ねん4がつ6にち)に家督かとく相続そうぞくする。同年どうねん12月28にち1833ねん2がつ17にち)、ひだり少将しょうしょう任官にんかんされる。

よしみひさし3ねん10月16にち1850ねん11月19にち)、隠居いんきょし、五男いつお徳川とくがわ茂徳しげのり)に家督かとくゆずった。文久ぶんきゅう2ねん8がつ20日はつか1862ねん9月13にち)、64さい死去しきょした。

人物じんぶつ子女しじょ

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高須たかす松平まつへい参勤交代さんきんこうたい免除めんじょされた定府じょうふ大名だいみょうで、よしけんはんりょうない生活せいかつしたことはないが、生前せいぜんに2くにりをしており、おしのびで長良川ながらがわ鵜飼うかい見学けんがくしたり、領民りょうみんとも交流こうりゅうしたりした記録きろくつたわる[1]。また、同家どうけ菩提寺ぼだいじである行基ぎょうきてらつたわる記録きろくによると、ひろし4ねん1847ねん)の滞在たいざいもよおした松茸まつたけりには、よしけん側室そくしつとみられる「お千代ちよ」や「おはな」といった女性じょせいたちも参加さんかしたとあり、外出がいしゅつ原則げんそくなかった大名だいみょう女性じょせいとしては異例いれいである[1]海津かいづ歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん学芸がくげいいん水谷みずたに容子ようこは、よしけんは「フランクな人柄ひとがらだったのでは」と推測すいそくし、歴史れきし学者がくしゃ磯田いそだみち幕末ばくまつ活躍かつやくした「高須たかすよん兄弟きょうだい」とからめて、当時とうじ高須たかす松平まつへいについて「女性じょせい自由じゆうたか家風かふうであったかもしれない。家族かぞく野外やがいきとごす時間じかんがちゃんとあった。人材じんざい輩出はいしゅつした高須たかす松平まつへい子育こそだての雰囲気ふんいき垣間見かいまみがした」とひょうしている[1]

高須たかすよん兄弟きょうだい

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高須たかすよん兄弟きょうだい集合しゅうごう写真しゃしんみぎから慶勝よしかつしげるさかえ容保かたもりていけい)。1878ねん8がつけん17回忌かいき再会さいかいした4にんが、同年どうねん9がつ3にち銀座ぎんざ2丁目ちょうめにあった二見ふたみちょうくま写真しゃしんかんにて撮影さつえいしたもの[2]

松平まつだいらよしけん息子むすこおおくが養子ようしとなってだい名家めいかいだが、その背景はいけいには高須たかす松平まつへい尾張おわり徳川とくがわ連枝れんしとしてたか格式かくしきゆうし、子女しじょ教育きょういく水準すいじゅん充実じゅうじつしていたことがげられる[1]とくに、親藩しんぱんいだ次男じなん慶勝よしかつ五男いつお茂徳しげのりしげるさかえなななん容保かたもりはちなんていけいの4にんは「高須たかすよん兄弟きょうだい」とばれることがある[3]戊辰戦争ぼしんせんそうとき尾張おわり藩主はんしゅとなった慶勝よしかつしん政府せいふがわにつき、たいする会津あいづ藩主はんしゅ容保かたもり桑名くわな藩主はんしゅていけい幕府ばくふ支持しじしててき味方みかたかれ、またいちきょういだしげるさかえ徳川とくがわ代表だいひょうとしてしん政府せいふ交渉こうしょうするなど、高須たかすよん兄弟きょうだいはいずれもそれぞれの立場たちばから幕末ばくまつ動乱どうらん対処たいしょした[3]

なお、現在げんざい徳川とくがわ宗家そうけ当主とうしゅ徳川とくがわひろは、よしけん男系だんけい子孫しそんたる。

高須たかすよん兄弟きょうだい」は太字ふとじ

脚注きゃくちゅう

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