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放伐 - Wikipedia

放伐ほうばつ

中国ちゅうごくにおいて、暴君ぼうくん暗君あんくん討伐とうばつしてから追放ついほうする行為こうい

放伐ほうばつ(ほうばつ)とは、中国ちゅうごくにおいて、暴君ぼうくん暗君あんくん討伐とうばつしてから追放ついほうするという行為こういをさす。いんおうしゅうたけおうのような、つぎ天子てんしとなるべき有徳うとく諸侯しょこうおこなった。

概要がいよう

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史記しき』などによれば、さんすめらぎみかど時代じだいには、天子てんしくらい世襲せしゅうではなく有徳うとく君主くんしゅ有徳うとく人物じんぶつゆずった(禅譲ぜんじょう)とされる。しかしなつ時代じだいにいたって世襲せしゅう制度せいどになった。その世襲せしゅう王朝おうちょう交替こうたいするさいに、放伐ほうばつがなされるようになった。

なつ王朝おうちょう末期まっきに、いんおうなつ暴君ぼうくんおう放伐ほうばつしたのが最初さいしょであるとされる。ただしなつ王朝おうちょう実在じつざいせいについては、いま議論ぎろん最中さいちゅうであり、確定かくていはしていない。歴史れきしじょうあきらかな放伐ほうばつ最初さいしょは、いん王朝おうちょう末期まっきに、しゅうたけおういん暴君ぼうくん紂王った事例じれいである。

おうたけおう故事こじ由来ゆらいするのでたけ放伐ほうばつ(とうぶほうばつ)ともいう。そのとおり、その中国ちゅうごくにおいては、放伐ほうばつ事例じれいはあまりられない。実質じっしつじょうあきらかな放伐ほうばつであっても禅譲ぜんじょう形式けいしきんだり、かん民族みんぞく以外いがい民族みんぞく侵入しんにゅうによって王朝おうちょう交替こうたいがなされた。

たけ放伐ほうばつは、暴君ぼうくん討伐とうばつしてみんすくうという英雄えいゆうてき行為こういである。しかし同時どうじに、「主君しゅくんごろし」すなわち「下剋上げこくじょう」「弑逆しいぎゃく」にあたる行為こういでもあり、儒教じゅきょう教義きょうぎである「ただし」「名分めいぶん」と競合きょうごうしてしまう。そのため、たけ放伐ほうばつ当否とうひは、後世こうせい儒者じゅしゃたちの議論ぎろんまとになってきた。

  • 孟子もうし』 - 放伐ほうばつ肯定こうてい。紂王はじんをそこないやぶったため、もはや主君しゅくんではなく「一夫かずお」(ただのおとこ)になったとして、主君しゅくんごろしのつみたらないとした[1]
  • 古学こがく山県やまがた大弐だいに - 放伐ほうばつ肯定こうてい
  • 山崎やまざき闇斎あんさい - 放伐ほうばつ否定ひていおうたけおうよりも、ぶんおうのような「ただし」をつらぬ態度たいど支持しじした[2][3]
  • 上田うえだ秋成あきなり - 放伐ほうばつ否定ひてい国学こくがくしゃ立場たちばから『雨月物語うげつものがたり巻一けんいちしろみね」において、孟子もうし放伐ほうばつ肯定こうていたいし、否定ひていろん記述きじゅつしている

関連かんれん項目こうもく

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出典しゅってん

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  1. ^   ウィキソースには、孟子もうし/りょうめぐみおう原文げんぶんがあります。
  2. ^ 市来いちきよし彦 (1999). 山崎やまざき闇斎あんさいへんかかわかそけみさお』におけるしゅ熹説理解りかいについて”. 広島大学ひろしまだいがく 東洋とうよう古典こてんがく研究けんきゅう. https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00025414. 
  3. ^ 谷口たにぐち眞子しんじ (2016). 近世きんせい中期ちゅうき日本にっぽんにおける忠義ちゅうぎ観念かんねんについて -山崎やまざき闇斎あんさい学派がくは中心ちゅうしんに-”. 早稲田大学わせだだいがく総合そうごう人文じんぶん科学かがく研究けんきゅうセンター研究けんきゅう. https://hdl.handle.net/2065/00051793.