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大隅国 - Wikipedia

大隅おおすみこく

遠国おんごくぞくするれいせいこくひと

大隅おおすみこく(おおすみのくに、きゅう字体じたい大隅おおすみこく)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。西海にしうみみちぞくし、現在げんざい鹿児島かごしまけん東部とうぶぞくする。

大隅おおすみこく

-大隅おおすみこく
-西海にしうみみち
別称べっしょう すみしゅう(ぐうしゅう)
所属しょぞく 西海にしうみみち
相当そうとう領域りょういき 鹿児島かごしまけん東部とうぶ奄美あまみ群島ぐんとう
しょもと
国力こくりょく 中国ちゅうごく
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 8ぐん37さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
大隅おおすみ国府こくふ 鹿児島かごしまけん霧島きりしま
大隅おおすみ国分寺こくぶんじ 鹿児島かごしまけん霧島きりしま大隅おおすみ国分寺こくぶんじあと
大隅おおすみ国分こくぶ尼寺あまでらしょう
一宮いちのみや 鹿児島かごしま神宮じんぐう鹿児島かごしまけん霧島きりしま
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概要がいよう

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れいせいこく成立せいりつする以前いぜんかさねこく(そのくに)ともばれたくまかさね球磨くま囎唹とくんてられ、そのまま囎唹ぐんつながる)の本拠地ほんきょちであり、のちにも薩摩さつまならんで隼人はやと抵抗ていこう最後さいごまで根強ねづよつづいたで、日向ひなたからの分立ぶんりつおよはやぶさじん根拠地こんきょちであった囎唹ぐん分割ぶんかつは、隼人はやと勢力せいりょく弱体じゃくたい意図いとしておこなわれた[1]薩摩さつま国衙こくがのある高城たかぎぐん肥前ひぜんから移民いみんおこなわれたのと同様どうように、大隅おおすみ国衙こくがかれた桑原くわはらぐんには豊前ぶぜんから移民いみんおこなわれるなどたい隼人はやと政策せいさくられている。

当時とうじはそのような隼人はやと首長しゅちょう大隅おおすみただし(あたい)、曾君(そのきみ)、伎県ぬし(かしきあがたぬし)、かん衝(きもつき)といった豪族ごうぞく割拠かっきょした[2][3]

養老ようろう4ねん(720ねん)にはやぶさじん大隅おおすみまもるこう麻呂まろ殺害さつがい律令りつりょう国家こっか支配しはいたいして反乱はんらんこした。大和やまと朝廷ちょうてい大伴旅人おおとものたびとせい隼人はやとぶし大将軍だいしょうぐん任命にんめいし、この抵抗ていこう鎮圧ちんあつする。この反乱はんらんけて囎唹ぐんはさらに分割ぶんかつされ隼人はやと管理かんり徹底てっていされた。その結果けっか奈良なら時代じだい中期ちゅうきから後期こうきには大隅おおすみ支配しはい安定あんていし、のべれき19ねん(800ねん)には地域ちいき同様どうようはん田制たせい導入どうにゅうされ、律令制りつりょうせいによる支配しはい定着ていちゃくした。

しかし、隼人はやと同化どうかすすんだ一方いっぽう平安へいあん中期ちゅうきには南島なんとうじん侵入しんにゅうしてきたり、一方いっぽう寛弘かんこう4ねん(1007ねん大隅おおすみまもる菅野かんの重忠しげただ太宰府だざいふかん大蔵おおくらみつるだか射殺しゃさつされ、ながもと2ねん(1029ねん)にはこれも太宰府だざいふだいかん島津しまつそう開墾かいこんしゃであったひらもと大隅おおすみ国衙こくが焼討やきうちし、国衙こくが支配しはい壊滅かいめつてき打撃だげきけるなど管轄かんかつない諸国しょこくたいする介入かいにゅう度合どあいをつよめる太宰府だざいふとのはげしい対立たいりつがあり、その背景はいけいには南島なんとうとの交易こうえき利権りけん管掌かんしょうからんでいた[4][ちゅう 1]

こうした情勢じょうせいなかで、それまでくに中心ちゅうしんとなる神社じんじゃであった鹿児島かごしま神宮じんぐう八幡やはたしん勧請かんじょうして、九州きゅうしゅうしょ別宮べつみやとなるせい八幡宮はちまんぐう成立せいりつしている[1][5]

ひらもと賄賂わいろ駆使くしし、また藤原ふじわら頼通よりみち島津しまつそう寄進きしんすることで安泰あんたいはか特段とくだん処罰しょばつけることもなく現地げんちいたので、さらなる領域りょういき拡張かくちょうつづ国衙こくがりょうけず島津しまつそうとそれに対抗たいこうしてせい八幡宮はちまんぐう権威けんい活用かつようする大隅おおすみ国衙こくがとの対立たいりつ関係かんけいつづき、国土こくど実質じっしつてき島津しまつそうせい八幡宮はちまんぐうりょう二分にぶんされていった。

領域りょういき

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明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、現在げんざい鹿児島かごしまけん下記かき区域くいき相当そうとうする。※の区域くいきはいずれも1897ねん薩摩さつまこく移管いかんされた。

下記かき区域くいき明治めいじ時代じだい日向ひなたこく琉球りゅうきゅうこくより大隅おおすみこく編入へんにゅうされた。

下記かき区域くいきは1897ねん薩摩さつまこくより大隅おおすみこく編入へんにゅうされたが、1973ねん薩摩さつまこく移管いかんされた。

沿革えんかく

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古事記こじき』のくに神話しんわにおいては、筑紫つくしとう九州きゅうしゅう)の4めん筑紫つくしこく豊国ほうこくこえこくくまこくえる[6]

古代こだいみなみ九州きゅうしゅうは『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』の「日向ひなた神話しんわ」とばれる神話しんわ舞台ぶたいとなった[7]。このなかで、アマテラスまごニニギ高千穂たかちほ降臨こうりんし(天孫てんそん降臨こうりん)、ホオリあにホデリらしめたむねとともにあに子孫しそん隼人はやといま天皇てんのうつかえる由来ゆらいだとべ(やま幸彦さちひこうみ幸彦さちひこ)、ホオリのウガヤフキアエズ初代しょだい天皇てんのう・カムヤマトイワレビコ(神武じんむ天皇てんのう)のちちであるむねしるしている。のち、神武じんむ天皇てんのう日向ひなたから東征とうせいおもむくこととなる(神武じんむ東征とうせい)。

現在げんざい、これらの日向ひなた神話しんわ歴史れきしてき事実じじつそのままとはかんがえられておらず、その由来ゆらいには諸説しょせつがある。とくに『古事記こじき』『日本書紀にほんしょき』が成立せいりつするまで、すなわち7世紀せいき後半こうはんから8世紀せいき前半ぜんはんみなみ九州きゅうしゅうにおけるたい隼人はやと政治せいじ情勢じょうせいとの密接みっせつ関係かんけい指摘してきされる[7]隼人はやとあらわすのは天武天皇てんむてんのう時代じだいからで、7世紀せいきまつから8世紀せいき前期ぜんきに4かい反乱はんらんこしている[7]。そして天皇てんのうによるみなみ九州きゅうしゅうにおける統治とうち正当せいとうし、隼人はやと服属ふくぞくすべき理由りゆう過去かこにさかのぼって説明せつめいするものとかんがえられている[8]

7世紀せいき中期ちゅうき以降いこう律令制りつりょうせい成立せいりつともなって、現在げんざい鹿児島かごしまけん本土ほんど部分ぶぶん宮崎みやざきけんふく広域こういきに、日向ひなたこく成立せいりつした[9]

大宝たいほう2ねん702ねん)8がつ1にちこった薩摩さつま叛乱はんらん契機けいき[10]同年どうねん日向ひなたこくいて唱更こく褹国分立ぶんりつした。

そのながれのなか和銅わどう6ねん713ねん)4がつ3にち日向ひなたこくきもはいぐん囎唹ぐん大隅おおすみぐん姶羅ぐんよんぐん現在げんざい鹿児島かごしまけん本土ほんど東部とうぶ大隅おおすみこくとして分立ぶんりつしたのが、大隅おおすみこくはじまりとされる。

すうねんうちに、囎唹ぐんいて桑原くわはらぐん姶良あいらぐん湧水わきみずまち周辺しゅうへん)が、天平てんぴょうかちたから7さい755ねん)にさらに囎唹ぐんいてひしかりぐん現在げんざい伊佐いさ周辺しゅうへん)がもうけられ、ろくぐんとなる。

てんちょう元年がんねん824ねん)10がつ1にちに、現在げんざい屋久島やくしま種子島たねがしまにあたる禰国をあわせた。このさいよんぐんあった禰国のぐんぐん統合とうごうされ、結果けっか大隅おおすみこくはちぐんとなる。

平安へいあん時代じだいには荘園しょうえん進展しんてんで姶羅ぐん現在げんざい鹿屋かのや周辺しゅうへん現在げんざい姶良あいらぐんべつ)がそのうしない、肝属きもつきぐん編入へんにゅうされたとみられる。

明治めいじ12ねん1879ねん)、奄美あまみ群島ぐんとう大島おおしまぐん)を編入へんにゅうした[11]明治めいじ30ねん1897ねん)には、現在げんざい三島みしまむら十島としまむら地域ちいき薩摩さつまこく川辺かわべぐんから大島おおしまぐん編入へんにゅうされた[12]。ただし、現在げんざい三島みしまむら十島としまむら地域ちいき昭和しょうわ48ねん1973ねん)に鹿児島かごしまぐん転属てんぞくしており、きゅう国名こくめいすたれてひさしいものの、薩摩さつまこくもどっている。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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国内こくない施設しせつ

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大隅おおすみ国府こくふあと
鹿児島かごしまけん霧島きりしま推定すいてい

国府こくふは『いろるいしょう』によると、桑原くわはらぐん。『じつあくたしょう』およびえきりんほんの『節用せつようしゅう』では、おく於郡とある。

現在げんざい霧島きりしま国分こくぶ府中ふちゅうにあったと推測すいそくされているが、遺跡いせきはまだつかっていない。

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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大隅おおすみ国分寺こくぶんじあと
鹿児島かごしまけん霧島きりしま
大隅おおすみ国分寺こくぶんじあと
鹿児島かごしまけん霧島きりしま国分こくぶ中央ちゅうおう

神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ
延喜えんぎしきかみめいちょう』には、以下いかしめ大社たいしゃ11しゃ小社しょうしゃ44しゃけい55しゃ記載きさいされている(「大隅おおすみこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ1しゃ名神めいしん大社たいしゃではない。
総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

安国寺あんこくじ利生りしょうとう

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  • 安国寺あんこくじ - 鹿児島かごしまけん姶良あいら加治木かじきまち反土たんど

江戸えど時代じだいはん

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人物じんぶつ

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鎌倉かまくら幕府ばくふ

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室町むろまち幕府ばくふ

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戦国せんごく大名だいみょう

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武家ぶけ官位かんいとしての大隅おおすみまもる

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江戸えど以前いぜん

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江戸えど時代じだい

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 大蔵おおくら加治木かじききょう開発かいはつして勢力せいりょく扶植ふしょくしており、重忠しげただ殺害さつがいまんだかちち種材たねき指示しじによるものであった。重忠しげただ殺害さつがい事件じけん藤原ふじわら道長みちなが裁定さいてい犯人はんにん不明ふめいとされ、まんだかだいおさむ大弐だいに藤原ふじわら高遠こうえん庇護ひごにより事件じけんとく処分しょぶんされることもなかったが、じゅうよんねん皇族こうぞく僭称せんしょう重忠しげただ殺害さつがいでようやくばっされた。(にちくませいもり 2017)

出典しゅってん

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  1. ^ a b c にちくませいもり大隅おおすみこくにおけるたてひさちょう体制たいせい成立せいりつ過程かてい」『鹿児島大学かごしまだいがく教育きょういく学部がくぶ研究けんきゅう紀要きよう. 人文じんぶん社会しゃかい科学かがくへんだい60かん鹿児島大学かごしまだいがく、2008ねん、75-97ぺーじCRID 1050845763811292928hdl:10232/8781ISSN 0389-6684 
    にちくませいもり大隅おおすみこくにおけるたてひさちょう体制たいせい成立せいりつ過程かてい -禰寝いん事例じれい中心ちゅうしんに-」『鹿児島大学かごしまだいがく稲盛いなもりアカデミー研究けんきゅう紀要きようだい1かん鹿児島大学かごしまだいがく、2009ねん12月、51-64ぺーじCRID 1050001202537561856hdl:10232/8679ISSN 1884-6009 
  2. ^ 鹿児島かごしまけんだいへん 國造くにのみやつこ時代じだい だいよんしょう 國造くにのみやつこけんぬし設置せっちしょ豪族ごうぞく」『鹿児島かごしまけん だい1かん鹿児島かごしまけん、1967ねん、65ぺーじdoi:10.11501/3039676NDLJP:3039676。"国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション"。 
  3. ^ 竹森たけもり友子ゆうこ南島なんとう隼人はやと : 文武ぶんぶ4ねん覓国使ひょうげこう事件じけん歴史れきしてき背景はいけい」『人間にんげん文化ぶんか研究けんきゅう年報ねんぽうだい22かん奈良女子大学ならじょしだいがく大学院だいがくいん人間にんげん文化ぶんか研究けんきゅう、2007ねん3がつ、69-84ぺーじCRID 1050001338390950272hdl:10935/863ISSN 0913-2201 
  4. ^ にちくませいもり島津しまつそうかんするいち考察こうさつ : 成立せいりつ中心ちゅうしん」『鹿児島大学かごしまだいがく教育きょういく学部がくぶ研究けんきゅう紀要きよう. 人文じんぶん社会しゃかい科学かがくへんだい66かん鹿児島大学かごしまだいがく、2015ねん3がつ11にち、1-13ぺーじhdl:10232/23160ISSN 0389-6684NAID 120005600960 
  5. ^ 鹿児島かごしまけん歴史れきし資料しりょうセンター 黎明れいめいかん黎明れいめいだより』 『黎明れいめい vol.34 No.2』 2016ねん8がつ1にち
  6. ^ 古事記こじき神代かみよ
  7. ^ a b c 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい』46 宮崎みやざきけん, p. 27
  8. ^ 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい』46 宮崎みやざきけん, p. 28.
  9. ^ ぞく日本にっぽんまきだい2、大宝たいほう2ねん8がつへいさる(1にちじょう、10がつちょうとり(3にちじょうしん日本にっぽん古典こてん文学ぶんがく大系たいけいぞく日本にっぽんいちの58-61ぺーじ
  10. ^ ぞく日本にっぽんまき 大寶たいほうねんはちがつへいさるじょう。「薩摩さつま褹。へだたぎゃくいのち。於是はつへい征討せいとうとげこうおけ吏焉」。
  11. ^ 明治めいじ12ねん4がつ8にち太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう実美みみ通達つうたつ
  12. ^   鹿兒島かごしまけん國界こっかいなみぐんかい變更へんこう及郡はいおけ法律ほうりつ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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