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邑 - Wikipedia

古代こだい中国ちゅうごく都市とし国家こっかてきしゅうじゅう

(ゆう)は、古代こだい中国ちゅうごく都市とし国家こっかてきしゅうじゅう中国ちゅうごく文化ぶんか文明ぶんめいのもととなった黄河こうが流域りゅういき古代こだい文明ぶんめいにおいて、しん石器せっき時代じだいから青銅器せいどうき時代じだいである春秋しゅんじゅう時代じだい中期ちゅうきにかけてひろ展開てんかいした。漢字かんじの邑は区画くかくかこえかべをあらわす「(くにがまえ)」にひざまずいたひとをあらわす「ともえ(卩)」をあわせた会意かいい文字もじで、この全体ぜんたいりゃくした部首ぶしゅが「(おおざと)」である。邑の社会しゃかい同姓どうせい一族いちぞくによる氏族しぞく共同きょうどうたい大抵たいているいよりなるかこえかべをめぐらし、周囲しゅうい氏族しぞくみん共有きょうゆう耕作こうさく展開てんかいした。 [1] [2]

邑はまずしん石器せっき時代じだい華北かほく黄河こうがちゅう流域りゅういき黄土おうど高原こうげん散在さんざいして出現しゅつげんする。出現しゅつげんの邑はおおせ韶文ぞくする陝西せんせいしょうはん遺跡いせききょう遺跡いせきられており、小高こだかおかうえ住居じゅうきょあつまりごうしょう河川かせんかこまれて防御ぼうぎょされている。防御ぼうぎょ施設しせつにはやがて黄土おうどせい日乾ひぼ煉瓦れんがきずかれた城壁じょうへきくわわり、この城壁じょうへきしん石器せっき時代じだいまつころから黄土おうどわく内側うちがわぼうによって層状そうじょうかたとっかためるはんちくによるものが出現しゅつげんする。はんちく城壁じょうへき河南かなんしょう淮陽けんひらかてだい遺跡いせき最古さいこのものをることができ、あつさ10mの城壁じょうへきがほぼ正方形せいほうけい方形ほうけいプランをしている。この方形ほうけいプランが以後いご中華ちゅうか世界せかい都市とし基本形きほんけいしていくことになる。 [3]

やがてだい邑がしょう邑をしたがえるようになり、また邑どうしをむすぶネットワークじょう社会しゃかい形成けいせいされるようになる。またそのなかから特定とくていだい邑の君主くんしゅいんしゅうようおうおよび天子てんししょうして諸々もろもろだい邑をしたがえ、邑社かい盟主めいしゅとしてのぞむようになる。ここでいんおうしゅうおう権威けんいふくしただい邑の君主くんしゅが「諸侯しょこう」、おう諸侯しょこう君臨くんりんするだい邑が「くに(コク)」である。 [4] いんしゅうといった古代こだい王朝おうちょう実態じったいはこのような邑の連合体れんごうたいであり、その総数そうすうしゅうはつで1,700、あずまあまね時代じだいで1,200をかぞえたとされる。邑から社会しゃかい発展はってんともない、君主くんしゅ在所ざいしょであるだい邑を「(ト)」、それに従属じゅうぞくするしょう邑を「ひな(ヒ)」のでも表現ひょうげんするようになる。 [5] しゅうおこなった封建ほうけんとは、こうした邑に氏族しぞく共同きょうどうたい相互そうご支配しはい支配しはい関係かんけいならない。そのため、おうかつ天子てんしとして君臨くんりんするしゅうおうですら所属しょぞくする氏族しぞく共同きょうどうたいから制約せいやくけ、また支配しはい諸侯しょこうだい邑たるくに服属ふくぞくするしょう邑にまでは直接ちょくせつ支配しはいおよばなかった。[2] この華北かほくがた都市とし国家こっかぐん形成けいせいされる社会しゃかい中江なかえ丑吉うしきちは「邑土国家こっか」ないしは「邑制国家こっか」とんで後者こうしゃ普及ふきゅうしたが、宮崎みやざきじょうはこれを批判ひはんしてぜん世界せかいてき普遍ふへんてき都市とし国家こっか段階だんかい社会しゃかいとして考察こうさつおこなった[6]

ひがし周期しゅうき春秋しゅんじゅう時代じだいから戦国せんごく時代じだいへの変遷へんせんはこうした邑のネットワークからなる都市とし国家こっか社会しゃかいから領域りょういき国家こっか社会しゃかいへの発展はってんであったが、この変化へんかともない邑は都市とし集落しゅうらく一般いっぱんしめすようになった。戦国せんごく時代じだい領域りょういき国家こっか時代じだいからはたかん帝国ていこく統一とういつ王朝おうちょう時期じき出現しゅつげんしたけんさとちんしょうせられるものは邑の発展はってんによって規模きぼ性格せいかく分化ぶんかして成立せいりつしたものである。こうした邑の後身こうしん都市としてきしゅうじゅうのなかでもけん雅称がしょうとして邑をもちいることがおおくなっていく。[1] 領域りょういき国家こっかへの発展はってんとは邑の氏族しぞく共同きょうどうたい解体かいたいによる家父かふちょうてき支配しはい台頭たいとうであった。まずどう姓氏せいしぞく共同きょうどうたい解体かいたいして氏族しぞく共有きょうゆうかんするという家族かぞく共同きょうどうたい家父かふちょうてき土地とち所有しょゆう解体かいたいした。同様どうよう氏族しぞく共同きょうどうたいつよ拘束こうそくされていた諸侯しょこうがそこから次第しだいだっして家父かふちょうてき支配しはいしゃ成長せいちょうした結果けっか解体かいたいされた氏族しぞく共同きょうどうたい成員せいいん家父かふちょう個別こべつ直接ちょくせつ支配しはいするようになった。また、諸侯しょこう私的してき従属じゅうぞくしゃから政務せいむたる官僚かんりょう台頭たいとうしてくることにもなった。こうして君主くんしゅによる専制せんせい実現じつげんしていくことになる。[2]

しかし、今日きょうでも中国ちゅうごく社会しゃかいには邑制の社会しゃかいはっした影響えいきょう色濃いろこのこっている。前漢ぜんかん末期まっき紀元前きげんぜん2ねん統計とうけいで邑の伝統でんとうけんとそれにじゅんずる統治とうち単位たんいが1,588であり、1,200から1,700というしゅうだいの邑のかず近似きんじしており、このおよそ1,500の各種かくしゅ規模きぼ都市とし基盤きばんとする社会しゃかい中国ちゅうごく歴史れきし時代じだいつうじて今日きょうまで維持いじされている。[5]

構造こうぞう

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邑の周囲しゅういには氏族しぞく共有きょうゆう農耕のうこう展開てんかいし、あつまりじゅうはんちくなどによる方形ほうけいプランのかこえかべである外城とじょうによって防御ぼうぎょされていた。かこえかべないには家屋かおくだけではなく祖先そせんまつ宗廟そうびょう土地とちしんまつしゃかれた。[1] 邑の宗廟そうびょうしゃ、さらに支配しはいそう居住きょじゅう官衙かんがかこえかべかこわれた南西なんせいすみかれ、そこをさらに強固きょうこかこえかべである内城うちじろ防御ぼうぎょした。内城うちじろ区画くかくされた領域りょういきが「しろ(ジョウ)」で神聖しんせい領域りょういきとされたとともに有事ゆうじさいには最後さいご防衛ぼうえい拠点きょてんとされた。邑の発展はってん外城とじょう内側うちがわ手狭てぜまになると居住きょじゅう外側そとがわひろげてあらたな外城とじょう構築こうちくしたが、それでわなくなると外城とじょうのひとまわり外側そとがわかこ外郭がいかくじょうもうけたり、外城とじょうせっして居住きょじゅうかこべつじょうきずいた。[3][5]

原初げんしょの邑の立地りっち水利すいり木材もくざいなどの天然てんねん資源しげん立地りっちめぐまれた丘陵きゅうりょうなどであったが、社会しゃかい発展はってん人口じんこう増加ぞうかなどととも黄河こうが下流かりゅう華北かほく平原へいげんなど平原へいげんあらたな邑がきずかれていった。[5]

春秋しゅんじゅう時代じだい諸侯しょこう直轄ちょっかつの邑が「くに」であったが、ここに居住きょじゅうする氏族しぞく共同きょうどうたい成員せいいんを「國人くにびと」とんだ。くに城壁じょうへきからぐんの1にち行程こうてい距離きょり(1しゃ=30さと)までが宗廟そうびょうしゃ霊威れいいおよ空間くうかんとみなされており、ここが「くに」の境域きょういきである竟とされてもんもうけられ、成員せいいん出入でいりにすら祖先そせん、「くに」の先君せんくん宗廟そうびょうへの報告ほうこく必要ひつようとされた。そのため、外部がいぶものがここを通過つうかするためには「みちかりる」すなわち、それな りの礼物れいもつそろえて相手あいてみちりるれいもとめられた。さらにせんやぶれてこの内側うちがわまれてめいむすぶことは「城下じょうかめい」とばれて自國じこく戦勝せんしょうこくたいして自立じりつせいうしなってくにからひな邑(ぞく邑)に転落てんらくする屈辱くつじょくてきなこととされた。それゆえ戦勝せんしょうこく敗戦はいせんこく城壁じょうへきからぐんを1にち行程こうてい退しりぞけて戦後せんご処理しょり交渉こうしょうはいことが「いちしゃ退しりぞ」として双方そうほうくに対等たいとう立場たちばめいむすぶ、れいにかなうこととされた。「くに」の神官しんかんである「しゅく」は社稷しゃしょくうごかないかぎりはこの空間くうかんてはならず、例外れいがいてきくにくんみずか外征がいせいする出陣しゅつじんさいして土地とちしん祭祀さいし施設しせつであるしゃまつり、犠牲ぎせいり、社主しゃしゅほうじてくにくんぐん同行どうこうした。[4]

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ a b c 浅見あさみ直一郎なおいちろう (1988), “ゆう 邑”, 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん, 28, 東京とうきょう: 平凡社へいぼんしゃ, pp. 554-555, ISBN 4-582-02200-6 
  2. ^ a b c 西嶋にしじまじょうせい「こだいしゃかい 古代こだい社会しゃかい 中国ちゅうごく古代こだい社会しゃかい」 11かん平凡社へいぼんしゃ東京とうきょう世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん〉、1972ねん、241-242ぺーじ 
  3. ^ a b 尾形おがたいさむ城壁じょうへきのあるまち : 中国ちゅうごく都城みやこのじょう景観けいかん(平成へいせい 10年度ねんど定例ていれいかい発表はっぴょう要旨ようし)」『立正大学りっしょうだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ年報ねんぽうだい36ごう立正大学りっしょうだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ、1999ねん3がつ、72-73ぺーじISSN 0389-9535NAID 110000219356 
  4. ^ a b 斎藤さいとう道子みちこ春秋しゅんじゅう時代じだいの「くに」 : 「くに空間くうかん性質せいしつとその範囲はんい」『東海大学とうかいだいがく紀要きよう 文学部ぶんがくぶだい71ごう東海大学とうかいだいがく文学部ぶんがくぶ、1999ねん、75-89ぺーじISSN 05636760NAID 110001048446 
  5. ^ a b c d 梅原うめはらいく (1988), “とし 都市とし中国ちゅうごく】”, 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん, 20, 東京とうきょう: 平凡社へいぼんしゃ, pp. 276-277, ISBN 4-582-02200-6 
  6. ^ りょちょう宮崎みやざきじょう中国ちゅうごくぞう形成けいせい世界せかい構想こうそう」『関西大学かんさいだいがく東西とうざい学術がくじゅつ研究所けんきゅうじょ紀要きようだい49かん関西大学かんさいだいがく東西とうざい学術がくじゅつ研究所けんきゅうじょ、2016ねん4がつ1にち、353-376ぺーじISSN 0287-8151NAID 120005775454 

関連かんれん項目こうもく

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