藩主
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家老・中老
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番頭
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番士
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番方
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者頭
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足軽
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側廻
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用人
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吟味
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目付
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役方
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勝手
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勘定頭
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寺社町奉行
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山目付
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馬目付
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領内の行政区分は盛岡藩と同様に「通制」を用い、勘定頭が代官を指揮して民政の当たる。各区域には各2名ずつ代官が置かれていたが、領外(飛地)の志和については4名に増員された[1]。
町奉行
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八戸城下
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八戸廻
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三戸郡 18ヵ村
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九戸郡 1ヵ村
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長苗代通
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三戸郡 12ヵ村
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名久井通
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三戸郡 11ヵ村
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軽米通
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九戸郡 19ヵ村
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久慈通
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九戸郡 18ヵ村
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志和
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志和郡 4ヵ村
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- 柳間 (安政2年(1855年)以前)
- 大広間 (安政2年以降)
江戸屋敷の所在地
屋 敷
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所在地
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上屋敷
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本所馬場(寛文5年(1665年以降)
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上屋敷
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浅草田中(天和2年(1682年)以降)
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上屋敷
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芝愛宕下(貞享4年(1687年)以降)
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上屋敷
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西丸下馬先(元禄元年(1688年)以降)
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上屋敷
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麻布市衛町(元禄2年(1689年)以降、明治まで)
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中屋敷
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麻布市衛町
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下屋敷
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麻布市衛町(寛政4年(1792年)以降、明治まで)
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江戸蔵屋敷
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深川富岡町
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江戸の菩提寺は盛岡藩と同じ、勝林山金地院であり、八戸においては、臨済宗妙心寺派南宗寺(青森県史跡)である。
八戸藩は、天明の大飢饉で深刻な打撃を受け、百姓一揆も起き、年貢の増徴による藩財政の改善も見込めない状況に陥っていた。このため、八戸藩の運営は御用商人からの借り入れに頼らざるを得なくなっていた。そんな中、時の藩主南部信真は野村軍記を登用し、文政2年(1819年)、「国政御主法替」と称する藩政改革に乗り出した。その一環として、八戸藩最大の産物である大豆の専売制を開始。もともと大豆の流通に力を持っていた商人たちを排除し、あらたな御用商人を登用した。その過程で、従来最大の権勢を誇っていた七崎屋を取り潰した。文政6年には大野鉄山を藩営とし、実際の運用を西町屋に任せて利益を藩に収めさせた。天保3年(1832年)、天保の大飢饉が発生。八戸藩では領知高2万石のうち1万1千石が損毛となる大凶作となった。翌年も8割の減収となった。藩は財政に窮し、御用商人の西町屋や美濃屋に銀札を発行させ、預かり小切手も発行して米や食糧の買占めを行おうとした。しかし、インフレが急激に進行し経済が大混乱となり、天保5年には久慈の農民が一揆をおこし、民衆が八戸城下へ押し寄せる事態となった。いわゆる「稗三合一揆」である。これは、藩が1人1日稗三合の食糧を残して、残りを全て価値の激減している銀札や小切手で買い占めようとしたことから、このように呼ばれた。一揆に対して野村軍記は武力鎮圧を主張したが採用されず、一揆側の主張をほぼ受け入れる形で決着した。そのため野村軍記が進めていた藩政改革はほとんどが否定されることになり、野村自身も失脚。幽閉され間もなく死去した[2]。
- ^ 工藤祐董著『八戸藩の歴史』八戸市、1999
- ^ 小口雅史、長谷川成一・村越潔・斉藤利男・小岩信竹『青森県の歴史』山川出版社、東京都、2000年、p.240, 251頁。ISBN 978-4-634-32020-8。