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八戸藩 - Wikipedia

八戸はちのへはん(はちのへはん)は、陸奥みちのくこく三戸さんのへぐん八戸はちのへじょうげん:青森あおもりけん八戸はちのへ)にはんちょう南部なんぶおさめていたはん

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八戸はちのへ博物館はくぶつかん八戸はちのへはん誕生たんじょう
八戸はちのへはん範囲はんい
ピンク色ぴんくいろ八戸はちのへはんりょう

概要がいよう

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寛文ひろふみ4ねん1664ねん)、南部なんぶ盛岡もりおかはん2だい藩主はんしゅ南部なんぶしげるただし嗣子ししさだめずに病没びょうぼつしたため、幕府ばくふいのちによりのこりょう10まんせきを、じゅうじき2人ふたりおとうと七戸しちのへ重信しげのぶ盛岡もりおかはん8まんせきと、中里なかさと数馬かずま八戸はちのへはん2まんせき分割ぶんかつした。将軍しょうぐん裁定さいていにより成立せいりつしたはんであるため独立どくりつしたはんとされ、よく寛文ひろふみ5ねん1665ねん)に領地りょうち配分はいぶんされ、しょ八戸はちのへじょうさだめられた。ちゅう里数りすうは「南部なんぶただしぼう」と名乗なのって八戸はちのへはん初代しょだい藩主はんしゅとなった。

2だい藩主はんしゅ南部なんぶ直政なおまさ元禄げんろく元年がんねん1688ねん)に、5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよし側用人そばようにんとなり、辞任じにんするまでのあいだ譜代ふだい大名だいみょうなみ待遇たいぐうけていた。

8だい藩主はんしゅ南部なんぶしんしんたてはん当時とうじ城主じょうしゅかくであったが、天保てんぽう9ねん1838ねん沿岸えんがん警備けいびこうにより城主じょうしゅかくとなった。

9だい藩主はんしゅ南部なんぶしんじゅん薩摩さつまはんよりむかえられ、戊辰戦争ぼしんせんそうときには奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい加入かにゅうし、野辺地のへじ戦争せんそう参加さんかしたが戦後せんご処理しょりにおいては私闘しとうとされ懲罰ちょうばつ対象たいしょうにはならずに、明治めいじ4ねん1871ねんはいはんむかえ、その八戸はちのへけん青森あおもりけん編入へんにゅうされた。

盛岡もりおかはん参照さんしょう

歴代れきだい藩主はんしゅ

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藩主はんしゅ就任しゅうにん
はつ だい 南部なんぶ左衛門さえもん佐直さじきぼう 寛文ひろふみ 5ねん1664ねん)12月 寛文ひろふみ 8ねん 6がつ
2 だい 南部なんぶとお江守えもり直政なおまさ 寛文ひろふみ 8ねん1668ねん) 8がつ - 元禄げんろく12ねん 2がつ
3 だい 南部なんぶ遠江とおとうみまもる通信つうしん 元禄げんろく12ねん1699ねん) 5がつ - とおる元年がんねん 8がつ 盛岡もりおかはんおも南部なんぶ重信しげのぶよんなん
4 だい 南部なんぶ甲斐守かいのかみ広信ひろのぶ とおる元年がんねん1716ねん)10がつ - ひろし元年がんねん 5がつ
5 だい 南部なんぶとお江守えもりしんきょう ひろし元年がんねん1741ねん)12月 - 明和めいわ 2ねん 5がつ
6 だい 南部なんぶ甲斐守かいのかみしん 明和めいわ 2ねん1765ねん) 5がつ - 天明てんめい元年がんねん 2がつ
7 だい 南部なんぶ伊勢いせもり信房のぶふさ 天明てんめい元年がんねん1781ねん) 2がつ - 寛政かんせい 8ねん 2がつ
8 だい 南部なんぶ左衛門尉さえもんのじょうしんしん 寛政かんせい 8ねん1796ねん) 2がつ - 天保てんぽう13ねん 5がつ
9 だい 南部なんぶとお江守えもりしんじゅん 天保てんぽう13ねん1842ねん) 5がつ - 明治めいじ 4ねん1871ねん) 7がつ 薩摩さつまはんおも島津しまつ重豪しげひでじゅうよんなん

行政ぎょうせい組織そしき

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藩主はんしゅ 家老がろう中老ちゅうろう
番頭ばんがしら ばん
つがえかた
ものあたま 足軽あしがる
がわまわり 用人ようにん
吟味ぎんみ
目付めつけ
やくかた
勝手かって 勘定かんじょうあたま
寺社じしゃ町奉行まちぶぎょう
山目やまのめづけ
馬目まのめづけ

つうせい

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領内りょうない行政ぎょうせい区分くぶん盛岡もりおかはん同様どうように「つうせい」をもちい、勘定かんじょうあたま代官だいかん指揮しきして民政みんせいたる。かく区域くいきにはかく2めいずつ代官だいかんかれていたが、りょうがい飛地とびち)の志和しわについては4めい増員ぞういんされた[1]

町奉行まちぶぎょう 八戸はちのへ城下じょうか
八戸はちのへまわり 三戸さんのへぐん 18ヵ村かそん 九戸くのへぐん 1ヵ村かそん
長苗代ながなわしろどおり 三戸さんのへぐん 12ヵ村かそん
名久井なくいとおる 三戸さんのへぐん 11ヵ村かそん
軽米かるまいとおる 九戸くのへぐん 19ヵ村かそん
久慈くじとおる 九戸くのへぐん 18ヵ村かそん
志和しわ 志和しわぐん 4ヵ村かそん

領内りょうない主要しゅよう交通こうつう

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本城ほんじょう

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江戸城えどじょうつめあいだ

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  • やなぎあいだ安政あんせい2ねん1855ねん以前いぜん
  • 大広間おおひろま安政あんせい2ねん以降いこう

江戸えどでの藩邸はんていおよび菩提寺ぼだいじ

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江戸えど屋敷やしき所在地しょざいち
じき 所在地しょざいち
上屋敷かみやしき 本所ほんじょ馬場ばば寛文ひろふみ5ねん1665ねん以降いこう
上屋敷かみやしき 浅草あさくさ田中たなか天和てんわ2ねん1682ねん以降いこう
上屋敷かみやしき しば愛宕下あたごした貞享ていきょう4ねん1687ねん以降いこう
上屋敷かみやしき 西丸にしまる下馬げばさき元禄げんろく元年がんねん1688ねん以降いこう
上屋敷かみやしき 麻布あざぶまもるまち元禄げんろく2ねん1689ねん以降いこう明治めいじまで)
中屋敷なかやしき 麻布あざぶまもるまち
下屋敷しもやしき 麻布あざぶまもるまち寛政かんせい4ねん1792ねん以降いこう明治めいじまで)
江戸えど蔵屋敷くらやしき 深川ふかがわ富岡とみおかまち

江戸えど菩提寺ぼだいじ盛岡もりおかはんどうじ、かち林山はやしやま金地院こんちいんであり、八戸はちのへにおいては、臨済宗りんざいしゅう妙心寺みょうしんじみなみむねてら青森あおもりけん史跡しせき)である。

天明てんめい天保てんぽうだい飢饉ききん

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八戸はちのへはんは、天明てんめいだい飢饉ききん深刻しんこく打撃だげきけ、百姓ひゃくしょう一揆いっきき、年貢ねんぐ増徴ぞうちょうによるはん財政ざいせい改善かいぜん見込みこめない状況じょうきょうおちいっていた。このため、八戸はちのへはん運営うんえい御用ごよう商人しょうにんからのれにたよらざるをなくなっていた。そんななかとき藩主はんしゅ南部なんぶしんしん野村のむら軍記ぐんき登用とうようし、文政ぶんせい2ねん(1819ねん)、「国政こくせいあるじほうがえ」としょうする藩政はんせい改革かいかくした。その一環いっかんとして、八戸はちのへはん最大さいだい産物さんぶつである大豆だいず専売せんばいせい開始かいし。もともと大豆だいず流通りゅうつうちからっていた商人しょうにんたちを排除はいじょし、あらたな御用ごよう商人しょうにん登用とうようした。その過程かていで、従来じゅうらい最大さいだい権勢けんせいほこっていた七崎ななさきつぶした。文政ぶんせい6ねんには大野おおの鉄山てつざんはん営とし、実際じっさい運用うんよう西町にしまちまかせて利益りえきはんおさめさせた。天保てんぽう3ねん(1832ねん)、天保てんぽうだい飢饉ききん発生はっせい八戸はちのへはんではりょうだか2まんせきのうち1まん1せんせきそんとなるだい凶作きょうさくとなった。翌年よくねんも8わり減収げんしゅうとなった。はん財政ざいせいきゅうし、御用ごよう商人しょうにん西にし町屋まちや美濃屋みのやぎんさつ発行はっこうさせ、あずかり小切手こぎって発行はっこうしてべい食糧しょくりょう買占かいしめをおこなおうとした。しかし、インフレが急激きゅうげき進行しんこう経済けいざいだい混乱こんらんとなり、天保てんぽう5ねんには久慈くじ農民のうみん一揆いっきをおこし、民衆みんしゅう八戸はちのへ城下じょうかせる事態じたいとなった。いわゆる「ひえさんごう一揆いっき」である。これは、はん1人ひとり1にちひえさんごう食糧しょくりょうのこして、のこりをすべ価値かち激減げきげんしているぎんさつ小切手こぎってめようとしたことから、このようにばれた。一揆いっきたいして野村のむら軍記ぐんき武力ぶりょく鎮圧ちんあつ主張しゅちょうしたが採用さいようされず、一揆いっきがわ主張しゅちょうをほぼれるかたち決着けっちゃくした。そのため野村のむら軍記ぐんきすすめていた藩政はんせい改革かいかくはほとんどが否定ひていされることになり、野村のむら自身じしん失脚しっきゃく幽閉ゆうへいされあいだもなく死去しきょした[2]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 工藤くどうゆうただしちょ八戸はちのへはん歴史れきし八戸はちのへ、1999
  2. ^ 小口おぐち雅史まさし長谷川はせがわしげるいち村越むらこしきよし斉藤さいとう利男としお小岩こいわしんちく青森あおもりけん歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ東京とうきょう、2000ねん、p.240, 251ぺーじISBN 978-4-634-32020-8 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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