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北条貞直 - Wikipedia

北条ほうじょうさだただし

鎌倉かまくら時代じだい末期まっき武士ぶし

北条ほうじょう さだただし(ほうじょう さだなお)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき武士ぶし北条ほうじょう一門いちもん大仏だいぶつりゅう北条ほうじょうそうやすし屋号やごうから大仏だいぶつ さだただし(おさらぎ さだなお)ともばれる。

 
北条ほうじょうさだただし / 大仏だいぶつさだただし
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ せいけい2ねん/元弘もとひろ3ねん5月22にち1333ねん7がつ4にち
別名べつめい 大仏だいぶつ奥州おうしゅう
官位かんい 陸奥むつまもる陸奥みちのく遠江とおとうみ佐渡さどこく守護しゅご
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ引付ひきつけしゅ引付ひきつけあたまじん
主君しゅくん 将軍しょうぐんまもりくに親王しんのう
とくむね北条ほうじょう貞時さだときたかとき
氏族しぞく 北条ほうじょう大仏だいぶつりゅう
父母ちちはは ちち北条ほうじょうそうやすし
兄弟きょうだい さだただし宣政のぶまさ
あらわしゅう
花押かおう 北条貞直の花押
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楠木くすのき正成まさしげこも千早ちはやじょうめに参加さんかした大仏だいぶつ高直たかなお[注釈ちゅうしゃく 1]とは同族どうぞくである。

生涯しょうがい

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とくむね北条ほうじょう貞時さだときよりへんいみなけてさだただし名乗なの[5]

引付ひきつけしゅ引付ひきつけあたまじんなど要職ようしょく歴任れきにんして幕政ばくせい参与さんよした。

もととく3ねん/元弘もとひろ元年がんねん1331ねん)9がつさだじき江馬えま越前えちぜん入道にゅうどう江馬えま)、金沢かなざわさだふゆ足利あしかがたかし(のちの尊氏たかうじ)らととも大将軍だいしょうぐんとして上洛じょうらくした[6]。9月26にちには上洛じょうらくぐんひきいて笠置かさぎけて進発しんぱつして、2にちとした(笠置山かさぎやまたたか[7]。10月の赤坂あかさかじょうたたか勝利しょうりして戦功せんこうげたことから、遠江とおとうみ佐渡さどなどの守護しゅごしょくあたえられた。

元弘もとひろ2ねん/せいけい元年がんねん1332ねん)9がつ北条ほうじょうだか派遣はけんした上洛じょうらくぐんくわわり[8]せいけい2ねん/元弘もとひろ3ねん1333ねん)2がつからの千早ちはやじょうたたかにも参加さんかしている[9]。このとき、さだじき軍勢ぐんぜいだい打撃だげきけたことをて、赤坂あかさかじょうめの経験けいけんから水攻みずぜ兵糧ひょうろうさくこうじている[10][9]

同年どうねん5がつ新田にった義貞よしさだ軍勢ぐんぜいひきいて鎌倉かまくらんでくる(鎌倉かまくらたたか)と極楽寺ごくらくじくち防衛ぼうえい大将たいしょうとしてその迎撃げいげきつと[11]新田にったぐん主将しゅしょう一人ひとりであるだいたてはじめたたかい1突破とっぱゆるしたが態勢たいせいなおしてそう堅守けんしゅしていた[12]。しかし力尽ちからつきて5がつ21にち深夜しんや攻防こうぼうせん要衝ようしょうであるれい山山やまやまから撤退てったいするが、このときのこっていた兵力へいりょくは300ほどだった[12]

そして、5月22にちそうわって采配さいはいった脇屋わきや義助よしすけ義貞よしさだおとうと)の攻撃こうげきまえついやぶれて戦死せんしした[13]おとうと宣政のぶまさ(のぶまさ)やあらわしゅう(あきひで)らもとも戦死せんししている。

人物じんぶつ

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武将ぶしょうとしての能力のうりょくだけでなく、和歌わかにもすぐれた教養きょうようじんであったとつたわる。

古典こてん太平たいへい」でも北条ほうじょう一族いちぞく主要しゅよう人物じんぶつのひとりとして登場とうじょうしており、鎌倉かまくら防衛ぼうえいせんにおいてはきょぶくりょざか守将しゅしょう金沢かなざわさだしょうとも最期さいご様子ようすえがかれている[14]

日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • 1322ねんげんとおる2ねん)7がつ12にち引付ひきつけあたまじん
  • 1331ねんもととく3ねん/元弘もとひろ元年がんねん)9がつ5にち陸奥みちのく守護しゅごしょく
  • 年月としつき不明ふめい引付ひきつけしゅ遠江とおとうみ佐渡さど守護しゅごしょく
  • 1333ねん元弘もとひろ3ねん)5がつ22にち極楽寺ごくらくじこうたたかいで新田にった義貞よしさだぐんやぶれて自害じがい

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 高直こうじきさだじき従兄じゅうけいにあたる維貞であり、いみなているが遠縁とおえんである。さだじきの「さだ」の北条ほうじょう貞時さだとき高直こうじきの「こう」の北条ほうじょうだか貞時さだとき)からいち拝領はいりょうしたものである[1]大仏だいぶつりゅう北条ほうじょうとく宗家そうけ当主とうしゅ烏帽子えぼしおやとする家系かけいであり[2]、「とくむね貞時さだときだか)→御家人ごけにん」のへんいみな(「さだ」または「こう」の)の授与じゅよ図式ずしき成立せいりつしていたこの時期じき[3]において、とく宗家そうけ当主とうしゅ貞時さだときだか)は自身じしんおびやかす可能かのうせいがあった大仏だいぶつりゅうたい嫡流ちゃくりゅう以外いがい人間にんげんにもへんいみなあたえていたのである[4]詳細しょうさい大仏だいぶつりゅう北条ほうじょうこう参照さんしょうのこと。

出典しゅってん

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  1. ^ 紺戸こんとあつし武家ぶけ社会しゃかいにおける加冠かかんいち付与ふよ政治せいじせいについて」『中央ちゅうおう史学しがく、1979ねん、p.15系図けいず・p.21。 
  2. ^ 山野やまの龍太郎りゅうたろう ちょ鎌倉かまくら武士ぶし社会しゃかいにおける烏帽子えぼし親子おやこ関係かんけい」、山本やまもと隆志たかし へん日本にっぽん中世ちゅうせい政治せいじ文化ぶんかろん射程しゃてい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2012ねん、182ぺーじ 脚注きゃくちゅう(27)。
  3. ^ 角田つのだ朋彦ともひこへんいみなはなし」『だんかづら』さんよん、2004ねん、21ぺーじ 
  4. ^ 紺戸こんとあつし武家ぶけ社会しゃかいにおける加冠かかんいち付与ふよ政治せいじせいについて」『中央ちゅうおう史学しがく、1979ねん、23ぺーじ 
  5. ^ しんてい増補ぞうほ鎌倉かまくら政権せいけん上級じょうきゅう職員しょくいんひょう」 その76-大仏だいぶつさだただし細川ほそかわ重男しげおのブログ記事きじ)より。
  6. ^ 永井ながい 2003, p. 136.
  7. ^ 永井ながい 2003, p. 137.
  8. ^ 太平たいへいまきろく関東かんとう大勢おおぜい上洛じょうらくごと
  9. ^ a b 太平たいへいまきなな「千剣破城軍事」
  10. ^ 天本あまもと孝志たかし九州きゅうしゅう南北なんぼくあさ戦乱せんらん、14ぺーじ
  11. ^ 永井ながい 2003, p. 147.
  12. ^ a b 永井ながい 2003, p. 148.
  13. ^ 太平たいへいまきじゅう大仏だいぶつさだちょくなみ金沢かなざわさだしょう討死うちじにごと
  14. ^ 太平たいへいまきだい10「大仏だいぶつさだちょく金沢かなざわさだしょう討死うちじにごと

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 永井ながいすすむ金沢かなざわさだあらわ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2003ねんISBN 4-642-05228-3