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本多氏 - Wikipedia

本多ほんだ

日本にっぽん氏族しぞく

本多ほんだ(ほんだし・ほんだうじ)は、武家ぶけ華族かぞくだった日本にっぽん氏族しぞく戦国せんごく時代じだい三河みかわ国人くにびと領主りょうしゅとして松平まつだいらつかえ、江戸えど時代じだい一族いちぞくから多数たすう譜代ふだい大名だいみょう旗本はたもといえ維新いしんのちには10いえ華族かぞくれつした(子爵ししゃくいえ8いえ男爵だんしゃくいえ2いえ[2]

本多ほんだ
家紋
本多ほんだまもるおもてもんまるあおい
本姓ほんせい しょう藤原ふじわらきたけんどおりりゅう
いえ 本多ほんだしげるゆたか
種別しゅべつ 武家ぶけ
華族かぞく(子爵ししゃく)、(男爵だんしゃく)
出身しゅっしん 豊後ぶんごこく日高ひだかぐん本多ほんださと[1]
おも根拠地こんきょち 三河みかわこく
東京とうきょう
著名ちょめい人物じんぶつ 本多ほんだ忠勝ただかつ
本多ほんだ正信まさのぶ
本多ほんだ正純まさずみ
支流しりゅう分家ぶんけ 下記かき参照さんしょう
凡例はんれい / Category:日本にっぽん氏族しぞく

概要がいよう

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本多ほんだまもる

家伝かでんでは太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらけんどおりあらわこう子孫しそんしゅうゆたか豊後ぶんご本多ほんだりょうしたことから本多ほんだしょうするようになったのにはじまると自称じしょうしているが、実際じっさい出自しゅつじしょうである[3]

戦国せんごく時代じだい西にし三河みかわ国人くにびと領主りょうしゅとして松平まつだいらつかえ、江戸えど時代じだいには酒井さかい井伊いい榊原さかきばらとともに門閥もんばつ譜代ふだいなかさい有力ゆうりょく存在そんざいだった[3]一族いちぞくから大名だいみょういえ旗本はたもといえ総計そうけいで50あまりたとわれる[3]

明治維新めいじいしんしょうはん知事ちじだった本多ほんだ8いえ華族かぞく子爵ししゃくいえれつした[4]。また越前えちぜん松平まつへいづけ家老がろうだった本多ほんだ[5]加賀かがはん重臣じゅうしんだった本多ほんだ男爵だんしゃくじょされた[6]

出自しゅつじ

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本多ほんだ系譜けいふ明確めいかくであり、出自しゅつじさだかではないが、『柳営りゅうえいかん』ではさい古参こさんあんさち譜代ふだいであり、初期しょき本田ほんだしょうしたとされる。また賀茂かもながれをせつもある。

普代ふだいれつ

いち、三河安祥之七御普代、酒井さかい左衛門尉さえもんのじょう元来がんらい普代ふだい上座かみざ大久保おおくぼ本多ほんだ元来がんらいさく中興ちゅうこういたり美濃みのまもるゆうあらため[7]阿部あべ石川いしかわ青山あおやま植村うえむら西口にしぐち、いろいろなみぎなないえうん
    またある酒井さかい大久保おおくぼ本多ほんだ大須賀おおすが家筋いえすじ榊原さかきばら平岩ひらいわ植村うえむら きょうイエリ。

公式こうしきには、太政大臣だじょうだいじん藤原ふじわらけんどおりあらわこうから11代目だいめ子孫しそんしゅうゆたか豊後ぶんご日高ひだかぐん[1]本多ほんださとりょうしたことから本多ほんだ名乗なのることとなったのにはじまるとしょうした[3]

12だいじょじょう足利尊氏あしかがたかうじつかえて尾張おわり横根よこねぐんあわ飯原いいはらぐん所領しょりょうあたえられ、室町むろまちから戦国せんごく時代じだいには尾張おわり三河みかわ両国りょうこくにまたがる土豪どごうとして勢力せいりょくひろげたという[3]

13だいじょせいじょうどおり定正さだまさの2系統けいとうかれたとつたえられるが、このあたりの系譜けいふさだかではない[3]じょうどおりけい宗家そうけとみなされた。

一族いちぞくなかから松平まつだいらつかえるものあらわ[3]じょうどおりけいの4だいであるじょとき松平まつだいらの2だい当主とうしゅたいおやと3だい当主とうしゅ信光のぶみつだいに、定正さだまさけいの4だいであるしゅうきよし松平まつだいらの5だい当主とうしゅ長親ながちかだいつかえた。

徳川とくがわ家康いえやす松平まつだいら元康もとやす)の部将ぶしょう徳川とくがわ四天王してんのう一人ひとりかぞえられる本多ほんだ忠勝ただかつじょうどおりけいだしとされる[3]。また、家康いえやすのほかの武将ぶしょうでは、本多ほんだ重次しげつぐじょうどおりけい本多ほんだひろこう本多ほんだ正信まさのぶ定正さだまさけいだしつたえられている[3]

大名だいみょう

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近世きんせい大名だいみょうとしての三河みかわ本多ほんだにはまくはつ時点じてん以下いかしめす6つの家系かけいがあり、いずれからも譜代ふだい大名だいみょうた。ただし、複数ふくすういえ改易かいえきされている。

平八郎へいはちろう忠勝ただかつ家系かけい

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本多ほんだ忠勝ただかつはたもん本多ほんだ定紋じょうもん
 
本多ほんだ替紋かえもんまるほん文字もじ

本多ほんだ忠勝ただかつ家系かけい本多ほんだ一門いちもんなかでは忠勝ただかつが、もっと家康いえやすから厚遇こうぐうされていた。とく忠勝ただかつまごなどは、家康いえやす血縁けつえんしゃとの婚姻こんいんがあった。

天正てんしょう18ねん1590ねん)、家康いえやす関東かんとううつりふうさいに、忠勝ただかつ上総かずさこく大多喜おおたき5まんせきあたえられ、慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたか戦功せんこうで、よく慶長けいちょう6ねん1601ねん)1がつ忠勝ただかつ伊勢いせこく桑名くわなはん10まんせきあたえられ、忠勝ただかつ長男ちょうなん本多ほんだ忠政ただまさだい姫路ひめじはん15まんせきりょうした。本多ほんだ忠孝ただたかだい越後えちごこく村上むらかみはんてんふうされたが、宝永ほうえい6ねん(1709ねん)に幼少ようしょう急死きゅうしし、改易かいえきとなるところ、忠勝ただかつこうにより3ぶんの1に所領しょりょうらした5まんせき忠良ただよしへの家名かめい存続そんぞくゆるされた。そのうたてふうかえされたが、1769ねん以降いこう三河みかわこく岡崎おかざきはん固定こていされ廃藩置県はいはんちけんむかえた(→岡崎おかざき本多ほんだ子爵ししゃく)。

ほかにも複数ふくすう分家ぶんけ存在そんざいした。

彦八ろうかんしゅん家系かけい

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膳所ぜぜ藩主はんしゅ本多ほんだれいいわおてら

三河みかわこく宝飯ほいぐん伊奈いなしろおも本多ほんだ末裔まつえい膳所ぜぜ藩主はんしゅ

三河みかわ物語ものがたりによると、松平まつだいら敵対てきたいしていたひがしさんかわ勢力せいりょく一部いちぶとしてえがかれている。松平まつだいら長親ながちか時代じだいに、北条早雲ほうじょうそううんひきいる今川いまがわ大軍たいぐん召集しょうしゅうされたひがし三河そうごしゅに、「めい本田ほんだ」とある。また、松平まつだいら清康きよやすひがしさんかわ吉田よしだじょう今橋いまはししろんださいに、めい降参こうさんとある。

酒井さかい忠次ただつぐ次男じなんかんしゅん本多ほんだ忠次ただつぐ養子ようしとなると、家康いえやす関東かんとううつりふうされたさいには下総しもふさこく匝瑳そうさぐん領地りょうちたまわる。関ヶ原せきがはらたたか戦功せんこうで、三河そうごこく西尾にしおはん2まんせきあたえられて大名だいみょうとなる。その大坂おおさかじん戦功せんこう近江おうみこく膳所ぜぜはん3まんせき加増かぞうてんふう長男ちょうなん本多ほんだ俊次しゅんじあとぎ、三河そうごこく西尾にしおはん伊勢いせこく亀山かめやまはんふたた膳所ぜぜはんもどる。そのまま廃藩置県はいはんちけんまで存続そんぞくした(→膳所ぜぜ本多ほんだ子爵ししゃく)。

また、別家べっけとして、俊次しゅんじ次男じなんかんすすむ次男じなんちゅうつねが1まんせきぶんされて河内かわうちこく西代にしだいはんだてはんしている。ちゅうつね次男じなんちゅうみつるとき伊勢いせこく神戸こうべはんうつりふうとなり、こちらも廃藩置県はいはんちけんまで存続そんぞくした(→神戸本多かんべほんだ子爵ししゃく)。

かんしゅん二男じなん忠相ただすけ旗本はたもととなり、幕末ばくまつ忠寛ただひろだい大名だいみょうれっ三河そうごこく西端せいたんはん1まんせきだてはんし、廃藩置県はいはんちけんまでつづいた[8](→西端にしはた本多ほんだ子爵ししゃく)。

さく左衛門さえもん重次しげつぐ家系かけい

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三河国額田郡大平城主本多氏の末裔まつえいおにさくひだりしょうされ、三河みかわさん奉行ぶぎょう一人ひとりとされる本多ほんだ重次しげつぐ家系かけい(「さくひだり」と略称りゃくしょうされることもある)。1613ねん重次しげつぐ本多ほんだしげるじゅう越前えちぜんこく丸岡まるおかはん4まん3000せきあたえられて大名だいみょうとなった。しかし1695ねん、4代目だいめじゅうえきとき家臣かしんあいだあらそいがこった責任せきにんらされて改易かいえきされた。そのゆるされて旗本はたもととなった。

なお、重次しげつぐあに重富しげとみである本多ほんだとみただし結城ゆうき秀康ひでやすつかえた。この家系かけい福井ふくいはん筆頭ひっとう家老がろう家老がろう) として越前えちぜん府中ふちゅう武生たけふ現在げんざい越前えちぜん)2まんせき[注釈ちゅうしゃく 1]りょうし、大名だいみょうちかあつかいをけ、明治維新めいじいしんまで存続そんぞくした(越前えちぜん府中ふちゅう本多ほんだ本多ほんだ内蔵助くらのすけとも[注釈ちゅうしゃく 2]明治めいじ以降いこう華族かぞく男爵だんしゃくれつしている(→福井ふくい本多ほんだ男爵だんしゃく)。

弥八やはちろう正信まさのぶ家系かけい

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家康いえやす参謀さんぼうとしてられる本多ほんだ正信まさのぶ家系かけい正信まさのぶ自身じしん相模さがみこく玉縄たまなわはんに1まんせき(または2まん2000せき)をゆうしていたにぎなかったが、長男ちょうなん本多ほんだ正純まさずみ家康いえやす秀忠ひでただ側近そっきんとして権力けんりょくにぎり、1619ねん下野げやこく小山こやまはん3まん3000せきから下野げやこく宇都宮うつのみやはん15まん5000せきへと大幅おおはば加増かぞうてんふうされた。しかし1622ねん宇都うと宮城みやぎ釣天井つりてんじょう事件じけんなど11かじょうおよ罪状ざいじょうにより改易かいえき出羽でわこく佐竹さたけ義宣よしのぶあずかりとなった。ともあずかりとなった正純まさずみ長男ちょうなん正勝まさかつ1630ねん正純まさずみ先立さきだって配流はいる横手よこてぼっした。

その系統けいとうは、正勝まさかつ嫡男ちゃくなん本多ほんだただしこのみ外祖父がいそふ戸田とだてつられて摂津せっつ尼崎あまがさき美濃みの大垣おおがき移住いじゅう1640ねん戸田とだ出奔しゅっぽんして流浪るろう生涯しょうがいおくって旗本はたもと安藤あんどう直政なおまさ知行ちぎょうである武蔵むさしこく那珂なかぐんうち代官だいかんとなった。この家系かけい和田わだせい木村きむらせいしょうして旗本はたもと安藤あんどう重臣じゅうしんとして、明治維新めいじいしんまで血筋ちすじのこしている。また、正勝まさかつ次男じなん本多ほんだ正之まさゆき家系かけいが3000せき旗本はたもととして、明治維新めいじいしんまで存続そんぞくしている。

また、1605ねん正信まさのぶ三男さんなんちゅうじゅん下野げやこく榎本えのもとはん1まんせきあたえられて大名だいみょうとなった。その大坂おおさかじん戦功せんこうにより2まん8000せきにまで加増かぞうされて正純まさずみ改易かいえき存続そんぞくしている。しかし3代目だいめ本多ほんだいぬせんだい1640ねんに5さいぼっし、断絶だんぜつにより改易かいえきとなった。

なお、正信まさのぶ次男じなん政重まさしげは、わかころ勘気かんきこうむって徳川とくがわ出奔しゅっぽん関ヶ原せきがはらたたかでは西にしぐん参加さんかし、さらに上杉うえすぎ家老がろう直江なおえけんつづけ養子ようしになるなど流浪るろう生涯しょうがいおくって最終さいしゅうてき金沢かなざわはん前田まえだ筆頭ひっとう家老がろうとなった(加賀かが本多ほんだ)。この系統けいとう明治維新めいじいしんまで血筋ちすじのこしている。知行ちぎょうは5まんせきで、江戸えど時代じだいかくはん存続そんぞくした家老がろうでは最大さいだい[注釈ちゅうしゃく 3]。このいえ明治めいじいたって華族かぞく男爵だんしゃくれつしている(→加賀かが本多ほんだ男爵だんしゃく)。

さん弥左衛門やざえもんせいじゅう家系かけい

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本多ほんだ正信まさのぶおとうと本多ほんだただしじゅう家系かけい(「三弥みつや」と略称りゃくしょうされることもある)。1616ねん下総しもうさこく舟戸ふなとはん1まんせきあたえられて大名だいみょうとなるが、せいじゅう外孫そとまごたるせいぬきは、そのうち8000せき相続そうぞくすることとなり旗本はたもととなった。そして1688ねんせいぬきまご正永しょうえい寺社じしゃ奉行ぶぎょう就任しゅうにんしたことから加増かぞうされて、ふたた舟戸ふなと藩主はんしゅとなる。その上野うえのこく沼田ぬまたはんて、駿河するがこく田中たなかはんで7だい明治維新めいじいしんむかえた。明治めいじ元年がんねん(1868ねん)に徳川とくがわ宗家そうけ徳川とくがわ家達いえさと)の静岡しずおかはんたてはんにともない、安房あわこく長尾ちょうびはんうつりふうされて廃藩置県はいはんちけんまでそこにざいふうした(→長尾ながお本多ほんだ子爵ししゃく)。

豊後ぶんごまもるかんしげる家系かけい

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ふるくからの家康いえやす譜代ふだい家臣かしんである、本多ほんだかんしげる家系かけい本多ほんだゆたかもり、「彦次郎ひこじろう」とも)。三河みかわ時代じだいではかんしげるちちこうこう田原たはらしろたくされており、家康いえやすからの信任しんにんあつかった。

小田原おだわら征伐せいばつのちにはかんしげる上野うえのこく白井しらいはん2まんせきとなり、関ヶ原せきがはらたたか三河そうごこく岡崎おかざきはん5まんせきあたえられる。その遠江とおとうみこく横須賀よこすかはん出羽でわこく村山むらやまはん越後えちごこく糸魚川いといがわはん信濃しなのこく飯山いいやまはんしゅとして廃藩置県はいはんちけんまで存続そんぞくした(→飯山いいやま本多ほんだ子爵ししゃく)。

明治めいじ2ねんきゅう大名だいみょうきゅう公家くげ統合とうごうした華族かぞく制度せいど誕生たんじょうするとそのときまで大名だいみょうとして存続そんぞくしていた本多ほんだ8いえ華族かぞくれつした(華族かぞくれい施行しこう子爵ししゃくいえ)。それよりのちきゅう陪臣ばいしん本多ほんだ2いえ華族かぞくれっせられた(どう男爵だんしゃくいえ)。

岡崎おかざき本多ほんだ子爵ししゃく

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岡崎おかざき本多ほんだ子爵ししゃく次男じなんだった本多ほんだ忠次ただつぐ昭和しょうわ7ねん(1932ねん)に東京とうきょう世田谷せたがや建設けんせつしたスパニッシュ様式ようしき邸宅ていたく現在げんざい愛知あいちけん岡崎おかざきかけまちあしのべ移築いちくされている
 
どうやしきない

最後さいご岡崎おかざき藩主はんしゅ本多ほんだ忠直ただなおは、明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかん岡崎おかざきはん知事ちじにんじられるとともに華族かぞくれっし、明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんまではん知事ちじつとめた[9]

版籍はんせき奉還ほうかんさいさだめられたいえろくげんべいで2135せき[10][11][注釈ちゅうしゃく 4]明治めいじ9ねん8がつ5にちかねろく公債こうさい証書しょうしょ発行はっこう条例じょうれいもとづきろくえに支給しきゅうされたきむろく公債こうさいがくは7まん2215えん70ぜに5りん華族かぞく受給じゅきゅうしゃちゅう93[12]当時とうじ当主とうしゅ忠敬ちゅうけい住居じゅうきょ東京とうきょう本郷ほんごう本郷ほんごう森川もりかわまちにあった[10]

忠敬ちゅうけいだい明治めいじ17ねん(1884ねん)に華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になり、同年どうねん7がつ8にちきゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 5]として子爵ししゃくいえれっせられた[13][14]初代しょだい子爵ししゃく忠敬ちゅうけいみや内省ないせい入省にゅうしょうして式部しきぶかんつとめたのち貴族きぞくいん子爵ししゃく議員ぎいん当選とうせんした[15]

忠昭ただあきだい昭和しょうわ前期ぜんき子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう豊島としま駒込こまごめにあった[15]

泉本いずみもと子爵ししゃく

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明治めいじ元年がんねん(1868ねんいずみ藩主はんしゅ本多ほんだ忠紀ただのり奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい荷担かたんして反逆はんぎゃくしたつみにより蟄居ちっきょ官位かんい褫奪ちだつ改易かいえきとなるも、養子ようしちゅうしんが2000せきげんじた1まん8000せきあらためてあたえられることで家名かめい存続そんぞくゆるされた。ちゅうしん明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかんいずみはん知事ちじにんじられるとともに華族かぞくれっし、明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんまではん知事ちじつとめた[16]

版籍はんせき奉還ほうかんさいさだめられたいえろくげんべいで455せき[10][11][注釈ちゅうしゃく 4]明治めいじ9ねん8がつ5にちきむろく公債こうさいがくは1まん1511えん4ぜに5りん華族かぞく受給じゅきゅうしゃちゅう344[17]当時とうじちゅうしん住居じゅうきょ東京とうきょう本所ほんじょ緑町みどりちょうにあった[10]

忠彦ただひこだい明治めいじ17ねん(1884ねん)に華族かぞくれい施行しこうにより華族かぞく爵制になり、同年どうねん7がつ8にちきゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 6]として子爵ししゃくれっせられた[13][14]

初代しょだい子爵ししゃく忠彦ただひこ陸軍りくぐん少尉しょういとしてにち戦争せんそう従軍じゅうぐんして戦死せんしした[18]。そのあといだ2だい子爵ししゃくちゅうあきらみなみ満州まんしゅう鉄道てつどう会社かいしゃ嘱託しょくたく貴族きぞくいん子爵ししゃく議員ぎいん当選とうせんしてつとめた[18]

ちゅうあきらだい昭和しょうわ前期ぜんき子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう大森おおもり大森おおもりまちにあった[18]

山崎やまざき本多ほんだ子爵ししゃく

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最後さいご山崎やまざき藩主はんしゅ本多ほんだ忠明ただあきは、明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかん山崎やまざきはん知事ちじにんじられるとともに華族かぞくれっし、明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんまではん知事ちじつとめた[19]

版籍はんせき奉還ほうかんさいさだめられたいえろくげんべいで668せき[10][11][注釈ちゅうしゃく 4]明治めいじ9ねん8がつ5にちきむろく公債こうさいがくは2まん4593えん82ぜに華族かぞく受給じゅきゅうしゃちゅう190[20]当時とうじ当主とうしゅ本多ほんだ貞吉さだきち[10]

貞吉さだきちだい明治めいじ17ねん(1884ねん)に華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になると、同年どうねん7がつ8にちきゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 7]として子爵ししゃくれっせられた[13][14]

わたるだい昭和しょうわ前期ぜんき子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう豊島としま駒込こまごみにあった[21]

膳所ぜぜ本多ほんだ子爵ししゃく

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最後さいご膳所ぜぜはんあるじ本多ほんだかんみのるは、明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかん膳所ぜぜはん知事ちじにんじられるとともに華族かぞくれっし、明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんまではん知事ちじつとめた[22]

版籍はんせき奉還ほうかんさいさだめられたいえろくげんべいで2530せき[11][注釈ちゅうしゃく 4]明治めいじ9ねん8がつ5にちきむろく公債こうさいがくは5まん6265えん27ぜに華族かぞく受給じゅきゅうしゃちゅう117[23]当時とうじかんみのる住居じゅうきょ東京とうきょう本所ほんじょ本所ほんじょ松井まついまちにあった[10]

明治めいじ17ねん(1884ねん)の華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になり、同年どうねん7がつ8にちかんみのるきゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 8]として子爵ししゃくじょせられた[13][14]

なお一郎いちろうだい昭和しょうわ前期ぜんき子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう麹町こうじまち紀尾井町きおいちょうにあった[24]

神戸本多かんべほんだ子爵ししゃく

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最後さいご神戸こうべ藩主はんしゅ本多ほんだただしぬきは、明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかん神戸こうべはん知事ちじにんじられるとともに華族かぞくれっし、明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんまではん知事ちじつとめた[25]

版籍はんせき奉還ほうかんさいさだめられたいえろくげんべいで667せき[10][11][注釈ちゅうしゃく 4]明治めいじ9ねん8がつ5にちきむろく公債こうさいがくは2まん4103えん50ぜに2りん華族かぞく受給じゅきゅうしゃちゅう195[20]当時とうじちゅうぬき住居じゅうきょ東京とうきょうしばしば森元もりもとまちにあった[10]当時とうじちゅうぬき宮中きゅうちゅう祇候だった[10]

明治めいじ17ねん(1884ねん)の華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になり、同年どうねん7がつ8にちちゅうぬききゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 9]として子爵ししゃくじょせられた[13][14]

その息子むすこ本多ほんだただしほう子爵ししゃく貴族きぞくいん子爵ししゃく議員ぎいん当選とうせんしてつとめている[26]

恒彦つねひこだい昭和しょうわ前期ぜんき子爵ししゃく住居じゅうきょ大阪おおさか住吉すみよし天王寺てんのうじまちにあった[26]

西端にしはた本多ほんだ子爵ししゃく

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最後さいご西端せいたんはんあるじ本多ほんだただしおおとりは、明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかん西端せいたんはん知事ちじにんじられるとともに華族かぞくれっし、明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんまではん知事ちじつとめた。

版籍はんせき奉還ほうかんさいさだめられたいえろくげんべいで328せき[10][11][注釈ちゅうしゃく 4]明治めいじ9ねん8がつ5にちきむろく公債こうさいがくは1まん2801えん51ぜに8りん華族かぞく受給じゅきゅうしゃちゅう319[27]当時とうじちゅうおおとり住居じゅうきょ東京とうきょう神田かんだ小川おがわまちにあった[10]

明治めいじ17ねん(1884ねん)の華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になると同年どうねん7がつ8にちちゅうおおとりきゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 10]として子爵ししゃくれつした[13][14]

辰男たつおだい昭和しょうわ前期ぜんき子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう麻布あざぶかすみまちにあった[28]

長尾ながお本多ほんだ子爵ししゃく

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最後さいご長尾ちょうびはんあるじ本多ほんだただしは、明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかん長尾ちょうびはん知事ちじにんじられるとともに華族かぞくれっし、明治めいじ3ねん(1870ねん)に正憲まさのり家督かとくゆずった。正憲まさのり明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんまではん知事ちじつとめた[29]

版籍はんせき奉還ほうかんさいさだめられたいえろくげんべいで1893せき94しょうあまり[10][11][注釈ちゅうしゃく 4]明治めいじ9ねん8がつ5にちきむろく公債こうさいがくは6まん8598えん98ぜに5りん華族かぞく受給じゅきゅうしゃちゅう97[12]当時とうじ正憲まさのり住居じゅうきょ東京とうきょう日本橋にほんばし浜町はまちょうにあった[10]

明治めいじ17ねん(1884ねん)の華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になると同年どうねん7がつ8にち正憲まさのりきゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 11]として子爵ししゃくれつした[13][14]

初代しょだい子爵ししゃく正憲まさのり三島みしま神社じんじゃ宮司ぐうじつとめたのちあきらみやよしみじん親王しんのう大正天皇たいしょうてんのう)やあきらみや猷仁親王しんのう祗候しこう貴族きぞくいん子爵ししゃく議員ぎいん当選とうせん。その養子ようしである2だい子爵ししゃくせいふくみや内省ないせい勤務きんむして東宮とうぐう侍従じじゅうてのひらてん次長じちょう宮中きゅうちゅう顧問こもんかん伏見ふしみみや別当べっとうなどを歴任れきにんした[30]

せいふるえだい昭和しょうわ前期ぜんき子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう渋谷しぶや青葉あおばまちにあった[30]

飯山いいやま本多ほんだ子爵ししゃく

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最後さいご飯山いいやま藩主はんしゅ本多ほんだじょは、明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかん飯山いいやまはん知事ちじにんじられるとともに華族かぞくれっし、明治めいじ4ねん(1871ねん)の廃藩置県はいはんちけんまではん知事ちじつとめた[31]

版籍はんせき奉還ほうかんさいさだめられたいえろくげんべいで1197せき[10][11][注釈ちゅうしゃく 4]明治めいじ9ねん8がつ5にちきむろく公債こうさいがくは3まん8886えん51ぜに9りん華族かぞく受給じゅきゅうしゃちゅう145[32]当時とうじ当主とうしゅ実方じつかた住居じゅうきょ東京とうきょう小石川こいしかわ小日向おびなただい六天ろくてんまちにあった[10]

実方じつかただい明治めいじ17ねん(1884ねん)に華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になり、同年どうねん7がつ8にちきゅうしょうはん知事ちじ[注釈ちゅうしゃく 12]として子爵ししゃくれつした[13]

助信すけのぶだい昭和しょうわ前期ぜんき子爵ししゃく住居じゅうきょ東京とうきょう淀橋よどばし西大久保にしおおくぼにあった[33]

福井ふくい本多ほんだ男爵だんしゃく

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明治維新めいじいしん御三家ごさんけづけ家老がろうはいずれも維新いしんりつはんみとめられて華族かぞくれつしたが、福井ふくいはんづけ家老がろうだった本多ほんだふくもとには維新いしんりつはんみとめられず士族しぞく編入へんにゅうされた。おそらくは越前えちぜん松平まつへい家格かかく御三家ごさんけよりひくかったことが原因げんいんおもわれる[34]

ふくもと明治めいじ2ねん(1869ねん)から維新いしんりつはん華族かぞくへんれつもとめる請願せいがんかえし、きゅう御三家ごさんけづけ家老がろう岩国いわくにはん吉川よしかわ自家じかことなるところはないことをうったつづけた[35]。この翌年よくねんにはきゅう家臣かしん領民りょうみんによって、本多ほんだふくもといえ維新いしんりつはん華族かぞくてをもとめる武生たけふ騒動そうどう発生はっせいしている[36][37]

結局けっきょくふくもと維新いしんりつはんみとめられることはないまま明治めいじ4ねん廃藩置県はいはんちけんむかえたが、華族かぞく制度せいど廃藩置県はいはんちけんのこったのでふくもとはその華族かぞくへんせき請願せいがん運動うんどうをつづけた[37]。そして明治めいじ11ねん(1878ねん)に東京とうきょう知事ちじ楠本くすもと正隆まさたかてて『家格かかくけんねがい』を提出ていしゅつしたところ、楠本くすもと知事ちじより太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう実美みみに『士族しぞく本多ほんだふくもと家格かかくけんづけ上申じょうしん』が提出ていしゅつされた。これをきっかけに太政官だじょうかん審議しんぎおこなわれた結果けっか先例せんれいはないものの、旧来きゅうらい家格かかく由緒ゆいしょからふくもと華族かぞくへの昇格しょうかくみとめることにまり、翌年よくねん1がつよりふくもと華族かぞくれつした[38]明治めいじ17ねん華族かぞくれい施行しこう華族かぞく爵制になり、同年どうねん7がつ8にちふくもとは「一新いっしん華族かぞくれつせらるるもの」として男爵だんしゃく叙爵じょしゃくされた[14][34]

ふくやすしだい昭和しょうわ前期ぜんき男爵だんしゃく住居じゅうきょ東京とうきょう世田谷せたがや太子堂たいしどうまちにあった[39]

加賀かが本多ほんだ男爵だんしゃく

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加賀かがはん前田まえだ重臣じゅうしんで5まんせき本多ほんだは、まんせき以上いじょうきゅう陪臣ばいしん叙爵じょしゃくはじまっていた時期じきである明治めいじ33ねん1900ねん)5がつ9にち当時とうじ当主とうしゅせい男爵だんしゃくじょせられた[40][41]初代しょだい男爵だんしゃくせい以は貴族きぞくいん男爵だんしゃく議員ぎいん銀行ぎんこう重役じゅうやく歴任れきにんした[42]

政樹まさきだい昭和しょうわ前期ぜんき男爵だんしゃく住居じゅうきょ石川いしかわけん金沢かなざわ下本多しもほんだまちにあった[42]

男爵だんしゃくじょされた加賀かが本多ほんだ分家ぶんけでやはり加賀かがはんで1まんせき以上いじょう知行ちぎょうしていたいえ当主とうしゅだった本多ほんだ政好まさよし明治めいじ前期ぜんきから後期こうきにかけてすうにわたって叙爵じょしゃく運動うんどうをやっているが、いずれも許可きょかわっている。明治めいじ4ねん調査ちょうさで1まんせきなく7000せきだったことや、1まんせきのうち3000せき与力よりきだったことが影響えいきょうしたとられる[43]

平八郎へいはちろう忠勝ただかつけい

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彦八ろうかんしゅんけい

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さく左衛門さえもん重次しげつぐけい) / 越前えちぜん府中ふちゅう本多ほんだ

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弥八やはちろう加賀かが本多ほんだ正信まさのぶけい

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さん弥左衛門やざえもんせいじゅうけい

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豊後ぶんごまもるかんしげるけい

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 当初とうしょ知行ちぎょうは4まんせきだったが、福井ふくいはんげんふうにともない、越前えちぜん府中ふちゅう本多ほんだげんふう
  2. ^ 用例ようれい研究けんきゅうしゃ詳細しょうさい - 吉田よしだ 純一じゅんいち”. 福井工業大学ふくいこうぎょうだいがく. 2016ねん2がつ6にち閲覧えつらん
  3. ^ 一時いちじてきなものとしては、尾張おわりはん家老がろう平岩ひらいわちかしきち犬山いぬやまはん12まん3000せき(11まん3000せきとも、あるいは9まん3000せきとも)。なお、岩国いわくにはん吉川よしかわ6まんせき陪臣ばいしんとしてあつかわれることがある。
  4. ^ a b c d e f g h 明治めいじ2ねん6がつ17にち版籍はんせき奉還ほうかんはん財政ざいせいはん知事ちじ個人こじん財産ざいさん分離ぶんりのため、はんじつ収入しゅうにゅうげんべい)のじゅうぶんいちをもってはん知事ちじ個人こじん財産ざいさんいえろくさだめられた。
  5. ^ きゅう岡崎おかざきはんげんこめ2まん1351せき表高おもてだか5まんせき)でげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん該当がいとう[13]
  6. ^ きゅういずみはんげんこめ4550せき表高おもてだか1まん8000せき)でげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん該当がいとう[13]
  7. ^ きゅう山崎やまざきはんげんこめ6680せき表高おもてだか1まんせき)でげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん該当がいとう[13]
  8. ^ きゅう膳所ぜぜはんげんこめ2まん5300せき表高おもてだか6まんせき)でげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん該当がいとう[13]
  9. ^ きゅう神戸こうべはんげんこめ6670せき表高おもてだか1まん5000せき)でげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん該当がいとう[13]
  10. ^ きゅう西端せいたんはんげんこめ3280せき表高おもてだか1まんせき)でげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん該当がいとう[13]
  11. ^ きゅう長尾ちょうびはんげんこめ1まん8939せき表高おもてだか4まんせき)でげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん該当がいとう[13]
  12. ^ きゅう飯山いいのやまはんげんこめ1まん1970せき表高おもてだか2まんせき)でげんこめ5まんせき未満みまんしょうはん該当がいとう[13]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 和名わみょう類聚るいじゅうしょう』によるが、本来ほんらいは「日田にったぐん
  2. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 336/353.
  3. ^ a b c d e f g h i 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ),ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん,百科ひゃっか事典じてんマイペディア,世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん本多ほんだ』 - コトバンク
  4. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 336.
  5. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 341.
  6. ^ 小田部おたべ雄次ゆうじ 2006, p. 353.
  7. ^ 本多ほんだはもともと本田ほんだしょうしたが、中興ちゅうこういたって美濃みのまもる由来ゆらいにより本多ほんだあらためたという意味いみか。
  8. ^ かすみ会館かいかん 1996, p. 518.
  9. ^ 新田にったかんさん 1984, p. 166.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 石井いしい孝太郎こうたろう 1881, p. ほこれ.
  11. ^ a b c d e f g h かすみ会館かいかん華族かぞく家系かけい大成たいせい編輯へんしゅう委員いいんかい 1985, p. 4/22.
  12. ^ a b 石川いしかわ健次郎けんじろう 1972, p. 42.
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 浅見あさみ雅男まさお 1994, p. 150.
  14. ^ a b c d e f g h 官報かんぽうだい308ごう明治めいじ17ねん7がつ9にち
  15. ^ a b 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 293.
  16. ^ 新田にったかんさん 1984, p. 78.
  17. ^ 石川いしかわ健次郎けんじろう 1972, p. 58.
  18. ^ a b c 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 294.
  19. ^ 新田にったかんさん 1984, p. 877.
  20. ^ a b 石川いしかわ健次郎けんじろう 1972, p. 48.
  21. ^ 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 318.
  22. ^ 新田にったかんさん 1984, p. 431.
  23. ^ 石川いしかわ健次郎けんじろう 1972, p. 43.
  24. ^ 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 291.
  25. ^ 新田にったかんさん 1984, p. 265-266.
  26. ^ a b 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 384.
  27. ^ 石川いしかわ健次郎けんじろう 1972, p. 57.
  28. ^ 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 267.
  29. ^ 新田にったかんさん 1984, p. 599-600.
  30. ^ a b 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 374.
  31. ^ 新田にったかんさん 1984, p. 61-62.
  32. ^ 石川いしかわ健次郎けんじろう 1972, p. 45.
  33. ^ 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 333.
  34. ^ a b 浅見あさみ雅男まさお 1994, p. 43.
  35. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 651.
  36. ^ 三上みかみ 1994.
  37. ^ a b 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 8.
  38. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 652.
  39. ^ 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 508.
  40. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 652-653.
  41. ^ 官報かんぽう号外ごうがい明治めいじ33ねん5がつ9にち
  42. ^ a b 華族かぞく大鑑たいかん刊行かんこうかい 1990, p. 547.
  43. ^ 松田まつだ敬之たかゆき 2015, p. 653-654.

参考さんこう文献ぶんけん

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史料しりょう
  • 和名わみょう類聚るいじゅうしょう

系譜けいふ参考さんこう

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関連かんれん項目こうもく

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