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松浦詮 - Wikipedia

松浦まつうらかい

江戸えど時代じだい後期こうき幕末ばくまつ)の大名だいみょう平戸ひらど藩主はんしゅ明治めいじ時代じだい華族かぞく

松浦まつうら かい(まつら あきら)は、江戸えど時代じだい末期まっき大名だいみょう肥前ひぜんこく平戸ひらどはんだい12だい藩主はんしゅ)で、明治めいじ時代じだい日本にっぽん政治せいじ貴族きぞくいん議員ぎいん)。松浦まつうら37だい当主とうしゅ位階いかいしたがえさん爵位しゃくい伯爵はくしゃく明治天皇めいじてんのう又従兄弟またいとこにあたる。

松浦まつうら かい
まつら あきら
晩年ばんねん松浦まつうらかい
生年月日せいねんがっぴ 1840ねん11月11にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1908-04-13) 1908ねん4がつ13にち(67さいぼつ
ぜんしょく みや内省ないせい御用ごようかけ
称号しょうごう 旭日きょくじつちゅう綬章じゅしょう
大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷ記念きねんあきら
したがえさん
くんよんとう旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう
配偶はいぐうしゃ 松浦まつうら澄子すみこ
子女しじょ 長男ちょうなん松浦まつうらあつし
三男さんなん稲葉いなばただしなわ
四男よつお佐竹さたけよしじゅん
五男いつお大隈おおくましんつね
六男むつお本多ほんだただしふく
八男はちお井上いのうえかつじゅん
親族しんぞく むすめ婿むこ前田まえだとし(貴族きぞくいん議員ぎいん)

在任ざいにん期間きかん 1890ねん7がつ10日とおか - 1908ねん4がつ13にち
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武士ぶし時代じだい経歴けいれき
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 天保てんぽう11ねん10月18にち1840ねん11月11にち
死没しぼつ 明治めいじ41ねん1908ねん4がつ13にち
墓所はかしょ 染井そめい霊園れいえん
官位かんい したがえ肥前ひぜんもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ日本国にっぽんこく政府せいふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家茂いえもち慶喜よしのぶ明治天皇めいじてんのう
はん 肥前ひぜん平戸ひらどはんあるじ
氏族しぞく 松浦まつうら
父母ちちはは ちち松浦まつうらあきはは大賀おおが
養父ようふ松浦まつうら
つま 正室せいしつ松浦まつうらむすめ
継室けいしつ青山あおやまみゆきむすめ澄子すみこ
あつやすし稲葉いなばただしなわ佐竹さたけよしじゅん大隈おおくましんつね本多ほんだただしふくれん井上いのうえかつじゅん宣子のぶこ逸子いつこ都子くにこ正子まさこ、冏子
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略歴りゃくれき

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松浦まつうらあきだい10代藩主はんしゅ松浦まつうら三男さんなんははせい)の長男ちょうなん幼名ようみょうあさきちあさ吉郎よしろうみなもと三郎さぶろうよしみひさし2ねん1849ねん)11月24にち伯父おじ先代せんだい藩主はんしゅ松浦まつうら養子ようしとなる。安政あんせい2ねん1855ねん)8がつ15にち将軍しょうぐん徳川とくがわ家定いえさだ目見まみする。同年どうねん12がつ16にちしたがえ肥前ひぜんもり叙任じょにんする。安政あんせい5ねん(1858ねん)9がつ10日とおか家督かとく相続そうぞくする。

慶応けいおう4ねん(1868ねん)1がつ8にち上洛じょうらくして以降いこう又従兄弟またいとこにあたる明治天皇めいじてんのうがわちかくにありつづけ(明治天皇めいじてんのう国母こくぼ中山なかやま慶子けいこはは愛子あいこ松浦まつうらきよしむすめ[1])、2がつ3にち天皇てんのう二条城にじょうじょう入城にゅうじょうしたときや大阪おおさかおやせいにもおきょうした。箇条かじょう誓文せいもんにもい、歴史れきし転換てんかん見届みとどけた[2]。4月21にち京都きょうとち、平戸ひらど帰郷ききょうしたが、平戸ひらどはんぐん戊辰戦争ぼしんせんそう官軍かんぐん従軍じゅうぐんした[2]かい平戸ひらどはんへい凱旋がいせんあいだもない1869ねん明治めいじ2ねん)3がつふたた上洛じょうらくし、明治天皇めいじてんのう江戸えど行幸ぎょうこうのおともをし、江戸えどでも参内さんだいつづいており天皇てんのうからのあつ信頼しんらいぶりがうかがえる[2]

明治めいじ2ねん(1869ねん)4がつ版籍はんせき奉還ほうかんにともなってはんごと就任しゅうにんする。同年どうねん4がつしたがえよん昇進しょうしんする。明治めいじ3ねん(1870ねん)4がつ26にちうえきょくふく議長ぎちょう就任しゅうにんする。同年どうねん9がつせいよん昇進しょうしんする。明治めいじ4ねん(1871ねん)7がつ廃藩置県はいはんちけんにより、はんごと免職めんしょくとなる。そのみや内省ないせい御用ごようかけとなる。明治めいじ17ねん(1884ねん)7がつ華族かぞくれい施行しこうともな伯爵はくしゃくとなる。きゅう平戸ひらどはんげんべいでは4まん6410せきだったので、叙爵じょしゃく内規ないきじょう松浦まつうら爵位しゃくい本来ほんらい子爵ししゃくだったが、伯爵はくしゃくになったのは松浦まつうらかい明治天皇めいじてんのう又従兄弟またいとこにあたるためであり、太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう実美みみけいらいで1870ねん明治めいじ3ねん)に平戸ひらどはん吸収きゅうしゅうされてはいはんした平戸ひらど新田にったはん領地りょうちをあわせて5まんせき以上いじょうあったことにされて伯爵はくしゃくになった[3]

明治めいじ23ねん(1890ねん)7がつ10日とおか貴族きぞくいん議員ぎいん当選とうせん[4]、3つとめた。のちせいくんとうじょされる。

明治めいじ13ねん1880ねん)、現在げんざい長崎ながさき県立けんりつなおきょうかん高等こうとう学校がっこう基礎きそとなるなおきょう書院しょいん設立せつりつする。明治めいじ31ねん(1898ねん)、在京ざいきょう華族かぞく知名ちめいとう輪番りんばん茶事ちゃじグループ「和敬わけいかい」を設立せつりつする。会員かいいんかい(心月しんげつあん)のほか、青地あおち幾次いくつぐろうたたえうみ)・石黒いしぐろ忠悳ただのり(况翁)伊藤いとう雋吉(むねかそけ伊東いとうゆう麿まろげんとお岩見いわみあきらづくりむぐら叟)・岡崎おかざきおもんみもとふち冲)金澤かなざわ三右衛門さんえもんあおいおっと)・戸塚とつか文海ぶんかいかくれひがしたねじょう素雲そうんひがし久世くせどおり禧(久松ひさまつ勝成かつなりにん叟)松浦まつうらひさしちりかい親戚しんせき)・三田みた葆光はぜのきえん)・三井みつい高弘たかひろ松籟しょうらい安田やすだ善次郎ぜんじろう松翁しょうおう以上いじょう16にんのち益田ますだたかしどんおきな高橋たかはし義雄よしおほうきあん入会にゅうかい)で、に「十六羅漢じゅうろくらかん」とばれた。

だい4だい平戸ひらど藩主はんしゅ松浦まつうら鎮信(てんさちおこした武家ぶけ茶道さどう流派りゅうはである鎮信りゅういししゅうりゅう鎮信)の家元いえもとでもあった。婦女子ふじょし教育きょういく一環いっかんとしての茶道さどう女子じょし学習がくしゅういん日本女子大学にほんじょしだいがくその学校がっこう指導しどうした。

死後しご染井そめい霊園れいえん埋葬まいそうされた。

長崎ながさきけん平戸ひらどにある松浦まつうら史料しりょう博物館はくぶつかんは、かいきゅうやしき改装かいそうしたものである。

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 大久おおひさ保利ほりけん 1990, p. 45.
  2. ^ a b c 大久おおひさ保利ほりけん 1990, p. 48.
  3. ^ 浅見あさみ雅男まさお 1994, p. 125-129.
  4. ^ 議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん』29ぺーじ
  5. ^ 官報かんぽうだい1351ごう叙任じょにん及辞れい」1887ねん12月28にち
  6. ^ 官報かんぽうだい610ごうしょうくん叙任じょにん」1885ねん7がつ14にち
  7. ^ 官報かんぽうだい1929ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん12月2にち
  8. ^ 官報かんぽうだい7272ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん9がつ23にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 衆議院しゅうぎいん参議院さんぎいんへん議会ぎかい制度せいどひゃくねん - 貴族きぞくいん参議院さんぎいん議員ぎいん名鑑めいかん大蔵省おおくらしょう印刷いんさつきょく、1990ねん
  • 大久おおひさ保利ほりけん日本にっぽん肖像しょうぞうきゅう皇族こうぞく華族かぞく秘蔵ひぞうアルバム〈だい7かん〉』毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1990ねん平成へいせい2ねん)。ISBN 978-4620603179 
  • 浅見あさみ雅男まさお華族かぞく誕生たんじょう 名誉めいよ体面たいめん明治めいじリブロポート、1994ねん平成へいせい6ねん)。 
公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
  うえきょくふく議長ぎちょう
1869ねん
途中とちゅうから阿野あのこうまこと共同きょうどう
次代じだい
阿野あのこうまこと
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
伯爵はくしゃく
平戸ひらど松浦まつうら初代しょだい
1884ねん - 1908ねん
次代じだい
松浦まつうらあつし