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加納久周 - Wikipedia

加納かのう ひさしゅう(かのう ひさのり)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう伊勢いせ八田はったはんだい3だい藩主はんしゅ上総かずさ一宮いちのみやはん加納かのう3だい伏見ふしみ奉行ぶぎょうなどをつとめた。

 
加納かのうひさしゅう
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん たかられき元年がんねん1751ねん
死没しぼつ 文化ぶんか8ねん6月2にち1811ねん7がつ21にち
改名かいめい 久弥ひさや幼名ようみょう)、ひさしゅう
官位かんい したがえ備中びっちゅうこくもり遠江とおとうみもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ だい番頭ばんがしらがわしゅ若年寄わかどしよりなみ
伏見ふしみ奉行ぶぎょう
はん 伊勢いせこく八田はったはんあるじ
氏族しぞく 大岡おおおか加納かのう
父母ちちはは ちち大岡おおおか忠光ただみつ養父ようふ加納かのうひさけん
兄弟きょうだい 大岡おおおか忠喜ちゅうきひさしゅうきょ勢至せいしかた
ちょうくん牧野まきの忠寛ただひろしつ)、女子じょし横田よこた以松しつ
つま ただし加納かのうひさけん養女ようじょ松平まつだいらしんれいむすめ
ひさしまき有馬ありま久保ひさやす大岡おおおか忠正ただまさ
本多ほんだ忠和ただかず四男よつお)、大岡おおおかただしかた
のべひめ松平まつだいらしんじゅん継室けいしつ)、むすめ稲葉いなば正武まさたけ継室けいしつ
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経歴けいれき

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たかられき元年がんねん1751ねん)、上総かずさ勝浦かつうらはんおも大岡おおおか忠光ただみつ[1]次男じなんとしてまれる。幼名ようみょう久弥ひさやしょうした。

明和めいわ9ねん1772ねん伊勢いせ八田はったはんだい2だい藩主はんしゅ加納かのうひさけん実子じっしひさ夭折ようせつしたため、ひさけん養女ようじょ松平まつだいらしんれいむすめ)をめとり、ひさけん養子ようしとしてむかえられて加納かのうひさしゅう名乗なのる。同年どうねんだい10代将軍しょうぐん徳川とくがわ家治いえはる拝謁はいえつし、したがえ備中びっちゅうもり叙任じょにんされた。

天明てんめい6ねん1786ねん)、ひさけん死去しきょしたため家督かとく相続そうぞくし、だい3だい藩主はんしゅとなる。陸奥みちのく白河しらかわはんあるじ松平まつだいら定信さだのぶ信任しんにんあつく、翌年よくねん定信さだのぶ老中ろうじゅう首座しゅざとなると、がわしゅとなって定信さだのぶ補佐ほさして寛政かんせい改革かいかく推進すいしん貢献こうけんした。

同年どうねんだい番頭ばんがしら兼務けんむし、遠江とおとうみまもる転任てんにんとなり、寛政かんせい5ねん1793ねん)、若年寄わかどしよりなみ異動いどうとなる。3ねん寛政かんせい8ねん1796ねん)、改革かいかくこうにより、上野うえのこく新田にったぐんぐんりょうぐんに3000せき加増かぞうされ、石高いしたかは1まん3000せき知行ちぎょうした。

よく寛政かんせい9ねん1797ねん)、若年寄わかどしよりなみす。寛政かんせい12ねん12月28にち1800ねん)、伏見ふしみ奉行ぶぎょう就任しゅうにん文化ぶんか4ねん1807ねん)、伏見ふしみ奉行ぶぎょうす。よく文化ぶんか5ねん1808ねん)、嫡男ちゃくなんひさまき家督かとくゆずり、隠居いんきょした。その3ねん文化ぶんか8ねん1811ねん)に死去しきょ享年きょうねん59。

年表ねんぴょう

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父母ちちはは

正室せいしつ

子女しじょ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 忠光ただみつ祖父そふ大岡おおおかただしぼう生母せいぼ加納かのう久利ひさとしむすめ
  2. ^ 着工ちゃっこう年代ねんだいについては諸説しょせつある。ほらにわ (千葉ちばけん)こう参照さんしょう

関連かんれん項目こうもく

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