加納かのう 久ひさ周しゅう(かのう ひさのり)は、江戸えど時代じだい後期こうきの大名だいみょう。伊勢いせ八田はった藩はん第だい3代だい藩主はんしゅ。上総かずさ一宮いちのみや藩はん加納かのう家か3代だい。伏見ふしみ奉行ぶぎょうなどを務つとめた。
宝たから暦れき元年がんねん(1751年ねん)、上総かずさ勝浦かつうら藩はん主おも・大岡おおおか忠光ただみつ[1]の次男じなんとして生うまれる。幼名ようみょうは久弥ひさやと称しょうした。
明和めいわ9年ねん(1772年ねん)伊勢いせ八田はった藩はん第だい2代だい藩主はんしゅ・加納かのう久ひさ堅けんの実子じっし・久ひさ致が夭折ようせつしたため、久ひさ堅けんの養女ようじょ(松平まつだいら信しん礼れいの娘むすめ)を娶めとり、久ひさ堅けんの養子ようしとして迎むかえられて加納かのう久ひさ周しゅうと名乗なのる。同年どうねん、第だい10代将軍しょうぐん徳川とくがわ家治いえはるに拝謁はいえつし、従したがえ五ご位い下か・備中びっちゅう守もりに叙任じょにんされた。
天明てんめい6年ねん(1786年ねん)、久ひさ堅けんが死去しきょしたため家督かとくを相続そうぞくし、第だい3代だい藩主はんしゅとなる。陸奥みちのく白河しらかわ藩はん主あるじ松平まつだいら定信さだのぶの信任しんにんが厚あつく、翌年よくねんに定信さだのぶが老中ろうじゅう首座しゅざとなると、側がわ衆しゅとなって定信さだのぶを補佐ほさして寛政かんせいの改革かいかくの推進すいしんに貢献こうけんした。
同年どうねん、大だい番頭ばんがしらを兼務けんむし、遠江とおとうみ守まもるに転任てんにんとなり、寛政かんせい5年ねん(1793年ねん)、若年寄わかどしより並なみに異動いどうとなる。3年ねん後ごの寛政かんせい8年ねん(1796年ねん)、改革かいかくの功こうにより、上野うえの国こくの新田にった郡ぐんと佐さ位い郡ぐんの両りょう郡ぐんに3000石せきを加増かぞうされ、石高いしたかは1万まん3000石せきを知行ちぎょうした。
翌よく寛政かんせい9年ねん(1797年ねん)、若年寄わかどしより並なみを辞じす。寛政かんせい12年ねん12月28日にち(1800年ねん)、伏見ふしみ奉行ぶぎょうに就任しゅうにん。文化ぶんか4年ねん(1807年ねん)、伏見ふしみ奉行ぶぎょうを辞じす。翌よく文化ぶんか5年ねん(1808年ねん)、嫡男ちゃくなんの久ひさ慎まきに家督かとくを譲ゆずり、隠居いんきょした。その3年ねん後ご、文化ぶんか8年ねん(1811年ねん)に死去しきょ。享年きょうねん59。
父母ちちはは
正室せいしつ
子女しじょ
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