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伊達朝宗 - Wikipedia

伊達だて朝宗ともむね

平安へいあん時代じだい後期こうきから鎌倉かまくら時代じだい初期しょき御家人ごけにん伊達だて伊達だて宗家そうけ初代しょだいしたがえ遠江とおとうみまもる常陸ひたちかい

伊達だて 朝宗ともむね(だて ともむね)は、平安へいあん時代じだい後期こうきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての御家人ごけにん伊達だて宗家そうけ初代しょだい当主とうしゅしたがえ遠江とおとうみまもる常陸ひたちかい

 
伊達だて 朝宗ともむね
伊達だて朝宗ともむねぞう満願寺まんがんじぞう伊達だて吉村よしむらふで
時代じだい 平安へいあん時代じだい後期こうき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん 大治おおはる4ねん1129ねん
死没しぼつ 正治しょうじ元年がんねん10月2にち1199ねん10月23にち
諡号しごう ねん西にしこう
官位かんい したがえ遠江とおとうみまもる常陸ひたちかい
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん みなもと頼朝よりとも
氏族しぞく 藤原ふじわらきた山蔭やまかげりゅう伊達だて
父母ちちはは ちち中村なかむら光隆みつたか はは源為義みなもとのためよしむすめ
兄弟きょうだい 朝宗ともむねごうもり
つま 結城ゆうき
伊佐いさためむね宗村むねむら中村なかむらつなためためぎょう
田手たでじつつなのべげんあさもと寺本てらもとため大進たいしんきょく
養子ようし中村なかむらちょうじょう
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出自しゅつじ

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尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』に記載きさいされている藤原ふじわら山蔭やまかげりゅうまちけんもんいん蔵人くろうど藤原ふじわら光隆みつたか息子むすこである朝宗ともむね比定ひていされているが、これには異説いせつもある(後述こうじゅつ)。ははろくじょう判官ほうがん源為義みなもとのためよしむすめう。息子むすこためむね宗村むねむらふえ為重ためしげ?)、つなため駿河するが伊達だて)らがあり、むすめにはみなもと頼朝よりとも側室そくしつ大進たいしんきょくそうさだあかつきはは)としてられた女性じょせいがある。源為義みなもとのためよしおよびそのまご頼朝よりとも縁戚えんせき関係かんけいにあるため、「あさ」の頼朝よりとも(またはそのちち叔父おじにあたる源義朝みなもとのよしとも)からけたもの、また息子むすこ名前なまえの「ため」のため由来ゆらいするものとかんがえられるが確証かくしょうはない。

略歴りゃくれき

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もと元年がんねん1156ねん)、藤原ふじわら本家ほんけ荘園しょうえんでもあった下野げやこく芳賀はがぐん中村なかむらそうじゅう中村なかむら八幡宮はちまんぐう南東なんとうかんきずいてちゅう村荘そんそう管理かんりしたため、中村なかむら太郎たろうしょうされた[1]において高松たかまついん蔵人くろうどとなりいん判官ほうがんだいとなった。また東宮とうぐう皇太子こうたいし)を守護しゅごする代官だいかんになり地方ちほうかんとしては、遠江とおとうみまもる常陸ひたちかいつとめた。うけたまわやす元年がんねん1171ねん)、このころしょくして下野げやこく中村なかむらもどり、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐうよりくだりいさむ阿闍梨あじゃり招聘しょうへい[2]荘厳寺しょうごんじ再興さいこうした[3]

うけたまわ4ねん1180ねん)にみなもと頼朝よりとも挙兵きょへいしたさいには、前述ぜんじゅつとおり、頼朝よりとも母方ははかた従弟じゅうていという関係かんけいもあってその麾下きかさんじた。文治ぶんじ5ねん1189ねん)の奥州おうしゅう合戦かっせんさいしては、4にん息子むすこ前衛ぜんえいとして出陣しゅつじんてきかた最前線さいぜんせん基地きちである信夫しのぶぐんいしざか城砦じょうさい攻略こうりゃくして、大将たいしょう佐藤さとうはじめりとした。このこうによって、激戦げきせん阿津あつしむらさんがある陸奥みちのくこく伊達だてぐんたまわり、これを契機けいき伊達だてせいしょうしたという。朝宗ともむねのち次男じなん宗村むねむら相続そうぞくし、その後裔こうえい中世ちゅうせい近世きんせいつうじて発展はってんした。

なお、旧来きゅうらい所領しょりょう常陸ひたちこく伊佐いさ伊佐いさしろ)は長男ちょうなん伊佐いさためむねが、下野げやこく中村なかむら中村なかむらしろ)は三男さんなん中村なかむらつな相続そうぞくしている。つなはその陸奥みちのくこく伊達だてぐん梁川はしかわ移住いじゅうして[4]、その養子ようしあさじょう[5]がそのいだ。

また、島津しまつだい2だい当主とうしゅ島津しまつただしとき正室せいしつにして、だい3だい当主とうしゅ島津しまつひさけいははとくだい夫人ふじんは、島津しまつ歴代れきだい略記りゃっきによると伊達だてねん西にしいもうとであるとされている。

常陸ひたち入道にゅうどうねん西にし朝宗ともむね

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吾妻あづまきょう』には、常陸ひたち入道にゅうどうねん西にし息子むすこためむね為重ためしげつなためとも奥州おうしゅう合戦かっせんこうてて伊達だてぐんあたえられた記述きじゅつられる。これが伊達だて勃興ぼっこうであり、一般いっぱんねん西にし朝宗ともむね為重ためしげこうの2だい当主とうしゅ宗村むねむらであるとわれている。しかし、伊達だてふる系譜けいふ文書ぶんしょには初代しょだい宗村むねむらとしているものが多数たすうられることから、新井あらい白石はくせきは『はんあきら』にいて朝宗ともむね息子むすこ宗村むねむらこそがねん西にしであると做している。近代きんだいになってからは、松浦まつうら丹次郎たんじろう伊達だて誕生たんじょう』(寂静じゃくじょういん、1983ねん)で同様どうよう見解けんかいられている。松浦まつうらは3だい当主とうしゅ義広よしひろ次男じなん為重ためしげ息子むすこであり、祖父そふねん西にし養子ようしになったとしている。

近年きんねんでは、たから寿男としお朝宗ともむね宗村むねむらどう一人物いちじんぶつであり、さらにはその系譜けいふを『新編しんぺん常陸ひたちこく』をもとにして、伊佐いさみのるむね - 中村なかむらしげるむね - 助宗すけむね - 朝宗ともむねねん西にし)とし、山陰さんいんりゅうあさむねねん西にしばれた朝宗ともむねまったくの別人べつじんとのせつしている。義広よしひろ三男さんなんつな息子むすこであり、祖父そふねん西にし養子ようしになったとう。いずれにせよ、初期しょき伊達だて系譜けいふにはいまだ解明かいめいされていない部分ぶぶんおおられる。

下野げやこく中村なかむら荘園しょうえんにおける朝宗ともむね

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朝宗ともむね築城ちくじょうとされる中村なかむらしろ中村なかむらだい明神みょうじん朝宗ともむね祭神さいじんとするしゃ現存げんそんしている。栃木とちぎけん市町村しちょうそんによると中村なかむら大明神だいみょうじん由緒ゆいしょについては「中村なかむらひだりまもるじょうあさじょうきさき中村なかむらだい明神みょうじんたかしまつり、歳々さいさいじゅういちがつじゅうにち土人どじんさいルナリ」とあり宗村むねむら二男つぎおあさじょうまつしゃであるとされている。このあさじょう源義経みなもとのよしつね遺児いじせんさいまるけいわかまる)との伝承でんしょうがあり、常陸ひたちぼううみみこと藤原秀衡ふじわらのひでひらいのち源義経みなもとのよしつね朝宗ともむねねん西にし)にたくしたとする伝承でんしょう栃木とちぎけん真岡しんおか遍照寺へんしょうじ[6]や、青森あおもりけん弘前ひろさき新寺しんてらまち圓明寺えんみょうじ円明寺えんめいじ[7]ひとしのこっている。

中村なかむらだい明神みょうじん中村なかむらしろ落城らくじょうのち最後さいご城主じょうしゅとなった小太郎こたろう時長ときながまつ小太郎こたろう明神みょうじんとしてそのつたわり、現在げんざい中村なかむら城跡じょうせき建立こんりゅうされていた場所ばしょから大正たいしょう2ねん5がつ遍照寺へんしょうじ境内けいだい中村なかむらしろてたとされる伊達だて初代しょだい朝宗ともむね祭神さいじんとし歴代れきだい中村なかむら城主じょうしゅまつしゃとして移築いちくされた[8]

  • NHK大河たいがドラマ「樅ノ木もみのきのこった」と栃木とちぎけん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつカヤの

朝宗ともむね築城ちくじょうつたわるこの中村なかむらしろには、伊達だて騒動そうどう題材だいざいにしたNHK大河たいがドラマ「樅ノ木もみのきのこった」のモデルになった古木ふるきがある。この古木ふるき現在げんざい遍照寺へんしょうじ境内けいだいにあるカヤの古木ふるきで、昭和しょうわ29ねん栃木とちぎけん指定してい天然記念物てんねんきねんぶつとなった。文治ぶんじ5ねん1189ねん)、奥州おうしゅう伊達だて朝宗ともむねみなもと頼朝よりともから奥州おうしゅう合戦かっせんにおけるいしざかたたか恩賞おんしょうとしてあたえられた伊達だてぐん信夫しのぶぐんおもむさい植樹しょくじゅしたとするいわれがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 栃木とちぎけん真岡しんおか真岡しんおか真岡しんおかへんさん委員いいんかい
  2. ^ 荘厳寺しょうごんじ世界せかい宇南山うなやまあきらしんじくだりいさみ時代じだい」P52 みち書房しょぼう
  3. ^ 真岡もおか歴史れきし編集へんしゅう委員いいんかいへん真岡もおか歴史れきし』(真岡しんおか教育きょういく委員いいんかい、1978ねん
  4. ^ 平野ひらの辰三たつぞう稿本こうほん 真岡しんおか事典じてん』(1982ねん
  5. ^ a b 源義経みなもとのよしつねという伝承でんしょうがある。
  6. ^ 中村なかむら八幡宮はちまんぐう社務しゃむしょ中村なかむら八幡宮はちまんぐう奥州おうしゅう伊達だてとのかかわり』(私家版しかばん、2002ねん
  7. ^ 山崎やまざきじゅん醒『源義経みなもとのよしつね周辺しゅうへん系図けいず解説かいせつ―『義経よしつねきた紀行きこう伝説でんせつ』をく―』(批評社ひひょうしゃ、2016ねん)P42
  8. ^ 土生はぶ慶子けいこ伊達だて源流げんりゅう』(たからぶんどう、1997ねんISBN 4-83230065-2

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