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奥州合戦 - Wikipedia

奥州おうしゅう合戦かっせん

12世紀せいき日本にっぽんたたか

奥州おうしゅう合戦かっせん(おうしゅうかっせん)は、文治ぶんじ5ねん1189ねん)7がつから9がつにかけて、鎌倉かまくら政権せいけん奥州おうしゅう藤原ふじわらとのあいだ東北とうほく地方ちほうにておこなわれた一連いちれんたたかいの総称そうしょうである。この戦役せんえきにより、みなもと頼朝よりともによる武士ぶし政権せいけん確立かくりつした。またうけたまわ4ねん1180ねん)にはじまる内乱ないらん時代じだいうけたまわ寿ことぶきひさしらん)の最後さいごにあたる戦争せんそうでもある。

奥州おうしゅう合戦かっせん

歌川うたがわかおるとら奥州おうしゅうだかかんだい合戦かっせん
戦争せんそう奥州おうしゅう合戦かっせん
年月日ねんがっぴ文治ぶんじ5ねん1189ねん)7がつから9がつ
場所ばしょ東北とうほく地方ちほう
結果けっか鎌倉かまくらぐん勝利しょうり奥州おうしゅう藤原ふじわら滅亡めつぼう
交戦こうせん勢力せいりょく
鎌倉かまくら政権せいけん 奥州おうしゅう藤原ふじわら
指導しどうしゃ指揮しきかん
みなもと頼朝よりとも 藤原ふじわらやすし
戦力せんりょく
284,000(28まん4000)吾妻あづまきょう 170,000(17まん)?
損害そんがい
不明ふめい 平泉ひらいずみ陥落かんらく

呼称こしょう

編集へんしゅう

鎌倉かまくらがわ兵力へいりょく動員どういんかかわる古文書こもんじょおおくはこの戦争せんそうおくいれおく(おくいり)とんでおり、奥州おうしゅう追討ついとう(おうしゅうついとう)、奥州おうしゅう合戦かっせんしるした文書ぶんしょもある。鎌倉かまくら幕府ばくふ史書ししょ吾妻あづまきょう』は奥州おうしゅう征伐せいばつ(おうしゅうせいばつ)とするが、奥州おうしゅう合戦かっせんしる箇所かしょもある[1]

明治めいじ以降いこう歴史れきしがくでは『吾妻あづまきょう』を踏襲とうしゅうして奥州おうしゅう征伐せいばつばれていた。1978ねん昭和しょうわ53ねん)に歴史れきし学者がくしゃ入間田いりまだ宣夫のりおが、鎌倉かまくら幕府ばくふがわったかた問題もんだいし、当時とうじ様々さまざまかたのうち「奥州おうしゅう合戦かっせん」がどちらがわにもかたよらないとして、「文治ぶんじねん奥州おうしゅう合戦かっせん」というかた提唱ていしょうした[2]。これにより、20世紀せいきまつまでにほぼ「奥州おうしゅう合戦かっせん」が用語ようごとして定着ていちゃくした[3]

概要がいよう

編集へんしゅう

背景はいけい

編集へんしゅう

奥州おうしゅう藤原ふじわらは、こうさんねんやく終結しゅうけつから初代しょだいきよし以来いらいさんだい100ねんわたって陸奥みちのく出羽でわ両国りょうこく君臨くんりんし、さんだいしゅう時代じだいには陸奥むつまもる鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん官職かんしょくて、名実めいじつともに奥州おうしゅう支配しはいする存在そんざいとなっていた。

たいら討滅みなもと頼朝よりともにとって、鎌倉かまくら政権せいけん安定あんていさせるためには、潜在せんざいてき脅威きょういである奥州おうしゅう藤原ふじわら打倒だとうする必要ひつようがあった。文治ぶんじ2ねん1186ねん)4がつ頼朝よりともはそれまで藤原ふじわら直接ちょくせつおこなっていた京都きょうと朝廷ちょうていへのみつぎ献金けんきんを、鎌倉かまくら経由けいゆおこなうよう要求ようきゅうし、しゅう衡もそれにしたがった。

文治ぶんじ4ねん1188ねん)2がつ頼朝よりとも対立たいりつして逃亡とうぼうしていた源義経みなもとのよしつね奥州おうしゅう藤原ふじわら本拠地ほんきょち平泉ひらいずみ潜伏せんぷくしていることが発覚はっかくした(『たま文治ぶんじ4ねん2がつ8にちじょう、13にちじょう)。しゅう衡は前年ぜんねんの10がつ死去しきょしていたが、義経よしつね子息しそくたいくにさんにん起請文きしょうもんかせ、義経よしつね主君しゅくんとして給仕きゅうじさんにん一味いちみ結束けっそくをもって頼朝よりとも攻撃こうげきそなえるように遺言ゆいごんしたという(『たま文治ぶんじ4ねん正月しょうがつ9にちじょう)。頼朝よりともは「ほろびははのため五重ごじゅうとう造営ぞうえいすること」「じゅうやくのため殺生せっしょう禁断きんだんすること」を理由りゆう年内ねんない軍事ぐんじ行動こうどうはしないことを表明ひょうめいし、藤原秀衡ふじわらのひでひら子息しそく義経よしつね追討ついとう宣旨せんじくだすよう朝廷ちょうてい奏上そうじょうした。頼朝よりとも申請しんせいけて朝廷ちょうていは、2月と10がつ藤原ふじわらはじめしげるたい衡に義経よしつね追討ついとう宣旨せんじくだす(『吾妻あづまきょう』4がつ9にちじょう、10月25にちじょう)。たい衡は遺命いめいしたがいこれを拒否きょひし、ごうやした頼朝よりともは、文治ぶんじ5ねん1189ねん)になるとたい追討ついとう宣旨せんじ発給はっきゅう朝廷ちょうてい奏上そうじょうしている。

なお、『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』によると、文治ぶんじ4ねん(1188ねん)の12月にたい衡が自分じぶん祖母そぼしゅう衡のはは)を殺害さつがいしたともれる部分ぶぶんがあり、またよく文治ぶんじ5ねん(1189ねん)2がつ15にちたい衡は末弟ばっていろくおとうと)のよりゆき殺害さつがいしている。いずれも真偽しんぎ不明ふめいだが、親族しんぞくあいだはげしい相克そうこくがあったと推測すいそくするきもある。

2がつ22にち鎌倉かまくらではたい衡が義経よしつね叛逆はんぎゃく同心どうしんしているのはうたがいないので、鎌倉かまくらかたから直接ちょくせつこれを征伐せいばつしようと朝廷ちょうてい一層いっそう強硬きょうこうもうれがおこなわれた。2月9にちもとなりたい衡から「義経よしつね所在しょざい判明はんめいしたら、いそすすめよう」との返書へんしょとどくが頼朝よりともわず、2がつ、3月、4がつ執拗しつよう奥州おうしゅう追討ついとう宣旨せんじ要請ようせいしている。うるう4がついんたい追討ついとう宣旨せんじ検討けんとうがなされた。

義経よしつね

編集へんしゅう

文治ぶんじ5ねん1189ねんうるう4がつ30にち鎌倉かまくらかた圧迫あっぱくくっしたやすし衡は平泉ひらいずみ衣川きぬがわかん義経よしつね襲撃しゅうげきして自害じがいんだ。こう白河しらかわ法皇ほうおうはこれで問題もんだい解決かいけつしたと判断はんだんして「かれ滅亡めつぼうあいだくにちゅうさだめて静謐せいひつせしむるか。いまにおいては弓箭きゅうせんをふくろにすべし」(『吾妻あづまきょう』6がつ8にちじょう)と頼朝よりともつたえた。6月13にちたい衡は義経よしつねくびさけひたして鎌倉かまくらおく恭順きょうじゅんしめした。しかし、頼朝よりとも目的もくてき背後はいごおどかしつづけていた奥州おうしゅう藤原ふじわら殲滅せんめつにあり、これまで義経よしつねかくまってきたつみ反逆はんぎゃく以上いじょうのものとしてたい追討ついとう宣旨せんじもとめるとともに全国ぜんこく動員どういんれいはっした。

鎌倉かまくらかた強硬きょうこう姿勢しせい動揺どうようした奥州おうしゅうでは内紛ないふんこり、26にちたい衡は異母弟いぼていさんおとうと)・ちゅう誅殺ちゅうさつしている(『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』の記述きじゅつによれば、おとうとちゅう衡の同母どうぼおとうととされるつうとも殺害さつがいしている)。ちゅう衡はちち遺言ゆいごんやぶったやすし衡にたいして反乱はんらんこした(あるいは反乱はんらん計画けいかくした)ためたれたとも推測すいそくされている。

たい衡は義経よしつねくびこと平泉ひらいずみ平和へいわはかったが、頼朝よりともぎゃく家人かじん義経よしつね許可きょかなく討伐とうばつしたことを理由りゆうとして、7がつ19にちみずか鎌倉かまくら出陣しゅつじんし、大軍たいぐんを以って奥州おうしゅう追討ついとうかった。奥州おうしゅうへの対応たいおうめぐって朝廷ちょうてい幕府ばくふ見解けんかいかれたが、頼朝よりとも大庭景義おおばのかげよしの「戦陣せんじんでは天子てんしみことのりかない」「たい衡は家人かじんであり誅罰に勅許ちょっきょ不要ふようである」との進言しんげんけて、宣旨せんじなしでの出兵しゅっぺい決断けつだんした。

出兵しゅっぺい

編集へんしゅう

7がつ17にち頼朝よりとも軍勢ぐんぜい大手おおてぐん東海道とうかいどうぐん北陸ほくりくどうぐん三軍さんぐんけて進攻しんこう計画けいかくてた。畠山はたけやま重忠しげただ先陣せんじんとした頼朝よりともひきいる大手おおてぐん鎌倉かまくら街道かいどう中路なかじから下野げやこく奥州おうしゅう方面ほうめんへ、千葉ちば常胤つねたね八田はったともひきいる東海道とうかいどうぐん常陸ひたちこく下総しもうさこく武士ぶしだんとともに岩城いわき岩崎いわさき方面ほうめんへ、比企ひきのういん宇佐美うさみみのるせいひきいる上野うえのこく武士ぶしだん中心ちゅうしんとした北陸ほくりくどうぐん越後えちごこくから日本海にほんかい沿いを出羽でわこく方面ほうめんへそれぞれ進軍しんぐんすることになった。

7がつ19にち頼朝よりとも梶原かじはら景時かげとき進言しんげん越後えちご囚人しゅうじんしろちょうしげるくわえ、大手おおてぐんひきいて鎌倉かまくら出発しゅっぱつする。25にち宇都宮うつのみやしゃ戦勝せんしょう祈願きがんし、26にちには常陸ひたち佐竹さたけ秀義ひでよし軍勢ぐんぜいくわわった。28にち新渡戸にとべえき到着とうちゃくするとしろちょうしげるろうしたがえ200余人よにん参集さんしゅうした。かつて敵対てきたいした大雄たいゆうぞくであるじょう佐竹さたけしたがえた頼朝よりともは、29にち下野げや陸奥むつ国境こっきょう白河しらかわせき通過つうかする。初秋しょしゅう[4]白河しらかわせきった頼朝よりともが、梶原かじはらけいに「能因のういん法師ほうしうた[5]おもさないか」といかけると、けいは「秋風あきかぜ草木くさきつゆはらわせて きみえつゆれば 関守せきもりし」と本歌ほんかしてうたんだ。大手おおてぐんはさしたる抵抗ていこうけずに奥州おうしゅう南部なんぶすすみ、8がつ7にちには伊達だてぐん国見くにみえき現在げんざい国見くにみまち藤田ふじた推定すいてい[6])にたっした。

奥州おうしゅうぐん敗北はいぼく

編集へんしゅう

奥州おうしゅうがわは、たい衡の異母いぼけいくに衡が阿津あつしむらさん城壁じょうへききずき、前面ぜんめんじゅうほりもうけて阿武隈川あぶくまがわみずれ、まんへい配備はいびして迎撃げいげき態勢たいせいった。たい自身じしん後方こうほう多賀城たがじょう国府こくふにてぜんぐん総覧そうらんたった。7にちよる頼朝よりとも明朝みょうちょう攻撃こうげきめいじ、畠山はたけやま重忠しげただひきいてきた人夫にんぷ80めい用意よういしていたすきくわ土砂どしゃはこばせてほりめた。8にちこく午前ごぜん6ごろ)、畠山はたけやま重忠しげただらの先陣せんじんは、金剛こんごう別当べっとうしげるつなひきいるすうせん戦端せんたんひらき、こく午前ごぜん10ごろ)にしゅうつなだい木戸きど退却たいきゃくした。

また、いしざかたたか現在げんざい福島ふくしま松川町関谷まつかわまちせきや付近ふきん)では伊佐いさためむね信夫しのぶ庄司しょうじ佐藤さとうはじめ佐藤さとうつぎしん佐藤さとう忠信ただのぶちち)をやぶり、そのくび阿津あつこころざしやまうえけいおかさらした。ただしいしざか地理ちりてき阿津あつしむらさんよりはるかに南方なんぽうであることがわかっており、いしざかたたかいは阿津あつしむらさんたたかいより以前いぜんべつ場所ばしょこった合戦かっせんおもわれる。『吾妻あづまきょう』はそれを同時どうじ進行しんこうしていたようにえがくことで劇的げきてき効果こうかげており、軍記物語ぐんきものがたり特有とくゆう表現ひょうげん技法ぎほうれたれい推測すいそくされている。

10日とおか畠山はたけやま重忠しげただ小山こやま朝政ともまさらのほんぐんだい木戸きどそう攻撃こうげきおこなった。後陣ごじんやまのぼったきの権守ごんもり芳賀はが次郎じろう大夫たいふきのきよしりょうとう)らの奇襲きしゅうもあり、奥州おうしゅうぐん金剛こんごう別当べっとうしげるつな子息しそく下須しもす房太郎ふさたろうしゅうかた戦死せんし享年きょうねん13)して潰走かいそうした。出羽でわ方面ほうめん脱出だっしゅつしようとしたくに衡は、追撃ついげきした和田わだ義盛よしもりたれた。根無ねなしふじ城郭じょうかくではりょうぐんはげしい攻防こうぼうひろげられたが、大将軍だいしょうぐんきむ十郎じゅうろう戦死せんしして勝敗しょうはいけっした。自軍じぐん大敗たいはいったやすし衡は多賀城たがじょうから平泉ひらいずみ方面ほうめん退却たいきゃくした。頼朝よりとも北上ほくじょう船迫ふなさこ宿やどて12にち多賀城たがじょう到着とうちゃくし、常陸ひたち方面ほうめんから東海道とうかいどうぐん合流ごうりゅうした。13にち比企ひき宇佐見うさみりょうしょうひきいられた北陸ほくりくどうぐん田川たがわ行文こうぶん秋田あきた致文って出羽でわ制圧せいあつした。

平泉ひらいずみ陥落かんらく

編集へんしゅう

14にち玉造たまつくりぐんまたは物見岡ものみおかたい衡在りとの情報じょうほう頼朝よりとも玉造たまつくりぐん発向はっこうし、別働隊べつどうたいとして小山こやま朝政ともまさ朝光ともみつらを物見岡ものみおかかわせた。朝政ちょうせいはそののうちに物見岡ものみおか攻略こうりゃくするが、たい衡の姿すがたはなかった。20日はつか玉造たまつくりぐんはいった頼朝よりとも本隊ほんたい加波かばしろかこむが、たい衡はまたも逃亡とうぼうしており、しろのこったてきへいたばねて投降とうこうした。頼朝よりとも平泉ひらいずみ攻略こうりゃくまえに「わずいちせんひきかうべからず。まん軍兵ぐんびょうあい調ととのきおいたるべし。すでにはい績のてきなり。さむらいいちにんといえども無害むがいよう用意よういいたすべし」とめいじた。21にち栗原くりはら三迫みさこ要害ようがいとして津久毛つくもきょういたると、梶原かじはらけいだかは「陸奥みちのくいきおい御方おかた津久毛つくもきょう わたしてけん たい衡がくび」とうたみ、頼朝よりともよろこばせた。22にち平泉ひらいずみはいったが、平泉ひらいずみすではなたれて放棄ほうきされたのちだった。

奥州おうしゅう藤原ふじわら滅亡めつぼう

編集へんしゅう

8がつ26にち頼朝よりとも赦免しゃめんもとめるやすし衡の書状しょじょうとどいたが、頼朝よりともはこれを無視むしして、9月2にちには岩手いわてぐんくりやかわげん盛岡もりおか厨川くりやがわ)へけて進軍しんぐん開始かいしする。くりやかわしがらみはかつてぜんきゅうねんやく源頼義みなもとのよりよし安倍貞任あべのさだとうらをったであり、頼朝よりともはそのれいならい、くりやかわしがらみでのたい討伐とうばつのぞんだのである。たい衡は奥地おくち逃亡とうぼうぬかぐんから夷狄いてきとう北海道ほっかいどう)への渡航とこうくわだてたが、3にち比内ひないぐんにえしがらみろうしたがえ河田かわた次郎じろう殺害さつがいされた。4にち頼朝よりともじんおか布陣ふじんして北陸ほくりくどうぐん合流ごうりゅうした。軍勢ぐんぜい総数そうすうは「じゅうはちまんよんせん」にたっしたという。たい衡の首級しゅきゅうは6にちじんおか頼朝よりともとどけられた。頼朝よりとも河田かわた次郎じろうはちしいたげつみあたいするとして斬罪ざんざいしょし、ぜんきゅうねんやく祖先そせん源頼義みなもとのよりよし安倍貞任あべのさだとうくびさらした故事こじならってたい衡のくびさらした[7]

7にちたい衡のろうしたがえである由利ゆり維平らえられる。その勇敢ゆうかん態度たいどから頼朝よりともは維平とい、「たい衡は奥州おうしゅう威勢いせいるっており、けいくわえるのは難儀なんぎおもっていたが、立派りっぱろうしたがえがいなかったために、河田かわた次郎じろう一人ひとりに誅された。両国りょうこくおさじゅうななまんひきいながら、じゅう日程にってい一族いちぞくみなほろびた。うにらないことだ」とげた。維平は「ひだり馬頭ばとう殿どの源義朝みなもとのよしとも)は、海道かいどうじゅう箇国かこくおさめられたが、平治へいじらんいちにちささえられず零落れいらくし、すうまんおもであったが、長田ながたただしに誅されました。いまむかし優劣ゆうれつがあるでしょうか。たい衡はわず両国りょうこく勇士ゆうしひきい、すうじゅうにち頼朝よりとも殿どのなやませました。不覚ふかくとたやすくは判断はんだんできないでしょう」とこたえた。頼朝よりともこたえをかえさず対面たいめんえると、畠山はたけやま重忠しげただに維平をあづけ、芳情ほうじょうほどこしをめいじた。9にち京都きょうと一条いちじょうのうから7がつ19にちづけたい追討ついとう宣旨せんじじんおか頼朝よりともしたとどいた[8]

12にち頼朝よりともじんおかくりやかわしがらみはいる。15にち樋爪ひづめかん放棄ほうきしてきたそうしていた樋爪ひづめしゅん樋爪ひづめ太郎たろうしゅん入道にゅうどう)とそのおとうと樋爪ひづめ樋爪ひづめ五郎ごろう衡、本吉もとよし衡)[9]降伏ごうぶくのためにくりやかわしがらみる。そこにはしゅん衡の3にん息子むすこ太郎たろう太田おおた冠者かんじゃごう大国たいこくいたる)、けん樋爪ひづめ次郎じろう樋爪ひづめ次郎じろう二郎じろうけん衡、樋爪ひづめ次郎じろう二郎じろうよし衡)、ちゅう河北かほく冠者かんじゃ))、衡の息子むすこけい新田にった冠者かんじゃ)の姿すがたもあった。また、『吾妻あづまきょう』や『平泉ひらいずみこころざし』にはけい衡という人物じんぶつ登場とうじょうし、伊豆いずこく配流はいるになっているが、具体ぐたいてき系譜けいふ関係かんけい不明ふめいである。18にちしゅう衡のよんなんたい衡のおとうと一人ひとりよんおとうと)・こう下河辺しもこうべ行平こうへいつうじて降伏ごうぶく捕虜ほりょとなった。19にちまで逗留とうりゅうしてくだひと赦免しゃめん本領ほんりょう安堵あんどなどの処理しょりおこなった。平泉ひらいずみもどった頼朝よりとも奥州おうしゅう支配しはい体制たいせいかためるため、22にち葛西かさい清重きよしげ奥州おうしゅうそう奉行ぶぎょう任命にんめいし、28にち鎌倉かまくらけて帰還きかんした。

しかし鎌倉かまくら支配しはいたいする現地げんち豪族ごうぞく反感はんかん根強ねづよく、文治ぶんじ5ねん(1189ねん)12月にたい衡の家臣かしんであった大河おおかわ兼任けんにん主君しゅくんかたきとして挙兵きょへい鎌倉かまくらぐんなやませた(大河おおかわ兼任けんにんらん)。この反乱はんらん翌年よくねん3がつ鎮圧ちんあつされ、やく10ねんにわたる争乱そうらん終息しゅうそくし、武家ぶけ政権せいけん確立かくりつけた準備じゅんびがほぼととのうことになる。また、しゅう衡の6にん息子むすこかつ奥州おうしゅう合戦かっせん参戦さんせんした3にんしゅう衡の息子むすこくに衡、たい衡、こう衡)のなか唯一ゆいいつびたこう衡は、12ねんたてひとし元年がんねん1201ねん)に越後えちごこくじょう一族いちぞくこしたたてひとしらん一味いちみくわわり、鎌倉かまくらかたられた。

この合戦かっせんみなもと頼朝よりとも全国ぜんこくてき動員どういんみなみ九州きゅうしゅう薩摩さつま・かつてたいら基盤きばんであった伊勢いせ安芸あきなど)、かつてたいら源義仲みなもとのよしなか源義経みなもとのよしつねしたがっていたものたち[10]動員どういんをもおこなっている。しかしその動員どういん対象たいしょうは「武器ぶきるのやから」(文治ぶんじ5ねん2がつ9にちみなもと頼朝よりともぶん)に限定げんていされていた。さらに不参ふさん御家人ごけにんたいしては所領しょりょう没収ぼっしゅうきびしい処罰しょばつおこなったこと、頼朝よりとも挙兵きょへい以来いらいとなるみずからの出馬しゅつばおこなったこととあわせてかんがえると、頼朝よりとも自身じしんしたがう「御家人ごけにん」の確立かくりつという政治せいじてき意図いとっており、奥州おうしゅう合戦かっせんはそのための契機けいきとなったともいえる[11]

年表ねんぴょう

編集へんしゅう
  • 年月日ねんがっぴ出典しゅってんもちいるこよみであり、当時とうじ宣明のぶあきれきもちいられている
月日つきひ
宣明のぶあきれきちょうこよみ
内容ないよう 出典しゅってん
うるう4がつ30にち 藤原ふじわらやすし軍勢ぐんぜい衣川きぬがわかん襲撃しゅうげき源義経みなもとのよしつね自害じがい 吾妻あづまきょう
5月22にち 奥州おうしゅうより義経よしつね誅殺ちゅうさつつたえる飛脚ひきゃく鎌倉かまくら参着さんちゃく 吾妻あづまきょう
6月8にち 義経よしつね滅亡めつぼうけて、こう白河しらかわ法皇ほうおうより戦闘せんとう停止ていし院宣いんぜん鎌倉かまくらとど 吾妻あづまきょう
6月13にち 藤原ふじわらだか[12]義経よしつねくび鎌倉かまくら持参じさん和田わだ義盛よしもり梶原かじはら景時かげとき実検じっけん 吾妻あづまきょう
6月25にち みなもと頼朝よりともたい追討ついとう宣旨せんじ発給はっきゅう朝廷ちょうてい要請ようせい 吾妻あづまきょう
6月26にち 奥州おうしゅう兵乱へいらん藤原ふじわらただし殺害さつがいされる 吾妻あづまきょう
6月30にち 頼朝よりとも奥州おうしゅう征伐せいばつについて大庭景義おおばのかげよし諮問しもん 吾妻あづまきょう
7がつ16にち たい追討ついとう延期えんきめいじる宣旨せんじ鎌倉かまくらとどく。頼朝よりとも宣旨せんじなしでの出兵しゅっぺい決断けつだん 吾妻あづまきょう
7がつ17にち 終日しゅうじつ審議しんぎ東海道とうかいどうぐん大手おおてぐん北陸ほくりくどうぐん三軍さんぐん編成へんせいして、進攻しんこうルートを決定けってい 吾妻あづまきょう
7がつ18にち 北陸ほくりくどうぐん鎌倉かまくら出発しゅっぱつ 吾妻あづまきょう
7がつ19にち 頼朝よりともひきいる大手おおてぐん鎌倉かまくら出発しゅっぱつ越後えちご囚人しゅうじんしろちょうしげる軍勢ぐんぜいくわえる 吾妻あづまきょう
7がつ25にち 頼朝よりとも下野げやこくはしえき到着とうちゃく宇都宮うつのみやしゃ奉幣ほうへい 吾妻あづまきょう
7がつ26にち 頼朝よりとも宇都宮うつのみや出発しゅっぱつ常陸ひたち佐竹さたけ秀義ひでよし軍勢ぐんぜいくわえる 吾妻あづまきょう
7がつ28にち 新渡戸にとべえき到着とうちゃくしろちょうしげるろうしたがえ200余人よにん参集さんしゅう 吾妻あづまきょう
7がつ29にち 頼朝よりとも白河しらかわせき通過つうか 吾妻あづまきょう
8がつ7にち 頼朝よりとも国見くにみえき到着とうちゃく 吾妻あづまきょう
8がつ8にち~10にち 阿津あつしむらさんいしざか根無ねなしふじ戦闘せんとう
藤原ふじわらこく金剛こんごう別当べっとうしげるつな佐藤さとうはじめきむ十郎じゅうろうらが戦死せんしして奥州おうしゅうぐん大敗たいはい
吾妻あづまきょう
8がつ11にち 頼朝よりとも船迫ふなさこ宿やど到着とうちゃくくに衡のくび実検じっけん 吾妻あづまきょう
8がつ12にち 頼朝よりとも多賀城たがじょう国府こくふ到着とうちゃく東海道とうかいどうぐん合流ごうりゅう 吾妻あづまきょう
8がつ13にち 北陸ほくりくどうぐん出羽でわこく田川たがわ行文こうぶん秋田あきた致文 吾妻あづまきょう
8がつ14にち 頼朝よりとも玉造たまつくりぐん発向はっこう
小山こやま朝政ともまさ物見岡ものみおか攻略こうりゃく
吾妻あづまきょう
8がつ20日はつか 頼朝よりとも玉造たまつくりぐんおお加波かばしろ攻略こうりゃく 吾妻あづまきょう
8がつ21にち 頼朝よりとも平泉ひらいずみ発向はっこう栗原くりはら三迫みさこ要害ようがい攻略こうりゃくして津久毛つくもきょうたっする
たい衡、平泉ひらいずみはなって逃走とうそう
吾妻あづまきょう
8がつ22にち 平泉ひらいずみ陥落かんらく 吾妻あづまきょう
8がつ25にち 衣川きぬがわかん藤原ふじわらはじめなり父子ふし投降とうこう 吾妻あづまきょう
8がつ26にち 頼朝よりとも宿所しゅくしょ投降とうこうをほのめかすたい衡の書状しょじょうまれる 吾妻あづまきょう
9月2にち 頼朝よりとも平泉ひらいずみから岩手いわてぐんくりやかわしがらみ発向はっこう 吾妻あづまきょう
9月3にち たい衡、比内ひないぐんにえしがらみろうしたがえ河田かわた次郎じろう殺害さつがいされる 吾妻あづまきょう
9月4にち 頼朝よりとも志波しわぐん到着とうちゃくじんおか北陸ほくりくどうぐん合流ごうりゅう 吾妻あづまきょう
9月6にち 河田かわた次郎じろうたい衡のくびじんおか持参じさん
頼朝よりともぜんきゅうねんやく故事こじならい、くぎけて梟首きょうしゅとする
吾妻あづまきょう
9月8にち 頼朝よりとも奥州おうしゅう平定へいてい飛脚ひきゃく京都きょうとおく 吾妻あづまきょう
9月9にち 一条いちじょうのう使者ししゃじんおか到着とうちゃく。7月19にちづけたい追討ついとう宣旨せんじ持参じさん 吾妻あづまきょう
9月11にち 頼朝よりともじんおかくりやかわしがらみはい 吾妻あづまきょう
9月19にち 頼朝よりともくりやかわしがらみ出発しゅっぱつ平泉ひらいずみもど 吾妻あづまきょう
9月22にち 頼朝よりとも陸奥みちのくこく奉行ぶぎょう葛西かさい清重きよしげめいじる 吾妻あづまきょう
9月28にち 頼朝よりとも鎌倉かまくらけて帰還きかん 吾妻あづまきょう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 多賀城たがじょうだい1かん418-420ぺーじ
  2. ^ 入間田いりまだ宣夫のりお鎌倉かまくら幕府ばくふ奥羽おうう両国りょうこく」、『中世ちゅうせい奥羽おうう世界せかい』42-43ぺーじ
  3. ^ 多賀城たがじょうだい1かん419ぺーじ
  4. ^ 文治ぶんじ5ねん7がつ29にち (旧暦きゅうれき)西暦せいれき換算かんさんすると1189ねん9月18にちとなる。
  5. ^ をば かすみとともに ちしかど 秋風あきかぜ白河しらかわせきかすみはるきょうったのに、白河しらかわせきくとすでに秋風あきかぜぶしになっていた)」(『こう拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』)
  6. ^ だいしょう 国見くにみまち維持いじ向上こうじょうすべき歴史れきしてき風致ふうち”. 国見くにみまち. p. 42. 2024ねん7がつ30にち閲覧えつらん
  7. ^ ぜんきゅうねんやくにおいて安倍貞任あべのさだとうくび横山よこやまけいけん頼義よりちかいのちうけたまわり、もんきゃくさだけんらせ、ろうしたがえおもんみなかくびけてながはちすんくぎけた。頼朝よりともけいけん曾孫そうそんひろめいじ、どきひろけんけいからたい衡のくびり、おもんみなか子孫しそんななふとこうつなくびけさせておなながさのくぎけている。
  8. ^ 北爪きたづめしんおっとは7がつ20日はつかこう白河しらかわ法皇ほうおう実姉じっしである上西かみにしもんいん死去しきょしており、19にちには朝廷ちょうていいんはその対応たいおうわれて機能きのうしていなかったとかんがえられ、実際じっさい発給はっきゅうはこのよりも後日ごじつで、頼朝よりとも出発しゅっぱつわせるかたちのち日付ひづけあらためたとしている(北爪きたづめしんおっと中世ちゅうせい初期しょき政治せいじ研究けんきゅう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1998ねんISBN 978-4-642-02764-9)。
  9. ^ しゅん衡にかんしては『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』に「しゅう舎弟しゃてい」としるされており、もとしゅう衡のおとうとというせつ、あるいはもと衡のおとうと清綱きよつなしゅう衡の従兄弟いとこというせつがある。ゆえしゅん衡がもと衡のであった場合ばあいは、しゅん衡が清綱きよつな養子ようしになったと解釈かいしゃくでき、しゅん衡と衡は従兄弟いとこかつ義兄弟ぎきょうだいとなり、2人ふたり子供こどもたちの続柄つづきがらにも変化へんかしょうじる。
  10. ^ かつて北陸ほくりく最大さいだい勢力せいりょくほこったたいらかたしろちょうしげるうけたまわ4ねん1180ねん)の金砂きんしゃじょうたたか頼朝よりともぐんやぶれた佐竹さたけ秀義ひでよし源義経みなもとのよしつね逃亡とうぼう見逃みのがしたと鎌倉かまくらされ梶原かじはら景時かげときあづけられていた摂津せっつ渡辺わたなべとうみなもとばん(みなもとのつがう)など。
  11. ^ 川合かわいやすし源平げんぺい合戦かっせん虚像きょぞうぐ』(講談社こうだんしゃ 1996ねん
  12. ^ 義経よしつねたい衡によってたれ、その首級しゅきゅう鎌倉かまくらとどけられることになったさい使者ししゃを、『吾妻あづまきょう』では「新田にった冠者かんじゃ高平たかひら」とつたえているが、この人物じんぶつこう衡のことであった可能かのうせいたかい。「新田にった冠者かんじゃ」は文治ぶんじねん奥州おうしゅう合戦かっせん捕虜ほりょとなった樋爪ひづめ五郎ごろう衡のけい衡にかんされている名称めいしょうであるので、使者ししゃけい衡だった可能かのうせいもあるが、義経よしつね首級しゅきゅうとどけるという重要じゅうよう任務にんむ遂行すいこうを、たい衡がみずからのおとうとたくしたとかんがえるのはそう不自然ふしぜんなことではないとおもわれる。また、奥州おうしゅう合戦かっせんのち大河おおかわ兼任けんにんらんこした大河おおかわ兼任けんにん兄弟きょうだい新田にった三郎さぶろう入道にゅうどうとする研究けんきゅうもある。

参考さんこう文献ぶんけん

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