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佐藤忠信 - Wikipedia

佐藤さとう忠信ただのぶ

平安へいあん時代じだい末期まっき武将ぶしょう源義経みなもとのよしつね家臣かしん義経よしつね四天王してんのう一人ひとりしたがえろくひだり兵衛ひょうえじょう

佐藤さとう 忠信ただのぶ(さとう ただのぶ)は、平安へいあん時代じだい末期まっき武将ぶしょうで、源義経みなもとのよしつね重臣じゅうしん。『源平げんぺい盛衰せいすい』における義経よしつね四天王してんのう1人ひとり佐藤さとうつぎしんおとうとちち奥州おうしゅう藤原ふじわらつかえた佐藤さとうはじめもしくは藤原ふじわらただしつぎ

 
佐藤さとう 忠信ただのぶ
佐藤さとう忠信ただのぶ菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ』)
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき
生誕せいたん 仁平にだいら3ねん1153ねん)?[1]/おう元年がんねん1161ねん)?[2]
死没しぼつ 文治ぶんじ2ねん9月22にち1186ねん11月4にち
別名べつめい 四郎しろう仮名かめい)、四郎しろう兵衛ひょうえじょう
墓所はかしょ 京都きょうと東山ひがしやまうままち佐藤さとうつぎしん忠信ちゅうしんはか
福島ふくしまけん福島ふくしま飯坂町平野いいざかまちひらの医王寺いおうじ
官位かんい したがえろくしたひだり兵衛ひょうえじょう
主君しゅくん 藤原秀衡ふじわらのひでひら源義経みなもとのよしつね
氏族しぞく 信夫しのぶ佐藤さとう
父母ちちはは ちち佐藤さとうはじめまたは藤原ふじわらただしつぎ
ははおつかず御前ごぜん藤原ふじわらきよしつなむすめ
兄弟きょうだい ぜんしんきよしつぎしん忠信ちゅうしんふじこうなみこうなみ
つま 初音はつね相馬そうま小高おだか城主じょうしゅ行方ゆくえろうむすめ[3]もしくはかえで[4]
佐藤さとう四郎しろう義忠よしただけいただし?、信隆のぶたかとも。馬籠まごめ佐藤さとう置賜おきたま佐藤さとう)?
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佐藤さとう忠信ただのぶ歌川うたがわ国芳くによし

生涯しょうがい

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うけたまわ4ねん(1180ねん)、奥州おうしゅうにいた義経よしつね挙兵きょへいしたみなもと頼朝よりともじんおもむさい藤原秀衡ふじわらのひでひらいのちによりあにつぎしんとも義経よしつね随行ずいこう義経よしつね郎党ろうとうとして平家ひらか追討ついとうぐんくわわった。あにつぎしん屋島やしまたたか討死うちじにしている。

もとこよみ2ねん(1185ねん)4がつ15にち壇ノ浦だんのうらたたか義経よしつね許可きょかずに官職かんしょく頼朝よりともいかりをったさい忠信ちゅうしんとも兵衛ひょうえじょう任官にんかんしており、頼朝よりともから「しゅう衡の郎党ろうとうまもるにんぜられるなど過去かこれいい。ほどったらよかろう。そのになっているのはねこ(もしくはむじなたぬき?)にもちる。」とののしられている。

文治ぶんじ元年がんねん(1185ねん)10がつ17にち義経よしつね頼朝よりとも対立たいりつし、京都きょうと義経よしつね屋敷やしき頼朝よりともからの刺客しかくである土佐とさぼう昌俊まさとしけられ、義経よしつね屋敷やしきのこったわずかな郎党ろうとうなか忠信ちゅうしんともない、みずかもんして応戦おうせんしている。

文治ぶんじ元年がんねん(1185ねん)11月3にちちる義経よしつね同行どうこうするが、九州きゅうしゅうかうふね難破なんぱいちぎょう離散りさん忠信ちゅうしん宇治うじあたりで義経よしつねわかれ、潜伏せんぷくする。文治ぶんじ2ねん(1186ねん)9がつ22にち人妻ひとづまであるかつての恋人こいびと手紙てがみおくったことから、そのおっとによって鎌倉かまくらから派遣はけんされていた御家人ごけにん糟屋かすやゆう居所きょしょ密告みっこくされ、潜伏せんぷくしていた中御門なかみかど東洞とうどういん襲撃しゅうげきされる。精兵せいびょうであった忠信ちゅうしん奮戦ふんせんするも、多勢たぜい無勢ぶぜい郎党ろうとう2にんとも自害じがいしててた。(『吾妻あづまきょう』より)

源平げんぺい盛衰せいすい』によると享年きょうねんは26(佐藤さとう菩提寺ぼだいじである医王寺いおうじ忠信ちゅうしん石塔せきとうには享年きょうねん34とある)。

とされる義忠よしただけいただし?)は馬籠まごめ佐藤さとうとなり、あんただし置賜おきたまぐん花沢はなざわ城主じょうしゅ)、しんじ忠清ただきよ出羽守でわのかみ)のちちとなったとされ、あんただし置賜おきたま佐藤さとうという。あんただし家系かけい以下いかのようにつづいたという。あんただし子孫しそん1人ひとりである重成しげなり伊達だて稙宗つかえ、そのまご重元しげもと伊達だてまさしむねつかえたという。

あんただし-安信やすのぶ-常信つねのぶ-正信まさのぶ-重信しげのぶ-長信ながのぶ尾張おわりもりぞくさわじょう)-行信ゆきのぶ-隆信たかのぶ-定重さだしげ-重行しげゆき-重成しげなり伊勢いせまもる)-じゅう紀伊きいもり)-重元しげもと仙台せんだいはん家臣かしん

また、あんただし兄弟きょうだいであるしん家系かけい以下いかのようにつづいたという。

しん-信清のぶきよ兵庫ひょうごかい)-信明のぶあき和泉いずみまもる)-信辰のぶたつ-しんつぎ-信政のぶまさ-しんじもと-信忠のぶただ-信秀のぶひで-しんじとお-しんじじょう-しんきょう-しんもと-しんけい-しんじ-信光のぶみつ仙台せんだいはん家臣かしん

義忠よしただは、「大鳥おおとりじょう佐藤さとう一族いちぞく代表だいひょうして」文治ぶんじ6ねん1190ねん正月しょうがつ大河おおかわ次郎じろう叛乱はんらん軍功ぐんこうをたて、みなもと頼朝よりともから5せんかんあまりさいたまわり、頼朝よりともまえをはばかって義忠よしただ信隆のぶたかあらため、子孫しそんしげる衍したとされる。信隆のぶたかには系譜けいふをみると6、7にんがいたことになっている。そして、そのうちの四郎しろうあんただししたがえ出羽守でわのかみじょせられ、置賜おきたまぐん豊田とよだ邑にじゅうし、どうぐん花沢はなざわ城主じょうしゅとなって、さい5せんまちりょうしたといえしるされている。

以後いご長信ながのぶいたるまで花沢はなざわじょうじゅうした。長信ながのぶちち重信しげのぶは、こよみおう3ねん1341ねん)に南朝なんちょうほうたたかい、将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじから本領ほんりょう安堵あんど御教書みぎょうしょたまわったという。やがて、伊達だて勢力せいりょくりくちゅうおよぶようになり、伊達だてはじめとおのとき大軍たいぐんもよおして出羽いずはこく置賜おきたまぐん長井ながいそうめ、長井ながい花沢はなざわ城主じょうしゅ佐藤さとう長信ながのぶ連合れんごうぐんたたかい、長信ながのぶ長井ながいとの連合れんごうぐん大敗たいはいきっし、長信ながのぶとそのいちとうとお岩代いわしろこくまでのがれ、岩城いわきぐうした。それより重行しげきまで4だい岩城いわきのもとにあった。

重行しげき伊勢いせ守重もりしげなりは、岩城いわき重隆しげたか老臣ろうしんであったが、岩城いわきひめ伊達だてはれはじめとつぐとき、その補佐ほさやくとして米沢よねざわおもむき、伊達だて要請ようせいによりその臣下しんかぞくして、父祖ふそ墳墓ふんぼであるはねしゅう置賜おきたまぐんした長井ながいそう荻野おぎの中山ちゅうざん2邑のさい1200せきたまわった。これより、重成しげなりとその嫡子ちゃくし紀伊きい守重もりしげ中山なかやまじょう居住きょじゅうして、つい岩城いわきにはかえらなかった。

もとかめ元年がんねん1570ねん)4がつはねしゅう小松こまつ合戦かっせんにおいて紀伊きいもり討死うちじにした。そのたたかいは私闘しとうとされて領地りょうち没収ぼっしゅうされ、紀伊きいもり重元しげもとちちとの縁座えんざによって中山なかやましろ米沢よねざわ城下じょうか閉門へいもんとなった。そのゆるされてふたたされ、天正てんしょう19ねん1591ねん)、伊達だてまさしむね仙台せんだいうつりじょうのときしたがって、さいりょう300せき名取なとりぐんつり邑忍ケおか居住きょじゅうした。

関連かんれん作品さくひん

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  • 義経よしつね』-室町むろまち時代ときよ初期しょきかれた『義経よしつね』での忠信ちゅうしんは、義経よしつねおとりとなって吉野よしのから一人ひとりもどって奮戦ふんせんし、壮絶そうぜつ自害じがいをする主要しゅよう人物じんぶつ一人ひとりとなっている。
  • 歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり義経よしつね千本せんぼんさくら』-佐藤さとう忠信ただのぶと、佐藤さとう忠信ただのぶけた「きつね忠信ちゅうしん」こと「みなもと九郎くろうきつね」が登場とうじょうする。
  • ままししん忠信ちゅうしん兄弟きょうだいつまたちが、息子むすこ2にんうしななげかなしむ老母ろうぼおつかず御前ごぜん)をなぐさめんとそれぞれのおっと甲冑かっちゅうにまとい、その雄姿ゆうしよそおってせたという逸話いつわがあり、婦女子ふじょし教育きょういく教材きょうざいとして昭和しょうわ初期しょきまでの国定こくてい教科書きょうかしょ掲載けいさいされた。
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 佐藤さとう菩提寺ぼだいじである医王寺いおうじ忠信ちゅうしん石塔せきとうには享年きょうねん34とある。
  2. ^ 源平げんぺい盛衰せいすい』には享年きょうねん26としるされている。
  3. ^ 宮城みやぎけん白石しらいし斉川さいかわ田村たむら神社じんじゃしゃでんより。
  4. ^ 飯坂いいざかでの伝承でんしょうより。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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