佐竹さたけ 貞義さだよし(さたけ さだよし)は、鎌倉かまくら時代ときよ後期こうきから南北なんぼく朝あさ時代じだいにかけての武将ぶしょう。佐竹さたけ氏しの第だい8代だい当主とうしゅ。
北条ほうじょう氏し得とく宗家そうけ当主とうしゅ・北条ほうじょう貞時さだときより偏へん諱いみなを受うけて[1]貞義さだよしと名乗なのる(具体ぐたい的てきな元服げんぷくの年としは不明ふめい)。
1303年ねん、多賀たが郡ぐんに興きょう禅ぜん寺てらを建立こんりゅうする。
鎌倉かまくら時代じだい末期まっきにあたる1331年ねん(元弘もとひろ元年がんねん、元もと徳とく3年ねん)に、源みなもと頼朝よりともによる守護しゅご職しょく創設そうせつ以来いらい、八田はった族ぞくに独占どくせんされてきた常陸ひたち国こく守護しゅご職しょくに補任ほにんされた[2]。
鎌倉かまくら幕府ばくふの討幕とうばく運動うんどうが始はじまると、同年どうねん9月がつに幕府ばくふ軍ぐんの一員いちいんとして笠置山かさぎやま攻ぜめに参加さんかし[3]、武功ぶこうを挙あげた。しかし、足利あしかが高たかし氏しの調しらべ略りゃくを受うけて討幕とうばく軍ぐんに寝返ねがえる。建たて武たけし2年ねん(1335年ねん)11月には、中ちゅう先代せんだいの乱らんなどにおける足利あしかが党とうとしての軍ぐん忠ちゅうによって、足利尊氏あしかがたかうじからもその功績こうせきにより常陸ひたち守護しゅごを認みとめられた[2]。それ以来いらい、佐竹さたけ氏しの世襲せしゅうとなる[2]。
同年どうねん、尊氏たかうじ追討ついとうの勅旨ちょくしを受うけた義良親王のりながしんのうと陸奥むつ守まもる北畠きたばたけ顕家あきいえが軍勢ぐんぜいを連つれて勿来なこその関せきを南下なんかするとの情報じょうほうを得えた足利あしかが氏しから、貞義さだよしをはじめとする与党よとうらとともに行軍こうぐん阻止そしの指令しれいを受うけた[2]。
1352年ねん9月がつ10日とおか、66歳さいで死去しきょし、後ごを嫡男ちゃくなんの義ぎ篤あつしが継ついだ。