小倉おぐら 謙けん(おぐら けん、1911年ねん4月がつ21日にち - 1977年ねん7月がつ23日にち)は、日本にっぽんの内務ないむ・警察けいさつ官僚かんりょう。第だい64代だい警視総監けいしそうかん。
病院びょういん長ちょう・小倉おぐら金作きんさくの長男ちょうなんとして名古屋なごや市しで生うまれる。台湾たいわん新しん竹たけ州立しゅうりつ新しん竹たけ中学校ちゅうがっこう、愛知あいち一いち中なか、第一高等学校だいちこうとうがっこうを経へて、1935年ねん3月、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶを卒業そつぎょう。1934年ねん10月、高等こうとう試験しけん行政ぎょうせい科か試験しけんに合格ごうかく。1935年ねん、内務省ないむしょうに入はいり内務ないむ属ぞくとして警保局きょく保安ほあん課かに配属はいぞく。
1937年ねん7月がつ、地方ちほう事務じむ官かんとして大分おおいた県けんに赴任ふにん。以後いご、大分おおいた県けん地方ちほう課長かちょう、鳥取とっとり県けん警察けいさつ部ぶ特別とくべつ高等こうとう課長かちょう、内務ないむ事務じむ官かん、内務ないむ大臣だいじん秘書官ひしょかんなどを歴任れきにん。
戦後せんご、1945年ねん10月、終戦しゅうせん連絡れんらく中央ちゅうおう事務じむ局きょくの終戦しゅうせん連絡れんらく官かん(政治せいじ部ぶ治安ちあん課長かちょう)に就任しゅうにん。調査局ちょうさきょく第だい三さん課長かちょう、兼けん調査ちょうさ局きょく第だい四よん課長かちょうを務つとめ、1947年ねん12月に廃はい官かんとなる。1948年ねん1月がつ、総理そうり庁ちょう内うち事こと局きょく第だい二に局きょく調査ちょうさ課長かちょうとなり、さらに内うち事こと局きょく第だい一いち局きょく刑事けいじ部ぶ犯罪はんざい統計とうけい課長かちょうを務つとめ、1948年ねん3月がつに廃はい官かん。同年どうねん同月どうげつ、国家こっか地方ちほう警察けいさつ本部ほんぶに転てんじ、警視けいし・刑事けいじ部ぶ捜査そうさ課長かちょうに就任しゅうにん。以後いご、国家こっか地方ちほう警察けいさつ愛知あいち県けん警察けいさつ長ちょう、愛知あいち県けん国家こっか地方ちほう警察けいさつ隊長たいちょう、愛知あいち県けん警察けいさつ本部ほんぶ長ちょう、警視庁けいしちょう警務けいむ部長ぶちょうを歴任れきにんし、1958年ねん9月、警視総監けいしそうかんに就任しゅうにん。浅沼あさぬま稲次郎いねじろう暗殺あんさつ事件じけん、嶋中しまなか事件じけんなどの責任せきにんを取とり、1961年ねん2月がつに辞職じしょくした。
その後ご、海外かいがい技術ぎじゅつ協力きょうりょく事業じぎょう団だん監事かんじ、農地のうち開発かいはつ機械きかい公団こうだん理事りじ長ちょうなどを務つとめた。