橋はし井い 真しん(はしい まこと、1902年ねん3月18日にち - 1977年ねん11月11日にち)は、日本にっぽんの商工しょうこう官僚かんりょう。
海軍かいぐん中将ちゅうじょうであった川島かわしま令れい次郎じろうの三男さんなんとして生うまれる。
東京とうきょう府立ふりつ一いち中なか、一いち高だかを経へて、昭和しょうわ2年ねん3月がつ、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ学科がっか卒そつ。4月に商工しょうこう省しょうに勤務きんむ、11月高等こうとう試験しけん行政ぎょうせい科かに合格ごうかくした。
昭和しょうわ10年ねん5月がつ、内閣ないかく調査ちょうさ局きょく調査官ちょうさかんとなり、以後いご、調査局ちょうさきょく→企画庁きかくちょう→企画きかく院いんと、企画きかく院いんのその改変かいへん・拡大かくだい時じに植村うえむら甲かぶと午うま郎ろう、黒田くろだ鴻ひろし伍ごのもとで勤務きんむ、いわば「革新かくしん官僚かんりょう」、あるいは「経済けいざい新しん体制たいせい」組ぐみの一人ひとりである。昭和しょうわ12年ねん12月には、商工しょうこう省しょうに戻もどり、機械きかい局きょく一般いっぱん機械きかい課長かちょう・総務そうむ課長かちょうなどを経へて、昭和しょうわ16年ねん1月がつには総務そうむ局きょくに移動いどう、5月、中華民国ちゅうかみんこくの経済けいざい顧問こもん就任しゅうにん。以後いご、軍需ぐんじゅ省しょう秘書ひしょ課長かちょう兼けん内閣ないかく総理そうり大臣だいじん秘書官ひしょかん、機械きかい局長きょくちょう。
終戦しゅうせん後ごは、商工しょうこう省しょう参事官さんじかん(経済けいざい連絡れんらく部長ぶちょう)、内閣ないかく官房かんぼう内閣ないかく審議しんぎ室しつ、経済けいざい安定あんてい本部ほんぶ第だい1本ほん部長ぶちょうを経へて退官たいかん。東京とうきょう計器けいき製作所せいさくしょ会長かいちょう・社長しゃちょう、日本銀行にっぽんぎんこう政策せいさく委員いいん会かい委員いいん(昭和しょうわ49 - 52年ねん)を歴任れきにん。昭和しょうわ28年ねんに接収せっしゅう解除かいじょ貴金属ききんぞく及およびダイヤモンド関係かんけい事件じけんに関かんし衆議院しゅうぎいん行政ぎょうせい監察かんさつ特別とくべつ委員いいん会かいに証人しょうにん喚問かんもんされた[1]。
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