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福武枯木 - Wikipedia

福武ふくたけ枯木かれき

日本にっぽん大正たいしょうから昭和しょうわ活動かつどうした俳人はいじん

福武ふくたけ 枯木かれき(ふくたけ こぼく、1886ねん8がつ10日とおか - 1969ねん7がつ7にち[1])は、日本にっぽん大正たいしょうから昭和しょうわ活動かつどうした俳人はいじん作詞さくしとしては、本名ほんみょう福武ふくたけ 周夫ちかお(ふくたけ ちかお)名義めいぎ使用しようしている[1]岡山おかやまけん出身しゅっしん

福武ふくたけふくたけ 枯木かれきこぼく
誕生たんじょう 福武ふくたけ 周夫ちかお
(1886-08-10) 1886ねん8がつ10日とおか
日本の旗 日本にっぽん 岡山おかやまけん小田おだぐん三谷みたにむらげん:矢掛やかげまち
死没しぼつ (1969-07-07) 1969ねん7がつ7にち(82さいぼつ
職業しょくぎょう 俳人はいじん作詞さくし
言語げんご 日本語にほんご
最終さいしゅう学歴がくれき 神宮じんぐうすめらぎがくかん 卒業そつぎょう
ジャンル 俳句はいく, 作詞さくし
代表だいひょうさく全国ぜんこく中等ちゅうとう学校がっこう優勝ゆうしょう野球やきゅう大会たいかいうた」(作詞さくし
ウィキポータル 文学ぶんがく
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生涯しょうがい

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1886ねん明治めいじ17ねん)、岡山おかやまけん小田おだぐん三谷みたにむら現在げんざい矢掛やかげまち横谷よこたに福頼ふくより神社じんじゃ社家しゃけ福武ふくたけづくりあずか夫妻ふさい長男ちょうなんとして出生しゅっしょう[2]旧制きゅうせい岡山おかやま中学校ちゅうがっこう神宮じんぐうすめらぎがくかん卒業そつぎょう[2]母校ぼこう岡山おかやま中学校ちゅうがっこう教員きょういん在職ざいしょく笠井かさい栖乙らと丘上おかうえ俳句はいくかい結成けっせいし、旧制きゅうせいだいろく高等こうとう学校がっこう教官きょうかんらが組織そしきしたろくろくかいつうじて志田しだ素琴そきん大須賀おおすが乙字おつじらに師事しじした[2]

1923ねん大正たいしょう12ねん)、兵庫ひょうごけん旧制きゅうせい尼崎あまがさき中学校ちゅうがっこう転任てんにん。この時期じきには本名ほんみょう周夫ちかお名義めいぎにより朝日新聞社あさひしんぶんしゃ懸賞けんしょう公募こうぼした「全国ぜんこく中等ちゅうとう学校がっこう優勝ゆうしょう野球やきゅう大会たいかいうた」や[3]初代しょだいの「尼崎あまがさきうた」で入選にゅうせんたしている。

1927ねん昭和しょうわ2ねん)にちちづくり急逝きゅうせいし、いえぐため矢掛やかげ帰郷ききょうする[2]以後いごうそさい』や『くさじょう』『ひがしわざわい』など岡山おかやま拠点きょてんげられた俳句はいく同人どうじん各誌かくし創刊そうかんたずさわり、その作風さくふうは『岡山おかやま俳句はいく』の人物じんぶつ紹介しょうかいにおいて「温雅おんが清高きよたか貴公子きこうしおもわせるものがある」とひょうされている[1]

1969ねん昭和しょうわ44ねん)7がつ7にち逝去せいきょ享年きょうねん84(まん82さいぼつ)。没後ぼつご遺稿いこうしゅう枯木かれきおう句集くしゅう』が刊行かんこうされた[2]墓所はかしょ矢掛やかげまち横谷よこたに先祖せんぞ代々だいだいの塋域にり「枯木かれきおきなはか」のめいられている[1]

著作ちょさく

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  • 枯木かれきおう句集くしゅう日本にっぽん文教ぶんきょう出版しゅっぱん1970ねんNCID BB04468264

いずれも本名ほんみょう福武ふくたけ周夫ちかお名義めいぎ

参考さんこう文献ぶんけん

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 塩尻しおじり島津しまつ(1970), p134
  2. ^ a b c d e 岡山おかやまけん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん編纂へんさん委員いいんかい(1994), p860
  3. ^ “(白球はっきゅう世紀せいき:26)ラジオ登場とうじょう実況じっきょうまぼろし高校こうこう野球やきゅう. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). (2018ねん2がつ14にち). https://www.asahi.com/articles/DA3S13359479.html 2022ねん3がつ31にち閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく

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