大須賀おおすが 乙字おつじ(おおすが おつじ、1881年ねん7月がつ29日にち - 1920年ねん1月がつ20日はつか)は、日本にっぽんの俳人はいじん・俳論はいろん家か。福島ふくしま県けん相馬そうま郡ぐん中村なかむら町まち(現在げんざいの相馬そうま市し)生うまれ。本名ほんみょう・績(いさお)。
祖父そふは儒学じゅがく者しゃの神林かんばやし復ふく所しょで父ちちは漢学かんがく者しゃで漢詩かんし人ひとの大須賀おおすが筠軒。福島ふくしま尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう(現在げんざいの福島ふくしま県立けんりつ安積あさか高等こうとう学校がっこう)、宮城みやぎ県けん第だい一いち中学校ちゅうがっこう(現在げんざいの宮城みやぎ県けん仙台第一高等学校せんだいだいいちこうとうがっこう)から第だい二に高等こうとう学校がっこう(現在げんざいの東北大学とうほくだいがく)を経へて東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ国文こくぶん科か卒業そつぎょう。卒業そつぎょう後ごは教員きょういんとして中学ちゅうがく、高等こうとう女学校じょがっこうで教おしえたのち、若わかくして東京とうきょう音楽おんがく学校がっこう(現在げんざいの東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく)の教授きょうじゅに就任しゅうにんした。東大とうだい卒そつで学者がくしゃ一族いちぞくの家系かけいという毛並けなみの良よさと文才ぶんさいを評価ひょうかされ、早はやくから新しん傾向けいこう俳句はいくの旗手きしゅとして嘱望しょくぼうされた。『海うみ紅べに』の河東かわとう碧梧桐へきごとうに師事しじ、同おなじ旧制きゅうせい二に高だか出身しゅっしん(ただし碧梧桐へきごとうは中退ちゅうたい)で才能さいのうも評価ひょうかされた乙字おつじに対たいし碧梧桐へきごとうの期待きたいは高たかかったが、海うみ紅べに堂どう事件じけんに端はしを発はっする海うみ紅べに同人どうじん同士どうしの内部ないぶ対立たいりつにより1915年ねん5月がつに離脱りだつ[1]。のち臼田うすだ亞浪あろうと俳誌はいし『石楠せきなん』を発刊はっかん、俳論はいろん家かとしても活動かつどうしたが後のちに亞浪あろうとも決別けつべつ。1920年ねん、インフルエンザ(スペインかぜ)と肋膜ろくまく肺炎はいえんのため東京とうきょう市し小石川こいしかわ区く高台たかだい老松おいまつ町まち(現げん・東京とうきょう都と文京ぶんきょう区く目白台めじろだい)の自宅じたくにて40歳さいで死去しきょ[2][3]。戒名かいみょうは諦観ていかん院いん顕あらわ文ぶん清きよし績居士し。墓所はかしょは雑司ヶ谷ぞうしがや霊園れいえん。門下もんかに伊東いとう月草げっそう、金尾梅かなおうめの門かどらがいる。
乙字おつじ俳論はいろんの初はつ登場とうじょうは1906年ねん頃ごろで、俳論はいろん家かとして名なを高たかめたのは1908年ねん、東大とうだい在学ざいがく中ちゅうに発表はっぴょうした「俳句はいく界かいの新しん傾向けいこう」である。40歳さいで夭折ようせつしたため、俳論はいろん家かとしての活動かつどう期間きかんは10年ねん余あまりに過すぎないが、碧梧桐へきごとうの「無む中心ちゅうしん論ろん」を始はじめとする新しん傾向けいこう俳句はいくやのちの自由じゆう律りつ俳句はいく、新興しんこう俳句はいくに大おおきな影響えいきょうを与あたえた。
1915年ねん5月がつ12日にち、かねてより意見いけん対立たいりつの激はげしかった乙字おつじと海うみ紅べに同人どうじん、とくに中塚なかつか一碧楼いっぺきろうを始はじめとする若手わかて俳人はいじんとが海うみ紅べに堂どうの句会くかいで衝突しょうとつした事件じけん。以前いぜんから海うみ紅べに本誌ほんしの選者せんじゃ欄らんを別枠べつわくで要求ようきゅうしていた乙字おつじに対たいして一碧楼いっぺきろうらが拒否きょひ、対立たいりつ激はげしい中なかでの5月がつ12日にちの句会くかいにおいて、出で句くに対たいして辛辣しんらつな論調ろんちょうの乙字おつじに対たいし、20歳さいの青年せいねん、山口やまぐち葉吉ようきちが激昂げっこう、乙字おつじの後頭部こうとうぶを茶碗ちゃわんで殴なぐりつけ、流血りゅうけつさせて病院びょういん送おくりとした。碧梧桐へきごとうが欠席けっせきした中なかでの傷害しょうがい事件じけんであった。この件けんに関かんしては当時とうじ、海うみ紅べにに出入でいりしていた芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ始はじめ多数たすうの作家さっか、俳人はいじんが記録きろくを残のこしている。これを機きに乙字おつじは海うみ紅べにを離脱りだつ、一方いっぽうの葉吉ようきちはのちに海うみ紅べにの編集へんしゅう委員いいんとなっている。
『ホトトギス』1919年ねん12月がつ号ごうに掲載けいさいされた飯田蛇笏いいだだこつの大須賀おおすが乙字おつじに対たいする人物じんぶつ評ひょう。海うみ紅べに堂どう事件じけん以降いこう、高浜たかはま虚子きょしとホトトギス派はに擦すり寄よった乙字おつじを批判ひはんした文章ぶんしょうである。乙字おつじの議論ぎろんに比ひしての俳句はいくの稚拙ちせつな出来栄できばえ、海うみ紅べに堂どう事件じけんをきっかけに、碧梧桐へきごとうの弟子でしになったことはないと言いい出だした不義理ふぎり、学歴がくれきや教師きょうしという立場たちばからの傲慢ごうまんな態度たいど、そして“虚子きょし君くん”と呼よんでいたはずの虚子きょしを、海うみ紅べに堂どう事件じけん以降いこう、“虚子きょし先生せんせい”と呼よびホトトギスに擦すり寄よる手紙てがみを出だしたことなどを挙あげて批判ひはんしている。また海うみ紅べに堂どう事件じけんに関かんしても、「君きみの性癖せいへきが出でて葉吉ようきち君くんの爲ためめに大おおいに鐵拳てっけんを頂戴ちょうだいされた」「決けっして乙字おつじ君くんの方ほうへ同情どうじょうすることは出來できなかつた」「君きみの態度たいどが餘あまりに傲慢ごうまん不遜ふそんであり傍若無人ぼうじゃくぶじんであるからである」と書かいている[4]。
この項目こうもくは、文人ぶんじん(小説しょうせつ家か・詩人しじん・歌人かじん・俳人はいじん・著作ちょさく家か・作詞さくし家か・脚本きゃくほん家か・作家さっか・劇げき作家さっか・放送ほうそう作家さっか・随筆ずいひつ家か/コラムニスト・文芸ぶんげい評論ひょうろん家か)に関連かんれんした書かきかけの項目こうもくです。この項目こうもくを加筆かひつ・訂正ていせいなどしてくださる協力きょうりょく者しゃを求もとめています(P:文学ぶんがく/PJ作家さっか)。