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大須賀乙字 - Wikipedia

大須賀おおすが乙字おつじ

1881-1920, 俳人はいじん俳論はいろん

大須賀おおすが 乙字おつじ(おおすが おつじ、1881ねん7がつ29にち - 1920ねん1がつ20日はつか)は、日本にっぽん俳人はいじん俳論はいろん福島ふくしまけん相馬そうまぐん中村なかむらまち現在げんざい相馬そうままれ。本名ほんみょう・績(いさお)。

人物じんぶつ

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祖父そふ儒学じゅがくしゃ神林かんばやしふくしょちち漢学かんがくしゃ漢詩かんしひと大須賀おおすが筠軒。福島ふくしま尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう現在げんざい福島ふくしま県立けんりつ安積あさか高等こうとう学校がっこう)、宮城みやぎけんだいいち中学校ちゅうがっこう現在げんざい宮城みやぎけん仙台第一高等学校せんだいだいいちこうとうがっこう)からだい高等こうとう学校がっこう現在げんざい東北大学とうほくだいがく)を東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ国文こくぶん卒業そつぎょう卒業そつぎょう教員きょういんとして中学ちゅうがく高等こうとう女学校じょがっこうおしえたのち、わかくして東京とうきょう音楽おんがく学校がっこう現在げんざい東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく)の教授きょうじゅ就任しゅうにんした。東大とうだいそつ学者がくしゃ一族いちぞく家系かけいという毛並けなみのさと文才ぶんさい評価ひょうかされ、はやくからしん傾向けいこう俳句はいく旗手きしゅとして嘱望しょくぼうされた。『うみべに』の河東かわとう碧梧桐へきごとう師事しじおな旧制きゅうせいだか出身しゅっしん(ただし碧梧桐へきごとう中退ちゅうたい)で才能さいのう評価ひょうかされた乙字おつじたい碧梧桐へきごとう期待きたいたかかったが、うみべにどう事件じけんはしはっするうみべに同人どうじん同士どうし内部ないぶ対立たいりつにより1915ねん5がつ離脱りだつ[1]。のち臼田うすだ亞浪あろう俳誌はいし石楠せきなん』を発刊はっかん俳論はいろんとしても活動かつどうしたがのち亞浪あろうとも決別けつべつ。1920ねんインフルエンザスペインかぜ)と肋膜ろくまく肺炎はいえんのため東京とうきょう小石川こいしかわ高台たかだい老松おいまつまちげん東京とうきょう文京ぶんきょう目白台めじろだい)の自宅じたくにて40さい死去しきょ[2][3]戒名かいみょう諦観ていかんいんあらわぶんきよし績居墓所はかしょ雑司ヶ谷ぞうしがや霊園れいえん門下もんか伊東いとう月草げっそう金尾梅かなおうめかどらがいる。

俳論はいろんとして

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乙字おつじ俳論はいろんはつ登場とうじょうは1906ねんごろで、俳論はいろんとしてたかめたのは1908ねん東大とうだい在学ざいがくちゅう発表はっぴょうした「俳句はいくかいしん傾向けいこう」である。40さい夭折ようせつしたため、俳論はいろんとしての活動かつどう期間きかんは10ねんあまりにぎないが、碧梧桐へきごとうの「中心ちゅうしんろん」をはじめとするしん傾向けいこう俳句はいくやのちの自由じゆうりつ俳句はいく新興しんこう俳句はいくおおきな影響えいきょうあたえた。

うみべにどう事件じけん

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1915ねん5がつ12にち、かねてより意見いけん対立たいりつはげしかった乙字おつじうみべに同人どうじん、とくに中塚なかつか一碧楼いっぺきろうはじめとする若手わかて俳人はいじんとがうみべにどう句会くかい衝突しょうとつした事件じけん以前いぜんからうみべに本誌ほんし選者せんじゃらん別枠べつわく要求ようきゅうしていた乙字おつじたいして一碧楼いっぺきろうらが拒否きょひ対立たいりつはげしいなかでの5がつ12にち句会くかいにおいて、たいして辛辣しんらつ論調ろんちょう乙字おつじたいし、20さい青年せいねん山口やまぐち葉吉ようきち激昂げっこう乙字おつじ後頭部こうとうぶ茶碗ちゃわんなぐりつけ、流血りゅうけつさせて病院びょういんおくりとした。碧梧桐へきごとう欠席けっせきしたなかでの傷害しょうがい事件じけんであった。このけんかんしては当時とうじうみべに出入でいりしていた芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけはじ多数たすう作家さっか俳人はいじん記録きろくのこしている。これを乙字おつじうみべに離脱りだつ一方いっぽう葉吉ようきちはのちにうみべに編集へんしゅう委員いいんとなっている。

大須賀おおすが乙字おつじ態度たいどを嗤ふ」

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ホトトギス』1919ねん12がつごう掲載けいさいされた飯田蛇笏いいだだこつ大須賀おおすが乙字おつじたいする人物じんぶつひょううみべにどう事件じけん以降いこう高浜たかはま虚子きょしとホトトギスった乙字おつじ批判ひはんした文章ぶんしょうである。乙字おつじ議論ぎろんしての俳句はいく稚拙ちせつ出来栄できばえ、うみべにどう事件じけんをきっかけに、碧梧桐へきごとう弟子でしになったことはないとした不義理ふぎり学歴がくれき教師きょうしという立場たちばからの傲慢ごうまん態度たいど、そして“虚子きょしくん”とんでいたはずの虚子きょしを、うみべにどう事件じけん以降いこう、“虚子きょし先生せんせい”とびホトトギスに手紙てがみしたことなどをげて批判ひはんしている。またうみべにどう事件じけんかんしても、「きみ性癖せいへき葉吉ようきちくんためめにおおいに鐵拳てっけん頂戴ちょうだいされた」「けっして乙字おつじくんほう同情どうじょうすることは出來できなかつた」「きみ態度たいどあまりに傲慢ごうまん不遜ふそんであり傍若無人ぼうじゃくぶじんであるからである」といている[4]

著書ちょしょ

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  • 故人こじん春夏秋冬しゅんかしゅうとう ふゆ 俳書はいしょどう 1909 (俳諧はいかい叢書そうしょ)
  • 乙字おつじ俳論はいろんしゅう 乙字おつじ遺稿いこう刊行かんこうかい 1921
  • 乙字おつじ書簡しょかんしゅう 太田おおたかきへん かかあおい発行はっこうしょ 1922
  • 自選じせん乙字おつじ俳論はいろんしゅう 紫苑しおんしゃ 1925
  • 乙字おつじ俳句はいくしゅう 岩谷いわたに山梔子くちなしへん 紫苑しおんしゃ 1933
  • 俳句はいく作法さほう ひがしえん発行はっこうしょ 1934 (ひがしえん叢書そうしょ)
  • 大須賀おおすが乙字おつじ俳論はいろんしゅう 村山むらやま古郷こきょうへん 1978.6 (講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 碧梧桐へきごとう句集くしゅう中塚なかつかゆいじん日野ひの百草もぐさ 共編きょうへんうみべにしゃ、2015ねん)170ぺーじ
  2. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)6ぺーじ
  3. ^ 岩井いわいひろし作家さっか臨終りんじゅう墓碑ぼひ事典じてん』(東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1997ねん)59ぺーじ
  4. ^ 飯田蛇笏いいだだこつ大須賀おおすが乙字おつじ態度たいどを嗤ふ」『ホトトギス』1919ねん12がつごう、28-38ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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