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新興俳句 - Wikipedia

新興しんこう俳句はいく

昭和しょうわ初期しょきはじまったしん俳句はいく運動うんどう

新興しんこう俳句はいく(しんこうはいく)は、あたらしい俳句はいく言葉ことばであり、昭和しょうわ初期しょきさだまった。水原秋桜子みずはらしゅうおうし山口やまぐち誓子せいこどう時期じき推進すいしんしたしん俳句はいく運動うんどうに、金児杜鵑花かねことけんかがその言葉ことばかんしたのが「新興しんこう俳句はいく運動うんどう」である。

新興しんこう俳句はいく」という言葉ことばは、ルビ俳句はいく自由じゆうりつ俳句はいくいたしん傾向けいこう俳句はいく革新かくしん運動うんどう推進すいしんしていた河東かわとう碧梧桐へきごとうが、1929(昭和しょうわ4)ねん刊行かんこうした著書ちょしょ新興しんこう俳句はいくへのみち』(春秋しゅんじゅうしゃ)の題名だいめいですでに使つかわれている。かれしん傾向けいこう俳句はいくからさらなる発展はってんがあり、みじかかうなかでの自身じしんなどの「あたらしい俳句はいく」をおおきな概念がいねんであった。ただし、本人ほんにんは『短詩たんしへのみち』という題名だいめいにしたかったらしく、「新興しんこう俳句はいく」になったのは出版しゅっぱんしゃ意向いこうによるものである、と同書どうしょしょうじょいている。なお、はやしかつらが「現代げんだい俳句はいく」2023ねん10がつごういているが、松原地蔵尊まつばらじぞうそん主宰しゅさい境地きょうち」1928(昭和しょうわ3)ねん11がつごうで、「わか人達ひとたちによつて新興しんこう俳人はいじん連盟れんめいこされんことを」と、「新興しんこう」という言葉ことば使つかっている。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)、水原秋桜子みずはらしゅうおうし主宰しゅさい馬酔木あしび」に「自然しぜんしん文芸ぶんげいじょうしん」を発表はっぴょうし、高浜たかはま虚子きょし主張しゅちょうする花鳥かちょう諷詠ふうえい俳句はいくが些末なくさ俳句はいくしているとして、自然しぜんしんという素材そざいおのれのうちにかしみ、鍛錬たんれん加工かこうした文芸ぶんげいじょうしんもとめようとした。「馬酔木あしび独立どくりつきょであったが、これがいわゆる伝統でんとう俳句はいくからの脱却だっきゃく端緒たんしょとなった。あき桜子さくらこ主張しゅちょうわか俳人はいじん共感きょうかんて「あまがわ」「じょう」「評論ひょうろん」などの俳誌はいし活発かっぱつ俳句はいく近代きんだいすすめはじめた。近代きんだいてき都会とかいてき抒情じょじょう確立かくりつ運動うんどうでもあった。「馬酔木あしび」には、しん素材そざい拡充かくじゅう構成こうせいてき手法しゅほうによって注目ちゅうもくされていた山口やまぐち誓子せいこ加入かにゅう叙情じょじょうせいゆたかなさくをする秋桜あきざくらとともに新風しんぷう先頭せんとうにたった。

このしん運動うんどう連作れんさく俳句はいく積極せっきょくてきみ、河東かわとう碧梧桐へきごとう私淑ししゅくした金児杜鵑花かねことけんか(「俳句はいく月刊げっかん主幹しゅかん)によって、「新興しんこう俳句はいく」の名称めいしょうあたえられたとされるが、「新興しんこう俳句はいく」の言葉ことば成立せいりつは、時期じきてきには、前述ぜんじゅつ碧梧桐へきごとう地蔵じぞうみことほうはやい。なお、連作れんさく俳句はいくちゅうちょん季語きご有無うむ問題もんだいとなり、無季むきちょう容認ようにんまでおこなわれるにおよんで、あき桜子さくらこ誓子せいこ無季むき俳句はいく批判ひはんおこない1936ねんごろよりこの運動うんどうからはなれた。これ以降いこう後期こうきぶ。

新興しんこう俳句はいくは、あき桜子さくらこ誓子せいこ離脱りだつにもかかわらず、はんホトトギスはん伝統でんとうおおきな潮流ちょうりゅうとなった。モダニズムダダイスム反戦はんせんてきニヒリズムなど様々さまざま潮流ちょうりゅうもこれに合流ごうりゅうした。 1935ねん日野ひの草城そうじょうの「旗艦きかん」が創刊そうかんされ、俊秀しゅんしゅうあつめ、「京大きょうだい俳句はいく」「じょう」「評論ひょうろん」、しんかさ」(かさび)、「かね(とけい)」などとともに、さまざまの芸術げいじゅつてき社会しゃかいてきこころみをかさねた。 最初さいしょ総合そうごう俳誌はいしである「俳句はいく研究けんきゅう」(改造かいぞうしゃ)もこの運動うんどう共感きょうかんしめした。 にちちゅう戦争せんそうはじまった時期じきで、想像そうぞうりょくによる戦火せんか想望そうぼう俳句はいくこころみられ、さらに厭戦えんせんもつくられた。ついに1940ねんから1941ねんにかけて、「京大きょうだい俳句はいく」「じょう」などの主要しゅようメンバーが治安ちあん維持いじほう違反いはんとして検挙けんきょされ、この運動うんどう壊滅かいめついたった。新興しんこう俳句はいく運動うんどうは、現代げんだい俳句はいく母胎ぼたいとなる画期的かっきてき俳句はいく革新かくしん運動うんどうであり、おおくの秀作しゅうさくのこした。 代表だいひょうてき俳人はいじんには、先述せんじゅつ水原秋桜子みずはらしゅうおうし山口やまぐち誓子せいこほかに、前期ぜんきでは高屋たかやまどあき石橋いしばし辰之助たつのすけ横山よこやま白虹はくこう篠原しのはら鳳作ほうさくなど。 後期こうきでは、平畑ひらはたせいとう日野ひの草城そうじょう西東三鬼さいとうさんき富沢とみざわ赤黄男あきお渡辺わたなべ白泉はくせん東京とうきょうさん秋元あきもと不死男ふじお)などがいる。 新興しんこう俳句はいくにかかわった俳人はいじんおおくは、戦後せんご日野ひの草城そうじょうの「太陽系たいようけい」のちの「あおげん」、山口やまぐち誓子せいこの「てんおおかみ」などに結集けっしゅうしたが、新興しんこう俳句はいく運動うんどう消滅しょうめつした。

参考さんこう文献ぶんけん

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