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漢学 - Wikipedia

漢学かんがく

日本にっぽんにおける中国ちゅうごく学問がくもん
漢学かんがくしゃから転送てんそう

漢学かんがく(かんがく)とは、ぜん近代きんだいとく江戸えど時代じだい日本にっぽんにおける、中国ちゅうごく伝来でんらい漢籍かんせき中国ちゅうごく思想しそうかん詩文しぶん研究けんきゅう学問がくもん総称そうしょう国学こくがく洋学ようがく蘭学らんがく)にたいしてもちいられる。西洋せいよう由来ゆらい中国ちゅうごくがくささえがく、シノロジー)とはややことなる。

歴史れきしてき経過けいか

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江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだい中期ちゅうきまでにおいては、外国がいこくすぐれた学術がくじゅつ漢籍かんせきかたち中国ちゅうごくからはいってくるのが一般いっぱんてきであったため、外来がいらい学術がくじゅつ研究けんきゅうすべて「漢学かんがく」とかんがえられてきた。ところが、ヨーロッパ書籍しょせきから直接ちょくせつ知識ちしきようとする洋学ようがく蘭学らんがく)が出現しゅつげんするようになると、従来じゅうらい学問がくもん日本にっぽん固有こゆう学術がくじゅつおよ中国ちゅうごく伝来でんらい学術がくじゅつ)はこれと区別くべつする意味いみで「皇漢こうかんがく(こうかんがく)」としょうされるようになる。ところがほんきょ宣長のりながなど国学こくがく神道しんとう研究けんきゅうする人々ひとびと漢学かんがく(からまなび)こそ古来こらい日本にっぽん以来いらい精神せいしんどくしているとこれをはいするうごきがつよまり、「皇漢こうかんがく」という次第しだいすたれて国学こくがく漢学かんがく分離ぶんりされるようになった。

いわゆる音韻おんいんがく

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漢学かんがく重要じゅうよう素養そようとして漢詩かんしとく近体きんたいけることがあった。しかしながら、音韻おんいん体系たいけいまったことなる日本語にほんご話者わしゃにとって、中国ちゅうごく音韻おんいん体系たいけい学習がくしゅうするのは非常ひじょう困難こんなんなものであった(いわゆる、和習わしゅうやまとしゅう)の問題もんだい)。まず、中国ちゅうごくくら発音はつおん体系たいけい単純たんじゅん日本語にほんごでは、もと中国ちゅうごくではことなるおと認識にんしきされる漢字かんじ同音どうおんとなることがおおく、音読おんよではいんむものの、中国ちゅうごくではいんまないということとなるため、音読おんよみでは同音どうおんとなるものの使つかけをまな必要ひつようがあった。当初とうしょは、個々ここ漢字かんじ反切はんせつまる暗記あんきするひとしていたが、のち便法べんぽうとして字音仮名遣じおんかなづか工夫くふうされた。また、近体きんたいにおいて、平仄ひょうそくもっと重要じゅうよう要素ようそであるが、その前提ぜんていである声調せいちょう四声しせい)を、いちいちについておぼえる必要ひつようがあった。

このような学習がくしゅうが、明治めいじ初期しょきまで漢学かんがく重要じゅうよう分野ぶんやであった。

戦前せんぜん

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明治めいじ初期しょき私塾しじゅくでは、二松学舎にしょうがくしゃ國學院こくがくいんなどが数多かずおお存在そんざいした。明治めいじ政府せいふ西洋せいよう各国かっこく学問がくもん摂取せっしゅすすめると、ふる儒学じゅがく系統けいとう学問がくもんおとろえて、わって西洋せいよう学問がくもん研究けんきゅうれた「ささえがく」としてさい構築こうちくされるようになる。ところがささえがく中心ちゅうしんとなった学派がくは京都きょうと帝国ていこく大学だいがくであったことから、これに反発はんぱつする東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく学派がくはや、古来ふるく日本にっぽん文明ぶんめいれた中国ちゅうごく当時とうじ列強れっきょうによるはん植民しょくみん状態じょうたい中国ちゅうごくはなしてかんがえる国粋こくすい主義しゅぎしゃなかには、依然いぜんとして「漢学かんがく」という呼称こしょうもちいるものがあった。1932ねんには、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ高田たかだ眞治しんじが、明治めいじ存在そんざいした漢学かんがく関係かんけいかい[1]復興ふっこうするかたちで「かん学会がっかい」を設立せつりつした[2]

だい世界せかい大戦たいせん、「ささえがく」「漢学かんがく」はどちらも「中国ちゅうごくがく」といいかえられるようになった。ただし「漢学かんがく」は戦後せんごまれもちいられている[3]。なお、近代きんだい以前いぜん漢文かんぶんかれた中国ちゅうごく文学ぶんがくせんもんとして研究けんきゅうする場合ばあいには、「かん文学ぶんがく」という呼称こしょうもちいられている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 斯文しぶんかい母体ぼたいひとつの「東亜とうあ学術がくじゅつ研究けんきゅうかい
  2. ^ 東京大学とうきょうだいがくひゃくねん 部局ぶきょく1東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい 1987 p.518
  3. ^ かん學會がっかい文学部ぶんがくぶ関連かんれん学会がっかい研究けんきゅう活動かつどう国士舘大学こくしかんだいがく 文学部ぶんがくぶ”. 国士舘大学こくしかんだいがく. 2020ねん10がつ30にち閲覧えつらん

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 村山むらやま吉廣よしひろ漢学かんがくしゃはいかにきたか』大修館書店たいしゅうかんしょてん、1999ねんISBN 9784469231588 根本ねもと通明みちあき中島なかじまなでやま中野なかの逍遙しょうよう中村なかむら敬宇けいうかつら湖村こそん小柳こやなぎつかさふとし宮島みやじま大八だいはち簡野道明みちあき評伝ひょうでん
  • 講座こうざ 近代きんだい日本にっぽん漢学かんがくえびすひかりさち出版しゅっぱんぜん8かん、2019ねん-2020ねんだい1かん: ISBN 978-4-86403-341-1

関連かんれん項目こうもく

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