赤木あかぎ 朝治あさじ(あかぎ ともはる、1883年ねん(明治めいじ16年ねん)12月16日にち - 1963年ねん(昭和しょうわ38年ねん)6月28日にち)は、日本にっぽんの内務ないむ官僚かんりょう。岡田おかだ内閣ないかくの内務ないむ次官じかん、県知事けんちじ。
岡山おかやま県けん出身しゅっしん。赤木あかぎ頼よりゆき太郎たろうの二男じなんとして生うまれる。郵便ゆうびん局きょくで勤務きんむし、関西かんさい中学ちゅうがく、第だい六ろく高等こうとう学校がっこうを経へて、1912年ねん7月がつ、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法科ほうか大学だいがく政治せいじ学科がっかを卒業そつぎょう。同年どうねん7月がつ、内務省ないむしょうに入はいり山梨やまなし県けん属ぞくとなる。同年どうねん11月がつ、文官ぶんかん高等こうとう試験しけんに合格ごうかくした。
1914年ねん5月、山梨やまなし県けん理事りじ官かんに就任しゅうにん。以後いご、岐阜ぎふ県けん視学しがく官かん、内務省ないむしょう警保局きょく事務じむ官かん、内務ないむ書記官しょきかん・警保局きょく図書としょ課長かちょう、同局どうきょく保安ほあん課長かちょう、大臣だいじん官房かんぼう文書ぶんしょ課長かちょう、内務省ないむしょう参事官さんじかん、内務ないむ監察かんさつ官かん、内務ないむ書記官しょきかん・大臣だいじん官房かんぼう会計かいけい課長かちょう兼けん地理ちり課長かちょう、兼けん内務ないむ大臣だいじん秘書官ひしょかん、神社じんじゃ局きょく長ちょう、復興ふっこう局きょく経理けいり部長ぶちょう、兼けん同どう整地せいち部長ぶちょうなどを歴任れきにん。1929年ねん9月、衛生局えいせいきょく長ちょうに就任しゅうにんし、1931年ねん12月まで在任ざいにん。
1932年ねん6月がつ、福島ふくしま県けん知事ちじに就任しゅうにん。翌年よくねん7月がつには宮城みやぎ県けん知事ちじに転てんじた。仙台せんだい市し防空ぼうくう救護きゅうご団だんを組織そしき。1934年ねん7月がつ、内務省ないむしょう社会しゃかい局きょく長官ちょうかんに就任しゅうにんし、1935年ねん6月がつに内務ないむ次官じかんとなる。1936年ねん3月がつに内務ないむ次官じかんを辞任じにんし退官たいかん。その後ご、大だい日本にっぽん壮年そうねん団だん連盟れんめい常任じょうにん理事りじを務つとめた。
戦後せんごは、日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ副ふく社長しゃちょう、日本にっぽん社会しゃかい事業じぎょう協会きょうかい副ふく会長かいちょう、日本にっぽん医療いりょう団だん清算せいさん人じん、社会しゃかい事業じぎょう会館かいかん理事りじ長ちょう、済生会さいせいかい会長かいちょう、著作ちょさく権けん審議しんぎ会長かいちょうなどを歴任れきにんした。