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馮勝 - Wikipedia

しょう(ふう しょう、? - ひろしたけ28ねん2がつ3にち1395ねん2がつ22にち))は、明朝みょうちょう開国かいこく功臣こうしん軍人ぐんじんあかりふとしとなったしゅもとあきら家臣かしんあに馮国よう(ふう こくよう、1323ねん - 1358ねん)。

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馮勝はじょうとお現在げんざい安徽あんきしょう滁州ていどおけん出身しゅっしんもと国勝くにかつといい、またのそうことという。まれたときには産室さんしつに「くろ」がち、数日すうじつくならなかったという。成長せいちょういさみ智略ちりゃくおお才能さいのう発揮はっきし、あにの馮国ようとも読書どくしょきであったため兵法ひょうほうつうじていた。もとまつ動乱どうらんには武装ぶそうだんのようなものを組織そしきしていた。

しゅもとあきら部下ぶかとなる

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しゅもとあきらぐんみょうさんというところをとおったさい、馮国よう・馮勝兄弟きょうだいとも配下はいかとなった。しゅもとあきらが馮国ようためして「天下てんかるにはどうすればよいとおもうか?」とたずねたところ、「かねりょうりゅうねむとらまう帝王ていおうでございます。まずここをさえねばなりません。そのあと四方しほうぐんし、仁義じんぎとなえ、人心じんしん掌握しょうあくし、まずしいものほどこし、天下てんからんおさめるのがよろしいかとおもいます」(かねりょうしゅうけい別名べつめい現在げんざい南京なんきん)とこたえたため[1]しゅもとあきらおおいによろこび、側近そっきんくわえたという。馮国ようはその期待きたいこたえて滁州(安徽あんきしょう滁州攻略こうりゃくおおきな功績こうせきげた。

しゅうけい攻略こうりゃく

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いたりただし15ねん1355ねん)、しゅもとあきらぐん長江ながえ南岸なんがんわたり、元朝がんちょう支配しはいする太平たいへい安徽あんきしょううま鞍山あんざんとうぬりけん)を占領せんりょうした。そのさい、馮国ようてんおやへい親衛隊しんえいたいちょう)に任命にんめいした。

このころもとぐん武将ぶしょうちん埜先しゅもとあきら投降とうこうしていたが、馮国ようかれ裏切うらぎることを見抜みぬいており、たして謀反むほんこしたためこれをった。ひね埜先ののちひねちょうさきいで反抗はんこうつづけたため、馮国よう一軍いちぐんひきいててき陣地じんちやぶり、ひねちょうさきとその部下ぶか3まん余人よにん捕虜ほりょとした。このとき捕虜ほりょとなったものたち動揺どうようおさまらなかったため、しゅもとあきら一計いっけいあんじ、捕虜ほりょから無作為むさくいに500にんえらび、馮国ようただ一人ひとりはべらせてそのものたちなかねむったため、捕虜ほりょたちみなしゅもとあきら心服しんぷくしたという。しゅうけい占領せんりょう、馮国ようおやぐん指揮しき使抜擢ばってきされる。ところがその直後ちょくごかぞえ36さいんでしまった。しゅもとあきら慟哭どうこくし、天下てんかったのちもそのこうわすれず、功臣こうしんびょうだい8功臣こうしんとしてたてまつった。

馮勝、あにのち

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馮国よう死後しごまことおさなかったため、馮勝がてんおやぐん地位ちいいだ。一方いっぽうしゅもとあきらしゅうけいおうてん改名かいめいし、後々あとあとまでの拠点きょてんとした。

いたりせい20ねん1360ねん)、西にし軍閥ぐんばつちんともりょうおうてん攻撃こうげきしたが、しゅもとあきら奇計きけいもちいて石灰せっかいやまはさちにした。馮勝は中堅ちゅうけんとして活躍かつやくし、さいせき太平たいへい奪還だっかんおおきく貢献こうけんした。鄱陽みずうみたたかにも従軍じゅうぐんし、江西えにししょ都市としとすのに貢献こうけんした。

ちょうまこととのたたか

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西にしちんともりょうたおしたのちいたりせい25ねん1365ねん)、しゅもとあきらひがし宿敵しゅくてきちょうまこと攻撃こうげき仕掛しかけた。そのたたかいのなかで、馮勝はこう郵(江蘇ちぁんすーしょうこう郵市攻略こうりゃくさいてき策略さくりゃくっかかって部下ぶかすうひゃくにんてき城内じょうないでむざむざところされてしまった。しゅもとあきら激怒げきどし、馮勝をしてつえじゅうかいけいしょし、こう郵まであるいてかえれとめいじた。その、馮勝は物狂ものぐるいで奮戦ふんせんし、淮安あんゆたかしょ都市としとし、てきしょうりょめずらし捕虜ほりょとした。つづいてつねぐうはる配下はいかとしてたいらあきら攻略こうりゃく参加さんかした。

きたせい参加さんか

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ひろしたけ元年がんねん1368ねん)、しゅもとあきらあかり建国けんこくし、しゅしるべ皇太子こうたいしとなった。馮勝は太子たいしみぎ詹事を兼任けんにんする。そのじょいたる配下はいかとしてきたせい元朝がんちょう本拠地ほんきょち攻撃こうげき)に参加さんかし、汴梁(河南かなんしょう開封かいふう)・洛陽らくよう河南かなんしょう洛陽らくよう)・陝州(河南かなんしょう三門さんもんかい)・潼関(陝西せんせいしょう潼関けん)・はなしゅう陝西せんせいしょう渭南はなしゅう)を攻略こうりゃくする。帰還きかんせいとりこみぎふく将軍しょうぐん任命にんめいされ、汴梁の守備しゅびめいじられる。そのじょいたる配下はいかとして山西さんせい攻略こうりゃく従軍じゅうぐんする。

陝西せんせい攻略こうりゃく、さらに甘粛かんせい攻略こうりゃく

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きたせいこうみとめられ、馮勝はみぎふく将軍しょうぐんにんじられる。そしてひろし2ねん1369ねん)、つねぐうはる大将軍だいしょうぐんとし、馮勝・・楊璟という順位じゅんい組織そしき陝西せんせい攻略こうりゃくする。まずはおおとりしょう陝西せんせいしょうたからにわとりおおとりしょう)をとし、いで鞏昌(甘粛かんせいしょうてい西市さいち隴西けん鞏昌鎮)・臨洮(甘粛かんせいしょうてい西市さいち臨洮けん)をとしててきしょうおもえひとしくだしたのちかえした。ところがけい甘粛かんせいしょうけい)にいたころ北元きたもと将軍しょうぐんココ・テムル部下ぶかはらしゅうやすしなつかいぞく自治じちかた原市はらいちはらしゅう)をおそわせたため、馮勝は一軍いちぐんひきいてこれをやぶった。これにより、陝西せんせい平定へいていされた(『あかり』にはかれているが、北元きたもととのたたかいはまだまだつづく)。

そのしゅもとあきらつねぐうはる帰還きかんめいじ、馮勝にけいまもるようにめいじた。ところが馮勝は西安しーあん近郊きんこうまでぐんいてしまった。しゅもとあきら激怒げきどして馮勝をるようめいじたが、これまでの功績こうせき考慮こうりょして死罪しざいまぬかれている。ひろし3ねん1370ねん)、しゅもとあきらふたたつねぐうはると馮勝にめいじて西安しーあんからぐんし、てい西にしでココ・テムルをおおいにやぶった。馮勝は別働隊べつどうたいひきいておおとりしょうから南下なんかし、りゃく陝西せんせいしょうかんちゅうりゃくけん)でもとしょうらえ、沔州(陝西せんせいしょうかんちゅうつとむけん)を占領せんりょうした。そのこうで、開国かいこく輔運推誠せんりょく武臣ぶしんさかえろく大夫たいふみぎばしらこくさんぐん国事こくじそうこくおおやけにんじられた。さらにしょくろくさんせんせき生涯しょうがい支給しきゅうされることを約束やくそくされた。

このころ、ココ・テムルのおもぐんカラコルムでまだ健在けんざいだった。ひろし5ねん1372ねん)、しゅもとあきらぐんじょいたる文忠ふみただ・馮勝の3にんあたえてめさせた。馮勝はせい西にし将軍しょうぐん任命にんめいされ、ふく将軍しょうぐんちんいさおでんともとくひとしとも甘粛かんせい担当たんとうした。でんともとくあららぎしゅう甘粛かんせいしょうあららぎしゅう)で果敢かかんんでてきやぶり、馮勝も掃林さん甘粛かんせいしょうさけいずみ北部ほくぶ)で勝利しょうりし、もと将軍しょうぐんうえうさぎうま降伏ごうぶくした。さらにまたしゅう乃路(内モンゴル自治うちもんごるじちアルシャーめいエジンはた東南とうなん)で守将しゅしょうぼくがおじょうくだした。ただし、べつ方面ほうめん担当たんとうしていたおもぐんじょいたる敗戦はいせんしたため、しゅもとあきらぐん全体ぜんたいとしてはこの作戦さくせん失敗しっぱいだった。

まんしゅう攻略こうりゃく

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そのしばらく、馮勝は北元きたもと攻略こうりゃくには参加さんかせず、じょいたる文忠ふみただ担当たんとうしていたらしい。

じょいたる文忠ふみただ死後しごもときゅうしょうおさめ哈出[2]独立どくりつしてじょじきまんしゅう北部ほくぶ支配しはいしていた。おさめ哈出は金山かなやま本拠地ほんきょちとしてすうじゅうまんへいっており、たびたび遼東りゃおとん侵略しんりゃくした。そこでしゅもとあきらひろし20ねん1387ねん)、馮勝をせいとりこ大将軍だいしょうぐんにんじて、でんともとくあいだまふく将軍しょうぐんとして20まん征伐せいばつかった。ちょういさおつねしげるつねぐうはるで馮勝のむすめ婿むこ)・けいたかし鄧鎮ひとし主要しゅよう将軍しょうぐんみな従軍じゅうぐんした。馮勝はまつていせきから出撃しゅつげきし、だいやすしひろしかわかいしゅうとみ峪の4しろくだした。そして捕虜ほりょにしていたおさめ哈出の部下ぶか乃剌われ降伏ごうぶく使者ししゃとしておくした。おさめ哈出は乃剌われるや「おまえ、きていたのか!」とおどろき、乃剌われしゅもとあきら世話せわになっていたことをつたえた。そのころ馮勝のほんぐんおんなじきたむろおさめ哈出の部下ぶかかんわらわ降伏ごうぶくさせていた。

おさめ哈出は馮勝に降伏ごうぶく使者ししゃおくった。馮勝は了承りょうしょうし、部下ぶかあいだま使者ししゃとしておくった。あいだまおさめ哈出と面談めんだんし、されるさけだいよろこびでむと、上着うわぎ次々つぎつぎいで軽装けいそうになった。おさめ哈出はそんなあいだま降伏ごうぶくするのが不満ふまん左右さゆう愚痴ぐちをこぼしていたところ、それまでだまってすわっていた馮勝のむすめ婿むこつねしげるがいきなりおさめ哈出のりつけ、降伏ごうぶくみとめさせた。おさめ哈出の部下ぶか妻子さいしじゅうあまりまんまつはなかわっていたが、おさめ哈出がられたと動揺どうようひろがった。馮勝はおさめ哈出の部下ぶかかんわらわつかわして降伏ごうぶくさせた。さらに家畜かちくげた。さらにざんへい2まんあまりぐんくわえた。おさめ哈出の部下ぶかさからったものがいたのでころした。馮勝は帰還きかんして、しゅもとあきらつねしげる行動こうどう捕虜ほりょ20まんたことを報告ほうこくすると、しゅもとあきらおおいによろこんだ。

ところがこののち、馮勝の不祥事ふしょうじ発覚はっかくする。馮勝は獲得かくとくしたりょうをひそかにふところれており、使者ししゃさけった挙句あげくおさめ哈出のつま宝石ほうせき勝手かってうばいとり、ころしたてきつまをわずか2にち自分じぶんおんなにしていた。そのほかにもすうおおくの不祥事ふしょうじつかり、しゅもとあきら激怒げきどして馮勝を大将軍だいしょうぐんから解任かいにんし、しょしょう手柄てがらみなしとした。

晩年ばんねん

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ひろし23ねん1390ねん)、きょくやすし雲南うんなんしょうきょくやすし攻略こうりゃくかったへい謀反むほんこしたため、馮勝に解決かいけつさせている。ひろし25ねん1392ねん)、ふとしはらたいらようつのぐんたてまもる屯田とんでんにんじされる。このとししゅもとあきら跡継あとつぎ(皇太子こうたいし)がんだため、そのすめらぎふとしまごてられた。馮勝は太子たいしふとし兼任けんにんし、でんともとくつねますつねぐうはる)らと分担ぶんたんして山西さんせい民政みんせいにあたった。

また、このとき功臣こうしん発表はっぴょうされ、馮勝はだい3とされた。ところがこのころからしゅもとあきらうたぐふかくなり、功績こうせきおおきい馮勝が槍玉やりだまげられた。ひろし26ねん1393ねん)、しゅもとあきらあいだまころし、馮勝をもどした。その2ねんひろし28ねん1395ねん)に死罪しざいとなり、そのらも改易かいえきになった。『あかり』には、ころされた理由りゆうすらかれていない。んだ年齢ねんれい不明ふめいだが、あにの馮国ようきていればかぞえ72さいなので、そのややしたかんがえられる。

馮勝のあにの馮国ようの馮誠は雲南うんなんでの戦功せんこうみとめられ、昇進しょうしんかさねてみぎぐんひだりとくにまでなった。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ もっとも、この言葉ことば儒学じゅがくしゃとうやすしまったおなごとっている
  2. ^ ナハチェ、ナガチュ、ナハチュなどと表記ひょうきされる

参考さんこう文献ぶんけん

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