連合 れんごう 国 こく の戦略 せんりゃく
編集 へんしゅう
北 きた アフリカ における枢軸 すうじく 軍 ぐん を破 やぶ った後 のち 、連合 れんごう 国 こく の間 あいだ で次 つぎ にどこを攻 せ めるべきか意見 いけん が一致 いっち していなかった。ウィンストン・チャーチル 英国 えいこく 首相 しゅしょう は、イタリア を「ヨーロッパの下腹部 かふくぶ 」[1] と呼 よ んで上陸 じょうりく 侵攻 しんこう を提唱 ていしょう していた。
戦争 せんそう 中 ちゅう のイタリアにおける一般 いっぱん 的 てき 支援 しえん は次第 しだい に減少 げんしょう しており、チャーチルは侵攻 しんこう によりイタリアと、特 とく に地中海 ちちゅうかい におけるイタリア海軍 かいぐん の影響 えいきょう を削減 さくげん することができ、連合 れんごう 国 こく の輸送 ゆそう 経路 けいろ を開 あ けると信 しん じていた。これは、中東 ちゅうとう における連合 れんごう 国軍 こくぐん への補給 ほきゅう を容易 ようい にし、イギリス やアメリカ からソビエト への支援 しえん を増加 ぞうか させることが容易 ようい になる。加 くわ えて、これはドイツ軍 ぐん の戦力 せんりょく を分散 ぶんさん させ、計画 けいかく 中 ちゅう のオーバーロード作戦 さくせん の対象 たいしょう 地域 ちいき からドイツ軍 ぐん を移動 いどう させることになる。
しかし、ジョージ・C・マーシャル 大将 たいしょう とアメリカの上層 じょうそう 部 ぶ はフランス上陸 じょうりく を遅 おく らすような作戦 さくせん を実行 じっこう することは望 のぞ んでいなかった。しかし、1943年 ねん 中 ちゅう に「オーバーロード作戦 さくせん 」を実行 じっこう することが不可能 ふかのう であることが明確 めいかく になった時 とき に、その後 ご の作戦 さくせん の計画 けいかく なしに、北 きた アフリカにおける戦力 せんりょく を用 もち いる範囲 はんい でのシチリア島 とう 上陸 じょうりく 作戦 さくせん に同意 どうい した。
連合 れんごう 国軍 こくぐん 統合 とうごう 司令 しれい 部 ぶ (AFHQ)は地中海 ちちゅうかい 作戦 さくせん 戦域 せんいき における連合 れんごう 国 こく 陸軍 りくぐん 戦力 せんりょく の作戦 さくせん を統括 とうかつ しており、シチリア島 とう 及 およ びイタリア本土 ほんど への侵攻 しんこう 作戦 さくせん の計画 けいかく と指揮 しき をとっていた。
イタリア侵攻 しんこう の地図 ちず
シチリア島 とう 侵攻 しんこう 以前 いぜん の段階 だんかい においては、連合 れんごう 国軍 こくぐん はターラント 周辺 しゅうへん への限定 げんてい 的 てき な侵攻 しんこう と、メッシーナ海峡 かいきょう を渡 わた りイタリアの「つま先 さき 」部分 ぶぶん を通 とお る前進 ぜんしん を計画 けいかく していたが、そこではドイツとイタリアの両 りょう 軍 ぐん による抵抗 ていこう が予想 よそう されていた。しかし、ムッソリーニ とファシスト党 とう の失脚 しっきゃく は、より野心 やしん 的 てき な計画 けいかく を促 うなが し、イギリス第 だい 8軍 ぐん によるナポリ港 こう 占領 せんりょう 計画 けいかく を追加 ついか することが決定 けってい された。連合 れんごう 国軍 こくぐん は、シチリア島 とう を基地 きち とする連合 れんごう 国 こく 軍機 ぐんき の航続 こうぞく 距離 きょり 圏内 けんない に2つの上陸 じょうりく 候補 こうほ 地点 ちてん を選定 せんてい した。1つはヴォルトゥルノ 河口 かこう 、もう1つはサレルノ であったが、より航空機 こうくうき の基地 きち に近 ちか い点 てん 、波 なみ が穏 おだ やかで上陸 じょうりく に適 てき している点 てん 、輸送 ゆそう 船 せん が海岸 かいがん に近 ちか い地点 ちてん に停泊 ていはく することができる点 てん 、海岸 かいがん 部 ぶ の幅 はば が狭 せま く前進 ぜんしん のために道路 どうろ を容易 ようい に建設 けんせつ できる点 てん 、海岸 かいがん の後方 こうほう に既存 きそん の道路 どうろ 網 もう が発達 はったつ している点 てん 、など複数 ふくすう の利点 りてん から、サレルノが上陸 じょうりく 地点 ちてん に決定 けってい された。
ベイタウン作戦 さくせん はイタリア侵攻 しんこう のための予備 よび 作戦 さくせん であり、1943年 ねん 9月3日 にち 、バーナード・モントゴメリー 大将 たいしょう 指揮 しき 下 か のイギリス第 だい 8軍 ぐん がシチリア島 とう のメッシーナ の港 みなと から、メッシーナ海峡 かいきょう を横断 おうだん し、カラブリア(イタリアの「つま先 さき 」)に上陸 じょうりく した。シチリア島 とう からの距離 きょり が短 みじか いため、船 ふね ではなく、直接 ちょくせつ メッシーナから、上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい で輸送 ゆそう をおこなった。イギリス第 だい V軍団 ぐんだん 所属 しょぞく のイギリス第 だい 5歩兵 ほへい 師団 しだん は「つま先 さき 」の北側 きたがわ に上陸 じょうりく し、カナダ第 だい 1歩兵 ほへい 師団 しだん は南側 みなみがわ のスパーティヴェント岬 みさき に上陸 じょうりく した。モントゴメリー大将 たいしょう は、ベイタウン作戦 さくせん を兵力 へいりょく の無駄遣 むだづか いと見 み て強 つよ く反対 はんたい していた。なぜならば、この作戦 さくせん はドイツ軍 ぐん がカラブリアで抵抗 ていこう することを前提 ぜんてい としているが、ドイツ軍 ぐん がそうしなかった場合 ばあい 、牽制 けんせい 作戦 さくせん は意味 いみ を持 も たず、ただ単 たん に主 しゅ 上陸 じょうりく 地点 ちてん であるサレルノ の南 みなみ 480kmに兵力 へいりょく を遊 あそ ばせる結果 けっか にしかならないからであった。モントゴメリー大将 たいしょう の正 ただ しさは後 のち に証明 しょうめい された。第 だい 8軍 ぐん の部隊 ぶたい はサレルノまでの480kmを、工兵 こうへい が設置 せっち した障害 しょうがい 物 ぶつ 以外 いがい 、何 なん の抵抗 ていこう も無 な く前進 ぜんしん できたのである。
空挺 くうてい 部隊 ぶたい の使用 しよう 計画 けいかく は様々 さまざま なものが存在 そんざい したが、それらは全 すべ て中止 ちゅうし となった。最初 さいしょ の計画 けいかく では、アヴァランシェ計画 けいかく の一部 いちぶ として、グライダーでサレルノ近郊 きんこう に空挺 くうてい 部隊 ぶたい が降下 こうか するものであった。しかし、その計画 けいかく は、グラント作戦 さくせん に変更 へんこう された。グラント作戦 さくせん は、ヴォルトゥルノ川 がわ の橋 はし を奪取 だっしゅ して確保 かくほ する計画 けいかく であったが、兵站 へいたん を支 ささ えられないと考 かんが えられたため、グラントII作戦 さくせん に変更 へんこう された。グラントII作戦 さくせん は、第 だい 82空挺 くうてい 師団 しだん がローマ 近郊 きんこう の飛行場 ひこうじょう に降下 こうか する計画 けいかく であった。これには、サレルノ周辺 しゅうへん の連合 れんごう 国軍 こくぐん の海岸 かいがん 堡からの距離 きょり が遠 とお いため、イタリア軍 ぐん の積極 せっきょく 的 てき な協力 きょうりょく が必要 ひつよう であり、第 だい 82空挺 くうてい 降下 こうか 師団 しだん 副 ふく 師団 しだん 長 ちょう のマクスウェル・D・テイラー 准 じゅん 将 しょう が、交渉 こうしょう のためローマに乗 の り込 こ んだ。最終 さいしゅう 的 てき に、テイラーは罠 わな に陥 おちい る可能 かのう 性 せい があると判断 はんだん し、作戦 さくせん の中止 ちゅうし を勧告 かんこく した。決定 けってい が部隊 ぶたい に伝 つた えられたのは、発動 はつどう 直前 ちょくぜん の9月8日 にち の午後 ごご であった。
上陸 じょうりく 作戦 さくせん の主 しゅ 作戦 さくせん であるアヴァランシェ作戦 さくせん は1週間 しゅうかん 遅 おく れの9月 がつ 9日 にち に計画 けいかく された。上陸 じょうりく 地点 ちてん は、西海岸 にしかいがん のサレルノ周辺 しゅうへん 、上陸 じょうりく 部隊 ぶたい は、マーク・W・クラーク 中将 ちゅうじょう 配下 はいか のアメリカ第 だい 5軍 ぐん であった。第 だい 5軍 ぐん は、アメリカ第 だい 6軍団 ぐんだん (アーネスト・J・ドーリー 少将 しょうしょう )、イギリス第 だい 10軍団 ぐんだん (リチャード・マククリーリー中将 ちゅうじょう )、そして予備 よび 兵力 へいりょく としてアメリカ第 だい 82空挺 くうてい 降下 こうか 師団 しだん があり、合計 ごうけい 8個 こ 師団 しだん と2個 こ 旅団 りょだん 規模 きぼ であった。上陸 じょうりく 部隊 ぶたい の第 だい 1目標 もくひょう は、補給 ほきゅう のためにナポリ の港 みなと を確実 かくじつ に占領 せんりょう することであり、その後 ご 、東海岸 ひがしかいがん に向 む かって進 すす み、南側 みなみがわ にある枢軸 すうじく 国軍 こくぐん を包囲 ほうい することであった。イギリス第 だい 1空挺 くうてい 降下 こうか 師団 しだん は、「スラップスティック作戦 さくせん 」としてイタリアのかかとの部分 ぶぶん であるターラント近 ちか くに上陸 じょうりく し、サレルノの牽制 けんせい として活躍 かつやく した。彼 かれ らの任務 にんむ は、周辺 しゅうへん の飛行場 ひこうじょう や港 みなと を占領 せんりょう し、第 だい 8軍 ぐん と合流 ごうりゅう した後 のち 、フォッジャ 近 ちか くで第 だい 5軍 ぐん と合流 ごうりゅう するために北 きた へ進出 しんしゅつ することであった。
計画 けいかく は大胆 だいたん であったが欠点 けってん も存在 そんざい した。第 だい 5軍 ぐん は非常 ひじょう に広 ひろ い35マイルの前線 ぜんせん を持 も って上陸 じょうりく するが、3つの攻撃 こうげき 師 し 団 だん しか保持 ほじ しておらず、2つの軍団 ぐんだん はその距離 きょり と川 かわ の存在 そんざい により分断 ぶんだん されていると言 い う点 てん である。更 さら に、地形 ちけい は防御 ぼうぎょ 側 がわ に有利 ゆうり であった。アメリカの3個 こ レンジャー大隊 だいたい とイギリスの2個 こ コマンド大隊 だいたい から構成 こうせい される、ウィリアム・O・ダルビー大佐 たいさ 配下 はいか のアメリカのレンジャー部隊 ぶたい は、ナポリに通 つう じる山道 さんどう の確保 かくほ を命 めい じられたが、レンジャー部隊 ぶたい と第 だい 10軍 ぐん の後続 こうぞく の部隊 ぶたい を接続 せつぞく するための計画 けいかく は何 なに も無 な かった。また、戦術 せんじゅつ 的 てき な奇襲 きしゅう を期待 きたい できなかったにもかかわらず、太平洋 たいへいよう 戦線 せんせん では経験 けいけん 上 じょう 必 かなら ず行 い っていた、海軍 かいぐん による事前 じぜん 支援 しえん 砲撃 ほうげき がおこなわれなかった[2] 。
6個 こ のドイツ軍師 ぐんし 団 だん はローマ からつま先 さき までのイタリアの西海岸 にしかいがん における上陸 じょうりく 予想 よそう 地点 ちてん をカバーしていた。この師団 しだん には、ヘルマン・ゲーリング装甲 そうこう 師団 しだん 、第 だい 26装甲 そうこう 師団 しだん 、第 だい 16装甲 そうこう 師団 しだん 、第 だい 15装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん 、第 だい 29装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん 、第 だい 2空挺 くうてい 降下 こうか 猟 りょう 兵 へい (パラシュート)師団 しだん であった。ドイツ第 だい 10軍 ぐん 司令 しれい 官 かん のハインリヒ・フォン・フィーティングホフ はサレルノの平原 へいげん を見渡 みわた せる丘 おか に配置 はいち した第 だい 16装甲 そうこう 師団 しだん に位置 いち していた。
アヴァランシェ作戦 さくせん は「トップハット」の名称 めいしょう で計画 けいかく され、連合 れんごう 国 こく のバルカン半島 ばるかんはんとう 侵攻 しんこう の偽装 ぎそう 計画 けいかく である「ボードマン計画 けいかく 」の支援 しえん を受 う けた。
南 みなみ イタリアでの作戦 さくせん
編集 へんしゅう
アメリカ軍 ぐん マーク・ウェイン・クラーク 大将 たいしょう 、1943年 ねん 9月 がつ 12日 にち 、イタリア、サレルノにおける上陸 じょうりく 作戦 さくせん 中 ちゅう 。USSアンコン 艦上 かんじょう にて
イタリアのプラート を抜 ぬ け前進 ぜんしん する第 だい 370連隊 れんたい
1943年 ねん 9月3日 にち 、ベイタウン作戦 さくせん において、バーナード・モントゴメリー大将 たいしょう 指揮 しき 下 か のイギリスカナダ混成 こんせい 軍 ぐん であるイギリス第 だい 8軍 ぐん がイタリア本土 ほんど に上陸 じょうりく した。上陸 じょうりく に対 たい する抵抗 ていこう は弱 よわ く、海岸 かいがん 線 せん 17マイルを防衛 ぼうえい しているドイツ軍 ぐん の連隊 れんたい を残 のこ して、イタリア軍 ぐん の部隊 ぶたい は即座 そくざ に降伏 ごうぶく した。アルベルト・ケッセルリンク とそのスタッフはカラブリアの上陸 じょうりく 作戦 さくせん が連合 れんごう 国 こく の主 しゅ 作戦 さくせん であるとは信 しん じていなかった。論理 ろんり 的 てき にはサレルノの地域 ちいき や、ローマの北 きた の地域 ちいき がより攻撃 こうげき 地点 ちてん として考 かんが えられた。彼 かれ は、トロウゴット・ヘル 大将 たいしょう の第 だい 76装甲 そうこう 軍団 ぐんだん に第 だい 8軍 ぐん との交戦 こうせん を避 さ けて撤退 てったい しつつ、橋 はし の破壊 はかい などで第 だい 8軍 ぐん を遅延 ちえん させるように命 めい じた。このように、モントゴメリーの作戦 さくせん への反対 はんたい は正 ただ しいことが証明 しょうめい された。第 だい 8軍 ぐん は戦闘 せんとう を避 さ けるドイツ軍 ぐん と交戦 こうせん することができず、主 おも な障害 しょうがい は、地形 ちけい とドイツ軍 ぐん による道路 どうろ や橋 はし の破壊 はかい であった。9月8日 にち まで、ケッセリングはハインリヒ・フォン・フィーティングホフ の第 だい 10軍 ぐん を集結 しゅうけつ させ、連合 れんごう 国 こく の上陸 じょうりく に対 たい して迅速 じんそく に対応 たいおう 可能 かのう とした[3] 。
主 しゅ 侵攻 しんこう 作戦 さくせん の前 まえ 、9月8日 にち にイタリアの降伏 ごうぶく が連合 れんごう 国 こく に発表 はっぴょう され、イタリア軍 ぐん は戦闘 せんとう を中止 ちゅうし し、海軍 かいぐん は降伏 ごうぶく のため連合 れんごう 国 こく の港 みなと へ向 む かった。しかし、イタリア国内 こくない のドイツ軍 ぐん はその様 よう な事態 じたい への準備 じゅんび ができていて、イタリア軍 ぐん を武装 ぶそう 解除 かいじょ し、重要 じゅうよう な防衛 ぼうえい 地点 ちてん の占拠 せんきょ を行 おこな った。
スラップスティック作戦 さくせん は9月9日 にち に行 おこな われた。ターラントにイギリス第 だい 1空挺 くうてい 師団 しだん が上陸 じょうりく した。前日 ぜんじつ にイタリアが降伏 ごうぶく し、その地域 ちいき には少 すこ しのドイツ軍 ぐん しかいなかったため、イギリス軍 ぐん は、上陸 じょうりく 用 よう 舟艇 しゅうてい などで無 な く、軍艦 ぐんかん から直接 ちょくせつ 港 みなと へ上陸 じょうりく を行 おこな った。抵抗 ていこう はほとんど無 な く、町 まち と港 みなと はすぐに占領 せんりょう され、損失 そんしつ はほとんど生 しょう じなかった。
アヴァランシェ作戦 さくせん 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 第 だい 5軍 ぐん によるサレルノへの上陸 じょうりく 作戦 さくせん は、9月9日 にち に奇襲 きしゅう の効果 こうか を与 あた えるため、事前 じぜん の海軍 かいぐん による艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき や航空機 こうくうき による爆 ばく 撃 げき なしに攻撃 こうげき が行 おこな われた。しかし、海軍 かいぐん の指揮 しき 官 かん が予測 よそく したような戦術 せんじゅつ 的 てき 奇襲 きしゅう は実現 じつげん しなかった。第 だい 36歩兵 ほへい 師団 しだん の第 だい 一 いち 波 は は、パエストゥム のある海岸 かいがん に近 ちか づいた。上陸 じょうりく 地点 ちてん からは拡声 かくせい 器 き によって英語 えいご で「上陸 じょうりく 後 ご 、降伏 ごうぶく せよ。我々 われわれ はお前 まえ たちを丁重 ていちょう に扱 あつか う。」しかし、連合 れんごう 国軍 こくぐん の部隊 ぶたい はそれを無視 むし して攻撃 こうげき を行 おこな った。
イギリス第 だい 46歩兵 ほへい 師団 しだん 、第 だい 56歩兵 ほへい 師団 しだん とアメリカレンジャー部隊 ぶたい とイギリス海兵 かいへい 隊 たい のコマンド部隊 ぶたい から構成 こうせい される、第 だい 10軍団 ぐんだん はその上陸 じょうりく にたいして異 こと なった反応 はんのう があった。レンジャー部隊 ぶたい は、抵抗 ていこう なく上陸 じょうりく でき、目的 もくてき である山道 さんどう を押 お さえた。コマンド部隊 ぶたい は、軽 かる い抵抗 ていこう に遭遇 そうぐう したが、サレルノの町 まち を迅速 じんそく に占領 せんりょう することができた。一方 いっぽう 、2個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん は、強固 きょうこ な抵抗 ていこう に遭遇 そうぐう し、艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき の力 ちから を借 か りないと内陸 ないりく への進路 しんろ を勝 か ち取 と ることができなかった。ドイツ軍 ぐん の抵抗 ていこう の深 ふか さとその強度 きょうど はイギリスの指揮 しき 官 かん に南方 なんぽう のアメリカ軍 ぐん との接続 せつぞく を図 はか るよりも部隊 ぶたい を集中 しゅうちゅう させることを強要 きょうよう させた。パエストゥムにおいて、ドイツ軍 ぐん は砲 ほう と機関 きかん 銃座 じゅうざ を設置 せっち し、上陸 じょうりく 地点 ちてん からの前進 ぜんしん が困難 こんなん となるように戦車 せんしゃ を分散 ぶんさん 配置 はいち した。第 だい 36歩兵 ほへい 師団 しだん は直前 ちょくぜん まで戦闘 せんとう 状態 じょうたい になく、ゆっくりと部隊 ぶたい 編成 へんせい を行 おこ ない、海岸 かいがん の占拠 せんきょ を成功 せいこう させた。07:00ころまで、第 だい 16装甲 そうこう 師団 しだん による反撃 はんげき が行 おこな われた。この反撃 はんげき により損害 そんがい を大 おお きく出 だ したが、艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき の支援 しえん によりこれを撃退 げきたい することができた。南 みなみ では、第 だい 141歩兵 ほへい 連隊 れんたい 第 だい 1大隊 だいたい が戦闘 せんとう により一 いち 日 にち 中 ちゅう 釘付 くぎづ けとなり、無線 むせん 通信 つうしん の圏外 けんがい となった。
イギリス軍 ぐん とアメリカ軍 ぐん の海岸 かいがん 堡は5マイルの間隔 かんかく があったため、その地域 ちいき の全 すべ てはイギリスの2個 こ 師団 しだん に割 わ り当 あ てられた。軍団 ぐんだん の境界 きょうかい 線 せん は第 だい 10軍団 ぐんだん の作戦 さくせん を容易 ようい にするため、再度 さいど 引 ひ きなおされ、安全 あんぜん となっていない領域 りょういき のほとんどの地域 ちいき は第 だい 6軍団 ぐんだん に割 わ り当 あ てられた。2つの戦力 せんりょく はその日 ひ の終 お わりに接続 せつぞく し、海岸 かいがん 線 せん に沿 そ って35 - 45マイル(55 - 70km)の幅 はば 、深 ふか さ6 - 7マイル(10 - 12km)の領域 りょういき を占領 せんりょう した。
9月12日 にち から9月14日 にち にかけて、ドイツ軍 ぐん は自動車 じどうしゃ 化 か された6個 こ 師団 しだん の一部 いちぶ による反撃 はんげき を開始 かいし した。目的 もくてき は、サレルノの海岸 かいがん 堡 を占領 せんりょう し、イギリス第 だい 8軍 ぐん と合流 ごうりゅう する前 まえ に上陸 じょうりく 部隊 ぶたい を海 うみ に追 お い落 お とすことであった。アメリカ軍 ぐん は集中 しゅうちゅう した攻撃 こうげき に対 たい するには防衛 ぼうえい 線 せん は薄 すすき すぎ、反撃 はんげき は大 だい 損害 そんがい を起 お こした。第 だい 36歩兵 ほへい 師団 しだん の第 だい 143歩兵 ほへい 連隊 れんたい 第 だい 2歩兵 ほへい 大隊 だいたい はドイツ軍 ぐん 装甲 そうこう 部隊 ぶたい にさらされ、全滅 ぜんめつ した。
左翼 さよく の第 だい 6軍団 ぐんだん で、アメリカ第 だい 45歩兵 ほへい 師団 しだん が上陸 じょうりく し、第 だい 10軍 ぐん に割 わ り当 あ てられた地域 ちいき を確保 かくほ しようと前進 ぜんしん した。ドイツ軍 ぐん の装甲 そうこう 部隊 ぶたい は反撃 はんげき によりかなりの土地 とち を取 と り返 かえ した。9月13日 にち に、第 だい 45歩兵 ほへい 師団 しだん の右翼 うよく は、セレ川 がわ とカロレ・ルカノ川 がわ の交 まじ わる点 てん で2つのアメリカ軍 ぐん の師団 しだん の間 あいだ の突出 とっしゅつ 部 ぶ を破 やぶ られてしまった。ドイツ軍 ぐん の装甲 そうこう 部隊 ぶたい の攻撃 こうげき は、海岸 かいがん 堡の補給 ほきゅう 物資 ぶっし 集積 しゅうせき 所 しょ から4マイルの地点 ちてん で、砲兵 ほうへい と艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき 、そして砲兵 ほうへい 部隊 ぶたい により構成 こうせい された間 ま に合 あ わせの歩兵 ほへい 部隊 ぶたい により止 と められた。
両 りょう 師団 しだん の前線 ぜんせん の部隊 ぶたい は、T・ラ・カソ川 がわ の後方 こうほう に下 さ がり、防衛 ぼうえい 線 せん の長 なが さを短 みじか くした。新 あたら しい境界 きょうかい 線 せん の近傍 きんぼう は第 だい 82空挺 くうてい 降下 こうか 師団 しだん の支援 しえん を受 う けて防衛 ぼうえい された。第 だい 504パラシュート歩兵 ほへい 連隊 れんたい の2個 こ 大隊 だいたい (1800人 にん )は、9月13日 にち の夜 よる に海岸 かいがん 堡に下 さ がった後 のち 、第 だい 6軍 ぐん の右 みぎ の防衛 ぼうえい 線 せん に速 すみ やかに移動 いどう した。翌日 よくじつ の夜 よる 、危機 きき は去 さ り、第 だい 505パラシュート歩兵 ほへい 連隊 れんたい が第 だい 504連隊 れんたい の補充 ほじゅう として、海岸 かいがん 堡に空挺 くうてい 降下 こうか を行 おこな った。第 だい 504連隊 れんたい の第 だい 3大隊 だいたい で増強 ぞうきょう された、第 だい 325グライダー歩兵 ほへい 連隊 れんたい は9月15日 にち に上陸 じょうりく した。
強力 きょうりょく な艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき の支援 しえん と、第 だい 5軍 ぐん 砲兵 ほうへい による支援 しえん により、補充 ほじゅう を受 う け再 さい 編成 へんせい された歩兵 ほへい 部隊 ぶたい は9月14日 にち の防衛 ぼうえい 線 せん の弱点 じゃくてん を攻略 こうりゃく しようとするドイツ軍 ぐん の全 すべ ての攻撃 こうげき を防 ふせ ぎきった。ドイツ軍 ぐん の損害 そんがい は、酷 ひど く、特 とく に戦車 せんしゃ の損害 そんがい は大 おお きかった。9月15日 にち もドイツ軍 ぐん の試 こころ みは続 つづ いたが、翌 よく 9月16日 にち には、連合 れんごう 国軍 こくぐん は強力 きょうりょく で、突破 とっぱ するのは難 むずか しいことが分 わ かり、フォン・フィーティングホフは、遅延 ちえん 工作 こうさく を行 おこな いながら、第 だい 10軍 ぐん を北 きた に撤退 てったい させるように命令 めいれい した。9月17日 にち に、連合 れんごう 国軍 こくぐん の両方 りょうほう の軍団 ぐんだん の地域 ちいき の偵察 ていさつ 部隊 ぶたい は、海岸 かいがん 堡のあちこちにおいて、ドイツ軍 ぐん との交戦 こうせん 状態 じょうたい が解消 かいしょう されていることが分 わ かり、翌 よく 9月18日 にち に全 すべ ての目標 もくひょう を再 さい 確保 かくほ した後 のち 、第 だい 5軍 ぐん は北 きた へ進軍 しんぐん を開始 かいし した。
マーク・W・クラーク 大将 たいしょう は、この戦闘 せんとう における前線 ぜんせん 指揮 しき によって、2番目 ばんめ に高位 こうい な章 しょう である殊勲 しゅくん 十 じゅう 字 じ 章 あきら を受 う けた。実際 じっさい 、彼 かれ は頻繁 ひんぱん に戦闘 せんとう 中 ちゅう の部隊 ぶたい のある前線 ぜんせん に姿 すがた を現 あらわ していた。しかし、歴史 れきし 家 か カルロ・D・エステの意見 いけん では、クラークの作戦 さくせん 指揮 しき のまずさがこの危機 きき を起 お こしたと言 い われている。クラーク自身 じしん は海岸 かいがん 堡における危機 きき に対 たい して、第 だい 8軍 ぐん の対応 たいおう の遅 おそ さを非難 ひなん していた。この意見 いけん はいくらかの正当 せいとう 性 せい があった。上陸 じょうりく した9月9日 にち にモントゴメリーは第 だい 8軍 ぐん に休養 きゅうよう を与 あた えるため2日間 にちかん 前進 ぜんしん を止 と めていたからである。
サレルノの戦 たたか いはイギリス第 だい 10軍団 ぐんだん の600人 にん によるサレルノの反乱 はんらん が生 しょう じた場所 ばしょ でもある。彼 かれ らは、9月16日 にち に補充 ほじゅう 部隊 ぶたい として新 あたら しい部隊 ぶたい への配属 はいぞく を拒否 きょひ したのだった。彼 かれ らは、負傷 ふしょう のため北 きた アフリカ戦線 せんせん において戦 たたか っていた元 もと の部隊 ぶたい に復帰 ふっき するものと信 しん じていた者 もの たちであった。最終 さいしゅう 的 てき に軍団 ぐんだん の指揮 しき 官 かん であるマククリーリーはその命令 めいれい に従 したが うように説得 せっとく を行 おこな った。反乱 はんらん を指揮 しき した下士官 かしかん は死刑 しけい を宣告 せんこく されたが、実際 じっさい のところ、部隊 ぶたい は再 さい 統合 とうごう され、判決 はんけつ は実行 じっこう されなかった。
連合 れんごう 国軍 こくぐん の更 さら なる進軍 しんぐん
編集 へんしゅう
ドイツ軍 ぐん がローマ南 みなみ に準備 じゅんび した防衛 ぼうえい 線 せん (ウィンターライン )の地図 ちず
サレルノの海岸 かいがん 堡の安全 あんぜん が確保 かくほ された後 のち 、9月19日 にち に第 だい 5軍 ぐん は北西 ほくせい のナポリへ向 む かって攻撃 こうげき を開始 かいし した。第 だい 82空挺 くうてい 降下 こうか 師団 しだん は、アルタヴィッラ・シレンティーナ 近 ちか くで大 だい 損害 そんがい を受 う けた後 のち 、第 だい 10軍団 ぐんだん に配置 はいち 換 か えされ、ソレント半島 はんとう にいるレンジャー部隊 ぶたい 及 およ び、イギリス第 だい 23機甲 きこう 旅団 りょだん と合流 ごうりゅう し、イギリス第 だい 46歩兵 ほへい 師団 しだん が攻撃 こうげき している、ノチェーラのドイツ軍 ぐん の防衛 ぼうえい 線 せん を側面 そくめん から攻撃 こうげき した。イギリス第 だい 7機甲 きこう 師団 しだん は、第 だい 46師団 しだん がいる地点 ちてん を通過 つうか し、ナポリ占拠 せんきょ に向 む かった。一方 いっぽう 、新 あら たに上陸 じょうりく したアメリカ第 だい 3歩兵 ほへい 師団 しだん が9月22日 にち にアチェルノ を占領 せんりょう し、9月28日 にち にアヴェッリーノ を占領 せんりょう した。
第 だい 8軍 ぐん は「つま先 さき 」からドイツ軍 ぐん の工兵 こうへい による妨害 ぼうがい に出会 であ いながらも順調 じゅんちょう に進軍 しんぐん を続 つづ け、アドリア海 あどりあかい の海岸 かいがん で第 だい 1空挺 くうてい 降下 こうか 師団 しだん と合流 ごうりゅう することができた。9月16日 にち には第 だい 5軍 ぐん の右翼 うよく と戦線 せんせん の左翼 さよく で出会 であ い、9月27日 にち にはフォッジャ 近 ちか くの飛行場 ひこうじょう を占領 せんりょう しながらアドリア海 あどりあかい の海岸 かいがん 沿 ぞ いを前進 ぜんしん した。フォッジャは、複雑 ふくざつ な大 だい 規模 きぼ な飛行場 ひこうじょう があり、この飛行場 ひこうじょう を使用 しよう して、フランス、ドイツ、バルカンにある新 あら たな目標 もくひょう を攻撃 こうげき 可能 かのう であるため、連合 れんごう 国軍 こくぐん の目標 もくひょう となっていた。
第 だい 1国王 こくおう 近衛 このえ 竜騎兵 りゅうきへい 連隊 れんたい のA部隊 ぶたい は10月1日 にち にナポリに入 はい り、3個 こ イギリス陸軍 りくぐん 師団 しだん 、5個 こ アメリカ陸軍 りくぐん 師団 しだん より構成 こうせい される第 だい 5軍 ぐん は、10月6日 にち にヴォルトゥルノ川 がわ に到達 とうたつ した。ここは、ドイツ軍 ぐん の反 はん 撃 げき から、ナポリを守 まも る自然 しぜん の防御 ぼうぎょ 線 せん で、カンパニアン平原 へいげん と必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ な飛行場 ひこうじょう が存在 そんざい した。一方 いっぽう 、アドリア海 あどりあかい 沿岸 えんがん では、イギリス第 だい 8軍 ぐん がビフェルノ川 がわ 沿 ぞ いのカンポバッソ から、ラリーノ とテルモリ にかけての線 せん まで前進 ぜんしん した。
ドイツ第 だい 10軍 ぐん は、サレルノの海岸 かいがん 堡を脅 おびや かすほど近 ちか くまで接近 せっきん することができた。装甲 そうこう 師団 しだん 及 およ び装甲 そうこう 擲弾兵 へい 師団 しだん 6個 こ を使用 しよう したにもかかわらず、ドイツ軍 ぐん の攻撃 こうげき は連合 れんごう 国 こく の前線 ぜんせん を突破 とっぱ し、連合 れんごう 国 こく の砲兵 ほうへい 及 およ び艦 かん 砲 ほう 射撃 しゃげき の中 なか 、占領 せんりょう 地 ち を拡大 かくだい するには不十分 ふじゅうぶん であった。連合 れんごう 国 こく にとって幸運 こううん なことに、このとき、アドルフ・ヒトラー は、北 きた イタリアにおける軍 ぐん 集団 しゅうだん の指揮 しき 官 かん であるロンメル 元帥 げんすい の意見 いけん に賛成 さんせい しており、彼 かれ は、イタリアのローマの南 みなみ での防衛 ぼうえい はそれほど重要 じゅうよう ではないと考 かんが えていた。その結果 けっか 、南 みなみ イタリアの軍 ぐん 集団 しゅうだん の指揮 しき 官 かん である、アルベルト・ケッセルリンク 元帥 げんすい は北 きた イタリアの軍 ぐん 集団 しゅうだん から予備 よび を引 ひ き抜 ぬ くことを禁 きん じられていた。
大 だい 損害 そんがい を受 う けながらの第 だい 10軍 ぐん の成功 せいこう とケッセルリンクの戦略 せんりゃく 的 てき な考 かんが えは、ヒトラーに連合 れんごう 国 こく はドイツ国境 こっきょう に近 ちか づかず、ドイツがバルカンの石油 せきゆ 資源 しげん を使用 しよう することを妨害 ぼうがい しようとしていると考 かんが えさせた。11月6日 にち [4] 、ヒトラーはロンメルを北 きた フランスにおける防御 ぼうぎょ 線 せん の構築 こうちく の監督 かんとく に引 ひ き抜 ぬ き、ケッセルリンクにイタリア全土 ぜんど の指揮 しき 権 けん を与 あた え、できるだけ長 なが くローマをドイツ軍 ぐん の手 て に保持 ほじ し続 つづ けるように命 めい じた[5] 。
10月 がつ 前半 ぜんはん には、南 みなみ イタリアの全体 ぜんたい が連合 れんごう 国 こく の手中 しゅちゅう となり、連合 れんごう 国 こく の軍 ぐん は、ヴォルトゥルノライン に面 めん していた。この線 せん は、イタリアを横切 よこぎ る準備 じゅんび された防衛 ぼうえい 線 せん であった。ドイツ軍 ぐん はここで遅延 ちえん 作戦 さくせん を行 おこな いながら戦 たたか うことを選 えら び、ウィンター・ライン における防備 ぼうび が整 ととの うまでの時間 じかん を稼 かせ いだ。このウィンター・ラインはローマ南 みなみ の防御 ぼうぎょ 線 せん である。イタリアの戦 たたか い における次 つぎ の舞台 ぶたい は、連合 れんごう 国軍 こくぐん にとって、地形 ちけい 的 てき 及 およ び天候 てんこう 的 てき に、熟練 じゅくれん され計画 けいかく 的 てき で十分 じゅうぶん に準備 じゅんび された防衛 ぼうえい 線 せん に対 たい しての消耗 しょうもう 戦 せん であった。この防衛 ぼうえい 線 せん と天候 てんこう は防御 ぼうぎょ 側 がわ にとって非常 ひじょう に有利 ゆうり で、連合 れんごう 国軍 こくぐん にとっては航空 こうくう 支援 しえん や機械 きかい 化 か 装備 そうび の利点 りてん を無効 むこう にするようなものであった。ヴォルトゥルノ、バルバラ、ベルンハルトラインを抜 ぬ け、ウィンター・ラインの要 よう であるグスタフ・ラインに到達 とうたつ するには1944年 ねん 1月 がつ 中 ちゅう までかかった。このウィンター・ラインでは4回 かい のモンテ・カッシーノの戦 たたか い が行 おこな われ、これにも1944年 ねん 1月 がつ から5月 がつ までかかった。
^ underbelly of Europe。「柔 やわ らかい下腹 かふく (soft underbelly)」というい方 いかた がなされることも多 おお いが、チャーチルの元 もと 発言 はつげん には「柔 やわ らかい」とはない。
^ Grigg
^ Lloyd Clark, Anzio , p20
^ Orgill, The Gothic Line , p5
^ Mavrogordato, p. 321
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Muhm, Gerhard (1993) (Italian). La Tattica tedesca nella Campagna d'Italia, in Linea Gotica avanposto dei Balcani, (Hrsg.) . Roma: Amedeo Montemaggi - Edizioni Civitas
Muhm, Gerhard. “German Tactics in the Italian Campaign ” (in English). 2008年 ねん 4月 がつ 5日 にち 閲覧 えつらん 。
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