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イタリア侵攻 (第二次世界大戦) - Wikipedia

イタリア侵攻しんこう (だい世界せかい大戦たいせん)

だい世界せかい大戦たいせんにおける連合れんごう国軍こくぐんのイタリア侵攻しんこうえい: Allied invasion of Italy)は、1943ねん9がつハロルド・アレキサンダー大将たいしょうひきいるだい15ぐん集団しゅうだんマーク・クラークアメリカだい5ぐんバーナード・モントゴメリーイギリスだい8ぐんから構成こうせい)がイタリア半島はんとう本土ほんど侵攻しんこうおこなった作戦さくせんである。この作戦さくせんは、イタリア戦線せんせんにおいて、シチリアとう上陸じょうりく作戦さくせんつづいておこなわれたものである。この作戦さくせんは、西海岸にしかいがんであるサレルノ近辺きんぺんへの上陸じょうりく作戦さくせんであるアヴァランシェ作戦さくせんカラブリアターラントへの2つの支援しえん作戦さくせん前者ぜんしゃベイタウン作戦さくせん後者こうしゃスラップスティック作戦さくせん)で構成こうせいされていた。

連合れんごう国軍こくぐんのイタリア侵攻しんこう

1943ねん9がつ、イタリア本土ほんどのサレルノへ支援しえんほうもと上陸じょうりくする部隊ぶたい車両しゃりょう
戦争せんそうイタリア戦線せんせんだい世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ1943ねん9月3にち - 9月16にち
場所ばしょイタリアサレルノカラブリアターラント
結果けっか連合れんごう国軍こくぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
カナダの旗 カナダ
イギリス領インド帝国の旗 イギリスりょうインド帝国ていこく
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
イギリスの旗 ハロルド・アレキサンダー
イギリスの旗 バーナード・モントゴメリー
アメリカ合衆国の旗 ドワイト・D・アイゼンハワー
アメリカ合衆国の旗 マーク・W・クラーク
ナチス・ドイツの旗 アルベルト・ケッセルリンク
ナチス・ドイツの旗 ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ
ナチス・ドイツの旗 ヘルマン・バルク
ナチス・ドイツの旗 トラウゴット・ヘル英語えいごばん
イタリア王国の旗 マリオ・アリシオ英語えいごばん
戦力せんりょく
190,000 100,000
損害そんがい
2,009にん死亡しぼう
7,050にん負傷ふしょう
3,501にん行方ゆくえ不明ふめい
3,500にん死亡しぼう
イタリア戦線せんせん

背景はいけい 編集へんしゅう

連合れんごうこく戦略せんりゃく 編集へんしゅう

きたアフリカにおける枢軸すうじくぐんやぶったのち連合れんごうこくあいだつぎにどこをめるべきか意見いけん一致いっちしていなかった。ウィンストン・チャーチル英国えいこく首相しゅしょうは、イタリアを「ヨーロッパの下腹部かふくぶ[1]んで上陸じょうりく侵攻しんこう提唱ていしょうしていた。

戦争せんそうちゅうのイタリアにおける一般いっぱんてき支援しえん次第しだい減少げんしょうしており、チャーチルは侵攻しんこうによりイタリアと、とく地中海ちちゅうかいにおけるイタリア海軍かいぐん影響えいきょう削減さくげんすることができ、連合れんごうこく輸送ゆそう経路けいろけるとしんじていた。これは、中東ちゅうとうにおける連合れんごう国軍こくぐんへの補給ほきゅう容易よういにし、イギリスアメリカからソビエトへの支援しえん増加ぞうかさせることが容易よういになる。くわえて、これはドイツぐん戦力せんりょく分散ぶんさんさせ、計画けいかくちゅうオーバーロード作戦さくせん対象たいしょう地域ちいきからドイツぐん移動いどうさせることになる。

しかし、ジョージ・C・マーシャル大将たいしょうとアメリカの上層じょうそうはフランス上陸じょうりくおくらすような作戦さくせん実行じっこうすることはのぞんでいなかった。しかし、1943ねんちゅうに「オーバーロード作戦さくせん」を実行じっこうすることが不可能ふかのうであることが明確めいかくになったときに、その作戦さくせん計画けいかくなしに、きたアフリカにおける戦力せんりょくもちいる範囲はんいでのシチリアとう上陸じょうりく作戦さくせん同意どういした。

連合れんごう国軍こくぐん統合とうごう司令しれい(AFHQ)は地中海ちちゅうかい作戦さくせん戦域せんいきにおける連合れんごうこく陸軍りくぐん戦力せんりょく作戦さくせん統括とうかつしており、シチリアとうおよびイタリア本土ほんどへの侵攻しんこう作戦さくせん計画けいかく指揮しきをとっていた。

計画けいかく 編集へんしゅう

 
イタリア侵攻しんこう地図ちず

シチリアとう侵攻しんこう以前いぜん段階だんかいにおいては、連合れんごう国軍こくぐんターラント周辺しゅうへんへの限定げんていてき侵攻しんこうと、メッシーナ海峡かいきょうわたりイタリアの「つまさき部分ぶぶんとお前進ぜんしん計画けいかくしていたが、そこではドイツとイタリアのりょうぐんによる抵抗ていこう予想よそうされていた。しかし、ムッソリーニファシストとう失脚しっきゃくは、より野心やしんてき計画けいかくうながし、イギリスだい8ぐんによるナポリこう占領せんりょう計画けいかく追加ついかすることが決定けっていされた。連合れんごう国軍こくぐんは、シチリアとう基地きちとする連合れんごうこく軍機ぐんき航続こうぞく距離きょり圏内けんないに2つの上陸じょうりく候補こうほ地点ちてん選定せんていした。1つはヴォルトゥルノ河口かこう、もう1つはサレルノであったが、より航空機こうくうき基地きちちかてんなみおだやかで上陸じょうりくてきしているてん輸送ゆそうせん海岸かいがんちか地点ちてん停泊ていはくすることができるてん海岸かいがんはばせま前進ぜんしんのために道路どうろ容易ようい建設けんせつできるてん海岸かいがん後方こうほう既存きそん道路どうろもう発達はったつしているてん、など複数ふくすう利点りてんから、サレルノが上陸じょうりく地点ちてん決定けっていされた。

ベイタウン作戦さくせんはイタリア侵攻しんこうのための予備よび作戦さくせんであり、1943ねん9月3にちバーナード・モントゴメリー大将たいしょう指揮しきのイギリスだい8ぐんがシチリアとうメッシーナみなとから、メッシーナ海峡かいきょう横断おうだんし、カラブリア(イタリアの「つまさき」)に上陸じょうりくした。シチリアとうからの距離きょりみじかいため、ふねではなく、直接ちょくせつメッシーナから、上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい輸送ゆそうをおこなった。イギリスだいV軍団ぐんだん所属しょぞくのイギリスだい5歩兵ほへい師団しだんは「つまさき」の北側きたがわ上陸じょうりくし、カナダだい1歩兵ほへい師団しだん南側みなみがわのスパーティヴェントみさき上陸じょうりくした。モントゴメリー大将たいしょうは、ベイタウン作戦さくせん兵力へいりょく無駄遣むだづかいとつよ反対はんたいしていた。なぜならば、この作戦さくせんはドイツぐんがカラブリアで抵抗ていこうすることを前提ぜんていとしているが、ドイツぐんがそうしなかった場合ばあい牽制けんせい作戦さくせん意味いみたず、ただたんしゅ上陸じょうりく地点ちてんであるサレルノみなみ480kmに兵力へいりょくあそばせる結果けっかにしかならないからであった。モントゴメリー大将たいしょうただしさはのち証明しょうめいされた。だい8ぐん部隊ぶたいはサレルノまでの480kmを、工兵こうへい設置せっちした障害しょうがいぶつ以外いがいなん抵抗ていこう前進ぜんしんできたのである。

空挺くうてい部隊ぶたい使用しよう計画けいかく様々さまざまなものが存在そんざいしたが、それらはすべ中止ちゅうしとなった。最初さいしょ計画けいかくでは、アヴァランシェ計画けいかく一部いちぶとして、グライダーでサレルノ近郊きんこう空挺くうてい部隊ぶたい降下こうかするものであった。しかし、その計画けいかくは、グラント作戦さくせん変更へんこうされた。グラント作戦さくせんは、ヴォルトゥルノがわはし奪取だっしゅして確保かくほする計画けいかくであったが、兵站へいたんささえられないとかんがえられたため、グラントII作戦さくせん変更へんこうされた。グラントII作戦さくせんは、だい82空挺くうてい師団しだんローマ近郊きんこう飛行場ひこうじょう降下こうかする計画けいかくであった。これには、サレルノ周辺しゅうへん連合れんごう国軍こくぐん海岸かいがん堡からの距離きょりとおいため、イタリアぐん積極せっきょくてき協力きょうりょく必要ひつようであり、だい82空挺くうてい降下こうか師団しだんふく師団しだんちょうマクスウェル・D・テイラーじゅんしょうが、交渉こうしょうのためローマにんだ。最終さいしゅうてきに、テイラーはわなおちい可能かのうせいがあると判断はんだんし、作戦さくせん中止ちゅうし勧告かんこくした。決定けってい部隊ぶたいつたえられたのは、発動はつどう直前ちょくぜん9月8にち午後ごごであった。

上陸じょうりく作戦さくせんしゅ作戦さくせんであるアヴァランシェ作戦さくせんは1週間しゅうかんおくれの9がつ9にち計画けいかくされた。上陸じょうりく地点ちてんは、西海岸にしかいがんのサレルノ周辺しゅうへん上陸じょうりく部隊ぶたいは、マーク・W・クラーク中将ちゅうじょう配下はいかのアメリカだい5ぐんであった。だい5ぐんは、アメリカだい6軍団ぐんだんアーネスト・J・ドーリー少将しょうしょう)、イギリスだい10軍団ぐんだん(リチャード・マククリーリー中将ちゅうじょう)、そして予備よび兵力へいりょくとしてアメリカだい82空挺くうてい降下こうか師団しだんがあり、合計ごうけい8師団しだんと2旅団りょだん規模きぼであった。上陸じょうりく部隊ぶたいだい1目標もくひょうは、補給ほきゅうのためにナポリみなと確実かくじつ占領せんりょうすることであり、その東海岸ひがしかいがんかってすすみ、南側みなみがわにある枢軸すうじく国軍こくぐん包囲ほういすることであった。イギリスだい1空挺くうてい降下こうか師団しだんは、「スラップスティック作戦さくせん」としてイタリアのかかとの部分ぶぶんであるターラントちかくに上陸じょうりくし、サレルノの牽制けんせいとして活躍かつやくした。かれらの任務にんむは、周辺しゅうへん飛行場ひこうじょうみなと占領せんりょうし、だい8ぐん合流ごうりゅうしたのちフォッジャちかくでだい5ぐん合流ごうりゅうするためにきた進出しんしゅつすることであった。

計画けいかく大胆だいたんであったが欠点けってん存在そんざいした。だい5ぐん非常ひじょうひろい35マイルの前線ぜんせんって上陸じょうりくするが、3つの攻撃こうげきだんしか保持ほじしておらず、2つの軍団ぐんだんはその距離きょりかわ存在そんざいにより分断ぶんだんされているとてんである。さらに、地形ちけい防御ぼうぎょがわ有利ゆうりであった。アメリカの3レンジャー大隊だいたいとイギリスの2コマンド大隊だいたいから構成こうせいされる、ウィリアム・O・ダルビー大佐たいさ配下はいかのアメリカのレンジャー部隊ぶたいは、ナポリにつうじる山道さんどう確保かくほめいじられたが、レンジャー部隊ぶたいだい10ぐん後続こうぞく部隊ぶたい接続せつぞくするための計画けいかくなにかった。また、戦術せんじゅつてき奇襲きしゅう期待きたいできなかったにもかかわらず、太平洋たいへいよう戦線せんせんでは経験けいけんじょうかならっていた、海軍かいぐんによる事前じぜん支援しえん砲撃ほうげきがおこなわれなかった[2]

6のドイツ軍師ぐんしだんローマからつまさきまでのイタリアの西海岸にしかいがんにおける上陸じょうりく予想よそう地点ちてんをカバーしていた。この師団しだんには、ヘルマン・ゲーリング装甲そうこう師団しだんだい26装甲そうこう師団しだんだい16装甲そうこう師団しだんだい15装甲そうこう擲弾へい師団しだんだい29装甲そうこう擲弾へい師団しだんだい2空挺くうてい降下こうかりょうへい(パラシュート)師団しだんであった。ドイツだい10ぐん司令しれいかんハインリヒ・フォン・フィーティングホフはサレルノの平原へいげん見渡みわたせるおか配置はいちしただい16装甲そうこう師団しだん位置いちしていた。

アヴァランシェ作戦さくせんは「トップハット」の名称めいしょう計画けいかくされ、連合れんごうこくバルカン半島ばるかんはんとう侵攻しんこう偽装ぎそう計画けいかくである「ボードマン計画けいかく」の支援しえんけた。

戦闘せんとう 編集へんしゅう

みなみイタリアでの作戦さくせん 編集へんしゅう

 
アメリカぐんマーク・ウェイン・クラーク大将たいしょう、1943ねん9がつ12にち、イタリア、サレルノにおける上陸じょうりく作戦さくせんちゅうUSSアンコン艦上かんじょうにて
 
イタリアのプラート前進ぜんしんするだい370連隊れんたい

1943ねん9月3にち、ベイタウン作戦さくせんにおいて、バーナード・モントゴメリー大将たいしょう指揮しきのイギリスカナダ混成こんせいぐんであるイギリスだい8ぐんがイタリア本土ほんど上陸じょうりくした。上陸じょうりくたいする抵抗ていこうよわく、海岸かいがんせん17マイルを防衛ぼうえいしているドイツぐん連隊れんたいのこして、イタリアぐん部隊ぶたい即座そくざ降伏ごうぶくした。アルベルト・ケッセルリンクとそのスタッフはカラブリアの上陸じょうりく作戦さくせん連合れんごうこくしゅ作戦さくせんであるとはしんじていなかった。論理ろんりてきにはサレルノの地域ちいきや、ローマのきた地域ちいきがより攻撃こうげき地点ちてんとしてかんがえられた。かれは、トロウゴット・ヘル大将たいしょうだい76装甲そうこう軍団ぐんだんだい8ぐんとの交戦こうせんけて撤退てったいしつつ、はし破壊はかいなどでだい8ぐん遅延ちえんさせるようにめいじた。このように、モントゴメリーの作戦さくせんへの反対はんたいただしいことが証明しょうめいされた。だい8ぐん戦闘せんとうけるドイツぐん交戦こうせんすることができず、おも障害しょうがいは、地形ちけいとドイツぐんによる道路どうろはし破壊はかいであった。9月8にちまで、ケッセリングはハインリヒ・フォン・フィーティングホフだい10ぐん集結しゅうけつさせ、連合れんごうこく上陸じょうりくたいして迅速じんそく対応たいおう可能かのうとした[3]

しゅ侵攻しんこう作戦さくせんまえ9月8にちイタリアの降伏ごうぶく連合れんごうこく発表はっぴょうされ、イタリアぐん戦闘せんとう中止ちゅうしし、海軍かいぐん降伏ごうぶくのため連合れんごうこくみなとかった。しかし、イタリア国内こくないのドイツぐんはそのよう事態じたいへの準備じゅんびができていて、イタリアぐん武装ぶそう解除かいじょし、重要じゅうよう防衛ぼうえい地点ちてん占拠せんきょおこなった。

スラップスティック作戦さくせんは9月9にちおこなわれた。ターラントにイギリスだい1空挺くうてい師団しだん上陸じょうりくした。前日ぜんじつにイタリアが降伏ごうぶくし、その地域ちいきにはすこしのドイツぐんしかいなかったため、イギリスぐんは、上陸じょうりくよう舟艇しゅうていなどでく、軍艦ぐんかんから直接ちょくせつみなと上陸じょうりくおこなった。抵抗ていこうはほとんどく、まちみなとはすぐに占領せんりょうされ、損失そんしつはほとんどしょうじなかった。

サレルノへの上陸じょうりく 編集へんしゅう

アヴァランシェ作戦さくせんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだい5ぐんによるサレルノへの上陸じょうりく作戦さくせんは、9月9にち奇襲きしゅう効果こうかあたえるため、事前じぜん海軍かいぐんによるかんほう射撃しゃげき航空機こうくうきによるばくげきなしに攻撃こうげきおこなわれた。しかし、海軍かいぐん指揮しきかん予測よそくしたような戦術せんじゅつてき奇襲きしゅう実現じつげんしなかった。だい36歩兵ほへい師団しだんだいいちは、パエストゥムのある海岸かいがんちかづいた。上陸じょうりく地点ちてんからは拡声かくせいによって英語えいごで「上陸じょうりく降伏ごうぶくせよ。我々われわれはおまえたちを丁重ていちょうあつかう。」しかし、連合れんごう国軍こくぐん部隊ぶたいはそれを無視むしして攻撃こうげきおこなった。

イギリスだい46歩兵ほへい師団しだんだい56歩兵ほへい師団しだんとアメリカレンジャー部隊ぶたいとイギリス海兵かいへいたいのコマンド部隊ぶたいから構成こうせいされる、だい10軍団ぐんだんはその上陸じょうりくにたいしてことなった反応はんのうがあった。レンジャー部隊ぶたいは、抵抗ていこうなく上陸じょうりくでき、目的もくてきである山道さんどうさえた。コマンド部隊ぶたいは、かる抵抗ていこう遭遇そうぐうしたが、サレルノのまち迅速じんそく占領せんりょうすることができた。一方いっぽう、2歩兵ほへい師団しだんは、強固きょうこ抵抗ていこう遭遇そうぐうし、かんほう射撃しゃげきちからりないと内陸ないりくへの進路しんろることができなかった。ドイツぐん抵抗ていこうふかさとその強度きょうどはイギリスの指揮しきかん南方なんぽうのアメリカぐんとの接続せつぞくはかるよりも部隊ぶたい集中しゅうちゅうさせることを強要きょうようさせた。パエストゥムにおいて、ドイツぐんほう機関きかん銃座じゅうざ設置せっちし、上陸じょうりく地点ちてんからの前進ぜんしん困難こんなんとなるように戦車せんしゃ分散ぶんさん配置はいちした。だい36歩兵ほへい師団しだん直前ちょくぜんまで戦闘せんとう状態じょうたいになく、ゆっくりと部隊ぶたい編成へんせいおこない、海岸かいがん占拠せんきょ成功せいこうさせた。07:00ころまで、だい16装甲そうこう師団しだんによる反撃はんげきおこなわれた。この反撃はんげきにより損害そんがいおおきくしたが、かんほう射撃しゃげき支援しえんによりこれを撃退げきたいすることができた。みなみでは、だい141歩兵ほへい連隊れんたいだい1大隊だいたい戦闘せんとうによりいちにちちゅう釘付くぎづけとなり、無線むせん通信つうしん圏外けんがいとなった。

イギリスぐんとアメリカぐん海岸かいがん堡は5マイルの間隔かんかくがあったため、その地域ちいきすべてはイギリスの2師団しだんてられた。軍団ぐんだん境界きょうかいせんだい10軍団ぐんだん作戦さくせん容易よういにするため、再度さいどきなおされ、安全あんぜんとなっていない領域りょういきのほとんどの地域ちいきだい6軍団ぐんだんてられた。2つの戦力せんりょくはそのわりに接続せつぞくし、海岸かいがんせん沿って35 - 45マイル(55 - 70km)のはばふかさ6 - 7マイル(10 - 12km)の領域りょういき占領せんりょうした。

ドイツの反撃はんげき 編集へんしゅう

9月12にちから9月14にちにかけて、ドイツぐん自動車じどうしゃされた6師団しだん一部いちぶによる反撃はんげき開始かいしした。目的もくてきは、サレルノの海岸かいがん占領せんりょうし、イギリスだい8ぐん合流ごうりゅうするまえ上陸じょうりく部隊ぶたいうみとすことであった。アメリカぐん集中しゅうちゅうした攻撃こうげきたいするには防衛ぼうえいせんすすきすぎ、反撃はんげきだい損害そんがいこした。だい36歩兵ほへい師団しだんだい143歩兵ほへい連隊れんたいだい2歩兵ほへい大隊だいたいはドイツぐん装甲そうこう部隊ぶたいにさらされ、全滅ぜんめつした。

左翼さよくだい6軍団ぐんだんで、アメリカだい45歩兵ほへい師団しだん上陸じょうりくし、だい10ぐんてられた地域ちいき確保かくほしようと前進ぜんしんした。ドイツぐん装甲そうこう部隊ぶたい反撃はんげきによりかなりの土地とちかえした。9月13にちに、だい45歩兵ほへい師団しだん右翼うよくは、セレがわカロレ・ルカノがわまじわるてんで2つのアメリカぐん師団しだんあいだ突出とっしゅつやぶられてしまった。ドイツぐん装甲そうこう部隊ぶたい攻撃こうげきは、海岸かいがん堡の補給ほきゅう物資ぶっし集積しゅうせきしょから4マイルの地点ちてんで、砲兵ほうへいかんほう射撃しゃげき、そして砲兵ほうへい部隊ぶたいにより構成こうせいされたわせの歩兵ほへい部隊ぶたいによりめられた。

りょう師団しだん前線ぜんせん部隊ぶたいは、T・ラ・カソがわ後方こうほうがり、防衛ぼうえいせんながさをみじかくした。あたらしい境界きょうかいせん近傍きんぼうだい82空挺くうてい降下こうか師団しだん支援しえんけて防衛ぼうえいされた。だい504パラシュート歩兵ほへい連隊れんたいの2大隊だいたい(1800にん)は、9月13にちよる海岸かいがん堡にがったのちだい6ぐんみぎ防衛ぼうえいせんすみやかに移動いどうした。翌日よくじつよる危機ききり、だい505パラシュート歩兵ほへい連隊れんたいだい504連隊れんたい補充ほじゅうとして、海岸かいがん堡に空挺くうてい降下こうかおこなった。だい504連隊れんたいだい3大隊だいたい増強ぞうきょうされた、だい325グライダー歩兵ほへい連隊れんたい9月15にち上陸じょうりくした。

強力きょうりょくかんほう射撃しゃげき支援しえんと、だい5ぐん砲兵ほうへいによる支援しえんにより、補充ほじゅうさい編成へんせいされた歩兵ほへい部隊ぶたい9月14にち防衛ぼうえいせん弱点じゃくてん攻略こうりゃくしようとするドイツぐんすべての攻撃こうげきふせぎきった。ドイツぐん損害そんがいは、ひどく、とく戦車せんしゃ損害そんがいおおきかった。9月15にちもドイツぐんこころみはつづいたが、よく9月16にちには、連合れんごう国軍こくぐん強力きょうりょくで、突破とっぱするのはむずかしいことがかり、フォン・フィーティングホフは、遅延ちえん工作こうさくおこないながら、だい10ぐんきた撤退てったいさせるように命令めいれいした。9月17にちに、連合れんごう国軍こくぐん両方りょうほう軍団ぐんだん地域ちいき偵察ていさつ部隊ぶたいは、海岸かいがん堡のあちこちにおいて、ドイツぐんとの交戦こうせん状態じょうたい解消かいしょうされていることがかり、よく9月18にちすべての目標もくひょうさい確保かくほしたのちだい5ぐんきた進軍しんぐん開始かいしした。

マーク・W・クラーク大将たいしょうは、この戦闘せんとうにおける前線ぜんせん指揮しきによって、2番目ばんめ高位こういしょうである殊勲しゅくんじゅうあきらけた。実際じっさいかれ頻繁ひんぱん戦闘せんとうちゅう部隊ぶたいのある前線ぜんせん姿すがたあらわしていた。しかし、歴史れきしカルロ・D・エステの意見いけんでは、クラークの作戦さくせん指揮しきのまずさがこの危機ききこしたとわれている。クラーク自身じしん海岸かいがん堡における危機ききたいして、だい8ぐん対応たいおうおそさを非難ひなんしていた。この意見いけんはいくらかの正当せいとうせいがあった。上陸じょうりくした9月9にちにモントゴメリーはだい8ぐん休養きゅうようあたえるため2日間にちかん前進ぜんしんめていたからである。

サレルノのたたかいはイギリスだい10軍団ぐんだんの600にんによるサレルノの反乱はんらんしょうじた場所ばしょでもある。かれらは、9月16にち補充ほじゅう部隊ぶたいとしてあたらしい部隊ぶたいへの配属はいぞく拒否きょひしたのだった。かれらは、負傷ふしょうのためきたアフリカ戦線せんせんにおいてたたかっていたもと部隊ぶたい復帰ふっきするものとしんじていたものたちであった。最終さいしゅうてき軍団ぐんだん指揮しきかんであるマククリーリーはその命令めいれいしたがうように説得せっとくおこなった。反乱はんらん指揮しきした下士官かしかん死刑しけい宣告せんこくされたが、実際じっさいのところ、部隊ぶたいさい統合とうごうされ、判決はんけつ実行じっこうされなかった。

連合れんごう国軍こくぐんさらなる進軍しんぐん 編集へんしゅう

 
ドイツぐんがローマみなみ準備じゅんびした防衛ぼうえいせん(ウィンターライン)の地図ちず

サレルノの海岸かいがん堡の安全あんぜん確保かくほされたのち、9月19にちだい5ぐん北西ほくせいのナポリへかって攻撃こうげき開始かいしした。だい82空挺くうてい降下こうか師団しだんは、アルタヴィッラ・シレンティーナちかくでだい損害そんがいけたのちだい10軍団ぐんだん配置はいちえされ、ソレント半島はんとうにいるレンジャー部隊ぶたいおよび、イギリスだい23機甲きこう旅団りょだん合流ごうりゅうし、イギリスだい46歩兵ほへい師団しだん攻撃こうげきしている、ノチェーラのドイツぐん防衛ぼうえいせん側面そくめんから攻撃こうげきした。イギリスだい7機甲きこう師団しだんは、だい46師団しだんがいる地点ちてん通過つうかし、ナポリ占拠せんきょかった。一方いっぽうあらたに上陸じょうりくしたアメリカだい3歩兵ほへい師団しだん9月22にちアチェルノ占領せんりょうし、9月28にちアヴェッリーノ占領せんりょうした。

だい8ぐんは「つまさき」からドイツぐん工兵こうへいによる妨害ぼうがい出会であいながらも順調じゅんちょう進軍しんぐんつづけ、アドリア海あどりあかい海岸かいがんだい1空挺くうてい降下こうか師団しだん合流ごうりゅうすることができた。9月16にちにはだい5ぐん右翼うよく戦線せんせん左翼さよく出会であい、9月27にちにはフォッジャちかくの飛行場ひこうじょう占領せんりょうしながらアドリア海あどりあかい海岸かいがん沿いを前進ぜんしんした。フォッジャは、複雑ふくざつだい規模きぼ飛行場ひこうじょうがあり、この飛行場ひこうじょう使用しようして、フランス、ドイツ、バルカンにあるあらたな目標もくひょう攻撃こうげき可能かのうであるため、連合れんごう国軍こくぐん目標もくひょうとなっていた。

だい1国王こくおう近衛このえ竜騎兵りゅうきへい連隊れんたいのA部隊ぶたい10月1にちにナポリにはいり、3イギリス陸軍りくぐん師団しだん、5アメリカ陸軍りくぐん師団しだんより構成こうせいされるだい5ぐんは、10月6にちヴォルトゥルノがわ到達とうたつした。ここは、ドイツぐんはんげきから、ナポリをまも自然しぜん防御ぼうぎょせんで、カンパニアン平原へいげん必要ひつよう不可欠ふかけつ飛行場ひこうじょう存在そんざいした。一方いっぽうアドリア海あどりあかい沿岸えんがんでは、イギリスだい8ぐんビフェルノがわ沿いのカンポバッソから、ラリーノテルモリにかけてのせんまで前進ぜんしんした。

その 編集へんしゅう

ドイツだい10ぐんは、サレルノの海岸かいがん堡をおびやかすほどちかくまで接近せっきんすることができた。装甲そうこう師団しだんおよ装甲そうこう擲弾へい師団しだん6使用しようしたにもかかわらず、ドイツぐん攻撃こうげき連合れんごうこく前線ぜんせん突破とっぱし、連合れんごうこく砲兵ほうへいおよかんほう射撃しゃげきなか占領せんりょう拡大かくだいするには不十分ふじゅうぶんであった。連合れんごうこくにとって幸運こううんなことに、このとき、アドルフ・ヒトラーは、きたイタリアにおけるぐん集団しゅうだん指揮しきかんであるロンメル元帥げんすい意見いけん賛成さんせいしており、かれは、イタリアのローマのみなみでの防衛ぼうえいはそれほど重要じゅうようではないとかんがえていた。その結果けっかみなみイタリアのぐん集団しゅうだん指揮しきかんである、アルベルト・ケッセルリンク元帥げんすいきたイタリアのぐん集団しゅうだんから予備よびくことをきんじられていた。

だい損害そんがいけながらのだい10ぐん成功せいこうとケッセルリンクの戦略せんりゃくてきかんがえは、ヒトラーに連合れんごうこくはドイツ国境こっきょうちかづかず、ドイツがバルカンの石油せきゆ資源しげん使用しようすることを妨害ぼうがいしようとしているとかんがえさせた。11月6にち[4]、ヒトラーはロンメルをきたフランスにおける防御ぼうぎょせん構築こうちく監督かんとくき、ケッセルリンクにイタリア全土ぜんど指揮しきけんあたえ、できるだけながくローマをドイツぐん保持ほじつづけるようにめいじた[5]

10がつ前半ぜんはんには、みなみイタリアの全体ぜんたい連合れんごうこく手中しゅちゅうとなり、連合れんごうこくぐんは、ヴォルトゥルノラインめんしていた。このせんは、イタリアを横切よこぎ準備じゅんびされた防衛ぼうえいせんであった。ドイツぐんはここで遅延ちえん作戦さくせんおこないながらたたかうことをえらび、ウィンター・ラインにおける防備ぼうびととのうまでの時間じかんかせいだ。このウィンター・ラインはローマみなみ防御ぼうぎょせんである。イタリアのたたかにおけるつぎ舞台ぶたいは、連合れんごう国軍こくぐんにとって、地形ちけいてきおよ天候てんこうてきに、熟練じゅくれんされ計画けいかくてき十分じゅうぶん準備じゅんびされた防衛ぼうえいせんたいしての消耗しょうもうせんであった。この防衛ぼうえいせん天候てんこう防御ぼうぎょがわにとって非常ひじょう有利ゆうりで、連合れんごう国軍こくぐんにとっては航空こうくう支援しえん機械きかい装備そうび利点りてん無効むこうにするようなものであった。ヴォルトゥルノ、バルバラ、ベルンハルトラインをけ、ウィンター・ラインのようであるグスタフ・ラインに到達とうたつするには1944ねん1がつちゅうまでかかった。このウィンター・ラインでは4かいモンテ・カッシーノのたたかおこなわれ、これにも1944ねん1がつから5がつまでかかった。

各種かくしゅ作品さくひん 編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ underbelly of Europe。「やわらかい下腹かふく(soft underbelly)」といういいかたがなされることもおおいが、チャーチルのもと発言はつげんには「やわらかい」とはない。
  2. ^ Grigg
  3. ^ Lloyd Clark, Anzio, p20
  4. ^ Orgill, The Gothic Line, p5
  5. ^ Mavrogordato, p. 321

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう