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カル・ハバード - Wikipedia

カル・ハバード

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく野球やきゅう選手せんしゅ (1900-1977)

ロバート・カルヴィン・ハバードRobert Calvin Hubbard1900ねん10月31にち - 1977ねん10月17にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくミズーリしゅうキーテスビル出身しゅっしんもとアメリカンフットボール選手せんしゅメジャーリーグ審判しんぱんいん1963ねんプロフットボール殿堂でんどう1976ねんアメリカ野球やきゅう殿堂でんどうつらねている。現在げんざい両方りょうほう殿堂でんどう表彰ひょうしょうけた唯一ゆいいつ人物じんぶつである。

カル・ハバード
Cal Hubbard
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カル・ハバード
基本きほん情報じょうほう
ポジション タックル
生年月日せいねんがっぴ 1900ねん10月31にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1977-10-17) 1977ねん10月17にち(76さいぼつ
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ミズーリしゅうキーテスビル
身長しんちょう: 6' 2" =やく188cm
体重たいじゅう: 253 lb =やく114.8kg
経歴けいれき
高校こうこう グラスゴー高校こうこう
(ミズーリしゅうグラスゴー
大学だいがく ルイジアナセンテナリー大学だいがく
ジェネバ・カレッジ
はつ出場しゅつじょうねん 1927ねん
はつ出場しゅつじょうチーム ニューヨーク・ジャイアンツ
所属しょぞくれき
選手せんしゅれき
1927-1928 ニューヨーク・ジャイアンツ
1929-1933 グリーンベイ・パッカーズ
1935 グリーンベイ・パッカーズ
1936 ニューヨーク・ジャイアンツ
1936 ピッツバーグ・パイレーツ
コーチれき
1942 ジェネバ大学だいがく
受賞じゅしょうれき記録きろく
オールプロ選出せんしゅつ(4かい
1927・1929・1930・1931
その受賞じゅしょう記録きろく
NFL優勝ゆうしょう:4かい1927192919301931
NFL1920年代ねんだいオールディケードチーム
NFL50周年しゅうねんオールタイムチーム
NFL75周年しゅうねんオールタイムチーム
NFL100周年しゅうねんオールタイムチーム
グリーンベイ・パッカーズ殿堂でんどう
NFL 通算つうさん成績せいせき
試合しあい出場しゅつじょう 105
先発せんぱつ出場しゅつじょう 77
Player stats at NFL.com
Player stats at PFR
カル・ハバード
Cal Hubbard
基本きほん情報じょうほう
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション 審判しんぱんいん
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
殿堂でんどう表彰ひょうしょうしゃ
選出せんしゅつねん 1976ねん
選出せんしゅつ方法ほうほう ベテランズ委員いいんかい選出せんしゅつ

経歴けいれき人物じんぶつ

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フットボール選手せんしゅ時代じだい

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1922ねんから1924ねんあいだルイジアナしゅうルイジアナセンテナリー大学だいがくのフットボール選手せんしゅをしていた。6フィート4インチで250ポンドの大柄おおがら体格たいかくながらうごきの機敏きびんなラインバッカーとして活躍かつやく当時とうじ有名ゆうめいなコーチだったボー・マクミリンが1926ねんにピッツバーグのジェネバ・カレッジうつったさい、ハバードはかれのちって転学てんがくをしている。1962ねん大学だいがくフットボールの殿堂でんどうりをたしている。

1927ねんNFLニューヨーク・ジャイアンツ入団にゅうだん、2ねん在籍ざいせき1929ねんから1933ねんまでグリーンベイ・パッカーズ所属しょぞくし、チームは1929ねん~1931ねんの3ねん連続れんぞくでNFLチャンピオンとなっている。1933ねんいち現役げんえき退しりぞいたが、1935ねん復帰ふっきよく1936ねんまで選手せんしゅつづけた。

MLB審判しんぱんとして

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ハバードはフットボール選手せんしゅつとめるかたわらで、シーズンオフにはマイナーリーグの審判しんぱんをつとめていた。1936ねんにメジャーリーグに昇格しょうかく、1951ねんまでアメリカンリーグ審判しんぱんいんとして活動かつどうする。審判しんぱんいんとしてのかれおおきな功績こうせきは、それまでのフットボールのノウハウをかして、試合しあい状況じょうきょうおうじたかく審判しんぱんいん位置いちりを体系たいけいしたことである。それまで判定はんてい位置いちりは個々ここ審判しんぱんいん経験けいけんまかされることがおおく、またプレーの場所ばしょによって球審きゅうしんかく塁審るいしん判定はんていのどちらに責任せきにんがあるのかなど明確めいかくなケースがあったという。ハバードの在籍ざいせき期間きかんちゅうだった1952ねんに、試合しあい審判しんぱんいんが3にん体制たいせいから4にん体制たいせい変更へんこうされたさいにこのかんがかた適用てきようされ、現在げんざい審判しんぱんいん試合しあいちゅう位置いちりにかんする基礎きそとなっている。

1951ねん、ハバードは猟銃りょうじゅう事故じこ右目みぎめ負傷ふしょうして審判しんぱんしょく退しりぞくことになったが、その1954ねんからリーグ審判しんぱんいん統括とうかつ責任せきにんしゃとなり、1969ねんまで在職ざいしょくしていた。1976ねんアメリカ野球やきゅう殿堂でんどうはいり。翌年よくねんがんのためフロリダしゅうセントピータースバーグで死去しきょ

フットボール選手せんしゅれき

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所属しょぞく球団きゅうだん

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年度ねんどべつ成績せいせき

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レギュラーシーズン

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年度ねんど チーム
ばん
ごう
試合しあい
出場しゅつじょう 先発せんぱつ
1927 NY 41 10 10
1928 13 13
1929 GB 39 12 10
1930 40 14 13
1931 38 12 4
1932 40 13 11
1933 27 13 8
1935 51 11 7
1936 NY 60 6 1
PIT 35 1 0
'36けい 7 1
NFL:9ねん 105 77
  • 1936年度ねんどシーズン終了しゅうりょう
  • 太字ふとじ自身じしん最高さいこう記録きろく

記録きろく表彰ひょうしょうとう

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  • NFLオールディケード・チーム(1920年代ねんだい選出せんしゅつ
  • カレッジフットボール殿堂でんどうり(1962ねん
  • プロフットボール殿堂でんどうはいり(1963ねん

審判しんぱんれき

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在籍ざいせき:アメリカンリーグ(1936ねん~1951ねん

  • 出場しゅつじょう試合しあいすう
    • レギュラーシーズン:2470試合しあい
    • ワールドシリーズ:21試合しあい
    • オールスターゲーム:3試合しあい(1939ねん、1944ねん、1949ねん

在職ざいしょくちゅう出来事できごと

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  • 1939ねん9月3にちのレッドソックスたいヤンキースせんでのこと。当時とうじ日曜にちようよる外出がいしゅつ禁止きんしれいていたこともあり、8かいで7-5とリードしていたレッドソックスは、試合しあいはやすすめようとするヤンキースにたいして試合しあいおくらせる行為こういた。ヤンキースの二人ふたり打者だしゃつづけて敬遠けいえんすると、フェンウェイ・パークのファンは試合しあい進行しんこうおくらせる手助てだすけとして、場内じょうないのクッションやゴミをフィールドにはじめた。ハバードはこの試合しあい没収ぼっしゅう試合しあい宣告せんこくしたが、当時とうじのア・リーグ会長かいちょうウィル・ハリッジのちにこの裁定さいていくつがえしてりょうチームの監督かんとく罰金ばっきんし、試合しあい再開さいかいするようにめいじた。
  • 1947ねん7がつ27にちのレッドソックスたいブラウンズの試合しあいで、レッドソックスのジェイク・ジョーンズがはなった三塁さんるいせんのファウルの打球だきゅうがフェアグラウンドにもどってきそうになるところを、ブラウンズの投手とうしゅフレッド・サンフォードがグローブをげつけてこれをさまたげた。ハバードは当時とうじ規則きそくしたがってジョーンズに三塁打さんるいだあたえ、試合しあいはこれがもとで4-3でレッドソックスの逆転ぎゃくてんちとなった。グローブを打球だきゅうげたとき三塁さんるいあたえられるこのルールは、その1954ねんに、フェアグラウンドのボールのみに適用てきようするようルールが改正かいせいされた。
  • 1961ねん11月26にちのメジャーリーグ規則きそく委員いいんかいスピットボール合法ごうほう議題ぎだいさい規則きそく委員いいんかいは8たい1の投票とうひょうでこれを否決ひけつしたが、賛成さんせいの1ひょうとうじたのがカル・ハバードだったという。

外部がいぶリンク

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