ホルトは陸軍長官退任後、合衆国陸軍に大佐として加わった。1862年、ホルトはエイブラハム・リンカーン大統領により陸軍法務総監に任ぜられた。
ホルト以前の法務総監はすべて将官よりも低い階級であったが、リンカーン大統領はホルトを名誉少将に昇進させた。また1862年、リンカーン大統領はホルトに内務長官の職を提示したが、ホルトはこれを断った。リンカーン大統領は1864年にもホルトに司法長官の職を提示したが、ホルトはこれも断った。
左からジョン・ビンガム、ジョセフ・ホルト、ヘンリー・バーネット
1865年4月14日、フォード劇場においてリンカーン大統領がアメリカ連合国の信奉者ジョン・ウィルクス・ブースに銃撃され、翌4月15日朝に死亡した。国務長官ウィリアム・スワードと国務次官補フレデリック・スワードもまたブースの共犯者ルイス・パウエルによって重傷を負わされた。ホルトは連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスとその支持者5人を容疑者として逮捕するため、新大統領アンドリュー・ジャクソンが逮捕命令書に署名を行う準備を整えた。ブースは1865年4月26日に農園の小屋に隠れているところを発見され、ボストン・コーベット軍曹によって撃たれ、その傷がもとになって死んだ。
ホルトは陸軍法務総監として、合衆国下院議員ジョン・ビンガムおよび名誉准将ヘンリー・ローレンス・バーネットの2人を法務副総監に据えた。そしてホルトはリンカーン大統領暗殺に関与した被告人に対する裁判で、裁判長を務めた。被告人はジョージ・アツェロット、デイヴィッド・ヘロルド、ルイス・パウエル、サミュエル・アーノルド、マイケル・オローリン、エドマン・スパングラー、サミュエル・マッド、メアリー・サラットの8人であった。
裁判は1865年5月10日に開廷した。ホルトら3人の裁判官はこの裁判において、陪審員からの評決を待つためにおよそ2ヶ月を費やした。3人は被告人の容疑について概ね慎重に審議したが、ホルトとビンガムは被告人らが計画した2件の謀略については深く追求をしなかった。1件はリンカーン大統領を誘拐し、合衆国が拘束した連合国の囚人と交換させること。もう1件はリンカーン大統領、ジョンソン副大統領、スワード国務長官を暗殺し、政府に混乱を引き起こすことであった。これらの謀略に深く立ち入らないことは、ブースから日記を入手した事実を隠蔽しておきたかった検察当局にとっては重要なことであった。だが意外なことに、弁護側はブーンの日記の提示を要求しなかった。そのため日記の存在が明らかになったのは、しばらく経過した後であった。その後ホルトは証拠を隠匿したとして告訴されたが、明らかな証拠は挙がらなかった。
1865年6月29日、ホルトは8人の被告人に対して、大統領暗殺に関する有罪判決を下した。アーノルド、オローリン、マッドの3人に対しては終身刑が、スパングラーに対しては6年の懲役刑がい渡され、アッツアーロット、ヘロルド、パウエル、サラットの4人に対しては絞首刑がい渡された。4人の絞首刑は1865年7月7日に執行された。またオローリンは1867年に刑務所内で死亡した。アーノルド、スパングラー、マッドの3人は1869年にアンドリュー・ジョンソン大統領から恩赦を受け、釈放された。
ホルトの公的な人物像は、この裁判によって大きく悪化した。後世の歴史家の大部分は、この裁判によってホルトの政治生命が終了したと考えた。1866年、ホルトは「売国者による不正な中傷、偽証者および偽証教唆者による自白、およびジェファーソン・デイヴィスの利益行動から導かれる、法務総監ホルトの正当性」と題した論説を発表し、事件に関する混乱を収拾しようとした。