(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ハーデクヌーズ - Wikipedia

ハーデクヌーズ

だい6だいイェリングちょうデンマーク国王こくおう / だい3だいデーンあさイングランド国王こくおう

ハーデクヌーズHardeknud, 1018ねん/1019ねん - 1042ねん6月8にち)は、デンマーク在位ざいい1035ねん - 1042ねん)およびイングランド在位ざいい1035ねん - 1037ねん[1]1040ねん1042ねん)のおうクヌート大王だいおうノルマンディーこうむすめエマあいだのただ一人ひとり息子むすこである。英語えいご表記ひょうきではハーザクヌート(Harthacnut)となる。

ハーデクヌーズ
Hardeknud
デンマーク国王こくおう
イングランド国王こくおう
在位ざいい デンマークおう1035ねん - 1042ねん6月8にち
イングランドじんおう1040ねん3月17にち - 1042ねん6がつ8にち

出生しゅっしょう 1018ねんころ
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこく
死去しきょ 1042ねん6月8にち
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこくランベス
配偶はいぐうしゃ なし
父親ちちおや クヌート大王だいおう
母親ははおや エマ・オブ・ノーマンディー
テンプレートを表示ひょうじ

若年じゃくねん

編集へんしゅう

ハーデクヌーズは1017ねん8がつまたは7がつ誕生たんじょうした[2]父親ちちおやクヌート大王だいおう1人ひとり王妃おうひエルギフ・オブ・ノーサンプトンいて、あらたにエマ・オブ・ノーマンディー結婚けっこんしており、ハーデクヌーズはクヌートとエマとのあいとしてまれた。後世こうせい文献ぶんけんによると、クヌート大王だいおうはエマ王妃おうひとのあいをエルギフ王妃おうひとのあいよりも優先ゆうせんあつかうことに同意どういしていたという。1023ねん、ハーデクヌーズとエマは殉教者じゅんきょうしゃひじりエルフェア英語えいごばん遺体いたいのロンドンからカンタベリーへのうつり葬儀そうぎしき参加さんかし、重要じゅうよう役割やくわりたしたという。この出来事できごとは、ハーデクヌーズの伝記でんき作家さっかラン・ホワードによるとハーデクヌーズがクヌート大王だいおうのイングランドおうとしての継承けいしょうしゃとしてなされていたことをしめ出来事できごとであるという[3]

1020年代ねんだい、デンマーク王国おうこくはノルウェー・スウェーデン王国おうこく脅威きょういにさらされていた。この状況じょうきょう打破だはすべく、クヌート大王だいおう義兄弟ぎきょうだいウルフはく英語えいごばん摂政せっしょうのもとで8さいのハーデクヌーズを次期じき国王こくおうとしてデンマーク王国おうこく派遣はけんし、王国おうこく防衛ぼうえい強化きょうかした。しかしウルフはくはデンマーク諸侯しょこうたいしてハーデクヌーズをクヌート大王だいおう権威けんいなしにデンマークおうみとめさせ、ノルウェー・スウェーデン侵攻しんこうぐんたいして積極せっきょくてき反撃はんげきおこなうことなく、クヌート大王だいおう支援しえんつづけた。1027ねん、クヌート大王だいおう艦隊かんたいひきいてデンマークに帰還きかんし、この醜態しゅうたいさらしたウルフはく殺害さつがいした。しかしこのときハーデクヌーズは若年じゃくねんであることを理由りゆうゆるされた。クヌート大王だいおうはその侵略しんりゃくぐんたし、ノルウェー王国おうこくたいするかれ権威けんい回復かいふくさせたのち、1028ねんにイングランドへと帰還きかんした。ハーデクヌーズはデンマーク王国おうこくのこされ、ハーデクヌーズおうとしてデンマークを統治とうちした[4]

 
イングランド・デンマーク・ノルウェーおうクヌートとかれ息子むすこたち

クヌート大王だいおう配下はいかのノルウェー王国おうこく代理だいり統治とうちしゃとしてハーコン・エイリークソン任命にんめいしていたが、かれは1029ねん(1030ねん)の船舶せんぱく事故じこくなった。ハーコンの後継こうけいとしてクヌートは息子むすこスヴェイン・クヌートソンをノルウェー代理だいり統治とうちしゃ任命にんめいし、またかれ母親ははおやのエルギフ王妃おうひ摂政せっしょうにんじた。しかしスヴェインはノルウェーに圧政あっせいき、重税じゅうぜいしたりデンマーク貴族きぞく優遇ゆうぐうしたりしたことによりおおくのノルウェーじん反感はんかんった。結果けっか、1035ねん先代せんだいノルウェーおうせいオーラヴ息子むすこマグヌス亡命ぼうめいさきから帰還きかんしノルウェー王国おうこく侵攻しんこう開始かいしした。ノルウェー貴族きぞく支援しえんたマグヌスはスヴェインらを圧倒あっとうし、スヴェインはデンマークおうハーデクヌーズの宮廷きゅうていへの亡命ぼうめいまれた。ハーデクヌーズはスヴェインのちかしい盟友めいゆうであったものの、ノルウェーにたいするだい規模きぼ遠征えんせい敢行かんこうできるほどの余力よりょくはデンマークにのこっていなかった。それゆえにスヴェイン・ハーデクヌーズ兄弟きょうだい父親ちちおやのクヌート大王だいおう支援しえん依頼いらいこころみた。しかし同年どうねん11がつたのみのつなであったクヌート大王だいおうすでくなっていたのであった[5]

ハロルドとデンマーク

編集へんしゅう

1035ねん、ハーデクヌーズは父親ちちおやクヌートののちいで、クヌート3せいとしてデンマークおう就任しゅうにんした[6]当時とうじ状況じょうきょうてきに、かれはデンマークをはなれることはできず、スヴェインの兄弟きょうだい自身じしん異母いぼ兄弟きょうだいであるハロルド摂政せっしょうとしてイングランドに派遣はけんし、エマおうははともにイングランドを統治とうちさせた。1037ねん、ハロルドはイングランドおうとしてみとめられ、ハロルド1せいうさぎあしおうとしてイングランドおう即位そくいした。アングロ・サクソン年代ねんだい言葉ことばりれば、 「ハーデクヌーズはデンマークに長居ながいしすぎ、イングランドみんから見放みはなされてしまった」のだという[7]。このさい、エマおうははフランドルブルッヘ亡命ぼうめいした。1039ねん、ハーデクヌーズは10せき艦船かんせんひきいてブルッヘに滞在たいざいするエマおうはは面会めんかいした。しかし王位おうい奪還だっかんのために企画きかくされていたイングランド遠征えんせい延期えんきされた。ハロルドおう当時とうじ病気びょうき気味ぎみで、すぐにぬだろうとかんがえられていたからである。1040ねん予想よそうどおりハロルドおう病死びょうしし、イングランド王国おうこくより次期じきイングランドおうへの即位そくい要請ようせいする使者ししゃがフランドルへと派遣はけんされた。

クヌート大王だいおう死後しご出来事できごと概略がいりゃく明確めいかくとなっているものの、それぞれの出来事できごとについての詳細しょうさいあきらかになっておらず、歴史れきしによってことなる説明せつめいがなされている 。現在げんざい歴史れきしローソンは、「 ハーデクヌーズがイングランドおうとデンマークおう兼任けんにんしていたのかどうかはあきらかとなってはいないものの、テムズがわ南部なんぶにおけるペニー硬貨こうかはハーデクヌーズのきざまれテムズがわ以北いほくにおけるペニー硬貨こうかはハロルドのきざまれていることから、かれらのあいだにはなんらかの協定きょうてい締結ていけつされていたのであろう 」と指摘してきするLawson 2004。それゆえに、もしハーデクヌーズが即座そくざにイングランドへ侵攻しんこうしていたならば、王国おうこく分裂ぶんれつしていたかもしれない。しかし実際じっさいは、ハーデクヌーズにはイングランドへ遠征えんせいする余裕よゆうがなかった。ノルウェーのマグヌスぜんおう脅威きょうい対処たいしょする必要ひつようがあったからだ。結局けっきょく、ハロルドとハーデクヌーズは「 どちらか一方いっぽう継子けいしなしにくなれば、もう片方かたがたりょう王国おうこく継承けいしょうする 」という平和へいわ協定きょうてい締結ていけつし、ハーデクヌーズはイングランドおうをめぐるあらそいから解放かいほうされ、たいノルウェー戦線せんせん集中しゅうちゅうすることができた[2]

イアン・ホワードによれば、ハーデクヌーズはスヴェインのノルウェー遠征えんせい承認しょうにんし、1036ねんにはノルウェー奪還だっかん目指めざした遠征えんせい実際じっさい計画けいかくされたという。しかしスヴェインは遠征えんせいまえくなってしまった。ハーデクヌーズはスヴェインのかかわらずノルウェー遠征えんせい継続けいぞくして計画けいかくしていたものの、最終さいしゅうてきにはマグヌスぜんおうとハーデクヌーズおうとのあいだ平和へいわ条約じょうやく締結ていけつによって遠征えんせい回避かいひされた。ハーデクヌーズおうはノルウェー遠征えんせいにノルウェーにくべき代理だいり統治とうちじんをまだめておらず、またハーデクヌーズおうわり遠征えんせい回避かいひしようとこころみたためだとされている。ホワードはこの平和へいわ条約じょうやく締結ていけつねんを1036ねんだとしており[8]歴史れきしは1039ねん締結ていけつされたと主張しゅちょうしている。この平和へいわ条約じょうやくのおかげで、ハーデクヌーズはイングランドへの遠征えんせい開始かいしできるようになったのであろうとかんがえられている[9][10]


ブルッヘに亡命ぼうめいちゅうであったエマおうははは、息子むすこのハーデクヌーズをイングランドおう即位そくいさせる計画けいかく企図きとしていた。エマは自身じしん賛美さんびしハロルドおう非難ひなんする内容ないようEncomium Emmae Reginaeという書物しょもつ編纂へんさんさせ、ハーデクヌーズと自身じしん正当せいとうせい主張しゅちょうしようとこころみた。この書物しょもつにおいて、ハロルドおうは1036ねんにエマおうははエゼルレッド無策むさくおう息子むすこアルフレッド・アシリング殺害さつがい計画けいかくしたとして非難ひなんされており、歴史れきしホワードかんがえによれば、イングランド遠征えんせい尻込しりごみしていたハーデクヌーズおう後押あとおしし、最終さいしゅうてきにイングランド遠征えんせい決断けつだんさせたおおきな要因よういんのひとつとなったであろうとされている。この書物しょもつ後世こうせいにおける改訂かいていばんによれば、1039ねん病身びょうしんのハロルドおういのちがそうながくはないことがあきらかになったころ、イングランド貴族きぞくはデンマークのハーデクヌーズおう連絡れんらくはじめていたことがしるされている[11]

イングランド帰還きかん

編集へんしゅう
 
ハーデクヌーズおう鋳造ちゅうぞうしたペニー銀貨ぎんか

ハーデクヌーズはエマおうははともに、ついにイングランドへ帰還きかんした。かれらは1040ねん7がつ17にち夏至げしさいの7にちまえサンドウィッチ上陸じょうりくした[12]かれらは62せき軍船ぐんせんしたがえて上陸じょうりくしたが、抵抗ていこうけることはなかった。ハーデクヌーズはイングランド貴族きぞくらにまねかれてイングランドへかったのだが、かれまんいち可能かのうせい考慮こうりょして、万全ばんぜんかまえをとったうえ征服せいふくしゃとしてイングランドに上陸じょうりくしたのである[13]かれ艦隊かんたい参加さんかしていたしゅ給与きゅうよ支払しはらうため、ハーデクヌーズは21,000ポンドものデーンゲルドを現地げんちから徴収ちょうしゅうし、かれらに支払しはらった。この多額たがく徴税ちょうぜいは、クヌート大王だいおうが1017-18ねん遠征えんせいさい徴収ちょうしゅうしたデーンゲルドの4ぶんの1ほどの金額きんがくであったとされているものの、多額たがくであることにはわりなく、イングランドみんからきらわれる一因いちいんとなった[14]

ハーデクヌーズはハロルドの仕業しわざ殺害さつがいされた兄弟きょうだいのアルフレッドのかたきつため、イングランド統治とうち機構きこう評議ひょうぎいんらの賛同さんどううえで、ハロルドの亡骸なきがらをウェストミンスターだい聖堂せいどうからこし、くびとし、下水道げすいどうてた。ハロルドのくびはのちに下水道げすいどうからげられてテムズがわふたたまれたが、ロンドンの船員せんいんげられ、最終さいしゅうてきには教会きょうかいにわ埋葬まいそうされたという[15]。そして当時とうじイングランドで一大いちだい勢力せいりょくほこっていたアングロ・サクソン貴族きぞくゴドウィンもアルフレッド殺害さつがい関与かんよしたとして告発こくはつされ、エマおうはははハーデクヌーズおう評議ひょうぎいんらの面前めんぜんでの裁判さいばん要求ようきゅうした。しかしゴドウィンはその裁判さいばんにおいて目撃もくげきしゃ召喚しょうかんし、自身じしんはハロルドおう命令めいれいでアルフレッド王子おうじかれわたすよう強制きょうせいされていたと主張しゅちょうし、つみゆるされた.[16]。またウースター司教しきょうリフィングも同罪どうざい告発こくはつされ、司教しきょう剥奪はくだつされた。かれは1041ねんにハーデクヌーズおう和解わかいし、ふたた司教しきょう再任さいにんされた[2]

当時とうじのイングランド王国おうこくでは国王こくおう議会ぎかいつうじて王国おうこく統治とうちするのが慣例かんれいとなっていたが、ハーデクヌーズおうはデンマークにおいて諸侯しょこう信用しんようしていなかったため独裁どくさい政治せいじおこなっており、この独裁どくさい体制たいせいをイングランドにおいても採用さいようして強権きょうけんてきにイングランド王国おうこく統治とうちした。ただその威圧いあつてき体制たいせいながくはつづかなかった。ハーデクヌーズおう治世ちせいにおいて、イングランド艦隊かんたい規模きぼを16せきから32せき倍増ばいぞうさせ、支配しはい各地かくちきる事案じあん効率こうりつてき対処たいしょできる軍事ぐんじ体制たいせいととのえた[17]が、その軍備ぐんび増強ぞうきょうのための費用ひようまかなうために国民こくみん重税じゅうぜいいた[10]。ちょうどこのころ、イングランドは不作ふさくねんであったため、重税じゅうぜい不作ふさくおそわれた国民こくみんくるしい生活せいかついられた。1041ねん重税じゅうぜい反発はんぱつしたウスター民衆みんしゅう徴税ちょうぜい役人やくにん殺害さつがいするという事件じけん勃発ぼっぱつした。ハーデクヌーズおうはこれにたいし、合法ごうほうではあったものの当時とうじ人々ひとびと非常ひじょう不人気ふにんきであった harryingばれる懲罰ちょうばつをもって対応たいおうした。おう当地とうち伯爵はくしゃくまちはら住民じゅうみん殺戮さつりくするようめいじた。しかし住民じゅうみんらは伯爵はくしゃく軍勢ぐんぜい到着とうちゃくするまえまち脱出だっしゅつしていたため、殺害さつがいされた住民じゅうみん少数しょうすうであった[2][18]結局けっきょくまちはらわれたものの、住民じゅうみん大半たいはんセヴァーンがわ中洲なかす避難ひなんしており、またハーデクヌーズの軍勢ぐんぜい果敢かかんたたかって見事みごとかれらをむかったため、それ以上いじょうとがめられることはなく、ウスターへの帰還きかんゆるされたという[19][20]

ハーデクヌーズの治世ちせいころノーサンブリアシウァルドはく英語えいごばんによって統治とうちされていたが、エアドウルフはく英語えいごばんがノーサンブリア北部ほくぶはん独立どくりつ諸侯しょこうとして独自どくじ統治とうちしており、ハーデクヌーズおう独裁どくさい政治せいじおおきな障壁しょうへきとなっていた。そんななか、1041ねん、エアドウルフはくなんらかの理由りゆうでハーデクヌーズおうたい反旗はんきひるがえしたが、そのおうたいしてゆるしをい、ハーデクヌーズおう赦免しゃめん安全あんぜん保障ほしょうされたという。しかしその、エアドウルフはくはシウァルドはく殺害さつがいされた。この殺害さつがいにはハーデクヌーズも関与かんよしていたとされ、エアドウルフのによりノーサンブリアは統一とういつされ、シウァルドはくぜん伯爵はくしゃくりょう統治とうちすることとなった。この殺害さつがい事件じけんひろ糾弾きゅうだんされ、アングロ・サクソン年代ねんだいはこの暗殺あんさつ事件じけん 裏切うらぎ行為こうい描写びょうしゃし、またハーデクヌーズおうについては ちかやぶしるしている[2][21]

ハーデクヌーズおう教会きょうかいたいしては寛大かんだい政策せいさく施行しこうした。当時とうじ文書ぶんしょのうち現存げんそんするものは非常ひじょうすくないものの、かれりょうエルフウィン英語えいごばん寄進きしんすることをしめした王立おうりつ憲章けんしょうや、ラムジー修道院しゅうどういんたいして発行はっこうした権利けんりしょなどが現存げんそんしている。また12世紀せいき編纂へんさんされたラムジー年代ねんだいには、ハーデクヌーズおう寛大かんだい政策せいさく気前きまえ性格せいかくなどについて賞賛しょうさんする内容ないよう記述きじゅつのこされている[2]

ハーデクヌーズおうはイングランドおう即位そくい以前いぜんより、結核けっかく発作ほっさくるしんでいたとされ、おそらくは自身じしん余命よめいがそれほどながくはないことを察知さっちしていたのではないかとかんがえられている[22]。そして1041ねんには自身じしん異父いふ兄弟きょうだいエドワードかれ亡命ぼうめいさきからもどした。おそらくは後継こうけいしゃ指名しめいしたのであろう。ハーデクヌーズとエドワードの母親ははおやであるエマは、自身じしん息子むすこたちをつづけてイングランドおう即位そくいさせることで、王国おうこくにおける影響えいきょうりょく保持ほじつづけようとこころみていたのではないかとかんがえられている。そんなエマの影響えいきょうをハーデクヌーズはおおいにけてそだっていたため、エドワードをもどしたのかもしれない[2] 。ハーデクヌーズは生涯しょうがいつうじて結婚けっこんすることはなく、子供こどももいなかった。

崩御ほうぎょ

編集へんしゅう

1042ねん6がつ8にち、クヌート大王だいおう旗手きしゅトーヴィ英語えいごばん廷臣ていしんオスゴット・クラパ英語えいごばんむすめギーサの結婚式けっこんしき参列さんれつした。式典しきてんちゅう、ハーデクヌーズはおそらくおさけおおんでいたとされ、新郎しんろう新婦しんぷすこやかな結婚けっこん生活せいかつ乾杯かんぱいをしたさい[9][23]かれったままに、ひどく痙攣けいれんこしながらゆかたおみんだ。まわりにものたおおうささえたが、おうはその一言ひとことこえはっすることはなかった [24] 。おそらくかれ死因しいん脳溢血のういっけつであったと推定すいていされ、大量たいりょうのアルコールを摂取せっしゅしたことが原因げんいんとされている[23]

現代げんだい歴史れきしステン・コーナーはハーデクヌーズおうはエドワード懺悔ざんげおう差金さしがね暗殺あんさつされたと主張しゅちょうしている[25]。またおなじく歴史れきしのブレワーもまた、エドワード懺悔ざんげおうはハーデクヌーズおう急死きゅうしによる恩恵おんけいもっとけている人物じんぶつであることと、かつてかれたいしていち反乱はんらんこした有力ゆうりょく貴族きぞくゴドウィンもまた、エドワード懺悔ざんげおうとの食事しょくじちゅう暗殺あんさつされていることを指摘してきしたうえで、この2人ふたり殺害さつがいにエドワードが加担かたんしていたのではないかと主張しゅちょうしている[26]。キャサリン・ホールマンもまた、ハーデクヌーズが毒殺どくさつされたとするせつ支持しじしているが、 不満ふまんいだ候補者こうほしゃこうをたたない ことから、暗殺あんさつ首謀しゅぼうしゃ特定とくていすることは不可能ふかのうであろうとかんがえている[27]

王位おうい継承けいしょう

編集へんしゅう
 
ハーデクヌーズと面会めんかいするマグヌスぜんおう.

ハーデクヌーズがイングランドおう即位そくい以前いぜんマグヌスぜんおう締結ていけつした条約じょうやくなかには、マグヌスをハーデクヌーズの後継こうけいしゃとする文言もんごんふくまれていたとされる。このとき、この文言もんごんはデンマーク王位おういにのみ適用てきようされていたが、サガヘイムスクリングラ』よるとハーデクヌーズおう死後しご、マグヌスおうはこのめをイングランド王位おういたいしても拡大かくだい適応てきおうすると宣言せんげんし、イングランド王位おういをも主張しゅちょうしたという。このサガによれば、マグヌスはエドワード懺悔ざんげおうたいして書状しょじょうおくりつけ、自身じしんのイングランド王位おうい継承けいしょうけん主張しゅちょうするとともにイングランド遠征えんせいをちらつかせたという。マグヌスの後継こうけいしゃハーラル苛烈かれつおうもこの条約じょうやくたてにイングランド王位おうい主張しゅちょうした(これはノルマン・コンクエスト遠因えんいんとなった)。マグヌスにしろハーラルにしろ、かれらは自身じしんがハーデクヌーズおう正当せいとう継承けいしょうしゃであるとみなしていたのである[28]

他方たほう、エマおうはは影響えいきょうけて編纂へんさんされた『 Encomium 』によると、エドワード懺悔ざんげおうは1041ねんからイングランド共同きょうどうおうとしてイングランド統治とうちくわわり、エドワード・ハーデクヌーズ・エマの3にん三位一体さんみいったい模倣もほうしたさんとう政治せいじおこなっていたため、エドワードの王位おうい正当せいとうせいうたが余地よちもないとされていた。またヘイムスクリングラはエドワードをハロルドうさぎあしおう・ハーデクヌーズおう兄弟きょうだい、また法的ほうてき後継こうけいしゃとしてえがいているものの、エドワードがすでに「イングランドのすべてのみんからの支援しえん」をけていたとも指摘してきしている。上記じょうきふたつの文献ぶんけん記載きさいされてはいないものの、エドワード懺悔ざんげおうエディス王妃おうひ英語えいごばんとの結婚けっこんにより、エドワードは有力ゆうりょく貴族きぞくゴドウィンの支援しえんやクヌート大王だいおうとの血縁けつえん関係かんけい獲得かくとくし、イングランド王位おうい請求せいきゅうけんをより強固きょうこなものとすることに成功せいこうしていた。また北欧ほくおうのサガのひとつ『ファグルスキンナ』には、エドワード懺悔ざんげおうはエゼルレッド無策むさくおう息子むすこで、エドマンド剛勇ごうゆうおう兄弟きょうだいであり、またクヌート大王だいおう義子ぎしでもあるとともに、ハロルドうさぎあしおう義兄弟ぎきょうだい、ハーデクヌーズの異父いふ兄弟きょうだいであると記述きじゅつされている。つまり、エドワードはマグヌスぜんおうくらべて非常ひじょう強固きょうこなイングランド王位おうい請求せいきゅうけんゆうしていたのである。イングランドのすべての諸侯しょこうはエドワード懺悔ざんげおうをイングランドおうとして承認しょうにんしており、エドワードは大司教だいしきょうによってイングランドおうとして戴冠たいかんもされていた。イングランド王国おうこくはもはや、エドワード懺悔ざんげおう継承けいしょう財産ざいさんしていたのである。これらの記述きじゅつ数々かずかずは、マグヌスにたいして自身じしん王位おうい請求せいきゅうけんつよさをうたがわせるのに十分じゅうぶん内容ないようであったとされている[29]

ハーデクヌーズのいもうとグンヒルト・フォン・デーネマルク神聖しんせいローマ皇帝こうていハインリヒ3せい結婚けっこんした。かれらのあいだまれた子供こどもはデンマーク王位おうい潜在せんざいてきにはイングランド王位おうい主張しゅちょうすることができ、ハインリヒからすれば、息子むすこ継承けいしょうけんつうじてかみきよしマ帝国まていこく影響えいきょうりょくをデンマークとバルト海ばるとかい西部せいぶ地域ちいきにまでひろげることが可能かのうとなる非常ひじょう有益ゆうえき結婚けっこんであった。しかしグンヒルトはたった1人ひとりむすめのこして1038ねんくなった.[28]。そのむすめ女子じょし修道しゅうどう院長いんちょうとなり、生涯しょうがい未婚みこんのままくなった。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう

引用いんよう

編集へんしゅう
  1. ^ archontology.org。『アングロサクソン年代ねんだい』に、1035ねんから1037ねんのイングランドおうはハーデクヌーズでハロルド1せい摂政せっしょうだったとかれてあることから。ただし一方いっぽうで、統治とうち期間きかんは4ねんと16週間しゅうかんともかれてあり、この期間きかんをハロルド1せい治世ちせいふくめる場合ばあいもある。なおイギリス王室おうしつ公式こうしきホームページでは、ハーデクヌーズ(r.1035-1042)[1]、ハロルド1せい(r.1035-1040)[2]となっている。
  2. ^ a b c d e f g Lawson 2004.
  3. ^ Howard 2008, pp. 15, 27.
  4. ^ Howard 2008, pp. 29–38.
  5. ^ Howard 2008, pp. 42–51.
  6. ^ Monarkiet i Danmark – Kongerækken Archived 18 November 2009 at the Wayback Machine. at The Danish Monarchy
  7. ^ Giles 1914, p. 112.
  8. ^ Howard 2008, pp. 58–61.
  9. ^ a b Bricka 1893, pp. 91–92.
  10. ^ a b Lund 2017.
  11. ^ Howard 2008, pp. 105–107.
  12. ^ Giles 1914, p. 113.
  13. ^ Howard 2008, p. 109.
  14. ^ Howard 2008, p. 117.
  15. ^ Howard 2008, pp. 111–112.
  16. ^ Howard 2008, pp. 112–117.
  17. ^ Howard 2008, pp. 118–119.
  18. ^ Howard 2008, pp. 119–120.
  19. ^ Fleming, Robin (2011). Britain after Rome : the fall and rise, 400-1070. London: Penguin. pp. 251–252. ISBN 978-0-140-14823-7 
  20. ^ John of Worcester. Chronicon ex chronicis. https://www.bsswebsite.me.uk/History/JohnofWorcester/Chronicle_John2.html 17 January 2022閲覧えつらん 
  21. ^ Howard 2008, pp. 120–121.
  22. ^ Howard 2008, pp. 106, 124, 149.
  23. ^ a b O'Brien 2006, pp. 202–203.
  24. ^ Giles 1914, p. 114.
  25. ^ John 1996, p. 169, note 2.
  26. ^ Brewer 2000, pp. 13–14
  27. ^ Holman 2007, p. 94.
  28. ^ a b Howard 2008, pp. 40–44.
  29. ^ Finlay 2004, pp. 174–175.

てん

編集へんしゅう

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • DeVries, Kelly, The Norwegian Invasion of England in 1066 (2003). Boydell & Brewer Ltd, ISBN 1843830272
  • Douglas, David Charles, William The Conqueror: The Norman Impact Upon England (1964). University of California Press.
  • Gillingham, John, The introduction of chivalry into England. Essay included in Law and Government in Medieval England and Normandy: Essays in Honour of Sir James Holt (1994), pages 31–56. Cambridge University Press, ISBN 0521430763
  • Howard, Ian, Harold II: a Throne-Worthy King. Essay included in King Harold II and the Bayeux Tapestry (2005), pages 35–52. Boydell Press, ISBN 1843831244.
  • Rushton, Alan R., Royal Maladies: Inherited Diseases in the Royal Houses of Europe (2008). Victoria, British Columbia: Trafford, ISBN 1-4251-6810-8

外部がいぶリンク

編集へんしゅう
先代せんだい
クヌーズ2せい
デンマークおう
1035ねん - 1042ねん
次代じだい
マグヌス1せい
先代せんだい
ハロルド1せい
イングランドおう
1040ねん - 1042ねん
次代じだい
エドワード懺悔ざんげおう