ハーデクヌーズは1017年 ねん 8月 がつ または7月 がつ に誕生 たんじょう した。父親 ちちおや のクヌート大王 だいおう は1人 ひとり 目 め の王妃 おうひ エルギフ・オブ・ノーサンプトン を差 さ し置 お いて、新 あら たにエマ・オブ・ノーマンディー と結婚 けっこん しており、ハーデクヌーズはクヌートとエマとの間 あい の子 こ として生 う まれた。後世 こうせい の文献 ぶんけん によると、クヌート大王 だいおう はエマ王妃 おうひ との間 あい の子 こ をエルギフ王妃 おうひ との間 あい の子 こ よりも優先 ゆうせん し扱 あつか うことに同意 どうい していたという。1023年 ねん 、ハーデクヌーズとエマは殉教者 じゅんきょうしゃ の聖 ひじり エルフェア(英語 えいご 版 ばん ) の遺体 いたい のロンドンからカンタベリーへの移 うつり 葬儀 そうぎ 式 しき に参加 さんか し、重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしたという。この出来事 できごと は、ハーデクヌーズの伝記 でんき 作家 さっか ラン・ホワードによるとハーデクヌーズがクヌート大王 だいおう のイングランド王 おう としての継承 けいしょう 者 しゃ として見 み なされていたことを示 しめ す出来事 できごと であるという。
1020年代 ねんだい 、デンマーク王国 おうこく はノルウェー・スウェーデン王国 おうこく の脅威 きょうい にさらされていた。この状況 じょうきょう を打破 だは すべく、クヌート大王 だいおう は義兄弟 ぎきょうだい のウルフ伯 はく (英語 えいご 版 ばん ) の摂政 せっしょう のもとで8歳 さい のハーデクヌーズを次期 じき 国王 こくおう としてデンマーク王国 おうこく に派遣 はけん し、王国 おうこく の防衛 ぼうえい を強化 きょうか した。しかしウルフ伯 はく はデンマーク諸侯 しょこう に対 たい してハーデクヌーズをクヌート大王 だいおう の権威 けんい なしにデンマーク王 おう と認 みと めさせ、ノルウェー・スウェーデン侵攻 しんこう 軍 ぐん に対 たい して積極 せっきょく 的 てき な反撃 はんげき を行 おこな うことなく、クヌート大王 だいおう の支援 しえん を待 ま ち続 つづ けた。1027年 ねん 、クヌート大王 だいおう は艦隊 かんたい を率 ひき いてデンマークに帰還 きかん し、この醜態 しゅうたい を晒 さら したウルフ伯 はく を殺害 さつがい した。しかしこのときハーデクヌーズは若年 じゃくねん であることを理由 りゆう に許 ゆる された。クヌート大王 だいおう はその後 ご 侵略 しんりゃく 軍 ぐん を討 う ち果 は たし、ノルウェー王国 おうこく に対 たい する彼 かれ の権威 けんい を回復 かいふく させたのち、1028年 ねん にイングランドへと帰還 きかん した。ハーデクヌーズはデンマーク王国 おうこく に残 のこ され、ハーデクヌーズ王 おう としてデンマークを統治 とうち した。
イングランド・デンマーク・ノルウェー王 おう クヌートと彼 かれ の息子 むすこ たち
クヌート大王 だいおう は配下 はいか のノルウェー王国 おうこく の代理 だいり 統治 とうち 者 しゃ としてハーコン・エイリークソン を任命 にんめい していたが、彼 かれ は1029年 ねん (1030年 ねん )の船舶 せんぱく 事故 じこ で亡 な くなった。ハーコンの後継 こうけい としてクヌートは息子 むすこ のスヴェイン・クヌートソン をノルウェー代理 だいり 統治 とうち 者 しゃ に任命 にんめい し、また彼 かれ の母親 ははおや のエルギフ王妃 おうひ を摂政 せっしょう に任 にん じた。しかしスヴェインはノルウェーに圧政 あっせい を敷 し き、重税 じゅうぜい を課 か したりデンマーク貴族 きぞく を優遇 ゆうぐう したりしたことにより多 おお くのノルウェー人 じん の反感 はんかん を買 か った。結果 けっか 、1035年 ねん に先代 せんだい のノルウェー王 おう 聖 せい オーラヴ の息子 むすこ マグヌス が亡命 ぼうめい 先 さき から帰還 きかん しノルウェー王国 おうこく に侵攻 しんこう を開始 かいし した。ノルウェー貴族 きぞく の支援 しえん を得 え たマグヌスはスヴェインらを圧倒 あっとう し、スヴェインはデンマーク王 おう ハーデクヌーズの宮廷 きゅうてい への亡命 ぼうめい に追 お い込 こ まれた。ハーデクヌーズはスヴェインの近 ちか しい盟友 めいゆう であったものの、ノルウェーに対 たい する大 だい 規模 きぼ な遠征 えんせい を敢行 かんこう できるほどの余力 よりょく はデンマークに残 のこ っていなかった。それゆえにスヴェイン・ハーデクヌーズ兄弟 きょうだい は父親 ちちおや のクヌート大王 だいおう に支援 しえん の依頼 いらい を試 こころ みた。しかし同年 どうねん 11月 がつ 、頼 たの みの綱 つな であったクヌート大王 だいおう は既 すで に亡 な くなっていたのであった。
1035年 ねん 、ハーデクヌーズは父親 ちちおや クヌートの後 のち を継 つ いで、クヌート3世 せい としてデンマーク王 おう に就任 しゅうにん した[ 6] 。当時 とうじ の状況 じょうきょう 的 てき に、彼 かれ はデンマークを離 はな れることはできず、スヴェインの兄弟 きょうだい ・自身 じしん の異母 いぼ 兄弟 きょうだい であるハロルド を摂政 せっしょう としてイングランドに派遣 はけん し、エマ王 おう 母 はは と共 とも にイングランドを統治 とうち させた。1037年 ねん 、ハロルドはイングランド王 おう として認 みと められ、ハロルド1世 せい 兎 うさぎ 足 あし 王 おう としてイングランド王 おう に即位 そくい した。アングロ・サクソン年代 ねんだい 記 き の言葉 ことば を借 か りれば、 「ハーデクヌーズはデンマークに長居 ながい しすぎ、イングランド民 みん から見放 みはな されてしまった」 のだという。この際 さい 、エマ王 おう 母 はは はフランドル のブルッヘ に亡命 ぼうめい した。1039年 ねん 、ハーデクヌーズは10隻 せき の艦船 かんせん を率 ひき いてブルッヘに滞在 たいざい するエマ王 おう 母 はは と面会 めんかい した。しかし王位 おうい 奪還 だっかん のために企画 きかく されていたイングランド遠征 えんせい は延期 えんき された。ハロルド王 おう が当時 とうじ 病気 びょうき 気味 ぎみ で、すぐに死 し ぬだろうと考 かんが えられていたからである。1040年 ねん 、予想 よそう 通 どお りハロルド王 おう は病死 びょうし し、イングランド王国 おうこく より次期 じき イングランド王 おう への即位 そくい を要請 ようせい する使者 ししゃ がフランドルへと派遣 はけん された。
クヌート大王 だいおう の死後 しご の出来事 できごと の概略 がいりゃく は明確 めいかく となっているものの、それぞれの出来事 できごと についての詳細 しょうさい は明 あき らかになっておらず、歴史 れきし 家 か によって異 こと なる説明 せつめい がなされている 。現在 げんざい の歴史 れきし 家 か ローソン氏 し は、「 ハーデクヌーズがイングランド王 おう とデンマーク王 おう を兼任 けんにん していたのかどうかは明 あき らかとなってはいないものの、テムズ川 がわ 南部 なんぶ におけるペニー硬貨 こうか はハーデクヌーズの名 な が刻 きざ まれテムズ川 がわ 以北 いほく におけるペニー硬貨 こうか はハロルドの名 な が刻 きざ まれていることから、彼 かれ らの間 あいだ には何 なん らかの協定 きょうてい が締結 ていけつ されていたのであろう 」と指摘 してき するLawson 2004 。それゆえに、もしハーデクヌーズが即座 そくざ にイングランドへ侵攻 しんこう していたならば、王国 おうこく は分裂 ぶんれつ していたかもしれない。しかし実際 じっさい は、ハーデクヌーズにはイングランドへ遠征 えんせい する余裕 よゆう がなかった。ノルウェーのマグヌス善 ぜん 王 おう の脅威 きょうい に対処 たいしょ する必要 ひつよう があったからだ。結局 けっきょく 、ハロルドとハーデクヌーズは「 どちらか一方 いっぽう が継子 けいし なしに亡 な くなれば、もう片方 かたがた が両 りょう 王国 おうこく を継承 けいしょう する 」という平和 へいわ 協定 きょうてい を締結 ていけつ し、ハーデクヌーズはイングランド王 おう をめぐる争 あらそ いから解放 かいほう され、対 たい ノルウェー戦線 せんせん に集中 しゅうちゅう することができた。
イアン・ホワード氏 し によれば、ハーデクヌーズはスヴェインのノルウェー遠征 えんせい を承認 しょうにん し、1036年 ねん にはノルウェー奪還 だっかん を目指 めざ した遠征 えんせい が実際 じっさい に計画 けいかく されたという。しかしスヴェインは遠征 えんせい 前 まえ に亡 な くなってしまった。ハーデクヌーズはスヴェインの死 し に関 かか わらずノルウェー遠征 えんせい を継続 けいぞく して計画 けいかく していたものの、最終 さいしゅう 的 てき にはマグヌス善 ぜん 王 おう とハーデクヌーズ王 おう との間 あいだ の平和 へいわ 条約 じょうやく 締結 ていけつ によって遠征 えんせい は回避 かいひ された。ハーデクヌーズ王 おう はノルウェー遠征 えんせい 後 ご にノルウェーに据 す え置 お くべき代理 だいり 統治 とうち 人 じん をまだ決 き めておらず、またハーデクヌーズ王 おう の気 き が変 か わり遠征 えんせい を回避 かいひ しようと試 こころ みたためだとされている。ホワード氏 し はこの平和 へいわ 条約 じょうやく の締結 ていけつ 年 ねん を1036年 ねん だとしており、他 た の歴史 れきし 家 か は1039年 ねん に締結 ていけつ されたと主張 しゅちょう している。この平和 へいわ 条約 じょうやく のおかげで、ハーデクヌーズはイングランドへの遠征 えんせい を開始 かいし できるようになったのであろうと考 かんが えられている。
ブルッヘに亡命 ぼうめい 中 ちゅう であったエマ王 おう 母 はは は、息子 むすこ のハーデクヌーズをイングランド王 おう に即位 そくい させる計画 けいかく を企図 きと していた。エマは自身 じしん を賛美 さんび しハロルド王 おう を非難 ひなん する内容 ないよう の Encomium Emmae Reginae という名 な の書物 しょもつ を編纂 へんさん させ、ハーデクヌーズと自身 じしん の正当 せいとう 性 せい を主張 しゅちょう しようと試 こころ みた。この書物 しょもつ において、ハロルド王 おう は1036年 ねん にエマ王 おう 母 はは とエゼルレッド無策 むさく 王 おう の息子 むすこ アルフレッド・アシリング の殺害 さつがい を計画 けいかく したとして非難 ひなん されており、歴史 れきし 家 か ホワード氏 し の考 かんが えによれば、イングランド遠征 えんせい に尻込 しりご みしていたハーデクヌーズ王 おう を後押 あとお しし、最終 さいしゅう 的 てき にイングランド遠征 えんせい を決断 けつだん させた大 おお きな要因 よういん のひとつとなったであろうとされている。この書物 しょもつ の後世 こうせい における改訂 かいてい 版 ばん によれば、1039年 ねん 、病身 びょうしん のハロルド王 おう の命 いのち がそう長 なが くはないことが明 あき らかになった頃 ころ 、イングランド貴族 きぞく はデンマークのハーデクヌーズ王 おう と連絡 れんらく を取 と り合 あ い始 はじ めていたことが記 しる されている。
ハーデクヌーズ王 おう が鋳造 ちゅうぞう したペニー銀貨 ぎんか
ハーデクヌーズはエマ王 おう 母 はは と共 とも に、遂 つい にイングランドへ帰還 きかん した。彼 かれ らは1040年 ねん 7月 がつ 17日 にち 、夏至 げし 祭 さい の7日 にち 前 まえ にサンドウィッチ に上陸 じょうりく した。彼 かれ らは62隻 せき の軍船 ぐんせん を従 したが えて上陸 じょうりく したが、抵抗 ていこう を受 う けることはなかった。ハーデクヌーズはイングランド貴族 きぞく らに招 まね かれてイングランドへ向 む かったのだが、彼 かれ は万 まん が一 いち の可能 かのう 性 せい を考慮 こうりょ して、万全 ばんぜん の構 かま えをとった上 うえ で征服 せいふく 者 しゃ としてイングランドに上陸 じょうりく したのである 。彼 かれ の艦隊 かんたい に参加 さんか していた漕 こ ぎ手 しゅ に給与 きゅうよ を支払 しはら うため、ハーデクヌーズは21,000ポンドものデーンゲルドを現地 げんち から徴収 ちょうしゅう し、彼 かれ らに支払 しはら った。この多額 たがく の徴税 ちょうぜい は、クヌート大王 だいおう が1017-18年 ねん の遠征 えんせい の際 さい に徴収 ちょうしゅう したデーンゲルドの4分 ぶん の1ほどの金額 きんがく であったとされているものの、多額 たがく であることには変 か わりなく、イングランド民 みん から嫌 きら われる一因 いちいん となった。
ハーデクヌーズはハロルドの仕業 しわざ で殺害 さつがい された兄弟 きょうだい のアルフレッドの仇 かたき を討 う つため、イングランド統治 とうち 機構 きこう の評議 ひょうぎ 員 いん らの賛同 さんどう を得 え た上 うえ で、ハロルドの亡骸 なきがら をウェストミンスター大 だい 聖堂 せいどう から掘 ほ り起 お こし、首 くび を切 き り落 お とし、下水道 げすいどう に投 な げ捨 す てた。ハロルドの首 くび はのちに下水道 げすいどう から引 ひ き上 あ げられてテムズ川 がわ に再 ふたた び投 な げ込 こ まれたが、ロンドンの船員 せんいん に引 ひ き上 あ げられ、最終 さいしゅう 的 てき には教会 きょうかい の庭 にわ に埋葬 まいそう されたという。そして当時 とうじ イングランドで一大 いちだい 勢力 せいりょく を誇 ほこ っていたアングロ・サクソン貴族 きぞく ゴドウィン もアルフレッド殺害 さつがい に関与 かんよ したとして告発 こくはつ され、エマ王 おう 母 はは はハーデクヌーズ王 おう と評議 ひょうぎ 員 いん らの面前 めんぜん での裁判 さいばん を要求 ようきゅう した。しかしゴドウィンはその裁判 さいばん において目撃 もくげき 者 しゃ を召喚 しょうかん し、自身 じしん はハロルド王 おう の命令 めいれい でアルフレッド王子 おうじ を彼 かれ に引 ひ き渡 わた すよう強制 きょうせい されていたと主張 しゅちょう し、罪 つみ を許 ゆる された.。またウースター司教 しきょう リフィングも同罪 どうざい で告発 こくはつ され、司教 しきょう の座 ざ を剥奪 はくだつ された。彼 かれ は1041年 ねん にハーデクヌーズ王 おう と和解 わかい し、再 ふたた び司教 しきょう に再任 さいにん された。
当時 とうじ のイングランド王国 おうこく では国王 こくおう は議会 ぎかい を通 つう じて王国 おうこく を統治 とうち するのが慣例 かんれい となっていたが、ハーデクヌーズ王 おう はデンマークにおいて諸侯 しょこう を信用 しんよう していなかったため独裁 どくさい 政治 せいじ を行 おこ なっており、この独裁 どくさい 体制 たいせい をイングランドにおいても採用 さいよう して強権 きょうけん 的 てき にイングランド王国 おうこく を統治 とうち した。ただその威圧 いあつ 的 てき な体制 たいせい は長 なが くは続 つづ かなかった。ハーデクヌーズ王 おう は治世 ちせい において、イングランド艦隊 かんたい の規模 きぼ を16隻 せき から32隻 せき に倍増 ばいぞう させ、支配 しはい 下 か 各地 かくち で起 お きる事案 じあん に効率 こうりつ 的 てき に対処 たいしょ できる軍事 ぐんじ 体制 たいせい を整 ととの えたが、その軍備 ぐんび 増強 ぞうきょう のための費用 ひよう を賄 まかな うために国民 こくみん に重税 じゅうぜい を敷 し いた。ちょうどこの頃 ころ 、イングランドは不作 ふさく 年 ねん であったため、重税 じゅうぜい と不作 ふさく に襲 おそ われた国民 こくみん は苦 くる しい生活 せいかつ を強 し いられた。1041年 ねん 、重税 じゅうぜい に反発 はんぱつ したウスター の民衆 みんしゅう が徴税 ちょうぜい 役人 やくにん を殺害 さつがい するという事件 じけん が勃発 ぼっぱつ した。ハーデクヌーズ王 おう はこれに対 たい し、合法 ごうほう ではあったものの当時 とうじ の人々 ひとびと に非常 ひじょう に不人気 ふにんき であった harrying と呼 よ ばれる懲罰 ちょうばつ をもって対応 たいおう した。王 おう は当地 とうち の伯爵 はくしゃく に街 まち を焼 や き払 はら い住民 じゅうみん を殺戮 さつりく するよう命 めい じた。しかし住民 じゅうみん らは伯爵 はくしゃく の軍勢 ぐんぜい が到着 とうちゃく する前 まえ に街 まち を脱出 だっしゅつ していたため、殺害 さつがい された住民 じゅうみん は少数 しょうすう であった。結局 けっきょく 、街 まち は焼 や き払 はら われたものの、住民 じゅうみん の大半 たいはん はセヴァーン川 がわ の中洲 なかす に避難 ひなん しており、またハーデクヌーズの軍勢 ぐんぜい と果敢 かかん に戦 たたか って見事 みごと に彼 かれ らを迎 むか え撃 う ったため、それ以上 いじょう 咎 とが められることはなく、ウスターへの帰還 きかん が許 ゆる されたという[ 19] [ 20] 。
ハーデクヌーズの治世 ちせい の頃 ころ 、ノーサンブリア はシウァルド伯 はく (英語 えいご 版 ばん ) によって統治 とうち されていたが、エアドウルフ伯 はく (英語 えいご 版 ばん ) がノーサンブリア北部 ほくぶ を半 はん 独立 どくりつ 諸侯 しょこう として独自 どくじ に統治 とうち しており、ハーデクヌーズ王 おう の独裁 どくさい 政治 せいじ の大 おお きな障壁 しょうへき となっていた。そんな中 なか 、1041年 ねん 、エアドウルフ伯 はく は何 なん らかの理由 りゆう でハーデクヌーズ王 おう に対 たい し反旗 はんき を翻 ひるがえ したが、その後 ご 王 おう に対 たい して許 ゆる しを乞 こ い、ハーデクヌーズ王 おう の赦免 しゃめん を受 う け身 み の安全 あんぜん を保障 ほしょう されたという。しかしその後 ご 、エアドウルフ伯 はく はシウァルド伯 はく に殺害 さつがい された。この殺害 さつがい にはハーデクヌーズも関与 かんよ していたとされ、エアドウルフの死 し によりノーサンブリアは統一 とういつ され、シウァルド伯 はく が全 ぜん 伯爵 はくしゃく 領 りょう を統治 とうち することとなった。この殺害 さつがい 事件 じけん は広 ひろ く糾弾 きゅうだん され、アングロ・サクソン年代 ねんだい 記 き はこの暗殺 あんさつ 事件 じけん を 裏切 うらぎ り行為 こうい と描写 びょうしゃ し、またハーデクヌーズ王 おう については 誓 ちか い破 やぶ り と言 い い記 しる している。
ハーデクヌーズ王 おう は教会 きょうかい に対 たい しては寛大 かんだい な政策 せいさく を施行 しこう した。当時 とうじ の文書 ぶんしょ のうち現存 げんそん するものは非常 ひじょう に少 すく ないものの、彼 かれ の自 じ 領 りょう をエルフウィン (英語 えいご 版 ばん ) に寄進 きしん することを示 しめ した王立 おうりつ 憲章 けんしょう や、ラムジー修道院 しゅうどういん に対 たい して発行 はっこう した権利 けんり 書 しょ などが現存 げんそん している。また12世紀 せいき に編纂 へんさん されたラムジー年代 ねんだい 記 き には、ハーデクヌーズ王 おう の寛大 かんだい な政策 せいさく や気前 きまえ の良 よ い性格 せいかく などについて賞賛 しょうさん する内容 ないよう の記述 きじゅつ が残 のこ されている。
ハーデクヌーズ王 おう はイングランド王 おう 即位 そくい 以前 いぜん より、結核 けっかく の発作 ほっさ に苦 くる しんでいたとされ、おそらくは自身 じしん の余命 よめい がそれほど長 なが くはないことを察知 さっち していたのではないかと考 かんが えられている。そして1041年 ねん には自身 じしん の異父 いふ 兄弟 きょうだい エドワード を彼 かれ の亡命 ぼうめい 先 さき から呼 よ び戻 もど した。おそらくは後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい したのであろう。ハーデクヌーズとエドワードの母親 ははおや であるエマは、自身 じしん の息子 むすこ たちを続 つづ けてイングランド王 おう に即位 そくい させることで、王国 おうこく における影響 えいきょう 力 りょく を保持 ほじ し続 つづ けようと試 こころ みていたのではないかと考 かんが えられている。そんなエマの影響 えいきょう をハーデクヌーズは大 おお いに受 う けて育 そだ っていたため、エドワードを呼 よ び戻 もど したのかもしれない 。ハーデクヌーズは生涯 しょうがい を通 つう じて結婚 けっこん することはなく、子供 こども もいなかった。
1042年 ねん 6月 がつ 8日 にち 、クヌート大王 だいおう の旗手 きしゅ トーヴィ (英語 えいご 版 ばん ) と廷臣 ていしん オスゴット・クラパ (英語 えいご 版 ばん ) の娘 むすめ ギーサの結婚式 けっこんしき に参列 さんれつ した。式典 しきてん 中 ちゅう 、ハーデクヌーズはおそらくお酒 さけ を多 おお く飲 の んでいたとされ、新郎 しんろう 新婦 しんぷ の健 すこ やかな結婚 けっこん 生活 せいかつ に乾杯 かんぱい をした際 さい 、彼 かれ は立 た ったまま死 し に、ひどく痙攣 けいれん を起 お こしながら床 ゆか に倒 たお れ込 こ みんだ。周 まわ りに居 い た者 もの が倒 たお れ込 こ む王 おう を支 ささ えたが、王 おう はその後 ご 一言 ひとこと も声 こえ を発 はっ することはなかった 。おそらく彼 かれ の死因 しいん は脳溢血 のういっけつ であったと推定 すいてい され、大量 たいりょう のアルコールを摂取 せっしゅ したことが原因 げんいん とされている。
現代 げんだい の歴史 れきし 家 か ステン・コーナー氏 し はハーデクヌーズ王 おう はエドワード懺悔 ざんげ 王 おう の差金 さしがね で暗殺 あんさつ されたと主張 しゅちょう している。また同 おな じく歴史 れきし 家 か のブレワー氏 し もまた、エドワード懺悔 ざんげ 王 おう はハーデクヌーズ王 おう の急死 きゅうし による恩恵 おんけい を最 もっと も受 う けている人物 じんぶつ であることと、かつて彼 かれ に対 たい して一 いち 度 ど 反乱 はんらん を起 お こした有力 ゆうりょく 貴族 きぞく ゴドウィンもまた、エドワード懺悔 ざんげ 王 おう との食事 しょくじ 中 ちゅう に暗殺 あんさつ されていることを指摘 してき した上 うえ で、この2人 ふたり の殺害 さつがい にエドワードが加担 かたん していたのではないかと主張 しゅちょう している[ 26] 。キャサリン・ホールマン氏 し もまた、ハーデクヌーズが毒殺 どくさつ されたとする説 せつ を支持 しじ しているが、 不満 ふまん を抱 いだ く候補者 こうほしゃ が後 こう をたたない ことから、暗殺 あんさつ の首謀 しゅぼう 者 しゃ を特定 とくてい することは不可能 ふかのう であろうと考 かんが えている。
ハーデクヌーズと面会 めんかい するマグヌス善 ぜん 王 おう .
ハーデクヌーズがイングランド王 おう 即位 そくい 以前 いぜん にマグヌス善 ぜん 王 おう と締結 ていけつ した条約 じょうやく の中 なか には、マグヌスをハーデクヌーズの後継 こうけい 者 しゃ とする文言 もんごん も含 ふく まれていたとされる。この時 とき 、この文言 もんごん はデンマーク王位 おうい にのみ適用 てきよう されていたが、サガ 『ヘイムスクリングラ 』よるとハーデクヌーズ王 おう の死後 しご 、マグヌス王 おう はこの取 と り決 き めをイングランド王位 おうい に対 たい しても拡大 かくだい 適応 てきおう すると宣言 せんげん し、イングランド王位 おうい をも主張 しゅちょう したという。このサガによれば、マグヌスはエドワード懺悔 ざんげ 王 おう に対 たい して書状 しょじょう を送 おく りつけ、自身 じしん のイングランド王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を主張 しゅちょう するとともにイングランド遠征 えんせい をちらつかせたという。マグヌスの後継 こうけい 者 しゃ ハーラル苛烈 かれつ 王 おう もこの条約 じょうやく を盾 たて にイングランド王位 おうい を主張 しゅちょう した(これはノルマン・コンクエスト の遠因 えんいん となった)。マグヌスにしろハーラルにしろ、彼 かれ らは自身 じしん がハーデクヌーズ王 おう の正当 せいとう な継承 けいしょう 者 しゃ であるとみなしていたのである。
他方 たほう 、エマ王 おう 母 はは の影響 えいきょう を受 う けて編纂 へんさん された『 Encomium 』によると、エドワード懺悔 ざんげ 王 おう は1041年 ねん からイングランド共同 きょうどう 王 おう としてイングランド統治 とうち に加 くわ わり、エドワード・ハーデクヌーズ・エマの3人 にん は三位一体 さんみいったい を模倣 もほう した三 さん 頭 とう 政治 せいじ を行 おこな っていたため、エドワードの王位 おうい の正当 せいとう 性 せい は疑 うたが う余地 よち もないとされていた。またヘイムスクリングラはエドワードをハロルド兎 うさぎ 足 あし 王 おう ・ハーデクヌーズ王 おう の兄弟 きょうだい 、また法的 ほうてき 後継 こうけい 者 しゃ として描 えが いているものの、エドワードがすでに「イングランドの全 すべ ての民 みん からの支援 しえん 」を受 う けていたとも指摘 してき している。上記 じょうき の2 ふた つの文献 ぶんけん に記載 きさい されてはいないものの、エドワード懺悔 ざんげ 王 おう とエディス王妃 おうひ (英語 えいご 版 ばん ) との結婚 けっこん により、エドワードは有力 ゆうりょく 貴族 きぞく ゴドウィンの支援 しえん やクヌート大王 だいおう との血縁 けつえん 関係 かんけい を獲得 かくとく し、イングランド王位 おうい の請求 せいきゅう 権 けん をより強固 きょうこ なものとすることに成功 せいこう していた。また北欧 ほくおう のサガのひとつ『ファグルスキンナ 』には、エドワード懺悔 ざんげ 王 おう はエゼルレッド無策 むさく 王 おう の息子 むすこ で、エドマンド剛勇 ごうゆう 王 おう の兄弟 きょうだい であり、またクヌート大王 だいおう の義子 ぎし でもあるとともに、ハロルド兎 うさぎ 足 あし 王 おう の義兄弟 ぎきょうだい 、ハーデクヌーズの異父 いふ 兄弟 きょうだい であると記述 きじゅつ されている。つまり、エドワードはマグヌス善 ぜん 王 おう に比 くら べて非常 ひじょう に強固 きょうこ なイングランド王位 おうい 請求 せいきゅう 権 けん を有 ゆう していたのである。イングランドのすべての諸侯 しょこう はエドワード懺悔 ざんげ 王 おう をイングランド王 おう として承認 しょうにん しており、エドワードは大司教 だいしきょう によってイングランド王 おう として戴冠 たいかん もされていた。イングランド王国 おうこく はもはや、エドワード懺悔 ざんげ 王 おう の継承 けいしょう 財産 ざいさん と化 か していたのである。これらの記述 きじゅつ の数々 かずかず は、マグヌスに対 たい して自身 じしん の王位 おうい 請求 せいきゅう 権 けん の強 つよ さを疑 うたが わせるのに十分 じゅうぶん な内容 ないよう であったとされている。
ハーデクヌーズの妹 いもうと グンヒルト・フォン・デーネマルク は神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ハインリヒ3世 せい と結婚 けっこん した。彼 かれ らの間 あいだ に生 う まれた子供 こども はデンマーク王位 おうい と潜在 せんざい 的 てき にはイングランド王位 おうい を主張 しゅちょう することができ、ハインリヒからすれば、息子 むすこ の継承 けいしょう 権 けん を通 つう じて神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の影響 えいきょう 力 りょく をデンマークとバルト海 ばるとかい 西部 せいぶ 地域 ちいき にまで広 ひろ げることが可能 かのう となる非常 ひじょう に有益 ゆうえき な結婚 けっこん であった。しかしグンヒルトはたった1人 ひとり の娘 むすめ を残 のこ して1038年 ねん に亡 な くなった.。その娘 むすめ は女子 じょし 修道 しゅうどう 院長 いんちょう となり、生涯 しょうがい 未婚 みこん のまま亡 な くなった。
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