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モーリス・ユトリロ - Wikipedia

モーリス・ユトリロ

近代きんだいフランスの画家がか。エコール・ド・パリの画家がか一人ひとり。「しろ時代じだい」とわれる独特どくとく絵画かいがられる。

モーリス・ユトリロ[注釈ちゅうしゃく 1](Maurice Utrillo, 1883ねん12月26にち - 1955ねん11月5にち)は、近代きんだいフランス画家がか生活せいかつ環境かんきょうめぐまれなかったが、飲酒いんしゅ治療ちりょう一環いっかんとしてっていた描画びょうが評価ひょうかされ、今日きょういたる。母親ははおやであるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家がかであったが、かれらはそれぞれちがった方法ほうほう自分じぶんたちの絵画かいがのありかた確立かくりつしている。7さいとき、スペインじん画家がか美術びじゅつ評論ひょうろんミゲル・ウトリリョに認知にんちされて、「モーリス・ユトリロ」と改姓かいせいした(後述こうじゅつ)。

モーリス・ユトリロ
Maurice Utrillo
シュザンヌ・ヴァラドンによるモーリスの肖像しょうぞう(1921ねん
本名ほんみょう モーリス・ヴァラドン
Maurice Valadon
誕生たんじょう (1883-12-26) 1883ねん12月26にち
出生しゅっしょう フランスの旗 フランス共和きょうわこくパリモンマルトル
死没しぼつねん 1955ねん11月5にち(1955-11-05)(71さいぼつ
死没しぼつ フランスの旗 フランスパリモンマルトル
国籍こくせき フランスの旗 フランス
運動うんどう動向どうこう エコール・ド・パリ
芸術げいじゅつ分野ぶんや 油彩ゆさい
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概要がいよう

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ユトリロは、エコール・ド・パリ画家がかのなかではめずらしく生粋きっすいフランスじんだったという(後述こうじゅつ)。

かれ作品さくひんのほとんどは風景ふうけい、それも、小路こうじ教会きょうかい運河うんがなどの身近みぢかなパリの風景ふうけいえがいたものである。ありふれたまち風景ふうけいえがきながら、その画面がめん不思議ふしぎ詩情しじょう静謐せいひつさにちている。とくに、かべなどのいろもちいられた独特どくとくしろ印象いんしょうてきである。だい世界せかい大戦たいせんまで余命よめいたもつが、作品さくひんは、のちに「しろ時代じだい」といわれる、アルコールにおぼれていた初期しょきのもののほう一般いっぱん評価ひょうかたかい。パリ郊外こうがいサノワにはモーリス・ユトリロ美術館びじゅつかんがある。またモンマルトルにあるはかには献花けんかえない。

生涯しょうがい

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出生しゅっしょう

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1883ねん12月パリモンマルトルおかふもと位置いちするポトーがい8番地ばんちにて、午後ごご1ごろシュザンヌ・ヴァラドンの私生児しせいじとしてまれ、モーリスと名付なづけられる。かれまれたとき母親ははおや針子はりこをしながらもすで画家がかとして活動かつどうしていた。そのため、息子むすこモーリスは身体しんたいよわ情緒じょうちょ不安定ふあんていであったにもかかわらず、シュザンヌは息子むすこ世話せわ母親ははおやマドレーヌにまかせた。2さいころ、モーリスはてんかん発作ほっさ見舞みまわれ、その後遺症こういしょうのこった。

学生がくせい時代じだい

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ユトリロ7さいははシュザンヌによるデッサン

就学しゅうがくしても学校がっこう馴染なじめず、公立こうりつ学校がっこうからべつ学校がっこう転校てんこうしている。このころははヴァラドンは画家がかとして成功せいこうしており、息子むすこモーリスをラバがいのフレスネルという私立しりつ学校がっこうれている。7さいとき、スペインじん画家がか美術びじゅつ評論ひょうろんミゲル・ウトリリョ・イ・モルリウス(Miquel Utrillo[1][2]が、モーリスを自分じぶん息子むすことして認知にんちし、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓かいせいされた。また、ヴァラドンはそのミゲルをつうじてエリック・サティ愛人あいじん関係かんけいむすぶが、すうげつでその関係かんけいわる。モーリス・ユトリロが8さいのときヴァラドンは息子むすこ精神病せいしんびょうのため病院びょういんれてく。1894ねんなかばからヴァラドンは布地ぬのじしょうであるポール・ムージスと同棲どうせいし、11月にコルトーがい2-4番地ばんちす。ここでヴァラドンは自宅じたくにアトリエをかまえ、絵画かいが専念せんねんするようになる。ムージスのおかげでユトリロとヴァラドンは安定あんていした生活せいかつる。1896ねんにムージスとヴァラドンは18役所やくしょにて結婚けっこん。またムージスの財力ざいりょくによりユトリロをピエールフィットのモランという私立しりつ小学校しょうがっこう寄宿舎きしゅくしゃあづけ、このまちのサン=ドニどおり18番地ばんちいえり、毎週まいしゅう日曜日にちようびにヴァラドンとムージスはモーリス・ユトリロのもとおとずれた。オーベルヴィリエ初等しょとう教育きょういく修了しゅうりょう証書しょうしょた。そのパリ市内しないトリュデーヌ大通おおどおりのロラン中学ちゅうがくだい学級がっきゅう入学にゅうがくし、ピエールフィットの祖母そぼいえからとおった。ユトリロは優秀ゆうしゅう成績せいせきおさめていたが、さい高学年こうがくねんすすんださい問題もんだい多々たたこし、中学ちゅうがく退学たいがくした。

若年じゃくねん

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サンティアゴ・ルシニョールによる『なつ夕立ゆうだち』(1891ねん)。ヴァラドンとミゲルがモデルとなっている。

1900ねん2がつ、ムージスのおかげ臨時りんじやといの外交がいこういんしょくるが、4かげつしかたなかった。また仕事しごともユトリロの気難きむずかしさと激情げきじょう、そしてアルコール依存いぞんしょう悪影響あくえいきょうによって暴力ぼうりょくえ、一家いっか1901ねんにモンマニーとピエールフィットにちかサルセル転居てんきょせざるをなくなった。しかししたのちもユトリロはアルコール依存いぞん悪化あっかした。このころムージスがモンマニーのパンソンのおかうえちいさなブドウはたけれ、そこに4かいてのかんてた。1902ねんユトリロはモンマルトルのおかうえにあるコルトーがい2番地ばんちく。このころから水彩すいさいえが練習れんしゅうはじめた。エトランジェ医師いしはヴァラドンにかれ興味きょうみったことはやりたいようにさせることをすすめた。ユトリロは最初さいしょから真剣しんけんにやろうとはしなかったが、一家いっかでモンマニーに滞在たいざいしたさい最初さいしょ風景ふうけい制作せいさくした。しかしアルコール依存いぞんしょうひどく、かれ精神せいしんむしばまれていった。1904ねん初頭しょとうにポール・ムージスにれられて、パリのサン=タンヌ精神せいしん病院びょういん入院にゅういんした。これがきっかけでヴァラドンとムージスのあいだみぞまれ、の1909ねんにん破局はきょくむかえる。5月に症状しょうじょう改善かいぜんられたユトリロはモンマニーにもどり、周囲しゅういおどろかせるほどおだやかであったという。

画家がかとしての出発しゅっぱつ

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病院びょういんをでたユトリロはこのころ、モンマニー周辺しゅうへんのモンマルトルでえがはじめ、自分じぶん進路しんろ絵画かいがさだめた。ヴァラドンも息子むすこ助言じょげんをしたが、基本きほんてきにユトリロは独学どくがくえがいた。当時とうじ技法ぎほうちいさなボードのうえピサロシスレーもちいた印象派いんしょうは独特どくとく点描てんびょう技法ぎほうあつ絵具えのぐくものだった。デッサンについてはまだ、特別とくべつ構図こうず追求ついきゅうしなかった。このころ作品さくひんに『モンマニー風景ふうけい』(1905ねんころリヨン美術館びじゅつかん所蔵しょぞう)と『屋根やね』(1906ねん国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん所蔵しょぞう)がある。どう時期じきにユトリロは2さい年下とししたのアンドレ・ユッテルと交流こうりゅう意気投合いきとうごうする。

印象派いんしょうは時代じだい

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ユトリロとユッテルはモンマルトルのおかえがきにったり、ともみにったりしていた。このころポール・ムージスとのなかめつつあったヴァラドンは、ユトリロの仲介ちゅうかいでユッテルとう。ユトリロは画家がかであることによって肉体にくたいてきにも精神せいしんてきにも監禁かんきん状態じょうたいから解放かいほうされていた。1907ねんから1908ねんにかけてのかれ絵画かいがはシスレーの回顧かいこてん影響えいきょうけつつ、それ以上いじょう画面がめん奥行おくゆきの追及ついきゅう堅牢けんろうさを獲得かくとくしたせんふかめられたデッサンなどの独自どくじ構図こうずきずいた。絵画かいがあつりのままだったが、しろからマチエールまれた。一方いっぽう当時とうじかれには画商がしょうはついておらず、自身じしん自分じぶん作品さくひんろうとはかんがえていなかった。

しろ時代じだい

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このころがモーリス・ユトリロの画家がかとしての絶頂ぜっちょうとしてたか評価ひょうかされている。1909ねんはる翌年よくねんモーリスの画商がしょうとなったルイ・リボートが最初さいしょとしてあらわれる。

これ以前いぜんにもモーリスはってくれるものであればだれにでも絵画かいがわたしたが、画商がしょうとしてではなかった。リボートはクロヴィス・サゴの画廊がろうおとずれ、ユトリロの作品さくひんめ、ヴァラドンに絵画かいが売買ばいばい可能かのうわせた。この時代じだいはユトリロが初期しょきのパリとランスのだい聖堂せいどうえがいていた時代じだいであった。リボートは委託いたく販売はんばいをしていたサゴに手数料てすうりょうはらうよりも、シュザンヌと直接ちょくせつ取引とりひきをしたがった。1909ねんユトリロはサロン・ドートンヌに2てん出品しゅっぴんした。これがユトリロの作品さくひんはじめての展覧てんらんかいであった。このうちひとつがかれ代表だいひょうさくひとつであるノートルダムきょうであった。同年どうねんヴァラドン=ムージス夫妻ふさい破局はきょくむかえた。ユッテルとヴァラドンはムージスのアパルトマンの真向まむかいに位置いちするコルトーがい12番地ばんちのアトリエを独占どくせんしたが、年内ねんないにユトリロとクローばあさんとともにモンマニーのパンソンのおかかん移住いじゅうした。ムージスはこのころ離婚りこん手続てつづきを開始かいしし、ヴァラドンの一切いっさい拒絶きょぜつした。

そのためモンマニーにうつんだ一家いっか経済けいざい問題もんだい直面ちょくめんすることとなる。ヴァラドンもユトリロもユッテルも収入しゅうにゅうまったくなかった。一時期いちじきはユトリロを石膏せっこう採掘さいくつじょう労働ろうどうかせたが、公衆こうしゅう面前めんぜんだいあばれし警察けいさつ沙汰ざたになりわった。ユッテルはユトリロのおかした失態しったい仲裁ちゅうさいつとめた。また時間じかんがあったときはユトリロは自身じしんえがいたろうとした。ルイ・リボードはユトリロの才能さいのう理解りかいしていた。モンマルトルの作品さくひん倉庫そうこはんダースほどの作品さくひん購入こうにゅう転売てんばい成功せいこう利益りえきた。1911ねんヴァラドンがわ過失かしつとしてポール・ムージスとシュザンヌ・ヴァラドンとのあいだ離婚りこんがセーヌけん裁判所さいばんしょ控訴こうそいん確定かくていしたにもかかわらず、ヴァラドンはパンソンのおかかんとコルトーがいのアトリエを保持ほじした。一方いっぽうユトリロはアルコールの影響えいきょうつづけ、泥酔でいすいしたさいにそのこと自体じたい猥褻わいせつつみ起訴きそされ、罰金ばっきんけいけている。このとしあきにユトリロは、セザール・ゲイというもと警察官けいさつかんう。かれは「カス=クルート」という酒場さかばひらくと同時どうじにマリー・ヴィズィエが経営けいえいしていた「ベル・ガブリエル」というみせ所有しょゆうしていた。ユトリロはそこに出入でいりし飲食いんしょくするだけではなく、二人ふたりかれみせおくえがくことをゆるした。完成かんせいしたはゲイが自分じぶんのカフェのホールにけ、それが好評こうひょうはくし、芸術げいじゅつとしてモンマルトル一帯いったい認知にんちされるようになった。

1912ねんにリボードはユトリロの絵画かいが価値かち急上昇きゅうじょうしょうしたため専属せんぞく契約けいやくわし、ささやかな規則きそくてき報酬ほうしゅうえにした。これは一家いっか経済けいざいてき安定あんていをもたらしたが、同時どうじにユッテルが自身じしんみちあきらめ、ヴァラドンとともにユトリロの絵画かいが利益りえき見出みいだそうとする。そのためリボードとヴァラドンの対立たいりつ発生はっせいした。4月にフランソワ・ジュルダンのけいらいでユトリロはドリュエ画廊がろうにて6てん作品さくひん展示てんじした。リボードはユトリロが利益りえきかれにもたらしたことで、ユトリロの制作せいさく注文ちゅうもんしてつくらせ制御せいぎょにおこうとした。ヴァラドンはこれに対抗たいこうしようとしたがうまくはいかなかった。4がつまつから5がつはじめにかけてユトリロの健康けんこう状態じょうたい悪化あっかした。アドルフ・タバランはリボードのもとをおとずれ、責任せきにんって芸術げいじゅつ病院びょういんれるようにうながしたが、リボードはそれを拒否きょひした。そのためリボードとヴァラドンの関係かんけいがさらに悪化あっかし、最終さいしゅうてきにリボードはモーリスの入院にゅういん費用ひよう支払しはらうこととなった。サノワのルヴェルテガのもとにれられ、すぐに健康けんこう回復かいふくした。入院にゅういんちゅうユトリロは、精神せいしん障害しょうがいしゃ一時いちじてき居住きょじゅうしゃとしてあつか病院びょういんの「オープン=ドア」システムのおかげで病院びょういんることがゆるされた。かれ芸術げいじゅつだったためルヴェルテガ博士はかせえがくことをすすめ、ユトリロはおおくのえがいた。治療ちりょう効果こうかてきで、7がつまつ一家いっか友人ゆうじん提案ていあんでブルターニュにくことを医師いしみとめた。ルイ・リボードはそれをると契約けいやく内容ないようをユトリロにせまった。ユトリロは提案ていあんしゃである友人ゆうじんリッシュモン・ショドワ、ヴァラドン、ユッテルとともにウェサンとうで2ヶ月かげつ以上いじょう休暇きゅうかごした。そこでもユトリロはえがいたが、リボードの提案ていあんである「1ヶ月かげつに6まい以上いじょうえがかない」のため、12まい以下いか風景ふうけいおよび2てんちいさなカルトンしかえがかなかった。ヴァラドンは息子むすこ作品さくひんのサインを偽造ぎぞうしたが、づいていた[3]。10月まつ全員ぜんいんがパリにもどった。

ユトリロはサロン・ドートンヌに参加さんかし、「サノワのとおり」と「コンケのとおり」の2てん出品しゅっぴんした。しかし12月にふたたびユトリロの健康けんこう状態じょうたい悪化あっかし、サノワの診療しんりょうしょさい入院にゅういんした。その結果けっか、1913ねんだい部分ぶぶんをここでごすこととなる。一方いっぽうで、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにユトリロの作品さくひん出品しゅっぴんされ、ヴァラドンとユッテルは自分じぶんたちも各々おのおの展覧てんらんかい参加さんかする一方いっぽうで、ユトリロの発表はっぴょう面倒めんどうた。ユトリロの作品さくひんをほぼ独占どくせんしたリボードは、8のリシュバンスがい11番地ばんちにあるウジェーヌ・ブロ画廊がろうでユトリロ最初さいしょ個展こてん開催かいさいした。この展覧てんらんかいでは1912ねんから1913ねんまでに制作せいさくされた31てんを1913ねん5月26にちから6月1にちまで展示てんじした。しかしこの展示てんじかい失敗しっぱいし、ユトリロが多作たさくであることが原因げんいんだとかんがえたリボードは、つき6てん以上いじょうえがかないようヴァラドンに手紙てがみおくった。にちはおくれたが、10月にユトリロ、ヴァラドン、ユッテルはコルシカとう出発しゅっぱつした。そこでコルシカ高地こうちのベルゴデールに滞在たいざいし、20てんほどの作品さくひんえがげた。それらはムラト教会きょうかい、ピエディクローチェ修道院しゅうどういん、チント山腹さんぷく修道院しゅうどういん、コルトのとおりなどをえがいたものだった。

コルシカとうからかえった直後ちょくご、ユトリロはヴァラドンをつうじて画商がしょうのマルセイユとった。マルセイユはリボードのもの比較ひかくしてユトリロに好条件こうじょうけん契約けいやく提案ていあんし、それはすぐに成立せいりつした。ユトリロはこの収入しゅうにゅうでモンマルトルのおかにて酒場さかばまわったが、その結果けっか再度さいどルヴェルテガ博士はかせ診療しんりょうしょ治療ちりょうけることとなった。ユトリロは1914ねん前半ぜんはんをサノワでごし、えがつづけた。またつかった。3月2にちには「くまかわ」(La Peau de l'Ours)という競売きょうばいで、アンリ・ボードワンによって競売きょうばいにかけられた。リボードはこのときまたユトリロたちとの関係かんけいもどそうとしたが、かつてとはちがいユトリロがそとないことをのぞむようになった。6月15にち、ドルーはユトリロの作品さくひんをホテル・ドルオに出品しゅっぴんするが失敗しっぱいし、10てんもの作品さくひんもどすこととなった。この結果けっかいままでった過度かど干渉かんしょうによりリボードとヴァラドンとユッテルとのあいだ決定的けっていてき決裂けつれつまれ、契約けいやく破棄はきされた。この結果けっかユトリロは安定あんていした収入しゅうにゅううしなった。かれはルヴェルテガ博士はかせ診療しんりょうしょのち軍隊ぐんたい志願しがんしたが、8がつ29にち医学いがくてき理由りゆう兵役へいえき免除めんじょされた。9月1にちヴァラドンとユッテルは結婚けっこんしたが、そのつきすえにユッテルは従軍じゅうぐんした。ユトリロはまた酒場さかばびたるようになった。この「しろ時代じだい」に、ユトリロはすうひゃくてんおよ作品さくひんのこしている。

色彩しきさい時代じだい

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パリ、モンマルトルにあるサン=ヴァンサン墓地ぼち墓標ぼひょうつまともねむる。

この10年間ねんかんでユトリロは、かつて「しろ時代じだい」に使つかわれたひかり明暗めいあんほう調和ちょうわによってされるコンポジションの統一とういつかんから、かたかわいたくろ輪郭りんかくせん絵画かいが空間くうかん構成こうせいしたフォルムの幾何きかがくによってモチーフあいだのバランスをたもつ「色彩しきさい時代じだい」へと移行いこうした。

ユトリロは1914ねんすえ暴行ぼうこう器物きぶつ損壊そんかい逮捕たいほされ、18警察けいさつ連行れんこうされた。そのサン=タンヌ精神せいしん病院びょういんでの3週間しゅうかん拘束こうそくのちに、ヴィルジュイフの精神せいしん病院びょういん移送いそうされた。1915ねん1がつ18にち退院たいいんしたが、その直後ちょくご軍部ぐんぶによってアルジャンタンに召集しょうしゅうされた。しかし1がつ20日はつか医学いがくてき検査けんさ結果けっか精神病せいしんびょう」によって兵役へいえき免除めんじょとなった。ユトリロはセザール・ゲイのみせおく色彩しきさい調和ちょうわ探求たんきゅうした。

1915ねん6がつ20日はつか、クローが85さい死去しきょした。ユトリロは一年中いちねんじゅうえがくとともさけみ、さわぎをこしたため、休暇きゅうかちゅうのユッテルにれられてヴィルジュイフの病院びょういん12月27にち入院にゅういんした。そこでユトリロは10ヶ月かげつ以上いじょう監禁かんきん生活せいかつおくり、1916ねん11月8にちにコラン医師いしにより退院たいいんゆるされた。ヴァラドンは彼女かのじょのモデルをしていたガビーという女性じょせいとユトリロを結婚けっこんさせようとしたが、こののぞみはかなわなかった。この時期じきユトリロの作品さくひんはより評価ひょうかされるようになった。1917ねん5月のベルナイム=ジュヌの画廊がろうひらかれたグループてんにて、かれ作品さくひんすうまい出品しゅっぴんされた。ドルーはリボードにわりユトリロの画商がしょう筆頭ひっとうとなり、ポワソニュがい70番地ばんち一室いっしつかれあたえた。

 
サノワのモーリス・ユトリロ美術館びじゅつかん

人物じんぶつぞう

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ミゲル・ウトリリョとジュアン・マラガイ1898ねん - Parc del Laberint d'Horta(バルセロナけんカタルーニャしゅうスペイン

ユトリロは壮年そうねんまでは、ヒゲトレードマークであったが、晩年ばんねんはそのヒゲをりトレードマークはなくなった。

父親ちちおやについて

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モーリス・ユトリロの実父じっぷについては、前述ぜんじゅつのミゲル・ウトリリョは養父ようふで、実父じっぷ酒飲さけののボァッシイという人物じんぶつというせつ、シュザンヌがモデルをつとめていた画家がかルノワールというせつなど、諸説しょせつあり、真偽しんぎほど判明はんめいしていない。ただし、書類しょるいじょうはは恋人こいびと一人ひとりであるカタルーニャじん画家がか美術びじゅつ評論ひょうろんミゲル・ウトリリョ[注釈ちゅうしゃく 2]ちちとされている。1889ねん万博ばんぱくさいははシュザンヌ・ヴァラドンは、かつての恋人こいびとであった前述ぜんじゅつのミゲル・ウトリリョ・イ・モルリウスとのなか修復しゅうふくした。さらに1891ねん1がつ27にち、モーリスが7さいのときにこのおとこ息子むすことして認知にんちされ、「モーリス・ヴァラドン」は「モーリス・ユトリロ」に改姓かいせいされた。[4]。しかし、モーリスは生涯しょうがいこの法律ほうりつじょうちちうことはなかった。なお、ははシュザンヌはこいおおおんなで、ロートレックサティともいがあり、その資産しさんのポール・ムージスと結婚けっこんし、のちにモーリスの友人ゆうじんであり、モーリスよりも年少ねんしょうである画家がか志望しぼうのアンドレ・ユッテルと再婚さいこんした。

精神病せいしんびょう

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8さいころ母親ははおやれられてはじめて小児科しょうにか診断しんだんされた。そこで精神せいしん薄弱はくじゃく診断しんだんされ、専門せんもん病院びょういんれることをすすめられるが、プライドのたかいシュザンヌはそうせずユトリロは祖母そぼもともどることとなった。ポール・ムージスは1904ねん初頭しょとう、ユトリロを精神せいしん病院びょういん強制きょうせい収容しゅうようするため地区ちくない医者いしゃのウィレット博士はかせまねき、入院にゅういんをしやすくするための診断しんだんしょかせた。診断しんだんしょ2人ふたり証人しょうにんともにムージスはクリニャンクール地区ちく警察けいさつしょにて署長しょちょうからユトリロが精神病せいしんびょう患者かんじゃ放置ほうちするには危険きけんというむね宣言せんげんする調書ちょうしょつくらせた。ユトリロはそこで留置りゅうちしょ医務いむしつ拘束こうそくされ、直後ちょくごにパリのサンタ=タンヌ精神せいしん病院びょういん移送いそうされた。1903ねんサン=タンヌ精神せいしん病院びょういんはじめての自殺じさつ未遂みすいおかした[5]。1904ねん5がつ中旬ちゅうじゅん、ヴァロン博士はかせがユトリロの病状びょうじょう改善かいぜんし、家族かぞくのもとでらせるということでユトリロはモンマニーにもどった。

アルコール依存いぞんしょう

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ユトリロのアルコール依存いぞんしょう祖母そぼのマドレーヌにも原因げんいんがある。彼女かのじょ自身じしんさけにはがなく、一種いっしゅ精神せいしん安定あんていざいとしてまごさけませていた。その結果けっかユトリロは17から18さいでアルコール依存いぞんしょうたいする治療ちりょうはじめることになった[6]。また、1904ねんにユトリロを診察しんさつしたウィレット博士はかせ手記しゅき[7]によると、ユトリロの父親ちちおやがアルコール中毒ちゅうどく父方ちちかた祖母そぼ自殺じさつしているとしるされているが、前述ぜんじゅつとおりユトリロの父親ちちおや諸説しょせつあり判明はんめいしていない。ユトリロのアルコールの問題もんだいかれ奇行きこう原因げんいんともなっている。1911ねん4がつ12にちに「公道こうどう通行人つうこうにん性器せいき露出ろしゅつした」として恥辱ちじょくざい逮捕たいほされ、5がつ10日とおかにパリ更正こうせい裁判所さいばんしょだい11法廷ほうていにより泥酔でいすい猥褻わいせつつみ起訴きそされ、「軽犯罪けいはんざい罰金ばっきん50フラン、法規ほうき違反いはん罰金ばっきん50フラン」がせられた。友人ゆうじんおなじくアルコールにおぼれたアメデオ・モディリアーニともに、居酒屋いざかやあかワインをリットル単位たんいんでいたため、ユトリロならぬ「リトリロ」というニックネームがつけられた。一方いっぽうで、どう世代せだいおおくの画家がかアブサン愛飲あいいんしたにもかかわらず、あかワインのみをひたすらつづけたためか、精神せいしんはともかく肉体にくたいてきには健康けんこうであり、71さい長寿ちょうじゅまっとうした。

作風さくふう

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おもなテーマ

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ミミ=パンソンのいえ

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ベルリオーズのいえ

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サノワ、あるいはあらしまえしずけさ

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署名しょめい

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ユトリロは絵画かいが署名しょめいするさいMaurice Utrillo V.しるした。これはかつてのせいであったValadon頭文字かしらもじであり、自分じぶん母親ははおや喪失そうしつ告発こくはつするものとかんがえられている[7]

代表だいひょうさく

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研究けんきゅう

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1913ねんはじめての個展こてんさい、アドルフ・タバランが唯一ゆいいつ1913ねん5月13にちの『アクシオン』に偽名ぎめい展覧てんらんかいひょういた。1921ねんまつ、フランスしん評論ひょうろんよりフランシス・カルコによるユトリロの作品さくひんかんする最初さいしょ批評ひひょうてき研究けんきゅうしょ『モーリス・ユトリロとその作品さくひん』が出版しゅっぱんされた。

ユトリロをあつかった作品さくひん

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  • 「モーリス・ユトリロの劇的げきてき人生じんせい監督かんとくピエール=ガスパール=ユイ、1947ねん
  • 「ユトリロの世界せかい」 監督かんとくジョルジュ・レニエ、1954ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 「モーリス・ユトリロ」は日本語にほんごわせた発音はつおんで、フランス語ふらんすごでは「モーリス・ユトリヨ」と発音はつおんされる。
  2. ^ 現地げんちスペインではミゲル・ウトリジョ発音はつおんがよりちかい(ジェイスモ参照さんしょう)。カタルーニャではミゲール・ウトリジョ発音はつおんされる。

出典しゅってん

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  1. ^ 若桑わかくわみどり女性じょせい画家がか列伝れつでん岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、1985ねん、4ぺーじ 
  2. ^ Miguel Utrillo (1862-1934)”. data.bnf.fr. Bibliothèque nationale de France. 2020ねん2がつ18にち閲覧えつらん
  3. ^ Fabris, Maurice, 2010, p 172.
  4. ^ ジョン・バクスター度目どめのパリ 歴史れきしあるき』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013ねん、97ぺーじISBN 978-4-7993-1314-5 
  5. ^ Fabris, Maurice, 2010, p 20.
  6. ^ 千足せんぞく, 島田しまだ, 1994[ようページ番号ばんごう].
  7. ^ a b Fabris, Maurice, 2010, p 167.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん書籍しょせき

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  • 風景ふうけい画家がかモーリス・ユトリロの自叙伝じじょでん』1921ねん
  • Utrillo, sa vie, son oeuvre, Jean Fabris, Claude Wiart, Alain Buquet, Jean-Pierre Thiollet, Jacques Birr, Catherine Banlin-Lacroix et Joseph Foret, Ed. Frederic Birr (Paris), 1982

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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